10-4 【防衛力MAX】小田原城、一歩も近づかせない件。
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、北条氏直だ。小田原籠城も百日を超えたが、秀吉公率いる大軍はいまだに俺たちの「総構」に指一本触れられずにいた。
何しろ、五里(約20km)に及ぶ巨大な壁には、至る所に大鉄砲(大型の狙撃銃や大砲)が配備されている。昼夜を問わず「ドン!ドン!」とぶっ放しているから、敵は鉄の盾を持って近づこうとしても、その前に蜂の巣だ。
「穴を掘って地下から侵入だ!」なんて智略を巡らす奴もいたが、結局は土の中で迷子になるのがオチ。天下の武士が集まっていながら、誰一人として俺たちの城兵と「言葉を交わす距離」まで近づけない。そんな膠着状態が続いていたんだ。
俺たちの陣所の東側、蘆子川の浜手。ここに「福門寺」と呼ばれる一町四方ほどの高台があった。昔、お寺があった場所だからそう呼ばれていたんだが、俺たちはここに堀を掘り、塀を立て、城内から橋を一本渡して「出曲輪」とした。
守るのは、北条のベテラン山角上野守と、その息子である四郎左衛門・左近大夫の父子三人。
秀吉軍が押し寄せてきた時、俺は「ここは守るのが大変だから、いざとなったら壊して捨ててもいいぞ」と言い、名前を「捨て曲輪」と改めさせた。
昼間は城内から兵が出て鉄砲をぶっ放すが、夜は橋を引いて引き上げる。……はずだったんだが、この「空白の地」を巡って、戦国最強の男が動いた。
天正18年6月25日。この蘆子川方面を担当していたのは、徳川家康の軍勢。そしてその最前線にいたのが、あの「赤鬼」こと井伊兵部少輔直政だ。直政は考えた。
「あの捨て曲輪を奪取して、小田原攻略の足がかりにしてやる」
深夜、彼は部下たちに大量の草束(埋め草)を持たせ、音もなく堀を埋め始めた。だが、俺たちの監視(夜警)はザルじゃない。
「敵だ! 撃てーーーっ!」
城内から一斉に火が噴き、大鉄砲の音が天地を震わせる。それでも直政殿の軍勢は怯まない。仲間の死体を踏み越え、わずか一時間ほどの間に堀を五、六間も埋め立て、捨て曲輪の中へと雪崩れ込んできた。
深夜の戦場は、まさにカオス(混沌)だった。城内は篝火をガンガンに焚いて昼間のように明るいが、外は一歩先も見えない暗闇。捨て曲輪に突入した井伊軍だったが、あまりの暗さに方角を見失った。
さらに最悪なのは、当時のフル装備(重い鎧)だ。混乱の中で、次々と兵たちが深い水堀の中へ転落していく。
「うわあああ! 底が見えない!」
「鎧が重くて浮かべない!」
ある者は水底に沈み、ある者は乱杭(防衛用の杭)に突き刺さる。橋を渡って塀を乗り越えた精鋭たちも、一重の塀を隔てて山角父子の猛反撃に遭い、一進一退の死闘となった。
「今だ! 門を開けろ! 追い散らせ!」
山角上野守、そして二人の息子が叫んだ。
夜警の増援も加わり、城内から打って出た山角軍。彼らはパニックに陥った井伊軍を追い詰め、その場で100人以上の首を挙げた。夜が明けてみれば、そこには地獄のような光景が広がっていた。逃げ場を失い、水堀に落ちて溺死した敵兵は、なんと1,000人以上。昨日まで静かだった「捨て曲輪」は、一夜にして凄まじい激戦地へと姿を変えていた。
小田原籠城は100日以上に及んだけれど、実は「刀と刀を交えるガチの接近戦」が起きたのは、後にも先にもこの夜だけだったと言われている。それ以外は全部、遠くからの鉄砲の撃ち合いだったからな。
家康の懐刀・井伊直政。北条の意地・山角父子。この両雄が「捨て曲輪」という狭いステージで激突し、互いに万死を辞さずに戦い抜いた。
井伊直政は、この戦いでまた一つ「傷」を増やしたわけだが、それが井伊直政の勲章になった。
一方、山角上野守。あえて「捨て曲輪」に居座り続け、敵を引き寄せて叩くという判断。これは長年の経験が生んだ、見事な「読み」だったと思う。この夜の戦功は、天下に鳴り響き、山角父子の名前は北条の歴史に「最強のディフェンダー」として刻まれることになった。
たとえ勝敗が決まった後の戦いであっても、武士としての誇りを懸けた一瞬の輝き。それこそが、俺たち戦国大名が愛した「名誉」という名の報酬だ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
四 小田原籠城捨曲輪へ攻入る事
見しは昔。秀吉公、小田原の城を大軍にて攻めるといへども、惣構に大鉄炮をかけ置き、昼夜放しければ、鉄の楯をつゐても取寄りがたし。天下の武士集まり、われ抜きんで近く攻めよらんと智略をめぐらさるるといへども、惣構廻り五里の内に一所言葉をかはす程に攻めよる敵なし。小嶺山の攻口は、穴を掘り入れ矢倉を打返すといへども、土の底にありて、是も益なし。愚老、相州三浦の住人、小田原に籠城す。東方蘆子川浜手の角矢倉を持口とす。是より一町ばかり上、惣構の外に福門寺と名付け、一町四方ほど少し高き地形あり。是は昔寺の跡なるによつて、かく名付くるなり。是にまた堀を掘り、土手・芝手をつき、塀をかけ、城の内より橋を一つ渡し、是を出曲輪と名付く。山角上野守の嫡男四郎左衛門尉、次男左近大夫、父子三人の持口の内にあり。然るに秀吉公小田原へ押寄するの時節、此出曲輪ありて益なしとて、塀を破り捨曲輪と号し、橋はかけ置き、昼は城中より出でて土井に鉄炮をかけ置き放つ。此蘆子川表は、源の家康公の攻口なり。此捨曲輪に当りて、井伊兵部少輔直政攻めよるなり。兵部少輔、此捨曲輪を取らんと巧み、堀の埋草を用意し、六月廿五日の夜半頃より、すでに堀を埋めんとす。城中より鉄炮を放ちかけ、矢叫びの音に天地震動し、弓・鉄炮に当りて死する者、その数を知らず。一時が程に堀口五六間埋め、捨曲輪へ押し入る。深夜くらふして前後相分かず、皆ことごとく堀に入り、鎧は重く水底に沈む者多かりき。敵すでに橋を渡り、乱杭・逆茂木を引破り、築地へ取上り、塀一重中にへだて攻めたたかふ事、すこぶるあへてもて、敵は強かりけり。城内には篝を焼き、ただ白昼に同じ。他の持口は、かねて法度の義なれば加勢なし。夜警固の衆ばかり馳せ加はり、人数は雲霞のごとし。半時ばかり戦ひしが、敵こらへず引退く。時に至りて山角上野守、父子三人門を開き切て出で、敵を追ひかけ百余人討捕りたり。闇の夜くらふして、つやつや方角を失ひ、水堀に入りて死する者千余人。やうやく夜も明け、夢の覚めたる心地せり。然れば小田原籠城百余日、弓・鉄炮にて攻めたたかふといへども、つゐに敵味方一人肌を合はせず。然る所に其夜の戦ひに、敵には家康公家中、井伊兵部少輔、城中には山角上野守父子三人、万士に抜きんで合戦し、天下に誉を得、後代に名を残せり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




