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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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2-3 両上杉の泥沼内戦、漁夫の利で『伊豆』をコンプリート

挿絵(By みてみん)


『北条五代記(ほうじょうごだいき)』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺の名前は伊勢(いせ)新九郎(しんくろう)。後に北条 早雲(そううん)として、関東の覇者となる男だ。


 世間じゃ俺のことを「一介の素浪人が突然現れて国を盗った」なんて言っているが、さっきも言った通り、本当の俺は名門中の名門、平氏の末裔だ。だが、俺がこの関東という巨大な地域(エリア)に侵攻した時、そこはすでに崩壊寸前だった。


 特に酷かったのが、関東のツートップである「両上杉の山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)」だ。あいつらは本来、関東を管理する立場だったはずなんだが、身内同士で延々と泥沼の内紛(ウチゲバ)を繰り返していた。


 なぜそんなことになったのか? じいさんたちの昔話……いや、この「関東亡国」の記録(ログ)を、俺の視点で解析してやろう。


 すべての混乱の始まりは、京都の将軍(四代・足利義持)に後継者がいなかったことだ。本来なら、鎌倉公方の足利 持氏(もちうじ)が養子として後を継ぐはずだった。将軍家からも「お前が次の将軍だ」という約束の重書をもらっていた。


 ところが、義持が他界した後、京都の諸侍たちは勝手にルールを変更。義持の弟で、延暦寺の座主(トップ僧侶)だった二位の公を無理やり還俗させて、六代将軍・足利義教(よしのり)として担ぎ上げた。


 これにブチ切れたのが持氏だ。「俺が継ぐはずだったのに、割り込みしやがって!」と、京都との関係は最悪になった。


 そんな中、持氏の息子・賢王殿の元服イベントが発生。慣例では京都の将軍に「親」になってもらうんだが、持氏は「あんな僧侶崩れ、認めるか!」と拒否。八幡宮で自分勝手にイベントを強行しようとした。これに待ったをかけたのが、最強の補佐官職である関東管領の上杉 憲実(のりざね)だ。


「公方様、京都と揉めるのはリスクが高すぎます。ここは平和的に解決しましょう」


 憲実の正論に、持氏はさらに逆上。「お前、京都の回し者か?」と疑い、憲実を完全無視して元服を強行。憲実との関係も「水と火」のように最悪になった。


 耐えきれなくなった憲実は、上州(ぐんま)へ引きこもり、京都に告げ口の報告を送信。これを受けた将軍・義教が「関東を討伐せよ」という勅令を奉じて、永享十一年(1439年)、持氏とその息子・義久は自害に追い込まれた。……これが最初の「破滅イベント」だ。


 その後、持氏の残された息子たち(春王・安王)も結城城で生け捕られ、処刑された。関東は完全に「亡国」状態。近国も遠国も入り乱れて戦う、完全な無法地帯と化した。


 そんなカオスを一度だけリセットしたのが、山内上杉の顕定(あきさだ)だ。彼は軍勢を率いて現れ、逆徒を追討して一時的に平和を取り戻した。


 だが、平和は長くは続かない。今度は「山内(やまのうち)上杉家」と「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」という、同じ上杉(ギルド)の二大勢力が、どっちが真の統領(リーダー)かを巡ってケンカを始めた。


 この分裂の原因、実は部下の「昇進」だったんだ。扇谷のボス・定正(さだまさ)の家老、長尾将監には二人の息子がいた。兄の左衛門尉と、兄の息子が長尾 景春(かげはる)。弟の尾張守と、弟の息子が修理助。


 定正は、本来なら惣領家を継ぐはずの景春を差し置いて、お気に入りの弟の息子である修理助を優遇しちまった。


 これにキレたのが景春だ。「俺の方が血筋(ステータス)も貢献度も上だろ!」と遺恨を爆発させた。扇谷の最強武将(ユニット)・太田 道灌(どうかん)が定正をいさめた。


「景春は危険です。今のうちに処罰するか、不公平な人事を改めてください。さもないと、この扇谷(ギルド)は崩壊しますよ」


 だが、無能な定正はこれを聞き入れなかった。結果、景春は反乱を起こし、武州・五十子(いらこ)へ四千騎で押し寄せた。定正は小勢で勝ち目がないと悟り、鉢形城へ逃げ込んだ。ここから関東は、本当の戦国時代に突入した。


 この定正、実は面白い理屈を持っていた。俺からすれば負け惜しみに聞こえるが、一理ある。彼は養子の朝良(ともよし)にこう説教したんだ。


「お前、最近負けすぎだろ。それは智謀と兵略が足りないからだ。俺を見ろ。俺が三十年以上、数多の合戦で無双し続けているのは、ひとえに『武略』というスキルを磨いているからだ」


 さらに彼は、家臣の斎藤加賀守に指揮権を預けたことを批判する奴らに対し、こう言い放った。


「戦場を一度も踏んだことがないような奴に、アドバイスを求める意味があるか? 加賀守は二十四度の合戦すべてにおいて、その都度、的確な『攻略法』を俺に提案してきた。昼夜を問わず戦術を考えている奴だ。たとえ身分の低い百姓であっても、正しい攻略法を言えば俺はそれを神仏の言葉だと思って従う。地位の高さなんて関係ねえ。戦いの良し悪しを知っている奴こそが、真の貴族なんだよ」

 (フン、面白い。身分にこだわらず実力を重んじる……。その考え、俺の「北条の理」に近いじゃないか。だが、定正。お前は致命的なミスを犯している)


 定正は、あまりにも有能すぎた太田道灌が「山内に寝返るかもしれない」と疑心暗鬼になり、自分の最強 武将(ユニット)を自ら暗殺しちまったんだ。


「城壁を堅牢にしすぎるのは国の害だ。道灌は反逆しようとしている」なんて理屈を並べてな。味方の主力 武将(キャラ)を暗殺(デリート)するなんて、戦国武将として失格だろ?


 案の定、定正の扇谷(ギルド)はさらに衰退。あちこちで小競り合いが続き、三歳の幼児ですら犠牲になるような悲惨な世の中になっちまった。


 そんな中、俺(伊勢新九郎)は駿河の興国寺城で、この「両上杉の相論(レスバ)と泥沼合戦」の経過(ログ)を眺めていた。


「――これ、天が俺に『獲れ』って言ってるよね?(二回目)」


 名門同士が身内同士で争い、最強の部下を殺し、疲弊しきっている。これこそ絶好の機会(タイミング)だ。俺は延徳年間に軍勢を率いて伊豆を切り取り、明応年には相模(神奈川)へ殴り込んだ。


 俺が着々と「実績」を積み上げている間に、かつての大物たちは次々と死亡(ログアウト)していった。


扇谷定正:明応二年十月五日、病死。

山内顕定:永正七年、越後の長尾為景(上杉謙信の父)と対立。四十三年間も弓矢を執り続けてきたベテランだったが、最後は五十代で討たれた。


  名門の血筋(ブランド)を誇っていた両上杉も、結局は自分たちが作り出した「内紛」に呑み込まれて消えていったんだ。


 俺の息子、氏綱(うじつな)の代になれば、江戸も河越もすべて俺たちの領土(テリトリー)になる。そこは、かつて太田道灌が築いた城であり、在原業平が「みよしのの田面の雁」と詠んだ由緒ある地域(フィールド)だ。


 じいさんが見たという氏綱の画像は、物凄く「イカつい顔」をしていたらしいな。荒神のような威圧感……。


 それも当然だ。俺たちは、腐った名門たちが壊したこの関東を、「圧倒的な実力」と「冷徹な効率(ロジック)」で作り直してきたんだからな。


 早雲の代で相模の半分。氏綱の代で相模全域、さらに下総、武蔵へ。俺たちの「北条五代」という壮大な物語(サーガ)は、まだ始まったばかりだ。古い家系図を自慢するだけの武将(プレイヤー)は、もういらない。


 これからは、朝4時に起きて、正直に生き、最強の戦略を練る奴が勝つ。俺の「理(ルール)」だ。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




三 両上杉たゝかいの事


聞しはむかし、鎌倉(かまくら)の公方(くばう)よりつたはり、関東(くわんとう)の公方、京の公方と号(がう)す、両公方まします。扨又文明の比(ほひ)、両上杉は関東諸侍(しよさふらひ)の統領(とうりやう)たり。然るに両上杉の中、不和(ふわ)いでき、引分(ひきわけ)て弓箭(ゆみや)有つるよし、聞つたふるといへ共、其由来(ゆらい)をしらず。或(ある)老士(らうし)語りていはく、関東乱国(らんごく)のこんぽんを尋るに、京都の将軍(しやうぐん)よしもち公に御息(ごそく)なきによつて、かまくらもちうぢ君を養子(やうし)にかねて御定あり、御重書(ごぢうしよ)をも御ゆづり有所に、よしもち御他界(たかい)の後、京都の諸侍(さふらひ)同心有て、義満(よしみつ)公の御 骨肉(こつにく)にてましませばとて、義持(よしもち)公の御 舎弟(しやてい)、二位(ゐ)の公(きみ)青蓮院(せいれいゐん)、えいざんの座主(ざす)にておはしますを引くだし、将軍にあふぎ奉る。是によつて内々持氏公京都と御 気色(きしよく)あしき時分、御息(ごそく)賢王殿(けんわうどの)御げんぶくの事、天下にをいてゑぼし親(おや)に取べき人是なき故、義家(よしいへ)公の例(れい)にまかせ、八まん宮(ぐう)にをいて御げんぶく有べきよし、官領(くわんれい)上杉 安房守(あはのかみ)憲実(のりざね)に御ごだんかう有しに、のりざね都鄙(とひ)御一とうをおもんぱかり、京都にをいて御げんぶくしかるべき由申によつて、御気色にそむき、御げんぶくの義を安房守にしらせ給はず。去程に上下の御間、水火のごとくたがひにさうせつ有の間、憲実(のりざね)は山の内をしりぞき、上州(しらゐ)へ引こもり、京都へ訴(うつた)へ申されける間、やがて義教(よしのり)公の下知(げち)として関東乱国(らんごく)となり、永享(ゑいかう)十一年二月十日、持氏公は永安寺(ゑいあんじ)にて御 生害(しやうがい)、御息(そく)けんわう義久公は報国寺(ほうこくじ)にて御 自害(じがい)なり。春王殿、安王殿は日光(につくわう)山へおち給ふ。結城(ゆふき)の七郎光久、重代(ぢうだい)の主君(しゆくん)にておはしますとて御迎(むか)ひに参り、ゆうきへ入申所に、のりざね重(かさ)ねてとひの軍勢(ぐんぜい)をもよほし、ゆうきの舘(たち)にをしよせ、嘉吉(かきつ)元年四月十六日にせめおとし、両人の若君(わかぎみ)をいけどり奉り、ろうよにのせ申、長尾(ながを)いなばの守御 供(とも)仕、上洛する所に、上意(い)下て、濃州(じやうしう)たるゐの道場(だうじやう)にておなじき年中、御 生害(しやうがい)なり。それより以来このかた関東 亡国(ぼうこく)となり、近国(きんごく)遠国(をんごく)入みだれたゝかひあり。其後かまくら山内上杉 憲忠(のりたゞ)十州(しう)にをよんで収領(しうりやう)す。其家老長尾左衛門尉 昌賢(まさかた)は文武(ぶんぶ)二道に達(たつ)し、関八州にほまれをえたる無双(ぶそう)の者也。然どものりたゞ運命(うんめい)つき、かまくらにて滅亡(めつばう)し給ひぬ。是によつて東国みなもつて敵(てき)国となる所に、上越(じやうえつ)のさかひに居住(きよぢう)す上杉民部(みんぶ)の大夫 顕定(あきさだ)、軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)しはせ来て、逆徒等(ぎやくとら)をこと〴〵く追討(ついたう)し、もとのごとく治(おさ)まりき。持氏公の四 男(なん)成氏(しげうぢ)公、成氏の御息(そく)政(まさ)氏公まで、上杉の一家(け)あまた引分て合戦すといへども又 和睦(くわぼく)あり。其後山内顕定、扇谷(あふぎのやつ)定正、此両上杉殿関東諸侍の統領(とうりやう)として奥州(おうしう)までも彼下知に従(したが)ひしが、文明年中に主従分て弓矢を取、其上二人の中あしく成て、東西南北(とうざいなんぼく)にをいて算をみだし、たゝかひ止(や)む事なし。ていれば両上杉殿 不和(ふわ)のおこりを尋るに、修理(しゆり)の大夫定正の家老(からう)長尾 将監(しやうげん)入道に二人の子息(しそく)あり、長兄左衛門尉、弟(おとゝ)尾張守(をはりのかみ)と号(がう)す。あにの左衛門尉の子を四郎右衛門尉 景春(かげはる)といふ。後は伊玄入道と改(かい)名(みやう)す。弟(おとゝ)尾張守が嫡男(ちやくなん)修理助と名付。此者 若年(じやくねん)の比(ころ)より奉公(ほうこう)いみじかりける故、君の憐愍(れんみん)浅からず。是によつて過分のふるまひをなし、あまつさへ惣領家(そうりやうけ)をつぎ来る四郎右衛門尉をそばだつるにより、景春(かげはる)遺恨(いこん)止(や)む事なし。定正の長臣(ちやうしん)太田 道灌(だうくわん)、主君(しゆくん)をいさめていはく、長尾左衛門尉 父子(ふし)不義(ふぎ)のていたらくを見及び候。かれを誅罸(ちうばつ)なくば御家(いへ)のわざはひ連続(れんぞく)たるべし。さなくば当時(たうじ)尾張守父子(ふし)を御近辺(きんぺん)をしりぞかれ、以後して御 計策(けいさく)をめぐらさるべき由申といへ共、定正此両条 承引(せういん)なし。者ていれば左衛門尉 父子(ふし)既(すで)に謀叛(むほん)をくはだて、主君(しゆくん)扇谷(あふぎのやつ)殿をほろぼし、をのれ諸侍のとうりやうにならんとはかりごとをめぐらす所に、其家の子三戸と駿河(するが)の守、太田 備中(びつちう)守、上田ひやうごの助をはじめ、主君(しゆくん)に弓(ゆみ)を引給はん事 天道(てんだう)のおそれあり、思ひとゞまり給へといさめけれ共、景春(かげはる)用(もち)ひずして大石一類長尾 但馬(たじま)守を先とし、こと〴〵く引率(いんそつ)し四千よきにて武州(ぶしう)五十子といふ所までをしよせ、ぢんとる。定正 俄(にはか)の義なれば小勢にて叶(かな)はじと、武州 鉢形(はちがた)の城にたてこもり給ひぬ。然るに近国 他国(たこく)入みだれ、矢弓おこつて算(さん)をみだしたゝかふ。其上両上杉殿の中、不和(ふわ)に成て合戦(かつせん)止(や)む事なし。定正は修理(しゆり)大夫 持朝(もちとも)の四男(なん)也。子なきがゆへ、あにの朝昌(ともまさ)の嫡男(ちやくなん)朝良(ともよし)を養子(やうし)になす。定正、ともよしをいさめていはく、近年ともよし合戦(かつせん)いくさの手だて相違(さうい)の義(ぎ)おほく見及び候ひぬ。是 智謀(ちぼう)兵略(ひやうりやく)のたらざる故なり。定正三十余年、数度(すど)の合戦にをいて勝利(せうり)をうる事、ひとへに武略(ぶりやく)をもつてせり。者ていれば斎藤加賀守(さいとうかゞのかみ)に団(うちわ)をあづくる事、非道(ひだう)の様(やう)に、ともよし親近(しんきん)の者ひはんするよしを聞く。異国本朝(いこくほんてう)、古今(ここん)戦国(せんごく)の法をしらざる故なり。当方(たうはう)一二の家老(からう)なりとて、敷度(すど)の戦場(せんぢやう)をふまず、行てだての異見(いけん)をいはざるものに、うちわを預(あづ)け何の益(えき)あらんや。定正二十四度の大合戦にをいて、加賀守は片時(へんじ)の内にも、てだて一ツ二ツは善悪(ぜんあく)共に言上(ごんじやう)す。其身此 一道(だう)を書夜(ちうや)胸中(けうちう)にたもち忘(わす)るゝ事なきか。たとへ他国より民(たみ)百姓共来て、いくさのてだて言上(ごんじやう)せば、すなはちまりしてん、八幡(まん)のをしへと信仰(しんがう)し、うちわを預(あづ)け異見(いけん)を聞べし。古人(こじん)云、貴賤(きせん)の分者(ぶん)は行てだて之 善悪(ぜんあく)に有と云々。然に山内の御事は御きようもいらず。其故は幕下(ばつか)の大臣(しん)守護(しゆご)の家なり。者ていれば三十余年の乱中(らんちう)、定正 総領(そうりやう)家ををもんじ、数度(すど)の忠功(ちうこう)をはげますといへ共、いまだ長尾 半分限(はんぶんげん)にもたらず。扨又 道灌(だうくわん)父子(ふし)山内へ対(たい)し逆心(ぎやくしん)のむね有によて、折檻(せつかん)をくはふかといへ共用(もち)ひず、城壁(じやうへき)をけんごになす。左伝(さでん)曰、都城百雉(とじやうはくち)に過(す)ぎたるは国の害(がい)也と云々。いかに江戸かわごえの両城 堅固(けんご)たり共、山内へ不義(ふぎ)に至ては果(は)たして叶(かな)ふべからずといさむるといへ共用ひず、あまつさへ謀略(ぼうりやく)を思ひ、その間たちまちに誅(ちう)し、則(すなは)ち山内へ注進(ちうしん)す。かく忠功(ちうこう)をいたす所に御心をひるがへされ、道灌(だうくわん)子源六を御 膝(ひざ)下へめしよせられ、其上定正 父子(ふし)を退治(たいぢ)有べき御企(くはだ)て何事ぞや。両家(りやうけ)士卒(しそつ)在々(ざい〳〵)所々(しよ〳〵)にてたゝかひ皆ほろびぬべし。其以後他国より慮外(りよぐわい)の盗跖(たうせき)来て関東恣(ほし)しまゝになし、両家たへはて万民悲歎(ばんみんひたん)、三才(さい)の幼児(えうじ)もる義也。すべて一二ケ国 無為(ぶゐ)の刻(きざ)み安堵(あんど)の思ひをなし、上(じやう)武(ぶ)相(さう)三ケ国をとゝのへ候に付ては、朝良(ともよし)他国(たこく)へうち越、山野(さんや)を住所とし甲冑(かつちう)を枕(まくら)となし、夜を征鞍(せいあん)にあかし、身を溝壑(かうがく)になげうち、かばねを路頭(ろとう)にさらす事おしむべからず。当家(たうけ)として山内へ相双(なら)ぶ事 鵬鷃(ほうあん)のつばさあそぶに似(に)たるか。あへてもつて愚老(ぐらう)自讃(じさん)たりといへども、五年残命にをいては武(ぶ)相(さう)上(じやう)の諸士(しよし)皆もつて幕下(ばつか)等従(したが)ひ属(しよく)すべき事たなごゝろの内に有といへり。扨又大 森寄栖庵(もりきせいあん)が、上杉民部大夫顕定へ遣(つか)はす状(じやう)にいはく、つら〴〵御進退(しんたい)を見るに、偏(ひとへ)に天魔(てんま)の所行(しよぎやう)、時節 到来(たうらい)のみぎりか。抑(そも〳〵)関東の様体(やうだい)、今に至て見廻(めぐ)り候に、山の内の御事は、公方様御在世(ざいせ)の時分(じぶん)より上杉のとうりやう。然間諸家(しよけ)彼旗本(はたもと)をまもり、尊敬(そんきやう)比類(ひるい)なし。御勢(せい)二十万騎と云々。扇谷(あふぎのやつ)の御事は、わづか百騎ばかりなり。然る所に仮令(けりやう)御家風(かふう)、太田しんくわん、ふしぎの器用(きよう)をもつて名を天下にあげ、ほまれを八州にふるひ、諸家心をよせ、万民頭(かうべ)をうなたれ饗(きやう)をなす事。しかしながら天道(だう)の至り、又はその身の果報(くわほう)か、何様両条に過(す)ぐべからず。末代(まつだい)しよくせたりといへ共、日月 地(ち)に落ざる事、三歳(さい)のようちもかくき仕事に候。かくのごとく申事、誠に推参(すいさん)至極(しごく)に候といへ共、愚老(ぐらう)累代(るいだい)に及び、当方(たいはう)御家風(かふう)同前に候間、心底(しんてい)別義(べつぎ)を存ぜず、隔心なく申のべ候。先年両家御不和の時、山の内は御一身、扇谷の御事は公方様引立御申、すでに政氏様御 発向(はつかう)、其以下長尾伊玄入道御供いたし、高見 菅谷(すがや)にをいて両度御 敵(てき)御方(かた)、はだへをあはせ、御 家風(かふう)少々かばねを荒野(くわうや)にさらし、ふんこつをなされ、今に至て鉢形(はちかた)御滅亡(めつぼう)是なく候と書たり。則(ときん)然ば、両上杉不和のたゝかひも数年をへたり。扨又両上杉殿ひき分て合戦のしだひを記(しる)しをきたる古(ふる)き文(ふみ)に云、長享(かう)年中、上杉のとうりやう山内顕定公、同名(どうみやう)修理大夫定正公と波瀾(はらん)を発(おこ)す。然に将軍(しやうぐん)左馬 頭(かみ)政氏公は顕定 合力(がうりよく)として一万よきを引率(いんそつ)し、村岡如意輪寺(むらをかによいりんじ)に発向(はつかう)有て合戦有よしを書たり。され共右に記(しる)す寄栖庵(きせいあん)が文は、関東にてあまねく童子(どうじ)共のよみ来れり。此文を見る則(ときん)は公方 政氏(まさうぢ)公は定正一味(み)と知(し)られたり。然共おぼつかなき故、両説(せつ)ともにしるし侍る也。又両 官領(くわんれい)と云いひならはすといへ共、定正官領の沙汰(さた)たしかなる文(ふみ)をばいまだ見ず。者ていれば顕定と定正相州 実巻原(さねまきばら)の合戦は文明十八年二月五日なり。すがや原の合戦は同六月八日也。たか見原合戦もおなじ年なり。定正高見原一 戦以後(せんのいご)は上州へ出陣(しゆつぢん)なし。其子細は、上州へはたらくに至ては、すでに越州(ゑつしう)の多勢(たせい)はせ来て、たちまち難義(なんぎ)をまねくべし。其内案(あん)ずるてだてあり。若(もし)はちかたに憲房(のりふさ)を仕付(しつけ)申に至ては、上州の一揆(き)こと〴〵く長尾 幕下(ばつか)にふくし、顕定(あきさだ)上州しらゐに発向(はつかう)に至ては、定正武相(ぶさう)の両勢(せい)を引率(いんそつ)し、上野(かうつけ)へみだれ入、民屋(みんおく)を放火(はうくわ)し亡国(ばうこく)となし、兵略術(ひやうりやくじゆつ)をつくし、昼夜(ちうや)をわかず合戦すべし。其上越国(ゑつこく)の軍勢(ぐんぜい)千里にをよび、運粮(うんらう)かなふべからず。味方(みかた)勝利(せうり)あらん事案(あん)の内にありと云て、定正終に上州へ出馬(しゆつば)せずと聞く。小身たりといへ共、智謀(ちぼう)武略(ぶりやく)の達(たつ)人と聞へたり。其比(ころ)するが高国寺(かうこくじ)の城に、いせ新九郎 氏茂(うぢしげ)といひて文武(ぶんぶ)のさふらひ有。後は北条 早雲庵主(さううんあんじゆ)と改号(かいがう)す。両上杉引分てたゝかひ有よし聞及び、軍兵を催(もよほ)し延徳(えんとく)の比(ほひ)伊豆(いづ)を切て取、明応(めいおう)年中さがみの国へ打入、たゝかひ有しが、定正は明応二年十月五日逝去(せいきよ)也。その後ともよし、江戸河越両城のしゆごとし、顕定とたゝかふ。永正元年九月、ともよし加勢(かせい)として早雲と今川氏親(うぢちか)大軍(ぐん)を率(そつ)し武州(ぶしう)へ出馬(しゆつば)有て、立河原にをいて顕定と合戦あり。又顕定此 返報(へんぽう)として同き十月 越後(えちご)の軍兵(ぐんびやう)をもよほし、武州河越の城(しろ)をとりまひてせめたゝかふ事年をこえたり。然に和睦の義ありて、次の年三月 顕定(あきさだ)越後へ帰国なり。顕定は十四歳(さい)の比、関東(くわんとう)へ越山(ゑつざん)ありてこのかた四十三年弓矢(ゆみや)をとり給ひぬ。越州(ゑつしう)のしやてい九郎 房義(ふさよし)、家老長尾六郎 為景(ためかげ)とむじゆん有。つゐには義房うちまけ、あまみぞといふ地にてうたれ給ひぬ。是によつて顕定うつぷんをさんぜんため、永正六年七月廿八日武州を打たち、翌(よく)月越州へ発向(はつかう)ありて国中(こくちう)大かた手にいれ、本意(ほんい)をとげられ、為景(ためかげ)を越中のさかひにしばまへついたうありといへ共、翌年一 揆(き)おこつて府中(ふちう)をはいぐんす。ゑちごしなのゝさかひ、なかもり原にをいて、たかなし落合(おちあひ)おなじき七年六月廿日、とし五十七にして生害(しやうがい)なり。法名(はふみやう)皓峯可淳(こうほうかじゆん)と申き。その後三浦(みうら)介道寸(だうすん)は、かまくらの近所(きんじよ)すみよしに在城(ざいじやう)す。上杉ともおきは武州(ぶしう)江戸に有て、早雲とたゝかひあり。のべつくすべからずといへり。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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