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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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10-1 映えスポット三浦三崎 〜源頼朝も、俺のじいちゃんも、中国人も絶賛した伝説の港 〜

挿絵(By みてみん)


北条五代記ほうじょうごだいき』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺だ、北条氏直だ。みんな、旅行は好きか? 日本中には「名所旧跡」なんて呼ばれる場所が腐るほどあるけれど、俺に言わせれば相模の「三浦三崎みうらみさき」に勝る場所なんて他にない。


 昔から「聞いて千金、見て一毛(聞いていた価値のほうが高い)」なんてガッカリ名所は多いが、三崎はその真逆だ。「聞いて驚き、見て言葉を失う」。それくらいの破壊力がここにはある。


 地理的に見ても、ここは神立地なんだ。北から南へ突き出した三浦半島(三崎)東から西へ突き出した安房の須の崎西から東へ向かう伊豆の河奈崎。


 この三つの岬が大海原の中で向き合う姿は、まるで囲炉裏に置く「鉄輪かなわ」の三本足のようだ。その真ん中に位置し、堂々と南面おもてを向いている。だからこそ「中を正し(正しい中心)」という意味を込めて、三浦の端っこを「三崎」と呼ぶんだ。


 この三崎のポテンシャルに最初に気づいたのは、あの源頼朝公だ。建久5年(1194年)8月1日。頼朝公は「ここに別荘を建てよう!」と思い立ち、最強の家臣団を引き連れて三崎へやってきた。


 俺たち北条の先祖である北条時政・義時父子はもちろん、三浦義村、和田義盛、梶原景季……鎌倉幕府のオールスター勢揃いだ。彼らが三崎の宝蔵山ほうぞうさんで行ったアクティビティがこれだ。


 海岸でハイレベルな流鏑馬(弓術)大会「小笠懸おがさがけ」。三浦介義澄プロデュース最高級のジビエと海の幸の豪華な宴会。打ち寄せる白波と青い山々のオーシャンビュー。


 頼朝公はここがよっぽど気に入ったらしく、翌年も、翌々年もやってきた。最後には「歯の治療(御労)」のあとのリハビリにまで三崎を選んだほどだ。


 その後、実朝公や頼経公といった歴代将軍も、春になれば城ヶ島の桜を見るために毎年訪れた。まさに「鎌倉幕府御用達」のレジャーランドだったわけだ。


 時代は下って、俺たちの代。永禄8年(1565年)の春。三代目・氏康じいちゃんもまた、三崎での大規模な「お花見イベント」を開催した。これがもう、スケールが違う。伊豆や相模の軍船をすべて小田原に集結させ、じいちゃんと親父(氏政)は海から船で、家臣たちは陸路で浜辺を並走しながら三崎を目指したんだ。


 「殿ー! 海の景色はどうですかー!?」


 「最高だぞ! お前らも遅れるなよ!」


 なんて声を掛け合いながら進む、豪華絢爛なパレード。三崎の港はどれほどの大船がつながれても余裕があるほど広く、底が深い。その評判は、なんと海を越えて「唐の国」にまで届いていたんだ。


 天正6年(1578年)7月2日。親父・氏政の「虎の印判」を持った商人が、中国から巨大な「黒船」を率いて三崎の港に帰ってきた。その船に乗っていた中国人の商人は、三崎の港を見て腰を抜かしたという。


「なんだこの港は!? 黒船が千艘入っても余裕じゃないか。こんなに深くて広い港、本場の中華にだってそうそう無いぞ!」


 親父はすぐに検使として安藤豊前守を派遣し、日中貿易をスタートさせた。三崎の町には1,000軒以上の家が立ち並び、鶏の鳴き声や犬の吠える声が絶えず、どこまでも賑わいが続いていた。


 「三崎に行けば、世界の最先端が手に入る」。


 当時は本気でそう思われていたんだ。もちろん、三崎はただの観光地じゃない。ここは俺たち北条水軍の「最前線基地フロントライン」だ。海の向こう、房総半島には宿敵・里見義頼がいる。奴らは隙あらば海を越えて攻めてくるから、俺たちは三崎の城に梶原備前守という最強の船大将を置き、数百艘の軍船を常駐させていた。


 静かで美しい海。しかしその裏では、常に「音なき海戦」の緊張感が漂っていた。


 北条が没落した後、この三崎の港を引き継いだのは徳川家康だ。家康公も三崎の重要性をすぐに見抜き、向井、間宮といった優秀な船大将(四頭)を配置して、今でもかつてと変わらぬ繁栄を見せている。


 源頼朝公が愛し、俺たち北条家が育て、世界が認めた三崎。ただのマグロの街だと思ってたら大間違いだぜ。そこには、1000年にわたる武士たちのプライドと、世界を見据えた夢が詰まっている。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




一 三浦三崎宝蔵山旧跡の事


見しは今。敷島しきしま国々の名所めいしよ旧跡きうせきおほしといへ共。相模さがみの国。三浦三崎にまさる名所有がたし。此名所 旧記きうきにのせ。古歌にもおほくよめるといへども末代まつだいに至て尋る人 まれなり。さればの名所 旧跡きうせきは。聞て千金せんきん。見て一 もう三崎さきの名所聞しよりも見て日をおどろかし。心 言葉ことばへたり。山海かい風致ふうち大湖万景ばんけいにもこへぬべし。此 在所ざいしよを三 さきと号がうする事。いはれなきにしもあらず。さがみの国三 浦崎うらさきは。北より南の海中かいちうへ。はるかにうかび出たり。又東より安房あはの国。の崎 西にしの海中へ出る。此間のふねの渡り八里。此内海に。上総かづさ下総しもふさ武蔵むさし。五ケ国に入海いりうみ有扨又西より伊豆いづ国。河奈かはな崎。ひがしうみ三浦崎うらさきへ出向むかふ。此渡り十八里り。内海うちうみうらつゞき小田原かまくら有。此三つのしま崎大 海原うなばらにて出向むかつて。たとへば鉄輪かなわの三ツあしに似にたり。然に三浦崎は。三国の中といひ。南 おもてむかひたる故。中を正しやうとし。三浦崎を三崎と号がうす。愚老ぐらう吾妻鏡見侍みはんべるに。三崎 宝蔵ほうざう山の地形ちぎやう世にこへたるにより。大将しやう頼朝よりとも公。御山庄さんしやうを立られんがため。吉日をえらび。建久けんきう五年 甲寅きのへとら。八月朔日二 ほん三浦うら三崎へ。渡御とぎよし給ふ。是三崎のつにをいて御山庄さんしやうを。立られんゆへ也。北条殿 父子ふし上総かづさの介 義兼よしかね。小を山五郎 宗政むねまさ。三浦兵衛尉 義村よしむら。佐々木三郎 盛綱もりつな梶原かぢはら三郎兵衛 景義かげよし工藤くどう小次郎 行光ゆきみつ小野寺をのでら太郎 道綱みちつな伊豆いづかみ義範よしのり以下供奉ぐぶす。先小 笠懸がさかげあり。射手いて下河辺庄司しもかはべのしやうじ行平ゆきひら。小山七郎 朝光ともみつ和田わだの左衛門尉よしもり。八田左衛門尉ともしげ。海野うんの小太郎よしうち。ふちさは次郎 清近きよちか梶原かぢはら左衛門尉 景季かげすゑ愛甲あつかうの三郎 季隆すゑたか榛谷はんがへ四郎 重朝しげとも橘次公成きつじきんなり里見冠者さとみのくわんじやよしなり。加々 次郎 長清ながきよ。以下也 宝蔵ほうざう山に。御所を立られ。御台だい若君わかぎいともなはしめ給ふ。三浦介 義澄うらのよしずみ。じゆんしゆを。経営けいゑいけうをもよほし。珍膳ちんぜんをくはふる。此所の眺望てうばうは。うら白波しらなみ青山せいざんによす。をよそ地境ちけいにをいて。日本無双ぶさうと云々。又 翌年よくねん乙卯きのとのう正月廿五日。将軍しやうぐん三崎のつに渡御とぎよし給ふ。船中せんちうにて御 遊興ゆうけうあげてしるしがたし。三浦の一族ぞく等ら。課駄くわだをまうくる。同廿七日 還御くわんぎよ也。又将軍、歯の御労ごらういさゝか御平癒ごへいゆなし。八月廿六日、御舟にて海浦うみうらをへ、三崎の山庄に渡御し給ふ。御遊覧ごゆうらん等あり。今度京都より御下向ごげかうの後、いまだ此義にあたはず。是当所の風景ふうけいにもよほされてと、御感悦ごかんゑつ浅からずと云々。扨又三崎の前海まへうみ、城ケじやうがしまに、春は桜花さくらばな咲きみだれ、面白き磯山の気色けしきたぐひなかりけり。是によつて頼朝公、頼家よりいへ公、花の時分は三崎へ毎年着御あり。正治しやうぢ元年も御出御ごしゆつぎよし給ひぬ。実朝さねとも将軍、三崎の桜花御見物あるべしとて、建暦けんりやく二年壬申みづのへさる三月九日、尼御台所あまみだいどころを伴はしめ、三崎へ入御じゆぎよし給ふ。建保けんぽ三年三月、同五年九月、安貞あんてい三年二月廿一日、同四月十七日、詩歌しいか管絃くわんげんの御遊、さらに尽しがたし。寛喜くわんき元年己丑つちのとのうし三月十七日辰刻たつのこく頼経よりつね将軍、三崎の磯山御遊覧のため出御しゆつぎよし給ふ。相州さうしう武州ぶしうをはじめ御供するがの前司ぜんじ、御船をもよほし、海上かいじやうにて管絃詠歌ゑいかあり。佐原三郎左衛門尉、遊女を相伴ひ、一葉いちえふにさほさし参向さんかうする事、しかも興あらずと云事なし。およそ山陰さんゐん景数けいすう、海上の眺望、比類あるべからずとほめさせ給ひ、同十九日に還御也。同二年庚寅かのへとら三月十九日、将軍家三崎磯山の花ざかり御遊覧のため、武州六浦むつらのつより御舟にめされ、海上にて管絃あり。若宮の児童等を召され、船中にて詩歌を詠じ、連歌をつらね給ふ。相州・武州以下参らる。よつて領主駿河前司するがのぜんじとなると御まうけ、善尽し美尽さずと云事なし。両国司武蔵守むさしのかみ泰時やすとき相模守さがみのかみ時房ときふさ基綱もとつな親行ちかゆき胤行たねゆき、おのおの秀句しうくを献ぜらるゝと云々。鎌倉数代の将軍、三崎の御所に着御ありて、様々の御遊興のべ尽しがたし。右の趣、吾妻鏡あづまかがみの文言を写し侍る者也。かく当地の景すぐれたるによつて、頼朝公をはじめ、代々の将軍、磯山花の時節を待かねさせ給ひ、御遊覧をもよほされ、毎年三崎のつへ渡御ありて詩歌管絃の御遊、むかしを思ひ出でて今一入ひとしほの眺望ぞまさりける。永禄ゑいろく八暦弥生やよひ上旬の比、北条氏康うぢやす三崎島山桜花御見物の御もよほしありによつて、伊豆いづ相模さがみの舟どもことごとく小田原の浦にかくる。氏康・氏政うぢまさ御舟にめされ、御供の人々は海陸なり。海浦御遊覧のためなぎさにそひて舟をうかべ、浦々をこぎめぐり、陸地くがちを御供の人々は浜づたひ、舟と陸と言葉をかはし、珍興ちんけうの御遊也。およそ浜の浦々には千艘万艘の舟をつなぐといふともせはからず、水底すいてい深くしてたぐひなきみなと、から国までも聞へたり。天正四年の比、三官さんくわん云唐人たうじん、氏政の虎の印判ゐんばんをいただき、もろこしに渡り、三年目の戊寅つちのへとら七月二日に黒舟くろふね三崎の湊に着岸ちやくがんす。唐人此湊を見て、黒舟千艘つなぐともせばからず、およそから国にもあるべからずといふ。然に氏政の検使けんしとして安藤豊前守あんどうぶぜんのかみといふ人三崎へ来て、唐と日本の口通こうつう出合ひ、売買ばいばいの体、ゆゝしくぞ見へける。其所在家ざいけ千余宇せんよゆうありて、鶏鳴けいめい狗吠くはいあひ聞へて、四境に達すといへる孟子まうじの言葉を思ひ出せり。先年三崎の城は北条美濃守みののかみ氏親うぢちか居城とす。当浦関東無双の湊たるによつて、氏直うぢなほ舟大将、梶原備前守びぜんのかみ頭として数百艘の舟をかけおく。房州ばうしう里見左馬頭さまのかみ義頼よしより敵たるにこそ、舟にて渡海とかいし戦やむ事なし。氏直没落より以来、家康いへやす公御舟大将、小浜民部左衛門尉をばまみんぶさゑもんのじよう向井兵庫助むかゐひやうごのすけ間宮虎之助まみやとらのすけ千賀孫兵衛せんがまごべゑ、此四頭彼湊に居住とす。当地繁昌古今ことならず。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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