10-3 小田原城・究極の「引きこもり」生活。〜 50万人に囲まれても、俺たちは将棋を指す 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも、北条氏直だ。ついに始まったぜ、小田原籠城。天正18年(1590年)春、秀吉の圧倒的な物量作戦を前に、俺たちは今後の「運営方針」を決めるための緊急評定を開いた。
俺の言い分はこうだ。「いいか皆。将たる者、混乱が一番の敵だ。山が崩れても動じないメンタルを持て。秀吉の軍勢はデカいが、あれは無理やり徴兵された『寄合世帯』。対する俺たちの関東侍は、五代100年の絆で結ばれた『ガチ勢』だ。よし、ここは一丁、伊豆の三島まで全軍で打って出て、秀吉と1vs1の決戦をやろうじゃないか。運を天に任せてな!」
若さゆえの熱血プランだ。だが、そこで待ったをかけたのが、家老の松田尾張守入道。
「殿、落ち着いてください。名将ってのは、最後の一撃まで勝機を待つもんですよ。わざわざ外に出てギャンブルをする必要はありません。この小田原城に引きこもっていれば、遠くから来た秀吉軍は勝手に疲弊します。『戦わずして勝つ』、これこそ孫子の兵法。100年の歴史をリスクにさらすより、鉄壁のディフェンスで詰ませましょう」
……まあ、理屈は通ってる。当時は知らなかったが、この時すでに松田は秀吉側と「裏取引」をしていたらしい(天運の尽きってやつだ)。
結局、俺は彼の意見を採用し、小田原城での「究極の籠城ライフ」が決定したんだ。
俺たちの「日本最大級」の要塞、小田原城。ぶっちゃけデカさがバグっている。地形は西に富士山、背後に小嶺山、前に早川、南は海。四方を天然の要害でガード。構造は東西約5.4km、南北約7.6km。周囲20kmに及ぶ巨大な「総構」。
防衛設備は三重の堀、びっしりと並んだ矢倉(見張り塔)、そして街をまるごと飲み込んだ巨大土塁。持口(担当エリア)ごとに大名たちの旗印が風になびく様子は、まるで吉野の桜か立田の紅葉のようで、正直、味方ながらに見惚れる美しさだった。
夜になれば、街中の辻々に篝火が焚かれ、まるで白昼のような明るさだ。
「籠城」って聞くと、みんな暗い顔をして泥水をすすってるイメージだろ?だが、小田原の「引きこもり生活」は一味違った。俺は軍法でこう決めたんだ。
「攻められた持ち口以外は、他に応援に行くな。その代わり、自分の番じゃない時は、退屈しないように全力で遊べ!」
おかげで城内は、戦場の真っ只中とは思えない「リア充」空間になった。ある場所では、碁・将棋・双六に熱中。ある陣所では、酒宴を開いて舞を踊りまくる。文化系な奴らは、茶を点て、和歌や連歌の会を開催。さらに笛や鼓の音が響き、どこもかしこもパーティー状態。一生涯ここで過ごしても飽きないレベルのエンタメが揃っていたんだ。
さらに凄かったのが、経済対策だ。松原大明神の門前には1kmにわたる「通り町」があり、毎日市が立っていた。俺は事前に高札を出した。
「全員、1年分の米を用意しろ。余ってる奴は市で売ってよし。足りない奴は、来年春に俺が全部扶持として配ってやるから安心しろ!」
このアナウンスのおかげで、コメの流通が爆発。金を持っている奴は米を買い、米がある奴は宝物と交換する。城内はモノであふれ、誰一人として飢えを心配する奴はいなかったんだ。
もちろん、外の状況も気にしてはいた。スパイ(駆け人)たちが持ってくる情報は、なかなか厳しいものだった。岩付城・八王子城が激戦の末、陥落。親戚の陸奥守・氏照たちの拠点が落ちたのは痛かった。
鉢形城も 叔父貴の氏邦も、交渉の末に開城。忍城 が一番のアツいスポットだった。成田家が立て籠もり、石田三成の水攻めを完璧に防いでいるという。三成、苦戦してるらしいな。そして韮山城は 美濃守・氏親が数万の軍勢を相手に、今もなお鉄壁の防御を見せている。関東の城が次々と落ちていく中、小田原といくつのかの拠点は、依然として「不落」のままだった。
一方、城を囲んでいる秀吉軍の様子を覗いてみると……あいつらも大概だった。50万人の大軍が山や谷を埋め尽くし、馬の足音や鎧の音が24時間鳴り響いている。西の海には九州・四国の軍船が数万艘浮かび、もはや海面が見えず陸地に見えるほどだ。驚くべきは、秀吉軍の「陣構え」だ。ただのキャンプ(野営)じゃない。立派な屋敷を建て、書院や数寄屋(茶室)まで作っている。
庭には松や竹を植え、壁には野菜を育てている。さらに、京都や堺から商人が集まり、中国の珍しい品物や高級シルク、生鮮食品まで売っている。果ては、遊女の小屋や茶屋、旅籠まであって、まさに「戦場の中のテーマパーク」だ。
敵も味方も、「どっちが先に退屈するか、あるいは運が尽きるか」の持久戦。俺たちは確信していた。「ここには10年分の兵糧と鉄砲玉がある。秀吉よ、いつまでも付き合ってやるぜ」とな。
盤石な経済、そして高度な文化。最新の防御システムを持つ世界最大級の要塞と、10年分の備蓄。そして、50万の軍勢を釘付けにする圧倒的な存在感。
この時の「総構」の凄さは、秀吉軍の武将たちに強烈なトラウマ……じゃなくて「インスピレーション」を与えた。戦いが終わった後、みんな自分の国に帰って「小田原みたいな堀を作れ!」って大騒ぎしたらしいよ(笑)。
結局、この戦いは武力ではなく「政治と運」で幕を閉じることになるけれど、この時の小田原の活気と、仲間たちと過ごした賑やかな時間は、俺の人生で最高の輝きだった。
滅びゆく国の「悲壮感」なんて微塵もないだろ?最後までプライドを捨てず、楽しむことを忘れなかった。これが俺たち、北条家臣団の「粋」ってやつなんだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
三 小田原籠城の事
見しはむかし。小田原城には北条氏直公、諸老をあつめ評定ありていはく、「それ将たるの道、まさに先づ心を治むべし。太山前にくづるるとも色変ぜず、ひろく左におこれとも目まじろかず。照らして後にもつて利害を制し、もつて敵を討つべしとは、老泉が金言なり。その上、合戦の勝負は多勢小勢によらず、ただ軍士の心ざしを一にするか、せざるかの二つにあり。西国は大軍なりといふとも、かれらは秀吉逆意におそれ、軍役に下る寄合士卒なれば、心ざしは同じからず。然るに氏直、関八州の武士は五代家に伝はり、恩を感じ徳をしたふ旧臣なり。その上、数度の合戦に強敵をなびかし、武略をもつて国を治め、命を軽んじ義を重んじ、一度も変ぜず、君臣合体の勇士なれば、たとひ敵百万騎むかふといふとも、なじかは雌雄を決せざるべき。数日をうつさず、伊豆国初音が原、三島へことごとく諸軍を打出だし、一戦をとげ、当家の運と秀吉の運と、天の照覧に任すべし」と下知し給ふ所に、家老松田尾張守入道、すすみ出でて申けるは、「それ名将といふは、難義の所をよくこらへ、始終の勝を心に懸くるをこそ、文武の達人とは申すべき。此度伊豆へ打出で、合戦に及ぶ事、善悪の二つに極れり。扨また敵を引請け、籠城に至ては、遠国勢の長陣、かつて叶ふべからず。百度たたかつて百度勝つは、いくさの善にあらず。たたかはずして敵を屈するを善の善なりとす。是孫子が心なり。その上、死を一時に定むる事は安く、はかりごとを万代に残す事はかたし。ひとへに籠城しかるべし」と、しきりに諫め申すに付て、氏直出陣延引す。尾張守反逆のむねありていさめけるを、氏直さとり給はず。運の末とは後にぞ思ひ知られたる。然れども此城、堅固に構へ広大なる事、西は富士と小嶺山つづきたり。二つの山の間に三重に堀をほり、小嶺山を城中に入れ、早川の河をかたどり、南の浜辺をしまはし石垣をつき、東北は沼田、堀をほり築地をつく。東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方に、井楼・矢倉すきもなく立ておき、塀・逆茂木を引き、持口ごとに大将家々(いへいへ)の旗をなびかし、馬印・差物色々(いろいろ)さまざまにありて風にひるがへすよそほひ、吉野立田の花紅葉にもたとへん。惣構役所のめぐり、往還の道は横三十間ほどありて、武者の立所せばからず。陣屋はぬりごめ、小路をわり、人数しげき事、稲麻竹藺のごとし。夜は辻々(つぢつぢ)に篝を焼き、ただ白日にことならず。諸侍干戈を枕とし、甲冑をしとねとす。役所の者共は弓・鉄炮をすきもなく放つによつて、敵近く取よりがたし。扨また夜警固くして、旗本衆六百人、甲冑を帯し、弓・鉄炮・鑓を手々に持ち、徒歩にて昼七ツ時分、城の大手四ツ門に集まり勢ぞろへす。三百人づつ二手に分け、両方へ分れて夜もすがら惣構をめぐる。持口の大将は夜毎に警固の衆に出向ひて対面し、礼義に及ぶ。扨また昼は百人づつ両方へ分け、夜のごとく警固なり。氏直公定めおかるる軍法に、「敵夜中に至て、いづれの持口を攻むるといふとも、他の持口より一人も加勢すべからず。もし夜警固の者ばかりは、はせ加はるべし。いづれの持口も人数多し、あへてもて城中散乱すべからず。昼は持口の役人のみ、矢間に大鉄炮をかけおき放つべし。その外の者共は、籠城退屈なきやうに、思ひ思ひ心々のなぐさみ仕るべし」と云々。これによつて昼は碁・将棊・双六を打ちてあそぶ所もあり、酒宴・遊舞をなすもあり、炉をかまへて朋友と数奇に気味をなぐさむるもあり、詩歌を吟じ連歌をずし、音しづかなる所もあり、笛・鼓を打ちならし、乱舞に興ずる陣所もあり。然れば一生涯を送るとも、かつて退屈の気あるべからず。扨また松原大明神の宮のまへ、通り町十町ほどは、毎日市立てて七座の棚をかまへ、与力する物、手買・振売とて、百の売物に千の買物ありて群集す。氏直公高札を立て給ひぬ。「万民、年中ばかりの粮米支度すべし。あまる所これあるにおいては、市にて売るべし。来春に至ては、民百姓にことごとく御扶持下さるべし」と云々。これによつて二年三年の支度ある者は五穀を市へ取出して売り、持たざる者は珍財にかへて用意をなす。米穀積満たるゆゑ、万民に至るまで城中ともしき事なく、何につけてもなげく思ひなし。扨またかたへなる人云ひけるは、「昨日城内へ懸人あり、敵陣の様子を語りて云ふ。相州甘縄の城主北条左衛門大夫は降人となりて卯月廿一日、秀吉公へ出仕をなす。武州岩付は太田十郎氏房の居城、家老太田備中守、伊達与兵衛尉、宮城美作守こもる。浅野弾正、木村常陸守大将として五月廿二日に攻落す。上州松井田の城は大道寺駿河守籠る。羽柴筑前守、長尾喜平次、蘆田、真田、都合三万余騎にて攻む。大道寺降人となりて出城す。武州八王寺は北条陸奥守氏照の居城、長臣狩野一庵、横地与三郎、近藤出羽守こもる。浅野弾正、本多中務、鳥居彦右衛門尉ら大将として攻落す。同国鉢形の城は北条安房守氏邦立てこもる。浅野弾正大将として北国の軍兵攻む。あつかひありて六月十四日城をあけ渡す。上州忍は成田下総守氏長の居城。主は小田原にありて同名左衛門尉こもる。石田治部少輔大将とし、出羽奥州の士卒はせ加はりて五万余騎にて昼夜すきもなく攻めたゝかふといへども、堅固にして落つべきてだてなし。然るに水攻めの支度をなすとかや。豆州にら山の城には北条美濃守氏親立てこもる。数万騎にて昼夜をわかず攻むるといへども堅固なり。その外関東諸城大形落城と聞えたり」と。然れば小田原惣構せめよるの人数はさておき、後陣は山野に寸土尺地のすきまなく、嶺を登り谷を下り、軍勢充満たる事そのかぎり知られず。往還の道は馬の足音、ものの具の音、十二時中鳴りやむ事なし。兵粮米運送する事、西海の大船小船幾千艘とも数知らず。これ故に陣中ゆたかなり。東西南北に小路をわり、大名衆の陣構には広大なる屋形作りし、書院・数寄屋を立て、庭に松竹草花を植う。さてまた陣屋毎の四壁には野菜のためとて、瓜・茄子・大角豆など植ゑおき、町人は小屋をかけ、諸国の津々浦々(つつうらうら)の名物を持来り、売買市をなす。或は見世棚をかまへ、唐土・高麗の珍物、京堺の絹布を売るもあり、或は五穀・塩肴・干物をつみかさね、生魚をつかねおき、何にても売買せずといふ事なし。京田舎の遊女は小屋をかけおき色めきあへり。その外海道のかたはらに茶屋・旅籠屋ありて、陣中まづしき事なしといふ。然れば敵陣も城中もかくのごとくんば、数年をへるとも双方退屈の気あるべからず。ただ両将の武運の厚薄にこたへ、天命を守るばかりなりと皆人いふ。ここに老士云ひけるは、「関西の軍勢いましかくあるといふとも千里の運粮、氏直公天下を引請け、かくあるべき事をかねて思慮り、前代未聞の大城を興し、関八州の軍兵を籠めおき、鉄炮玉・くすり、兵粮米は十年経ぬべき兼ねての用意、聞きしにも越え思ひよりしよりもおびただしく、城中郭外堅固にして天下無双の名城、落つべきてだてなし。敵も孤虚支干をかんがへ、魚鱗・鶴翼に陣をはり、昼夜をわかず攻めたゝかふ」とぞ申ける。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




