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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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8-2 【徹底比較】「龍・虎・獅子」――本当に賢いのは誰だ?

挿絵(By みてみん)


北条五代記ほうじょうごだいき』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺だ、北条氏直だ。今回は、我が北条家きっての名君、三代目・北条 氏康じいちゃんの「統治の美学」について語ろう。


 当時、関八州を舞台にやり合っていた三人のビッグネーム――上杉輝虎(謙信)、武田信玄、そして北条氏康。彼らはみんな「最強」と呼ばれていたけれど、そのプレイスタイルは驚くほど違っていた。


 合戦のたびに自ら鑓を手に取って最前線へ突っ込む上杉輝虎(謙信)。「俺に続け!」と叫ぶその姿はかっこいいけれど、大将が物見スカウトまで自分でやるのは、組織運営としては二流だ。小勇の士。


 武田信玄は自分の強盛パワーに自信がありすぎて、敵の策を読まずに力技でねじ伏せようとする。血気の勇者。運が良いときは無敵だが、驕りが外に見えすぎていて、後先を考えない危うさがあった。


 智仁勇の三拍子が揃った大勇パーフェクトリーダー、北条氏康。敵が驕っても決して騒がず、知略を内側に秘めていた。自らも戦えば傷だらけになるほどの猛将だが、真の強さは「敵が来る前に準備を終えている」その管理能力にあった。


 謙信や信玄が小田原の目鼻先まで攻めてきても、結局一城も落とせず、一時の夕立のように去っていったのはなぜか? それは、氏康じいちゃんが「勝つべくして勝つ」体制を整えていたからだ。


 じいちゃんの政治は、とにかく「慈悲」と「赦し」に基づいていた。かつて、こんな面白い話がある。


 昔、ある王様が臣下に「俺の宝物庫にない珍しい宝を買ってこい」と命じた。臣下は市場へ行ったが、王宮にない宝など一つもなかった。そこで彼は、全財産を貧しい人々に配り、手ぶらで帰ってきた。王様が驚くと、臣下はこう言った。「王宮に唯一足りなかったのは、民の感謝という名の『善根』です。私はそれを買ってきたのです」


 後にその王様が戦争に負けて逃げ延びた時、かつて助けられた民たちが立ち上がり、千人の兵となって王様を救い、国を取り戻したという。氏康じいちゃんもこれと同じだった。


 一度裏切った関東の侍たちが謝ってくれば、「いいよ、次は頑張れよ」とあっさり許した。周りは「甘すぎる!」と怒ったけれど、じいちゃんは知っていた。「一度許された恩」を感じた人間は、二度目は命を懸けて戦うということを。この「徳」の運用こそが、北条家を100年守り抜いた最強のバフだった。


 天正18年、豊臣秀吉公の大軍が押し寄せた時。結局、北条家は滅びてしまったけれど、小田原の城自体は「一度も落城しなかった」。周囲五里(約20km)にわたって、民家や農地までまるごと堀と土塁で囲んだ巨大な要塞、「総構そうがまえ」。


 これを見た秀吉公や諸大名たちは、あまりの堅固さに度肝を抜かれた。小田原が没落した翌年、俺が京都へ登る途中で駿河を通ったら、そこでは中村式部少輔が必死に堀を掘っていたよ。「小田原の総構をマネしないと、これからの時代は生きていけない!」ってみんなが焦っていたんだ。


 北条が作った「城下町ごと守る」というグランドデザインは、その後の日本の城作りのデファクト・スタンダードになったわけだ。


 さて、ここからは運命の不思議についての話だ。話は遡って、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝公が暗殺された、あの雪の夜。実朝公の周りには、これでもかというほど「不吉な予兆デスフラグ」が立っていた。


 側近の覚阿が、実朝公の顔を見て勝手に涙が止まらなくなったり、「儀式の服の下に鎧を着てください」という忠告を、学者の仲章が「前例がない」と却下したり、実朝公が急に自分の髪を一筋抜いて「形見だ」と言って家臣に渡したりだ。


 他にも有名なのは「梅の歌」だ。「俺がいなくなっても、梅よ春を忘れるな」という辞世の句同然の歌。また楼門を出る時、鳩が異様に鳴き、車から降りる時に刀がパキンと折れる。


 そして極めつけは、北条義時殿。義時殿は儀式の最中に急に体調を崩し、刀を仲章殿に預けて退出した。……これが運命の分かれ道。義時の代わりに刀を持っていた仲章殿は、実朝公と一緒に暗殺者の刃に倒れてしまった。暗殺者は、二代将軍・頼家の息子、公暁くぎょう。彼は実朝公の首を切り落とし、そのまま雪の山の中へ消えた。

 

 翌日、実朝公を埋葬しようとしたが、肝心の「首」が見つからない。そこで人々はどうしたか。……前日に実朝公が抜いて渡した、あの「形見の髪の一筋」。それを首の代わりに棺に入れて、実朝公を弔ったという。


 運命が決まる時、人は無意識のうちに自分の「最期」を準備してしまうものなのかもしれない。


 この実朝公の死という未曾有の危機を乗り越え、鎌倉を、そして日本全体の地図をたなごころに握って動かしたのは、誰あろう北条政子――尼御台様だった。


 彼女は、女性という身でありながら、比類なき知恵で天下の乱れを鎮めた。実朝公の暗殺を、尼御台様の「唯一の失敗」だと言う人もいるけれど、あの日起きた数々の怪異と運命の悪戯を見れば、それはもはや人間の知恵が及ぶところではなかったのかもしれない。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




二 北条氏康。智仁勇の徳有事付実朝公の事


聞しはむかし。北条氏康天正十四年。上杉すぎ憲政のりまさを。追討ついたうせられしよりこのかた。関八州にをふるひ給ひぬ。然に上杉は。ゑちごの景虎かげとらをたのむによて。おなじき十五年のなつ景虎上州沼田ぬまた発向はつかうすといへ共。氏康出馬しゆつばゆへ。其かひなくゑちごへ帰陣きぢんす。その時節じせつ落書らくしよかげとらは越後ゑちごかたびらながふきて。沼田ぬまたに入て。足ぬきもせず とよみたり。太田おほた美濃守は岩付いはつきしろに有て。景虎かげとらたのむといへどもかなはずして城を開退あけのき落書らくしよ上杉すぎを。きりたをされてみのゝ守が。たのみしもりの。かげとらもなし とぞよみたる。上杉追討ついたう以後いご上野かうづけ下野しもつけ武蔵むさし信濃しなのにをいて。一城じやうもちある武士ぶしみな降人かうにんつて。氏康幕下ばつかに付しか共。上杉ゑちごへ落行ゆき給ひし故。関東侍さふらひ共一度たび旧君きうくん。上州へ帰国きこくねがひ。其内に侫人ねいじんひとり有て。叛逆はんぎやくをくわだて。ふみをめぐらせば。皆それにしたがひて。ある時は景虎かげとらしよくし。或時は信玄しんげんにくみする故。其いきほひに。永禄ゑいろく三年のほひ景虎かげとら相州さうしう大磯いそまでし入。同十二年に。信玄小田原の近所きんじよ酒匂さかはまでをしこむといへ共。一城せめおとすてだてもなく。一時さゝゆる事もなし。たゞ一時雨しぐれくもを。さはがしてふりとなり。あとはれたるがごとく。何のゑきもなふして。我国へ引かへす。かの両将しやう小田原へはたらく事は。関東侍さふらひ共一味し。氏康やす野心やしんあるがゆへなり。され共かれらがをば。一円ゑんさたせず。我一人手柄てがらのやうにいひなせる故。聞人奇特きどくにおもへり。其比ころ氏康やす輝虎てるとら信玄しんげん此三人の大将は。むまじやうけなげに有て。猛強まうがうの大将たり。然其弓矢ゆみや取様やう各別かくべつ也。輝虎は合戦かつせん度毎たびごとに。やりを取て。真先まつさきにすゝみ。郎従らうじう等跡あとにつゞけと下知し。物見をもわれとせられたり。これ小勇せうゆうのふるまひ。大将には不覚ふかくのはたらきなり。信玄しんげん強盛がうじやうちやくするがゆへ。戦場せんぢやうむかつては。みかたのつよみばかりを。郎従等に下知げちし。てきのてだてをはからず。無理むりにつよく。うんぜうじて。片意地かだいぢ弓矢ゆみやを。取給ひぬ。此両将は。をごりをむねとし。武威ぶいほかにあらはし。さきをおもひて。のちのかへりみなく。血気けつき勇者ゆうしやのふるまひ専一せんいち也。氏康やす智仁勇ちじんゆうとく有て。両将弓矢ゆみやのかたぎをかねはかりつて。てきををごれ共さはがず。武略ぶりやくを内におさめて。人の国を切てとらんと。智謀ちぼうあるゆへ。はたして関八州を。永久ゑいきうおさめ給ひたり。其上切せつのぞんでは。自身 やりを取。太刀討たちうちし。故に身に数ケ所の太刀疵きず有て。まう大将のほまれあり。此三将しやうくにをあらそひ。いどみたゝかふといへ共。信玄しんげん輝虎てるとら強勢がうせいにまかせ。雅意がいに有て。政道せいだうみだりがわしき故民たみふくせず。氏康やす慈悲じひもつぱらとし。たみをなづるとく有て。諸人しよにんおもひよる。文武ぶんぶ智謀ちぼうかねそなはりしたつ人にて。てきをあなどる事なかれと。兼て士卒しそつをいさめ。無事なる時。諸国さかひ目の城々に。人数にんじゆをこめをき。敵俄にはかにきをひ来るといへ共。あへてもておどろかず。はたして万人につ事をはかる。大勇ゆうなり。かうしん。の逆臣ぎやくしんの侍共。一度は景虎かげとら信玄しんげんしよくすといへ共。以後いごかれらくいかなし降参かうさんす。氏康やす先非せんびをたゞさず。ゆるさるゝ。此恩おんかんじ。帰降きかう諸侍しよさふらひ二心なく。ひとへにいのちをすて。忠をいたさんとす。むかし大国に大王わう有。武勇ぶゆう臣下しんかおほし。其中にちやうしと云臣下をめして。おほせけるは。ちんがくらに。七珍ちん万宝まんぽう一ツとして不足そくなる事なし。然ばならびの国のいちに。たからをるよし聞。なんぢゆきてわがくらになからんたからを。かい取て来るべしとて。おほくのたからをたせつかはさる。ちやうしの市にゆきて見るに。一ツとしてもれたる物なし。され共王宮わうぐう善根ぜんこんなし。是をかいとらんと。の国の貧人ひんにんあつめて。たからをことゝく。ほどこしをむなしくして帰りぬ。大王わうかい取所の珍宝ちんぽうを見んとのたまふ。ちやうしこたへて。御実蔵ほうざうほかの珍宝一ツもなし。然共王宮わうぐう善根ぜんごんなかりしかば。の国の貧人ひんにんをあつめて。もち所のたからをとらせ。善根を買取かいとりよしを申す。大王不思儀ふしぎにおぼししけれ共。賢人けんじんのはからひ。あしからじと。すぐし給ふ。其比国のえびすおこり。大王わう合戦討負うちまけ。ならびの国ににげ行給ふ。其時千人の臣下しんか君恩しんをんすてみなにげせぬ。わう一人につて。すでに自害じがいせんとし給ふ時。ちやうしが云。しばらく待給へ。此国のいちにて。買置かいをき善根ぜんごん此度尋たづねて見むとて行。其実たからをえたりし貧人の中に。しばうといふ。武勇ぶゆうの者。善根の心ざしをかんじて。おほくのつはものをかたらひ。此王わうのために城郭じやうくわくをこしらへ。引こめ奉りぬ。はたして運をひらき。二度たび国へ帰り給ふ事。これひとへにちやうしが。買をきたる。善根ごんの故なりと。国王こくわうかんじ給ふ。一人当千たうぜんといふ事。此時よりはじまれり。其時もとにげせし千人の臣下しんか。又出てつかへんといふ。大王わういはく。又事出来いできなばにげべし。別臣べつしんをつふべしとのたまふ。ちやうしが云。別臣は心しりがたし。たゞもとの。にげせし。旧臣きうしん召仕めしつかひ給へ。二たびのおんわすれんやと云。大王ことわりを聞召きこしめして。もとの臣下をたづね出し。ことゝく召つかふ時に。又国大きにみだれおこつて。王宮わうぐうをかたぶく時。かの帰り来る所の臣下しんか二度のおんをはぢて。身命しんみやうかろじ。ふせぎたゝかふ。されば。つ事を。千里ほかにえ。くらゐ永久えいきうおさめ給ふ。氏康やすのはかりごとも。又是におなし。故に年をゝひ。他国をしたがへ。武蔵むさし下総しもふさ上総かづさ下野しもつけ常陸ひたち。八ケ国を治め。信濃しなの。するがの国のかたはしを切て取。近国の逆徒ぎやくとちたいらげ。其うへ京都きやうとへせめ上り。天下に旗をあげんと。其いきほひのいかめしかりしが。氏康やすは。元亀げんき元年 庚午かのへむま。十月三日。病死びやうし也。氏政まさ氏直なを時代まで。東西南北とうざいなんぼくに。敵有て。合戦すといへども。関八州静謐せいひつおさめ。氏直時代に至て。安房あは里見さとみ義頼よしより和睦くわぼくし。小田原へ証人せうにんを渡し。幕下ばつかに付。甲州かうしう武田勝頼たけだかつより常州しう佐竹義宣さたけよしのぶてきたるにより。たゝかひやむ事なし。然に勝頼かつよりは天正十年三月十一日。信長のぶなが公のためにほろび。其いきほひに。たき川左近将監さこんしやうげん西にし上州しうに打入。前橋まへばししろに有て。近辺きんへん城主しろぬし共を。我幕下ばつかになし下知げちする所に。信長公同年六月二日。明智あけちたれ給ひぬ。是によて。氏直。上州へ発向はつかうし。同月十八日 たき川と合戦かつせんし。氏直うちつて。滝川を追討ついたうし。関八州しう静謐せいひつおさまりしが。北条家武運ぶうん末になり。天正年中 秀吉ひでよし公の武威ぶいはなはだしきにより。関八州の軍兵ぐんびやう。小田原に籠城ろうじやうす。然といへ共。城中 堅固けんごに有て。おつまじかりしにあつかい有て。さうとうの三ケ国にをいては。前々のごとく。氏直修領しゆりやうせらるべきよし。老将らうしやう謀計ぼうけいにおとされ。氏直卒爾そつじに。出城しゆつじやうの事。天運うんつくる故也といへば。かたへなる人のいはく。氏直関八州のぐん兵を。小田原へあつむるといへ共。一合戦かつせんもせず滅亡めつばうする事。後代こうだいの耻辱たりと云。老人聞て。をろかなるいひ事哉。それ君子くんし武略ぶりやくをもつて。てきをほろぼし。国をおさむといへども。天災てんざいのがれがたし。うんせうじてあだをくだくときんば。善悪ぜんあくともに善なり。運尽つくる時に至ては。善悪共に悪也。むかし平氏へいじ大将軍しやうぐん小松少将惟盛朝臣せうしやうこれもりあそん万騎そつし。するがの国にはせくだり。富士ふじ川を前にをきぢんをはる。其沼ぬまにをりゐる所の鳥水みづとり。むらがりてたつ。其羽音はをとひとへに軍勢ぐんぜいの。よそほひをなす。夜中の事なれば。平氏へいじおどろき。さはぎ天のあけぼのをまたず。よろひをすて兵具をおとし。とる物も取あへず。敗北はいぼくげのぼる。うんの末には。異国本朝いこくほんてうためしなきにあらず。相国清盛公しやうこくきよもりこう。世をおさめ。廿余年。然に東国とうごく源氏げんじ発向はつかうに至て。軍兵ぐんびやうたてこもるべき。城郭じやうくわくなきがゆへ。平家へいけの一門ことゝくみやこつて。西海さいかいのみくづと成給ひぬ。平泰衡たいらのやすひらは。出羽では陸奥みちのく官領くわんれいたり。頼朝よりとも公奥州おうしう出馬しゆつばに至て。あつかし山に城壁しやうへきをかまふといへ共。廿日の内に滅亡めつばうす。信長のぶなが公天下にをふるひしか共。関西くわんさいにをいて。一城じやうなきが故家人の日向守ひうがのかみに。暫時ざんじの間にがいせられぬ。然に氏直は。めぐり五里大城じやうこうじ関八州の。たみ百姓までもめをき。天下を引請ひきうけ。百余ケ日せむるといへ共。つゐ落城らくじやうせず。然所にあつかひ有て。小田原没落ぼつらくす。翌年よくねんわれ京都へのぼりしに。駿河するが府中ふちう。町はづれに。大なるほりふしんあり。是はいかなる事ぞとへば。するがは中村式部少輔なかむらしきぶのせうゆう領国りやうごくなり。其年小田原のしろそうがまへ有によて落城らくじやうせず。是目前もくぜんの鏡なりとて。府中の城に総がまへの堀を。ほらしめ給ふと云。それより京まで。海道の城々。みな総がまへのほりぶしんありつるを見たり。今もつてなをしか也。一身一代の出世しゆつせも。天のまもりなくしてはかたし。頼朝よりとも公三代も。四十年につくる。それ北条家は。早雲さううん氏茂うぢしげ延徳えんとく年中ねんぢう伊豆いづの国へ打入しよりこのかた。氏直まで五代。百余ケ年。関八州を静謐せいひつおさめ。希代きたい武家ぶけなり。ていればよき事をば。すゑ迄もまなぶならひ。馬の鞍の手がた有事。平治へいぢ合戦かつせんよりはじまる。悪源太あくげんだ鎌田かまだに。をしへけるとかや。扨又小田原総がまへ。前代未聞ぜんだいみもん後世こうせい亀鑑きかんたり。智慧ちゑ才覚さいかくありといへ共。運命うんめいつきければ。こうをなさず。此理らざる人他をなんせり。たゞ人は。盛者必衰じやうしやひつすいのことはりを。分明ぶんみやうすべし。古今こきんつねことはり也。其理方寸りはうすんに有て。万物ばんもつみな我にそなはれり。是真実しんじつ道理だうりなり。扨又運命うんめいのがれがたき事。思ひあはせり。むかしかまくらの将軍しやうぐん頼家よしいへ公は。御舎弟しやてい実朝さねともために。滅亡めつばうし給ひぬ。頼家に二人の若君わかぎみあり。長君ちやうくんがいせられ。をと君をば。尼御台所あまみだいところ出家しゆつけになし。公胤僧正貞暁くいんそうじやうていげう御弟子でしとなし。阿闍梨公暁あじやりくげうがうす。成人せいじんし給ふの後。二位禅尼ぜんに公暁くげうをよびくだし。鶴岡つるがをか別当職べつらうしよくに。ほせらるゝの後始はじめ神拝じんぱいあり。阿闍梨あじやりの云。宿願しゆくぐわんの儀によて。一千日参籠さんろうせしめ給ふべきと云々。然に将軍家しやうぐんけ大臣じんにんぜらる。是によつ建保けんぽ七年己卯つちのとのう正月廿七日。右大臣拝賀はいがのため。鶴岡つるがをか八幡宮まんぐう御社参しやさんとりこく御出有べしとの御もよほしによつて。御供とも群集ぐんしゆす。此時にあたつて。怪異けい一ツならず。さき大膳ぜん大夫入道覚阿かくあ御前まへ何候さふらしかうす。申て云。覚同成人せいじんの後いまだなんだのおもてにうかぶ事をしらず。然に今。昵近ぢつきんし奉る所に。落涙らくるいきんじがたし。是たゞ事にあらず。さだめて子細しさい有べきか。先年せんねんとう大寺御供養くやうの日。大将軍しやうぐんの御出のれいにまかせ。御そくたいの下に。腹巻はらまきちやくせしめ給ふべしと申。文章ぶんしやう博士はかせ仲章朝臣なかあきらのあそんが云。大臣じん大将しやうに。のぼる人のいまだ其式しきあらずと申に。よつて此儀をやめらるゝ。つぎ宮内くない兵衛尉公氏きんうぢ御鬢びんに候するの所に。右大臣みづから御びんのかみ一筋すぢをぬき。形見かたみとしやうじ給はる。次ににはむめ御覧らんじて。和歌わかゑいじ給ふ。出ていなば。ぬしなき宿やどと成ぬとも。のきはのむめよ。はるをわするな次に南門なんもんを御出の時。霊鳩れいきうしきりにさへずる。右大臣車くるまより下給ふのきざみ雄釼ゆうけんつき折らるゝと云々。将軍しやうぐん宮寺ぐうじの。楼門ろうもんに入しめ給ふの時。右京兆義時きやうでうよしとき御釼けんもち御供ともす。にはか心神違例しんじにれい有て。御釼ぎよけん仲章なかあきらに。ゆづり渡し退出たいしゆつす。神宮寺じんぐうじにをいて。御神拝じんぱい事をはり。夜陰やいんにをよび。退出たいじゆつせしめ給ふの所に。当宮たうぐう別当阿闍梨べつたうあじやり石階いしばしのきはにうかゞひ来て。右大臣を。をかしたてまつる。其首くびをひつさげ。うしろの山に入給ふ。其後随兵ずいびやう共はせ参じ。阿闍梨あじやりがいす。次の日御しがいを。勝長寿院しようちやうじゆゐんのかたはらにをいて。はうふりたてまつる。去夜さぬるよ御首くびのあり所をしらず。五体たい不具ふぐなり。よて其はゞかり有べし。昨日きのふ公氏きんうぢに給る御びんのかみ一筋すぢを。御首に用て。くはんに入奉ると語る所に。皆人聞て大臣ひとり御身の上に。様々の怪異けい有事。ふしぎ哉と沙汰さたして云々。大膳ぜん大夫覚阿かくあ落涙らくるい。是いかなる悪妖あくようぞ。はかりがたし。それ二位尼ゐあまは。頼朝よりとも後室こうしつ北条時政ときまさがむすめ也。頼朝公卒去そつきよし給ひてのち頼経よりつねまで四代の間。いかばかり謀叛むほんさふらひ有て。国をみだす事。あげてかぞふべからず。二位禅尼ゐのぜんに此乱逆らんげきを。ことゝくしづめ。承久せうきう三年。官軍くわんぐんをたいらげ。後鳥羽院ごとばのゐん土御門つちみかど順徳院じゆんとくゐんをはじめ奉り。しまへながし。天下のみだれをしづめたるは此人なり。天地開闢かいびやくこのかた。女姓しやうの中に。比類ひるいなき智女。日本図をたなごゝろに。にぎれる人なり。然に実朝さねともは。阿闍梨あじやりおやのかたき。是を一所へまねかれたる。尼公にこう一代是一ツのあやまちなりと云人あり。扨又阿闍梨。宿願といひて一千日の参籠さんろう。すこぶるかしこきはかりごとなりと云もあり。義時よしときにはか違例いれいし。仲章なかあきらに。御釼ぎよけんをゆづりたるも。運命うんめいつよきさいはひなりといふもあり。右大臣門出かどでにびんのかみ一すぢぬき。公氏きぬぢにかたみに出し。後其毛一筋すぢくびになりたるも希有けうなり。実朝さねともは。歌の名人めいじん二十一代集だいしうの内にをほくもつて。鎌倉かまくら右大臣とのせられたるは。実朝公の名也。梅の詠歌ゑいか殊勝しゆしようとやいはん。御気ちがひとや申さんなどゝ色々沙汰さたする所に。其中に老人らうじん有て云けるは。此儀批判ひはんすべからず。是天道てんだうのしめす所にて人。心のをよぶ所にあらず。運命うんめいに至ては。是非ぜひろんずべからずといへり。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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