↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/56

2-1 北条氏綱、支配域拡大の極意 〜 武蔵を再構築 〜

挿絵(By みてみん)


『北条五代記(ほうじょうごだいき)』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺の名前は北条(ほうじょう)氏綱(うじつな)。伝説の創業者、早雲の跡を継いだ二代目だ。


 親父が「伊豆・相模」という初期エリアを完璧に攻略してくれたおかげで、俺の代からは「武蔵・下総」という広大な地域(フィールド)への拡大(スケーリング)が目的(クエスト)になっている。


 さて、俺の前に立ちはだかった最大のMOBの話をしよう。


 関東管領(かんれい)・上杉(うえすぎ)修理大夫(しゅりのだいぶ)朝興(ともおき)。藤原氏の名門という輝かしいステータスを持ち、江戸の館(江戸城)を拠点に関東を支配していた男だ。


 俺たち北条家と上杉家は、国務を巡って何年も不毛な争いを続けてきた。だが大永四年(1524年)、俺は知略を駆使して「江戸城」を奪取。敗れた朝興は河越(かわごえ)の城へと引きこもり、そこから十数年、リベンジの機会を伺っていた。


 だが、運命の時計(タイムリミット)は残酷だ。天文六年(1537年)四月下旬、朝興は志半ばで病死(リタイア)。


 代わって家督を継いだのは、まだ生年十三歳の嫡男、五郎 朝定(ともさだ)だった。


 この朝定ってガキ、かなりの「地雷(おかしいヤツ)」だった。普通、親が死んだら四十九日の忌引きくらいは大人しくしているもんだ。それが礼儀(マナー)であり、孝行というものだろう? だが、朝定は違った。


 忌明けも待たずに軍事行動を開始。深大寺(じんだいじ)という古城を再興し、俺に対して弓引(レイド)く準備を始めたんだ。


 周囲の連中は呆れていたよ。「異国じゃ『三年の間は父のやり方を変えないのが孝』って言われてるのに、こいつは無道(ぶどう)すぎる」ってな。

 

 神(システム)は清らかな場所に宿り、濁った場所からは去る。そんな「不浄な旗(フラグ)」を立てた旗の下に、神(システム)が味方するわけがない。朝定、お前は最初から詰んでいるんだよ。


 天文六年(1537年)七月十一日。俺は朝定の動きを完全に封じ、自国の支配を確定させるために数万の軍勢を率いて出馬した。


 戦場は「三木(みき)」と呼ばれる原っぱ。武蔵野の北に位置し、河越城まではわずか五十町(約5.4km)。人馬を並べるには最適な、まさに対人戦のために用意されたような修羅場だ。


 七月十五日、夜。雲霞のような両軍が対峙したが、星占いの吉凶を待っているうちに、時刻は丑三つ時(am2時頃)近くなった。


 見上げれば、稀に見るほどの満月。草露に月光が反射してキラキラと輝き、野原には虫の声が響いている。猛き武士たちも、この幻想的な月花(グラフィック)に見惚れて、しばし戦闘を忘れたかのように思えた。……だが、それも一瞬だ。


「夜の合戦は、金鼓・笳笛(楽器)の節度をもってコントロールせよ」


 兵法のマニュアル通り、鼓の音が鳴り響く。互いにあげた「時の声」は天の雲を突き抜け、地獄の底まで届かんばかりの轟音。いよいよ戦闘開始(バトルスタート)だ。


 突撃する兵どもは金剛力士のようなパワーを発揮し、戦場は帝釈天と阿修羅の戦いのような惨状(カオス)と化した。


 降り注ぐ矢は雨のごとく、名手・楊由の射術をも凌駕する。刀と刀がぶつかる火花は雷(いなずま)のようだ。虚空に乱舞する数万の旗は逆風にたなびき、人馬の声が天地を揺らす。


 ……しばらくは勝敗がつかないように見えた。だが、俺の戦術(タクティクス)は狂わない。

 

 不浄の身で戦場に出た朝定は、早々に威光を失った。一陣が崩れた瞬間、あとの連中は将棋(ドミノ)倒しのように崩壊した。そこら中に死体が転がり、首が飛ぶ。

 

 俺の軍勢は勝ち馬に鞭を打ち、東西南北へと飛行するがごとく追撃。逃げる朝定の軍勢は、空を舞う「鷲の翼」に捕まった小鳥、あるいは地を走る「獅子の牙」に噛まれた獣のような有様。左右の足は震え、前後の見境もつかない迷走っぷりだ。


 十五夜の月は、戦場の土埃に汚れ、紅い血の光を反射していた。二千人以上の武士がここで「過去の人」となり、不名誉な名を後代に残すことになった。

 夜が明ける頃には河越の館は陥落し、朝定は命からがら搦手から脱出(ログアウト)していった。


 昨日まで「自分は気高い、他人は卑しい」なんてすましていたプライドの高い連中も、なりふり構わず無様な姿を晒して、逃亡者の群れに紛れて消えていった。実にあさましい光景だった。


 朝定は北へ二十里(約80km)離れた「松山(まつやま)の館」へ逃げ込んだ。城主の難波田(なんばた)弾正忠(だんじょうのちゅう)が主君を迎え入れ、討ち漏らされた残党どもがそこに集まった。


 ここで朝定を逃せば、目的(クエスト)達成とはいかない。七月十八日、俺は再び軍を進め、松山の城を包囲。魚鱗(ぎょりん)の陣で囲み、鶴翼(かくよく)の旗をなびかせ、周囲を万天の煙で覆い尽くした。


 二十日、難波田弾正は大将として残党を率い、反撃の旗を掲げて俺に挑んできた。だが、俺は「勝ちに乗った多勢」、あいつらは「負けが込んだ小勢」。蚊が雷に挑むようなもの。あるいはカタツムリが角を争うようなもの。

 

 俺の圧倒的な戦力の前に、敵軍は再び敗北。勇猛な難波田弾正も、ついに後れを取って松山城へと敗走し始めた。


 そこへ、俺の配下の山中主膳(やまなかしゅぜん)が馬を寄せ、逃げる敵将に向けて「一首」詠みかけたんだ。


「あしからじ よかれとてこそ たたかはめども 難波田(なばた)のくづれ行らん」

(悪くしようと思って戦ったわけじゃないのに、難波田の陣は崩れていくんだな。※「菜畑」と「難波田」を掛けた誹諧体の皮肉)


 煽(プロヴォーク)り全開だ。だが、難波田もさすがに名のある武士だった。馬の轡(くつばみ)を引き返し、さらりとこう返した。


「君ををきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこへなん」

(主君を置いて、裏切り(あだし心)を俺が持つようなことがあれば、あの末の松山を波が越えるような天変地異が起きるだろう。※「古今和歌集」の有名な句を引用した、究極の忠誠宣言)


 この返歌には俺の軍勢も感嘆した。主君を城に残して自分だけが討たれるわけにはいかない。身を全うして君に仕える……これこそが忠臣の法だ。難波田はそのまま風のように去っていったが、その場にいた誰もが「あいつは勇者であり、かつ風流を知る功者だ」と賞賛した。


 ……かつて源頼義公が奥州で安倍貞任を追い詰めた際も、歌でやり取りしたという伝説(アーカイブ)がある。


「衣(ころも)のたては ほころびにけり」

(衣の館/衣の縦糸はほころびたな)


「年を経て 糸の乱れの くるしさに」

(長い年月を経て、糸/意図が乱れて苦しいのさ)


 殺伐とした戦場でも、武士の心をなぐさめるのは「歌」という文化なんだな。


 功を成し名を遂げて、さっと身を引く。俺は「勝利の旗」を巻き収め、本陣へと引き返した。完璧な目的達成(ミッションコンプリート)だ。


 その後、俺は河越城を再 構築(ビルド)。ここはかつて太田道真(道灌の父)が初めて築城した、入間郡 三芳野(みよしの)の里だ。古の在原業平が「三芳野の田面の雁」と詠んだ由緒ある地域(フィールド)だ。


 後に、俺の死後、相模の早雲寺にある俺の姿絵(ポートレート)を見た奴は驚くらしい。俗体のまま、白衣の上に袈裟をかけ、その顔つきは恐ろしく不気味で、直視できないほどの圧を放っているという。


 それは俺が、ただの人間ではなく、この関東を管理する「荒人神(あらひとがみ)」のごとき存在として写されているからだろうな。


 俺は、最優秀のアタッカーである息子の氏康(うじやす)に家督を譲り、天文十年(1541年)七月十九日に薨去した。法名は「春松院殿快翁活公大居士」。


 親父が相模の半分を手に入れた。そして俺が相模全域を統治し、下総・武蔵の城を次々と攻略。北条の武威を関八州に満たした。俺の代で、北条という「体制(システム)」は完成形に近づいた。


 あとは、俺の息子、氏康。あいつなら、俺が上書きしたこの新しい理(ルール)を、さらに広大な世界へと展開(デプロイ)してくれるはずだ。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




一 北条氏綱と上杉朝定合戦の事


聞しは昔(むかし)。管領(くわんれい)上杉修理大夫(うへすぎしゆりのだいぶ)藤原(ふぢはら)の朝興(ともおき)公は、武蔵(むさし)の国主(こくしゆ)として江戸の舘(たち)を居城(きよじやう)とす。扨又北条左京大夫(ほうでうさきやうのだいぶ)平(たひら)の氏綱(うぢつな)公は、伊豆(いづ)相模(さがみ)の守護(しゆご)とし、小田原に在城(ざいじやう)なり。たがひに国務(こくむ)をあらそひ、闘諍(とうじやう)鉾楯(むじゆん)たる事年久しかりき。然るに大永(だいえい)四年の比(ほひ)、氏綱江戸の城(しろ)を攻(せ)め落す。上杉匠作(しやうさく)は川越(かはごえ)の城に引籠(ひきこも)り、十余年の春秋(しゆんじう)を送り迎へぬ。いつよりか例(れい)ならず心(こころ)そこなひて、天文(てんぶん)六年卯月(うづき)下旬(げじゆん)、世を早く去りて、嫡男(ちやくなん)五郎朝定(ごらうともさだ)生年(しやうねん)十三歳にして家を継ぎ給ひぬ。しかれば七七日の服忌(ふくき)さへ経(へ)ずして道をあらため、兵(へい)を起し、深大寺(じんだいじ)と云古城(ふるじろ)を再興(さいこう)し、氏綱へ向(むか)つて弓矢(ゆみや)の企(くはだ)てもつはら也。人さたしけるは、異国(いこく)には父の道三年あらためざるを孝(かう)といへり。その上神(かみ)は清(きよ)きに形(かたち)をうつし、濁(にご)れるに影を去る。汚染(をせん)の旗(はた)の上には、いかでか守護(しゆご)の軍神(ぐんしん)も影を宿(やど)さんや。誠に無道(ぶだう)の君子(くんし)たり。氏綱は朝定発向(はつかう)のよしを聞き、強敵(がうてき)をばしりぞけ、自国(じこく)を治(おさ)めんがため、同七月十一日数万の軍兵(ぐんびやう)を引率(いんそつ)し武州(ぶしう)へ出馬(しゆつば)し、同十五日河越(かはごえ)の城に押寄(をしよ)する。三木(みき)といへる原は武蔵野(むさしの)の北にて、河越の城にわづか五十余町を隔(へだ)つ。此野は人馬(じんば)の備(そな)へ所狭(せば)からず、求むるに幸(さいは)ひなる修羅場(しゆらば)なりとて陣(ぢん)す。たがひに旗をあげて両将の軍勢(ぐんぜい)雲霞(うんか)のごとし。しばらく辰星(しんせい)の吉凶(きつけう)を待つが故に、合戦の時刻(じこく)うつり去り、漸(やうや)く丑三(うしみつ)の時にも近くなりぬ。折から晴明(せいめい)稀有(けう)の満月(まんげつ)は草露(さうろ)に光をみがき、紅錦野亭(こうきんやてい)にすだく虫は花の底に声をあらそふ。猛き武士(もののふ)も月にうそぶき花に乗じて、暫(しばら)く勇者(ゆうしや)の道を忘るゝかと覚(おぼ)へたり。書に曰く、夜は金鼓笳笛(きんこかてき)をもつて節(せつ)とすと云々。かくてしばしば鼓(つゞみ)をうつて、たがひにあはする時の声は有頂(うちやう)の雲によぢのぼり、阿鼻(あび)の底にも聞ゆらんとぞ覚へし。進みあふ兵共(つはものども)、金剛力士(こんがうりきし)の力を出し、帝釈修羅(たいしやくしゆら)の戦ひをなす。互に射(い)る矢は雨をふらして楊由(やうゆう)が射術(しやじゆつ)をあざむき、しのぎを削る光は雷(らい)の電光(でんくわう)を飛ばするがごとし。数万の旗は虚空(こくう)に乱満(らんまん)して逆風(げきふう)にただよひ、人馬の声は天地に動揺(どうよう)して戦ふといへども、しばらく勝負(しやうぶ)見へざりけり。然に神は清浄(しやうじやう)の流れに宿り給ふにや、朝定すでに威を失ひ一陣(いちぢん)破れぬれば残党(ざんたう)またからず。数軍(すぐん)の兵は将棋倒(しやうぎだふ)しにことならず。ここに屍(かばね)をさらし、かしこに頭(かうべ)を投げうつ。勝に勇める氏綱の軍兵は俊馬(しゆんめ)に鞭(むち)をあげて東西に馳走(ちそう)し南北に飛行(ひぎやう)す。朝定敗北の軍勢は天を翔(か)ける鳥の鷲(わし)の翼にかゝり、地を走る獣(けだもの)の獅子(しゝ)の歯噛(はが)みにあふがごとく、左右の足なへ前後に迷ふ有様、たとへんやうぞなかりける。三五夜中(さんごやちう)の月は塵埃(ぢんあい)に影をまじへ、紅血(こうけつ)に光をそむ。討たれぬる二千士の外は古人となり、あだし名を後代(こうだい)に残せり。漸く天明(てんめい)ぬれば河越の舘破れ、甲乙尽きせんの際(さい)しは搦手(からめて)さして落行(おちゆ)きぬ。常にわれを尊(たうと)み他をいやしめし貞女(ていぢよ)もなよびかなる形をやつし、老たけなる面を見せて田夫(でんぷ)に手をくみ、野人(やじん)に袖を引かれていづちとも知らず落行く有様、あさましかりける次第なり。朝定はここより北にあたりて二十余里ある松山の舘を心がけ落給ふ所に、松山の城主難波田弾正忠(なんばただんじやうのちう)行向ひ主君朝定を松山の城に入れ奉る。討ちもらされの士卒ら朝定の跡を慕ひて彼舘に集まりぬ。氏綱此よしを聞き、朝定を追討(ついたう)せずんば有べからずと、同十八日勇み進む。軍勢また彼舘に押寄せ、魚鱗(ぎよりん)に陣をかごめ、鶴翼(くわくよく)に旗をなびかし、近里遠村(きんりゑんそん)は皆万天(ばんてん)の煙となす。同廿日難波田弾正大将として落来る残党を率し、我慢の旗をひるがへし氏綱に向つて楯を備へ再び軍を興ずといへ共、氏綱は勝に乗り多勢、朝定は遅れを取り小勢、ただ蚊蝱(ぶんまう)が雷をなすごとく、蝸牛(くわぎう)が角を争ふがごとく、物にも足らず敗北し、皆ことごとく討たれぬ。さればたけきが中にやさしきあり。その日の軍(いくさ)、大将難波田(なんばた)あやなく後(うしろ)を見せ松山(まつやま)さして落行(おちゆ)くを、北条方(ほうでうがた)に山中主膳(やまなかしゆぜん)駒(こま)かけ寄せ、一首はかくぞ聞えける。あしからじよかれとてこそたゝかはめども難波田のくづれ行らん と誹諧体(はいかいてい)によみかけしに、難波田もさすがに由(よし)ある武士(もののふ)にて、くつばみいさゝか引返し、君をゝきてあだし心を我もたば末(すゑ)の松山波もこへなん と、我作(わがさく)がほに古今集(こきんしう)の歌を取合(とりあは)せて返答(へんたう)ありて、いそがはしく駒の足はやめて過行(すぎゆ)きぬ。実(げ)にさも有ぬべし。主君(しゆくん)朝定(ともさだ)を舘(たち)に残しおき、難波田討たれなば松山はよせくる波もこしぬべし。身を全(まつた)ふして君に仕ふるを忠臣(ちうしん)の法といふ事あり。作者(さくしや)といひ功者(こうしや)といひ、懸引(かけひき)しれる勇者(ゆうしや)とぞみな人申侍りき。伝へ聞く、源頼義公(みなもとのよりよしこう)陸奥(みちのく)衣(ころも)の舘に立籠(たてこも)る貞任(さだたう)宗任(むねたう)をほろぼせしに、貞任まさなく後を見せしに、頼義公、衣のたてはほころびにけり といひかけ給へば、貞任駒引返(ひきかへ)し、年を経(へ)し糸の乱(みだ)れのくるしさに と上(かみ)の句(く)をつぎしも、今ここにぞ思ひ出せる。たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なりと、貫之(つらゆき)が書(か)きしもこれかや。然(しか)り、氏綱(うぢつな)功(こう)成り名遂(なと)げて、身しりぞくは犬の道なりとて、よろこびの旗をまきおさめ、本の陣に引返す。誠に武略(ぶりやく)の達者(たつしや)たり。その後河越(かはごえ)の城を再興(さいこう)し、氏綱在城(ざいじやう)し給ひぬ。此時は朝定公(ともさだこう)先祖の家老(からう)太田道真(おほただうしん)といへる者、はじめて城となす。是ぞ聞く入間郡(いるまぐん)三芳野(みよしの)の里とかや。むかし在五中将(ざいごちゆうじやう)渡(わたら)ひし、「みよしのゝ田面(たのも)の雁(かり)」とよみしも此所ぞかし。されば相模(さがみ)の国金湯山(きんたうざん)早雲寺(さううんじ)において氏綱の画像(ぐわざう)を愚老(ぐらう)拝見せしに、俗体(ぞくたい)にして白衣(はくゑ)の上に掛羅(くわら)をかけ、顔相(がんさう)憎体(にくてい)に書(か)き、物すさまじくありて的面(てきめん)に向ひがたし。子細ある故にや荒人神(あらひとがみ)のやうに写せり。氏綱の長兄(ちやうけい)氏康(うぢやす)に家督(かとく)をわたし、氏綱公は天文(てんぶん)十年七月十九日薨(こう)じ給ひぬ。法名(ほふみやう)春松院殿快翁活公(しゆんせうゐんでんくわいおうくわつこう)大居士(だいこじ)と号(がう)す。されば早雲寺在世(ざいせ)までは相模半国(さがみはんごく)手に入れ、氏綱時代に至て相模を治め、下総(しもふさ)武蔵(むさし)の城を多く攻め落し、武威(ぶい)を関八州(くわんはつしう)にふるひ、希代(きたい)の大将といひ伝へり。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。