10-2 最終決戦! 50万の大軍 vs 鉄壁の小田原。〜 秀吉の「無理ゲー」と、山中城の散り際 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも、北条氏直だ。ついにこの時が来てしまった。北条家100年の歴史における、サービス終了、いや滅亡)へのカウントダウンだ。
事の始まりは、天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉からの、しつこすぎる「京都に来い」という通知だった。
俺もバカじゃない。外交官の江雪斎殿や、親戚の氏親を名代として送って、なんとかお茶を濁していたんだ。だが、秀吉公の積もり積もったストレスは限界を突破していた。
「氏直本人が来ないなら、和平はなしだ!」
京都から来た仲介役も、「一度でいいから顔を出せ。そうすれば秀吉公も機嫌を直すから」と泣きついてくる。そこで俺は重臣の石巻下野守を京都へ送ったんだが……これが大失敗。
秀吉:「で、氏直はいつ来るんだ?」
石巻:「えーと、具体的な日付は聞いてないっす。とりあえず挨拶に……」
秀吉:「日付も決まってないのに報告に来るな! 舐めてんのか!」
はい、炎上確定。さらに秀吉は「上洛するなら北条の家老全員を引き連れてこい」という、事実上の「全員まとめて身柄確保」という無理難題を吹っかけてきた。俺は家老たちを集めて言い放った。
「いいか。俺たちの領土は、秀吉から恵んでもらったもんじゃない。初代・早雲が実力で切り取り、五代にわたって俺たちが守り抜いてきた『自作マップ』だ。勅命なら京都へ行くが、秀吉の脅しには屈しない。関東が欲しいなら、武力で奪いに来い。勝負を天に任せようじゃないか!」
……言ってやったぜ。これが秀吉の逆鱗に触れ、ついに豊臣軍による「関東遠征クエスト」が発動してしまった。
天正18年(1590年)3月19日。秀吉公は20万の軍勢で京都を出発。3月29日、伊豆の玄関口にある山中城へ押し寄せた。
山中城はもともと古い関所だった場所を、俺が「街道封鎖用」に改修した新造の城だ。城代は松田兵衛大夫。加勢には間宮、池田、山中といった北条のガチ勢を送り込んだ。対する豊臣軍の先鋒は、中村式部少輔、堀尾帯刀、山内一豊、一柳直末といったオールスター。
「撃て、撃てーっ!」
城からは最新の大鉄砲で応戦したが、豊臣軍の物量は異常だった。味方が一人死ねば、後ろから十人が乗り越えてくる。秀吉は西の高台から、黄金の瓢箪の馬印を振り回して「行け! 進め!」と叫んでいる。そのプレッシャーに押された豊臣軍は、もはや命をゴミのように捨てて、堀に飛び込み、死体を足場にして塀をよじ登ってきた。
わずか一日の、いや数時間の激闘。松田兵衛大夫をはじめ、間宮、池田、椎津……守備隊の諸将は全員、潔く討死した。
「義を千鈞より重くし、命を一塵より軽く」。
山中城の散り際は、敵ながらあっぱれと言われるほどの壮絶なものだった。実際、一柳直末という豊臣方の有力武将が死んでいる。それくらい、山中城の防御力はガチだったんだよ。
4月3日、秀吉はいよいよ俺の本拠地・小田原へやってきた。西の山に陣城(一夜城)を構え、俺の城を見下ろす。そしてその周りには、日本中から集まった大名たちがズラリと並んだ。
左に 秀次、毛利、吉川、小早川。右には 長谷川、池田、脇坂、そして宿敵・里見まで!海にも 四国・九州の数万艘の軍船が波間を埋め尽くし、もはや陸地に見えるほど。
京都出発時は20万だった勢力は、道中で合流した遅参組や関東の裏切り者たちを加え、最終的には「50万騎」にまで膨れ上がっていた。50万という数字。当時の日本の総人口から考えれば、ありえないほどの「最大動員」だ。秀吉公がどれだけ俺たちを恐れ、本気で潰しに来たかが分かるだろ?
天を飛ぶ鳥も、地を走る獣も、隠れる隙間がどこにもない。文字通りの「詰み」状態だ。
だが、俺たちも黙って見ているわけじゃない。城内には関八州から集結した最強の家臣団が揃っていた。松田、山角、多目、福島、富永、清水、大道寺……。挙げればキリがないほどの有名武将たちが、巨大な「総構」の中に立て籠もっている。秀吉の軍勢は、堀を埋めようとしたり、地下道を掘ったり、石火矢をぶち込んだりと、あらゆる手段で攻めてくる。
だが、北条五代の知恵が詰まったこの要塞は、三ヶ月、四ヶ月経ってもピクリとも動かなかった。
「一戦して名を残そうじゃないか!」
俺は諸士を励まし、籠城を続けた。外は地獄の炎のような攻め、中は兵糧が尽きかけ、じわじわと体力が削られていく。まさに「焦熱・大焦熱地獄」の真っ只中だ。
援軍は来ない。兵糧は尽きる。四方を50万に囲まれ、これ以上の抵抗は領民を苦しめるだけだ。「盛者必衰の理」。あんなに輝いていた北条帝国の栄華が、今、眼前で崩れようとしている。
これが、俺の見た「小田原の夏」だ。圧倒的な物量を誇る秀吉という「巨大な運営」に対し、俺たちは最後の最後まで「北条」というブランドを守るために戦い抜いた。
悔いがないと言えば嘘になる。けれど、この壮絶な散り際こそが、俺たちの生きた証なんだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 秀吉公関東発向付豆州山中落城の事
聞しはむかし。天正十年夏の比、前摂政関白秀吉公、明智日向守光秀を討ちて後、義兵をあげ、天下に威をふるひ給ひしかば、関東北条氏直、京都へ使者として板部岡江雪斎をのぼせられ、又其後名代として北条美濃守氏親上洛すといへども、氏直上洛なきに付て、秀吉公いこんに思ひ給へり。是によつて京都より明王院あつかひとして下り、小田原へ来て云く、「氏直一度上洛においては、秀吉公年来の積鬱さんじて、喜悦あるべし。都鄙の和平たるべき旨申さる」と。これにより氏直上洛あるべきよし返答に付て、明王院帰洛す。然に氏直上洛の届として石巻下野守をのぼせらる。秀吉公、下野守にむかひ問ひ給ひて曰く、「氏直上洛日限いかん」。下野守申す、「日限はしかと承りとゞけず。先づ上洛の御請申す御礼として罷上り候」と。秀吉公聞召し、「日限聞とゞけず上る事、非くせ事」とありて、下野守御気色に背く。然に秀吉公仰せとして、富田左近将監、津田隼人正承り、小田原へ使者を下して曰く、「氏直上洛においては、北条陸奥守、松田、遠山、大道寺、羽賀、山角家老の者ども、皆引つれらるべきよし」。氏直聞き給ひて家老の者どもに曰く、「秀吉なにの子細あらん。抑我国においては、秀吉より恩賞にもあづからず。先祖尊霊早雲、いやしくも武勇の家に生れ、弓箭を帯する身として武略をもて伊豆・相模を切取る。その後東八ケ国を静謐に治むる事、氏直まで五代なり。然といへども普天の下、王地にあらずといふ事なし。勅命においては参内申すべし。扨又氏直も天下望み兼ねてありといへども、使札にては取がたし。関東望みにましまさん人、誰に限るべからず。武勇をもつて取給へ。たがひに勝負を決し、運命をば天にまかすべし」と。其上明王院申さるる所、いきやくせり。此上は上洛するに及ばずと返答せり。秀吉公此よしを聞召し、欝憤をふくみ、やむ事なくすでに関東へ発向の聞えあり。氏直持国伊豆・するがに数城ありといへども、いづれも大軍を引請くべき城にあらざる故、みなわりすて、豆州にら山一城ばかりを残せり。同国山中は先年関所の跡にて、地形広からずといへども、岱崎を取入れ、堀をほり、海道ふせぎのため新義に興したる小城なり。松田兵衛大夫城代とす。扨又加勢として北条左衛門大夫、間宮豊前守、池田民部、山中大炊助、椎津隼人正をさし遣はさる。然に秀吉公氏直退治として東国へ発向ありしは、天正十八年寅三月十九日京都を打立ち、同廿七日するが沼津に至り、其日石巻下野守をば人をさしそへ伊豆の境まで送り返し、明王院をも召具し、益なきあつかひとありて、するがの境黄瀬川に旗物にかけ給ひぬ。同廿九日寅の刻、沼津を出勢、当日午の刻、山中の城へ押寄す。岱崎へ向つて前登にすゝむ衆は、中村式部少輔、堀尾帯刀、山内対馬守、一柳監物。南方よりは長谷川藤五郎、木村常陸守、堀左衛門尉を先として大軍にて山も谷も平地に攻めかゝる。城には岱崎に大鉄炮をかけおき放つといへども、討たるる者を踏みこえ乗りこえ、鬨声矢叫びの音に天地をひゞかし攻めたゝかふ。敵方には一柳伊豆守を先として宗徒の侍あまた討死す。秀吉公伊豆の国へ討向ひ給ふよし、小田原へ告来る事、櫛の歯をひくがごとし。物見として山上江右衛門尉をつかはさる。物見山中の城へはせ付く所に、すでに算を乱し攻めたゝかふ。城の左右後の巓までも敵取のぼり、人数は雲霞のごとし。江右衛門尉曰く、「我は是物見に来る。跡を以てきられ叶ふべからず」と、召具する騎馬三十騎ほど、旗馬印をさしつれ、からめ手より引返す。敵是を見て、「すは城を開けのくは」と一度にどつと鯨波をあげる。近江の中納言秀次先陣にて、渡辺勘兵衛尉鳥毛の半月のさし物をさし、万士に抜きんで光登に進む。秀吉公は岱崎より西の方に陣し是を見、もだえかねさせ給ひ、御馬印金の瓢箪を手づから取りて、「懸り進め進め」と振りあげ下知し給ひぬ。諸軍是を見て命を塵埃より軽く、堀へ飛び入り、土井へ太刀を突き立て、鑓は旗竿をさし立て足代とし、人の上に人かさなり攻めあがる。らんぐみ、逆茂木を引破り、塀をくづして攻入らんとす。松田兵衛大夫団扇を取りて衆をいさめ、「討死して名を後記にとゞめよ」と下知すれば、諸卒命を一塵よりも軽んじ、義を千鈞よりも重んじ、面もふらず一足もひかず戦ふといへども、敵は多勢、味方は無勢。松田兵衛大夫を先として、間宮豊前守、池田民部、椎津隼人正、佐藤左衛門尉、栗本備前守、山下兵庫助、同源三、山岡左京助、片山大膳、富田豊後守、皆ことごとく討死す。秀吉公山中を攻落し、勝に乗じて卯月一日はこね・あしがら山をこえて、三日に小田原へ押寄す。秀吉公は西の高山に陣城をかまへ、小田原の城を見おろす。旗本には九州嶋津、大友、中国毛利、吉川、小早川をはじめとして、峯をのぼり谷をくだり陣取る。左陣には長岡越中守、津の侍従、浮田宰相、近江中納言并に家中衆、中村式部少輔、堀尾帯刀、一柳伊豆守、山内対馬守、次に大柿少将、松ケ崎侍従、尾張内府同家中衆、沢井左衛門尉、天野周防守、土方勘兵衛尉、羽柴下総守。右陣は長谷川藤五郎、羽柴左衛門尉、池田三左衛門尉、脇坂中務、安房里見左馬頭西南の海ぎはまで陣取る。諸勢堀ぎはまで押寄せ、後陣は山野寸土尺地のすきまなければ、天に飛ぶ鳥もかける事を得ず、地をはしるけだものもかくれん所なし。海上は四国・九州・西海の軍船数万艘の兵船こぎうかべ、浦の波間も見へず。かけをきぬればただ陸地のごとし。敵味方の鉄炮の鳴音、上はうちやう、下はならくの底までもひゞくかとおどろかる。扨又伊豆国にら山の城には北条美濃守氏親立てこもる。寄手は福島左衛門大夫、戸田民部少輔、蜂須賀阿波守、生駒雅楽頭、前野但馬守、伊賀侍従を先として都合五万騎にて攻めたゝかふ。同国下田の城には清水上野守立て籠る。寄手には伊勢・尾張・参河・遠江・駿河の兵船渡海し、伊豆津々浦々へ舟をつけ、九鬼大隅守大将として攻めらる。上野松井田の城には大道寺駿河守こもる。羽柴築前守大将にて、長尾喜平次、蘆田、真田、都合五万騎にて攻む。武州鉢形の城には北条安房守氏邦こもる。寄手には浅野弾正大将として木村常陸守、家康家中本多中務、鳥居彦右衛門、平岩七之助都合三万余騎にて攻む。扨関八州に立てこもる城々その数をしらず。寄手には石田治部少輔大将として北国の出勢、出羽・奥州伊達次郎政宗、佐竹太郎義宣、都合十万余騎、軍勢雲霞のごとくはせ来り、関八州に入乱れ、民屋に放火し、城々にて攻めたゝかひ、おめき叫ぶ声、鉄炮の鳴音天地震動す。城に籠る者どもは焦熱大焦熱の炎にむせぶらんとぞ覚えける。然に秀吉公京都出勢二十万騎としるされしが、西国北国の諸士遅参の輩もはせかさなり、関八州出羽奥州の士卒幕下につきぬれば、都合其勢五十万騎とぞ聞えける。然に小田原の城三四ケ月に至り攻めたゝかふ。鉄の楯をつゐて取より堀をうめ、土穴へほり入て矢倉をうち返し、夜昼鯨波矢叫びの音やむ事なく攻むるといへども、城内にも東八ケ国の軍兵立てこもる。城内に立てこもる諸将は、太田十郎、北条七郎、同新太郎、同陸奥守、同左衛門佐、同右衛門佐、同新三郎、同彦太郎、伊勢備中守、大和兵部少輔、小笠原播磨守、松田尾張守入道、同右馬助、同肥後守、山角上野守、同四郎左衛門尉、同左近大夫、多目権兵衛尉、山中主膳、福島伊賀守、石巻勘解由、同下総守、南条山城守、同右京亮、同左馬丞、小西隼人正、富永内膳、大藤左衛門尉、依田大膳、荒川豊前守、大森甲斐守、清水太郎左衛門尉、遠山右衛門尉、大道寺孫九郎、上田常陸守、酒井左衛門尉、羽賀伊予守、朝倉右京進、伊藤右馬丞、大藤式部少輔、原豊前守、荒木兵衛尉、羽賀伯耆守、安中左近将監、由良信濃守、長尾新六、小幡孫市、上田兵衛大夫、成田下総守、内藤大和守、足利新六郎、小泉兵大夫、佐倉筑後守、布川弥太郎、長南八郎、倉賀野淡路守、皆川山城守、深谷才兵衛、大須賀権大夫、高井主水、立林喜平次、此外あげて記しがたし。かくのごとく籠城の士卒、その数おびただしく、城中士気衰へずといへども、外は五十万騎の大軍、昼夜攻めたて、鉄炮の音やまず、矢石雨のごとく、城郭ゆらぎ、土塁崩れ、櫓破れ、兵糧次第に尽きんとす。しかれども北条氏直、運命を天に任せ、籠城を堅くし、諸士を励まし、「一戦に名を残さん」と下知しければ、城兵また奮迅して防ぎ戦ふ。然れども、四方ことごとく囲まれ、援兵なく、兵粮乏しく、城内次第に疲弊す。寄手は堀を埋め、石火矢を放ち、城中に火をかけ、昼夜責めやまず。かくて小田原の籠城、つひに和議に及ぶべき機熟し、北条五代の覇業、ここに尽きんとす。まことに盛者必衰の理、眼前にあらはれ、見る者涙を流さざるはなし。これ秀吉公関東発向より、豆州山中落城、ならびに小田原囲城に至る次第なり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




