9-2 関八州の王が見た「天下」という幻想 〜 生存率3割のデスゲーム、最後に笑ったのは?〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、北条氏直だ。今日も、俺のじいちゃん・氏康の時代の話をしよう。
当時、氏康は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の六ヶ国をガチガチに支配し、さらに周辺の国々にも手を広げていた。まさに「関東の絶対王者」だ。だが、そんなじいちゃんの周りには、同じように「俺こそが最強だ」と信じて疑わないバケモノみたいなライバルたちがひしめき合っていた。
安房の里見義弘。常陸の佐竹義重。下野の宇都宮国綱。越後の上杉謙信。甲斐の武田信玄。駿河の今川義元。毎日がログインボーナスなしのガチバトル。大地は骸骨で埋まり、野草は血で染まり、鬨の声が止むことはなかった。
ところが、弘治2年(1556年)。この殺伐とした世界に、突如として「休戦協定」が結ばれた。いわゆる「甲相駿三国同盟」。
北条・武田・今川の三家がお互いの子供を結婚させ、親戚付き合いを始めた。「仲良しクラブでも始めたのか?」って? 違う。三人の大将……氏康、信玄、義元は、言葉には出さなかったけれど、心の底では同じことを考えていた。
「……さて、そろそろ『京都』のサーバーを取りに行くか」
背後の安全を確保して、一気に中央へ乗り出す。これが彼らの共通の「メタ読み」だった。関東の侍っていうのは、どんなに小さな勢力でも「いつかは天下を」と夢見るロマンチストばかり。まずはその先陣を切ったのが、今川義元だった。
ここからの歴史の動きは、まさに「ドミノ倒し」だ。
永禄3年、今川義元、逝く。2万5000の大軍で京都を目指すが、尾張の桶狭間で織田信長という「無名の新兵」に急襲され、ゲームオーバー。永禄8年、将軍、殺害される。室町幕府のトップ、足利義輝公が三好一族に襲われ自害。
元亀元年、我らが北条氏康、病没。関東の獅子も、病というデバフには勝てなかった。天正元年、武田信玄、病没。信長を追い詰める一歩手前で、寿命による強制ログアウト。天正6年、上杉謙信、急逝。「越後の龍」もあっけなく退場。弟の景虎も内乱で滅びる。
じいちゃん、信玄、謙信。この三人のうち、誰か一人でも長生きしていれば、信長が天下を獲るなんてことは万に一つもなかった……当時の人々は本気でそう噂していたんだ。
俺が生まれてから今までの間に、「天下を獲る!」と息巻いて兵を挙げた有名大名たちのリザルト(結果)を集計してみた。エントリー人数は22人。戦死(PK)が15人。病死(自然退場)が 7人。見てくれ、この絶望的な数字。生存率、わずか3割だ。
さらに、実際に軍を率いて京都へ上り、一時的にでも「天下人」の座に座ったラッキーな勝者は8人。だが、そのうち6人は、結局最後には戦いの中で死んでいる。
勝っても負けても、待っているのは「死」。俺たち北条家も、氏政は切腹、氏直も高野山に流されて病死。信長公だって明智に裏切られ、その明智も秀吉公に討たれた。天下人だった秀吉公も、最後は病に倒れた……。これを見て、ある老人が深いことを言っていた。
「論語に『遠き慮りなき者は、必ず近き愁いあり』という言葉がある。人間の一生なんて、夏の蝉のようなもんだ」
老人が語る「食物連鎖の比喩」が、あまりにリアルで震えるぜ。蝉が、時を知り顔で鳴いている。その後ろから、蟷螂が鎌を振り上げて狙っている。そのカマキリを、雀が食べようと狙っている。そのスズメを、木の下から子供が弓で射ようと狙っている。だが、その子供は、自分の足元に「深い谷」があることに気づいていない。
目の前の利益や敵を倒すことだけに夢中になって、自分の背後に迫る危機や、足元の崖に気づかない。歴史に名を残した22人の英雄たちも、みんなこの「食物連鎖のループ」の中にいたんだな。
天下を望み、覇権を争い、そして散っていった男たち。彼らが最後に見た景色は、果たして望んでいたものだったんだろうか。俺は、北条という巨大な組織が崩壊していくのを最前線で見た。
「天下を獲る」という夢は、あまりに眩しくて、そしてあまりに多くのものを犠牲にする、残酷な「無理ゲー」だったのかもしれない。
一歩先を歩むカマキリになるか、それとも木の下で弓を構える子供になるか。何かを狙っているとき、自身もまた「何か」に狙われている。
「後の害を顧みよ」。
それが、戦国という名のデスゲームを終えた、俺たちからの最高のアドバイスだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 関東侍天下に望みをかくる事
聞しはむかし。関東北条左京の大夫。平朝臣氏康公は。伊豆。相模。武蔵。上総。下総。上野を治め。常陸。下野。駿河。信濃へ手をかけ。関八州に威をふるひ。文武至剛の名将たり。其比氏康に敵対の人々。安房に里見左馬頭義弘。常陸に佐竹太郎義重(よしゝげ)。下野に宇都宮の弥三郎国綱。越後に長尾景虎。甲斐に武田源信玄。駿河に今川義元。東西南北に敵有て。たゝかふ。諸さぶらひ義を守り。節ををもくし。名をおしみ。命を軽じ。いさみすゝんで。死をあらそひ。討つつ。討たれつ。敵味方の骸骨地にしき。血は野草をそめ。鯨波矢さけびのをと。震動し。やむとなし。然る所に。弘治二丙辰の年。あつかひ有て。氏康信玄義元三人の中。無事に成ぬ。其上氏康の子息氏政は。信玄の聟になり。義元子息氏真は。氏康の聟にさだめ。信玄息義信は。義元の聟に定め。三方へ御こし入て。北条今川武田の三家一味になりぬ。此無事の子細。三人の大将。言葉に出ださずといへ共。心底にはいづれも。天下に望みをかけ。無事になるとしられたり。関東侍は。先例をおもふゆへにや。小身たる人も。天下に望みをかくる。然に義元。駿。遠。参の軍兵。二万五千を引率し。駿府を打立。京都へせめ上る。尾州に入。諸勢打散て。乱妨取す。義元は。松原にて酒さかもりし給ふ所に。織田三郎信長。六七百の人数にて。はせむかひ。味方にまなんでをしよせ。尾張国でんがくがくぼと云所にて。永禄三年庚甲五月十九日義元は。信長のためにほろび。同八年五月十九日。公方光源院義輝公は。三好がために御生害也。三好修理亮子息左京大夫。天下を二代持つ。然に信長。美濃。尾張。伊勢三ケ国の勢を引率し。京都へせめ上り。同十一年十月十五日入洛す。其以後公方義昭公。二たび帰洛し給ふ。同十二年に。三好は信長に誅せられ。氏康は元亀元年十月三日病死也。氏真は伯父信玄に追出せられて。後卒す。太郎義信は。父信玄にころされ。信玄は天正元年四月十二日に病死す。輝虎は同六年三月十三日に頓死す。同年の春。上杉三郎景虎は。長尾喜平次景勝のために害せられぬ。されば氏康信玄輝虎此三人の内。一人存命にをいては。信長滅亡たるべきに。信長天運つよき故なりと。諸人沙汰せり。同十年三月十一日。武田勝頼同太郎信勝父子は。信長公のためにほろび。同年六月二日。信長公三位中将信忠(のぶたゞ)父子は。明智日向守光秀がために滅亡し。同月十三日光秀は。羽柴筑前守秀吉に討たれ。柴田修理亮勝家。織田三七信高両人は。秀吉のために誅せられ。其後京乱しづまりぬ。同十八年七月十一日。氏政は秀吉公のために切腹し。氏直は高野山に入。文禄元年十一月四日卒逝す。関白秀次公は。文禄四年七月十五日。高野山にをいて。大閤のために切腹し。義昭公は慶長二年八月廿八日薨じ給ひぬ。秀吉公は同三年八月十八日に他界也。愚老永禄年中に生れてよりこのかた。天下に望をかけ給ふ大名。右に記すごとく。二十二人。此内十五人は。弓箭にて卒し。七人は病死なり。扨又右の内八人は。果報めでたふ天下に義兵をあげ。武将の位に付給へり。され共内六人は弓箭にて果て給ひぬと語れば。老人聞て。申されけるは。論語に。人遠きおもんぱかりなきときんば。かならずちかき愁へありといへり。一生の間。身終るまで。思慮なき時は。かならず一日片し時の内にも。わざはひ有べし。人間はかなき有様。たとへば夏の蝉。時しりがほになくを。うしろに蟷螂。犯さんとす。雀(すゞめ)又いぼじりを守る。其木の下に。わらは弓を彎いて射んとよる。足もとに深き谷有をしらず。身をあやまてり。みな是まへの理をおもひて。後の害をかへりみずとおんせうけうが云をきしも。今おもひしられたり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




