10-6 関東の獅子が消えた日 〜 偽りの「三ヶ国保証」 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも、北条氏直だ。この北条五代の物語も、俺の代で完結を迎えることになる。
当時の豊臣秀吉は、単なる武力担当じゃない。勇気と知謀を兼ね備えた「最強の管理者」だった。彼は無駄なリソースを削るため、「戦わずして勝つ」という孫子の兵法をリアルで行使してきた。
いわゆる、上兵は「謀」を打つ。俺たちの心と結束を、外側からではなく、内側から崩しに来た。
俺の弟・太田十郎氏房が守っていた東の井細田口。そこを攻めていた羽柴下総守(織田信雄の家臣)が、熱心に「和解案」を持ちかけてきた。
「氏直殿、今降伏すれば伊豆・相模・武蔵の三ヶ国は今まで通り安堵していいと秀吉公が言っている。対面して握手(水魚の契約)を交わせば、明日にも京都へ帰るつもりだ。ここに秀吉公の直筆サイン入りの証文もあるぞ」
弟は若かった。そして俺も、このあまりに条件の良い「和談」を信じてしまったんだ。天正18年7月6日。俺は疑いを持たれないよう、少数の近臣だけを連れて、100年守り抜いた小田原の城を出た。……これがすべての終わりの始まりだった。
一方、伊豆の韮山城では、親戚の北条美濃守氏親がとんでもないディフェンスを見せていた。蜂須賀、生駒、戸田といった秀吉軍の精鋭5万騎を相手に、わずかな手勢で三月から七月まで、五ヶ月間も「不落」を貫いていたんだ。氏親は自ら鑓を持って最前線で暴れまわり、敵の主力級を次々と撃破していた。それを見かねた徳川家康が、わざわざ使者を出してこう説得した。
「美濃守殿、あんたの武勇は天下無双だ。でもな、もう小田原の本城が和解の交渉に入ってるんだ。ここをどれだけ守り抜いても、本丸が落ちれば意味がない。一度、小田原に入って話し合わないか?」
家康の熱心な説得に折れ、氏親も城を出て小田原へ。……皮肉なことに、氏親が城へ入ったその日、その時刻、入れ替わるように俺が城を出ていた。まさに「天の配剤」としか言いようがない。
俺が秀吉軍のキャンプ(織田信雄の陣)で待機している最中、最悪の報せが届いた。
「氏政、切腹。および氏照、切腹」
……三ヶ国安堵なんて、最初から嘘だったんだ。
秀吉は、俺の命を助ける代わりに、父・氏政と叔父・氏照の切腹を要求した。七月十一日。父は医師の安栖の部屋で静かに腹を切った。介錯を務めたのは、あの韮山城で最後まで戦い抜いた氏親だ。
城を受け取りに来たのは、本多、榊原、井伊といった徳川の重臣たち。城を出る関東の侍たちは、涙を流して悔しがった。
「こんな無様な終わり方だと知っていたら、あの時全員で打って出て、討死して名を残せばよかった……!」
千の悔い、千の悲しみ。だが、もう歴史のパッチは当たってしまった。
北条の一族、家老、そしてその家族たち。昨日まで美しい庭を愛で、豪華な服を着て、詩歌や月を楽しんでいた上流階級の奥方たちが、裸足で泥道をさまよい歩く。
親が子を忘れ、子が親を見失い、ただ命を助けてほしいと泣き叫ぶ。「盛者必衰」というけれど、これほど残酷な光景はなかっただろう。俺たちはその秋、全員で高野山へ登った。かつての栄華はどこへやら、麓の天野という里でひっそりと身を寄せ合うだけの存在になったんだ。
翌年、俺は秀吉公に呼び出されて大坂へ行った。彼は俺に対して優しく(芳情)接してくれたけれど、俺の心と体はすでに限界だったのかもしれない。文禄元年(1592年)11月4日。俺、北条氏直は、大坂の地でこの世を去った。
享年31歳。北条五代、100年の夢は、ここに潰える。
後日、ある人々がこんな議論をしていた。
「北条が滅びたのは秀吉が強すぎたからだ」
「いや、原因は氏直の『一言』だ。かつて笠原新六郎を『ヘタレ』と罵ったあの不用意な発言が、松田一族の裏切りを招いたんだ。『九思一言(一言を発する前に九回考えろ)』という言葉を守れなかったツケだよ」
それに対し、ある老人は静かに首を振った。
「こうだ、ああだと理由を探すのは人間の浅知恵よ。
天が与える災いは、人の嘆きから生まれる。
ただただ、『その時が来た』。それだけのことさ」
―― 北条五代記 完
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
六 氏直没落の事
見しはむかし。前関白秀吉公はもとより、勇気智謀あひ兼ねたる名将にてましませば、たたかはずして勝つ事をめぐらし給ふ。それ節にあたり義に望みて命を惜しむべきにあらず。然れども事にのぞみておそれ、はかりごとを好みてなすは勇士のする所なり。扨また「上兵ははかりごとをうち、其次はまじはるを伐ち、其次は兵を伐ち、其次は城を攻むる」と云々。すこぶる智略をめぐらさる。氏直舎弟太田十郎氏房の持口は、城より東、井細田口なり。此面攻めよる敵は羽柴下総守。此者中使として、ひたすらあつかひとぞ聞えける。氏房器用の人たりといへども、若輩の胸算、良将の謀計におどされ、ひとへにあつかひの儀あり。和順においては伊豆・相模・武蔵三ケ国は前々(ぜんぜん)のごとく氏直収領せらるべき事、いささか違乱あるべからず。なほ対面せしむるの上、水魚の契約を仰談ぜられ、翌日京都へ馬を納めらるべき旨、堅約の証文に秀吉公直判をのせられをはんぬ。これによつて氏直、秀吉公へ対面のもよほしあり。召しつれらるる所の郎従多勢においては疑心をかまへ、遺恨あるに似たるが、態々(わざわざ)近臣の輩ばかりを召しつれ、氏直七月六日出城なり。扨また韮山の城には北条美濃守氏親籠る。此攻衆、羽柴左衛門大夫、戸田民部少輔、蜂須賀阿波守、生駒雅楽頭、前野但馬守、伊賀侍従を先として、都合その勢五万余騎。三月廿九日午の刻に押寄せ、七月まで五ケ月、昼夜すきもなく攻めたたかふ。鬨の声、鉄炮・矢叫びの音に天地震動し、鳴りやむ事なし。楯をつきよせ堀をうめ、塀を引くづし攻め入らんとす。氏親自ら鑓を取り、樊会をふるひ、むねとの敵をおほくほろぼすゆゑ、力攻めにはなりがたし。此氏親は一年、氏直名代として上洛し、秀吉公対面あり。家康公懇志たるにより、韮山へ使者をもて云く、「関八州の諸城ことごとく落城する所に、韮山一城堅固なる事、氏親武勇のほまれ天下に比類あるべからず。然るに小田原和平の儀により、味方には羽柴下総守、城中には太田十郎中使としてあつかひ半ばなり。韮山無事たりとも、小田原落着の上は益あるまじきか。同じくは氏親、韮山の城をばさしおき、急ぎ小田原に入りて和順のあつかひ然るべき旨」と、家康公しきりに異見に付て、氏親韮山を出城し、敵の陣中に入りて小田原和睦の内談す。伊豆・相模・武蔵三ケ国においては前々のごとく氏直修領せらるべき事、いささか相違あるべからず。その上たがひに証人を取かはし、時日を移さず帰洛あるべき旨、秀吉公の証文を請取り、氏親七月六日卯の刻、渋取口より小田原の城へ入り給ふ所に、氏直は此義を知らず、かく同日同刻両将出入、これ天のなす所なり。氏直は先づ中宿りとありて、尾張内府公の陣中へ入り給ひぬ。北条家運の末には、智慧のかがみも才覚の花もいたづらになる事、天のなす所なり。敵も味方も一味の思ひをなし城中へ出入する所に、氏政切腹の旨、使者を立てられをはんぬ。力及ばず本城を下り、医師安栖が室に移り給ふ。検使として石川備前守、佐々淡路守、前田権之助榊原式部大夫参集す。同月十一日、氏政切腹、舎弟美濃守氏親かいしやくし、その剣光をすてず自害せんとする所に、警固の武士血剣をうばひ取り命を助く。あはれなりける次第なり。同日陸奥守氏照も切腹し給ひぬ。小田原城請取る衆は家康家中、本多中務少輔、榊原式部大夫、井伊兵部少輔。入替る関東諸侍共に運つき、「かくあるべしと知るならば討死し、尸は軍門にさらすとも名を後代に残さずして恥をさらす事、千悔千悲、そのかひなし」とぞ申ける。然るに秀吉公は奥州御仕置とありて黒川まで御下り。浅野弾正、石田治部少輔、大谷刑部少輔この三人三手に分けて奥州五十四郡の検地をあらためさせ、秀吉公は黒川まで着御、これより引返し帰洛し給ふ。然れば小田原落城、一陣破れ残党またからず。北条の一族その門葉、国々の大名ともに運つきはて勇気を失ひ、城を出る時節にはただ一命の助からん事ばかり願ひ、親を捨て子を捨て、我先にて落行く有様、あさましかりける次第なり。諸大名の北のかた、世にまします時は翠帳紅閨の内にあり、春は花、秋は月をめで、九夏三伏の暑き夜は扇の風を招き、玄冬素雪の冬の夜はしとねを重ね、庭の土をも踏まずありし上臈達、はだしにて目のともつれず、ひとりひとり打成りて行さまよふ有様、紅涙袖をしぼり、ここかしこにたをれ伏し、なげきかなしみ給ひし事、たとへんやうぞなかりける。北条家の一門家老ことごとく一同に同年の秋高野山に登り、同冬山をさがり麓の里天野といふ所に居住す。翌年の春、秀吉公氏直を大坂へ召寄せられ対面ありて芳情をほどこし給ふ所に、文禄元年十一月四日、氏直三十一歳にして大坂にて逝去なり。法名は松巌院殿前左京兆大円徹公大居士と号し奉る。関東諸侍、秀吉公のために皆ほろび果てたりと愚老語りければ、かたへなる人聞きて、「氏直滅亡、まつたく秀吉公のためにあらず。むかし清盛公の時代、京乱おこり、三条高倉宮滅亡は伊豆守仲綱が馬一疋の故なり。その身一門もことごとくほろび果てたり。扨また氏直文武に名を得し大将たりといへども、運の末には言語のつつしみなく、新六郎がために荒言をはき捨て給ひしによつてなり。恨みに付て恩を忘れ、情によりて命を失ふ、これ世の常のならひなり。ここをもつて先哲も『君子は九思一言』といへり。氏直の滅亡、秀吉のためにはあらず、新六郎がためなり」と云ふ。老人聞きて、「いや、人の滅尽につきてこれゆゑかれゆゑと沙汰する事みな僻事なり。古人の云ふ、『人のあたふる報ひは天運にのがれ、天のあたふる災は人のなげきによる』。ただただ時刻到来と申されし」とぞ。
北条五代記終
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜感謝御礼〜
一人の牢人が伊豆で始めた夢が、五代にわたって続き、そして雪のように消えていった。
何かの因果が滅亡を招いたのかもしれないし、ただ時代の波に勝てなかっただけかもしれない。
『北条五代記』全十巻、これにて現代語訳(新約)完了です。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
条文小説 拝




