10-5 松田父子の二重スパイ事件と、涙の内部告発
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、北条氏直だ。戦国乱世、裏切り(リバート)は日常茶飯事だが、身内の、しかも重臣の裏切りほど組織に大ダメージを与えるものはない。
当時、俺と武田勝頼は駿河(静岡県)の国境を挟んで、泥沼の防衛戦を繰り広げていた。俺たちの防衛ラインは「泉頭」「長久保」「戸倉」「志師浜」の四拠点。特に戸倉城を守っていたのが、笠原新六郎という男だった。
実はこいつ、北条家の最高幹部・松田尾張守入道の長男なんだ。笠原家に養子に入って城を任せていたんだが、こいつがちょっと「打たれ弱かった」のが全ての悲劇の始まりだった。
戸倉城と、武田方の三枚橋城は目鼻の先。小競り合いが起きるたびに、新六郎は武田軍にボコボコにされ、手柄を奪われ続けていた。報告を聞いた俺は、つい本音をぶちまけてしまったんだ。
「大将が武弱だから、部下まで臆病風に吹かれて負け続けてるんじゃねーのか?」
これが新六郎のプライドを粉々に粉砕した。
「そこまで言うなら、もう北条なんて知るか!」
彼は逆ギレして武田勝頼に寝返り、俺に牙を向いたんだ(天正8年)。だが、運命は残酷だ。そのわずか2年後、勝頼は信長に滅ぼされてしまう。
後ろ盾を失った新六郎。普通なら即死(処刑)案件だが、ここで父の松田尾張守が泣きついてきた。
「こいつはバカな息子ですが、私の長年の功績に免じて許してやってください!」
俺も古参の忠義を無下にはできず、新六郎を赦免。彼は出家して隠居することになった。……だが、親父の「歪んだ愛」がさらなるバグを引き起こす。
天正18年、秀吉が小田原を包囲した。隠居していた新六郎をもう一度表舞台に立たせてやりたい――そんな妄想に取り憑かれた父・松田尾張守は、あろうことか敵の秀吉とコンタクトを取った。
「秀吉公、俺が裏から城を切り開きます。だから、俺の息子をよろしく頼みます」
計画はこうだ。6月15日の夜。小田原の町中に火を放ち、混乱に乗じて松田が守る「早川口」から豊臣軍をドバドバと城内へ引き入れる。北条五代、100年の重恩をドブに捨てる、最悪のバックドア(裏口)攻撃だ。
だが、この密談を壁越しに聞いていた男がいた。松田尾張守の次男、松田左馬助。俺の側近としてずっとそばにいてくれた、真面目な男だ。左馬助は絶望した。
「親父も兄貴も、なんてことを……。主君の恩は山より高く、親の恩は海より深い。父と一緒に裏切れば、神仏も許さぬ『八虐(最悪の罪)』。かといって父を売れば、不孝者の『五逆』。どう転んでも俺の人生は詰んでいる。……だが」
彼は涙を拭った。
「一族の情よりも、城内にいる何万もの領民の命、そして北条の義を守るのが人の道だ!」
彼は意を決して、俺の元へ走った。
「殿、親父と兄貴が……。明日、城を焼こうとしています」
報告を受けた俺は、迷わず決断した。即座に松田尾張守と新六郎を拘束し、処刑。身内の不祥事を、最速で粛清した。
それを知らないのは、早川の向こうで手ぐすね引いて待っていた豊臣軍だ。松田の旗印である「白地に黒筋」の旗が、予定通りに動き、火の手が上がるのを三晩も待った。だが、待てど暮らせど火は上がらない。それどころか、松田の持口に並ぶ旗の色がガラリと変わっている。
「……さては、松田の裏切りがバレたな」
50万の大軍はガックリと肩を落とし、長引く陣中の疲れも相まって、豊臣軍の士気は一気に冷え込んだという。
父と兄を告発し、俺を救ってくれた左馬助。彼の悲しみは計り知れないが、彼が守ったのは北条の面目だけじゃない。あの日、彼が声を上げなければ、小田原は一夜にして火の海になり、何万もの命が失われていたはずだ。
「利を利とせず、義をもって利となす」
一族の絆さえも引き裂く戦国の残酷さ。けれど、その暗闇の中で自分の信念を貫いた左馬助のような男がいたからこそ、俺たちの歴史はただの「負け戦」では終わらなかったんだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
五 笠原新六郎氏直へ逆心の事
見しはむかし。北条氏直と武田勝頼弓矢の時節、勝頼の城は駿河の国、高国寺と三枚橋にあり。氏直の城は駿河の中、泉頭・長久保・戸倉・志師浜の四ケ所にあり。泉頭の城には大藤長門守、多目権兵衛尉、荒川豊前守を頭とし、足軽大将には市南・高橋など云ふ勇士をさしそへおかれたり。長久保の城には清水太郎左衛門尉城代とす。志師浜には大石越後守在城す。是は三枚橋の近所、海浦をかたどり海賊をふせがんためなり。戸倉には笠原新六郎居城す。此人は松田尾張守入道が長兄なり。他家を継ぎて笠原を名乗る。然るに三枚橋と戸倉と戦ひややともすれば、三枚橋の人数、戸倉へ働き分捕り高名する事度々(たびたび)に及べり。氏直この由聞き給ひ、「大将一人武弱なれば士卒つれて臆病にありておくれを取る」と仰せければ、新六郎聞き、生きがひあるべからずと謀叛を企て、天正八年の冬、勝頼に一味し氏直へ弓を引きし所に、同十年三月、勝頼は信長公のためにほろび給ひぬ。然る時に氏直、笠原新六郎が首をはねらるべき所に、父尾張守入道さまざま詫び申すに付て、入道が年来の忠功により誅罰をゆるし給ふ。老後の眉目をぞほどこしける。其後出家し年久しき隠家にてありけるに、此新六郎を世に立てんがため、父尾張守謀叛をくはだて、秀吉公へ申すにより、「関東へ御馬出され候へ、尾張守うしろ切り仕るべきよし」申すによつて、秀吉公小田原へ発向の砌、尾張守・新六郎父子二人密談し、来たる六月十五日の夜、町中へ火をかけ、松田持口より敵をことごとく城中へ引入るべきよし兼約いたす。所に壁に耳、岩に口あるならひ、尾張守が次男左馬助これを聞く。親兄、五代重恩の主君に対し逆心あさましき次第かなと涙をながす。左馬助は若年より氏直のそばをはなれず、ことに御自愛の人なり。左馬助が思ひけるは、「それ君恩より大なるものなく、父恩より深きものなし。父子一所になりて君に弓を引かば、八虐の咎おもかるべし。扨また君と一所になり父に敵対せば、五逆の罪のがるべからず。すべて我れ発心せんと思へども隠れ所なし。腹を切りても益あるまじ。進退ここにきはまりぬ。史記に『忠臣は二君につかへず』といへり。なほもつて其家の長臣たる者、身をばあきなはず。それ人たるの道は義をもつて利とす、利をもつて利とせず。然るに君親の命、その軽重をくらぶれば君の命いやまさりたり。その上城中の人民幾万人とも知らず、いたづらに命をほろぼさん事、仏神もあはれみ、あに霊験の助けなからんや」と、この義を氏直へ告げ知らせむ。氏直聞召し、左馬助が忠功浅からずと信感あり、時日を移さず尾張守・新六郎二人討罰せらる。敵はこの義を知らず。松田が旗は白地に黒筋の段々(だんだん)なり。持口は西早川おもて。敵この持口へ諸勢三夜まで押寄せ相待つといへども、城中より通路なし。松田が旗色も変りて見えければ、「さては松田が逆心あらはれけるよ」と諸勢力を失ひ、長陣気もつかれたりと見えし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




