8-2 【徹底比較】「龍・虎・獅子」――本当に賢いのは誰だ?
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、北条氏直だ。今回は、我が北条家きっての名君、三代目・北条 氏康の「統治の美学」について語ろう。
当時、関八州を舞台にやり合っていた三人のビッグネーム――上杉輝虎(謙信)、武田信玄、そして北条氏康。彼らはみんな「最強」と呼ばれていたけれど、そのプレイスタイルは驚くほど違っていた。
合戦のたびに自ら鑓を手に取って最前線へ突っ込む上杉輝虎(謙信)。「俺に続け!」と叫ぶその姿はかっこいいけれど、大将が物見まで自分でやるのは、組織運営としては二流だ。小勇の士。
武田信玄は自分の強盛に自信がありすぎて、敵の策を読まずに力技でねじ伏せようとする。血気の勇者。運が良いときは無敵だが、驕りが外に見えすぎていて、後先を考えない危うさがあった。
智仁勇の三拍子が揃った大勇の主、北条氏康。敵が驕っても決して騒がず、知略を内側に秘めていた。自らも戦えば傷だらけになるほどの猛将だが、真の強さは「敵が来る前に準備を終えている」その管理能力にあった。
謙信や信玄が小田原の目鼻先まで攻めてきても、結局一城も落とせず、一時の夕立のように去っていったのはなぜか? それは、氏康が「勝つべくして勝つ」体制を整えていたからだ。
じいちゃんの政治は、とにかく「慈悲」と「赦し」に基づいていた。かつて、こんな面白い話がある。
昔、ある王様が臣下に「俺の宝物庫にない珍しい宝を買ってこい」と命じた。臣下は市場へ行ったが、王宮にない宝など一つもなかった。そこで彼は、全財産を貧しい人々に配り、手ぶらで帰ってきた。王様が驚くと、臣下はこう言った。「王宮に唯一足りなかったのは、民の感謝という名の『善根』です。私はそれを買ってきたのです」
後にその王様が戦争に負けて逃げ延びた時、かつて助けられた民たちが立ち上がり、千人の兵となって王様を救い、国を取り戻したという。氏康じいちゃんもこれと同じだった。
一度裏切った関東の侍たちが謝ってくれば、「いいよ、次は頑張れよ」とあっさり許した。周りは「甘すぎる!」と怒ったけれど、じいちゃんは知っていた。「一度許された恩」を感じた人間は、二度目は命を懸けて戦うということを。この「徳」の運用こそが、北条家を100年守り抜いた最強のバフだった。
天正18年、豊臣秀吉公の大軍が押し寄せた時。結局、北条家は滅びてしまったけれど、小田原の城自体は「一度も落城しなかった」。周囲五里(約20km)にわたって、民家や農地までまるごと堀と土塁で囲んだ巨大な要塞、「総構」。
これを見た秀吉公や諸大名たちは、あまりの堅固さに度肝を抜かれた。小田原が没落した翌年、俺が京都へ登る途中で駿河を通ったら、そこでは中村式部少輔が必死に堀を掘っていたよ。「小田原の総構をマネしないと、これからの時代は生きていけない!」ってみんなが焦っていたんだ。
北条が作った「城下町ごと守る」というグランドデザインは、その後の日本の城作りのデファクト・スタンダードになったわけだ。
さて、ここからは運命の不思議についての話だ。話は遡って、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝公が暗殺された、あの雪の夜。実朝公の周りには、これでもかというほど「不吉な予兆」が立っていた。
側近の覚阿が、実朝公の顔を見て勝手に涙が止まらなくなったり、「儀式の服の下に鎧を着てください」という忠告を、学者の仲章が「前例がない」と却下したり、実朝公が急に自分の髪を一筋抜いて「形見だ」と言って家臣に渡したりだ。
他にも有名なのは「梅の歌」だ。「俺がいなくなっても、梅よ春を忘れるな」という辞世の句同然の歌。また楼門を出る時、鳩が異様に鳴き、車から降りる時に刀がパキンと折れる。
そして極めつけは、北条義時殿。義時殿は儀式の最中に急に体調を崩し、刀を仲章殿に預けて退出した。……これが運命の分かれ道。義時の代わりに刀を持っていた仲章殿は、実朝公と一緒に暗殺者の刃に倒れてしまった。暗殺者は、二代将軍・頼家の息子、公暁。彼は実朝公の首を切り落とし、そのまま雪の山の中へ消えた。
翌日、実朝公を埋葬しようとしたが、肝心の「首」が見つからない。そこで人々はどうしたか。……前日に実朝公が抜いて渡した、あの「形見の髪の一筋」。それを首の代わりに棺に入れて、実朝公を弔ったという。
運命が決まる時、人は無意識のうちに自分の「最期」を準備してしまうものなのかもしれない。
この実朝公の死という未曾有の危機を乗り越え、鎌倉を、そして日本全体の地図を掌に握って動かしたのは、誰あろう北条政子――尼御台様だった。
彼女は、女性という身でありながら、比類なき知恵で天下の乱れを鎮めた。実朝公の暗殺を、尼御台様の「唯一の失敗」だと言う人もいるけれど、あの日起きた数々の怪異と運命の悪戯を見れば、それはもはや人間の知恵が及ぶところではなかったのかもしれない。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 北条氏康。智仁勇の徳有事付実朝公の事
聞しはむかし。北条氏康天正十四年。上杉憲政を。追討せられしよりこのかた。関八州に威をふるひ給ひぬ。然に上杉は。ゑちごの景虎をたのむによて。おなじき十五年の夏。景虎上州沼田へ発向すといへ共。氏康出馬ゆへ。其かひなくゑちごへ帰陣す。その時節の落書に 景とらは越後かたびらながふきて。沼田に入て。足ぬきもせず とよみたり。太田美濃守は岩付の城に有て。景虎を頼むといへども叶はずして城を開退の落書に 上杉を。切たをされてみのゝ守が。たのみし森の。景とらもなし とぞよみたる。上杉追討以後。上野。下野。武蔵。信濃にをいて。一城を持。名ある武士みな降人と成つて。氏康幕下に付しか共。上杉ゑちごへ落行給ひし故。関東侍共一度旧君。上州へ帰国を願ひ。其内に侫人ひとり有て。叛逆をくわだて。文をめぐらせば。皆それに付ひて。或時は景虎に属し。或時は信玄にくみする故。其いきほひに。永禄三年の比景虎相州大磯まで押し入。同十二年に。信玄小田原の近所酒匂までをしこむといへ共。一城せめ落すてだてもなく。一時さゝゆる事もなし。たゞ一時雨の雲を。さはがして降となり。跡の晴たるがごとく。何の益もなふして。我国へ引かへす。かの両将小田原へはたらく事は。関東侍共一味し。氏康へ野心あるがゆへなり。され共かれらが名をば。一円さたせず。我一人手柄のやうにいひなせる故。聞人奇特におもへり。其比氏康。輝虎。信玄此三人の大将は。生れ性けなげに有て。猛強の大将たり。然其弓矢の取様は各別也。輝虎は合戦の度毎に。鑓を取て。真先にすゝみ。郎従等跡につゞけと下知し。物見をもわれとせられたり。これ小勇のふるまひ。大将には不覚のはたらきなり。信玄は強盛に着するがゆへ。戦場に向つては。みかたのつよみ計を。郎従等に下知し。敵のてだてをはからず。無理につよく。運に乗じて。片意地に弓矢を。取給ひぬ。此両将は。をごりをむねとし。武威を外にあらはし。前をおもひて。後のかへりみなく。血気の勇者のふるまひ専一也。氏康は智仁勇の徳有て。両将弓矢のかたぎを兼て斗知つて。敵ををごれ共さはがず。武略を内におさめて。人の国を切てとらんと。智謀あるゆへ。はたして関八州を。永久に治め給ひたり。其上切に望んでは。自身 鑓を取。太刀討し。故に身に数ケ所の太刀疵有て。猛大将の誉あり。此三将国をあらそひ。いどみたゝかふといへ共。信玄輝虎は強勢にまかせ。雅意に有て。政道みだりがわしき故民ふくせず。氏康は慈悲を専とし。民をなづる徳有て。諸人おもひよる。文武智謀兼て備はりし達人にて。敵をあなどる事なかれと。兼て士卒をいさめ。無事なる時。諸国さかひ目の城々に。人数をこめをき。敵俄にきをひ来るといへ共。あへてもておどろかず。はたして万人に勝つ事をはかる。大勇なり。上。武。信。の逆臣の侍共。一度は景虎信玄に属すといへ共。以後かれら悔悲み降参す。氏康先非をたゞさず。ゆるさるゝ。此恩を感じ。帰降の諸侍二心なく。ひとへに命をすて。忠をいたさんとす。むかし大国に大王有。武勇の臣下おほし。其中にちやうしと云臣下をめして。仰せけるは。ちんが倉に。七珍万宝一ツとして不足なる事なし。然ばならびの国の市に。たからを売るよし聞。汝ゆきてわが倉になからん宝を。買取て来るべしとて。おほくのたからを持たせつかはさる。ちやうし彼の市にゆきて見るに。一ツとしてもれたる物なし。され共王宮に善根なし。是を買とらんと。彼の国の貧人を集めて。たからをことゝく。ほどこし手をむなしくして帰りぬ。大王買取所の珍宝を見んとのたまふ。ちやうし答へて。御実蔵の外の珍宝一ツもなし。然共王宮に善根なかりしかば。彼の国の貧人をあつめて。持所のたからをとらせ。善根を買取よしを申す。大王不思儀におぼし召しけれ共。賢人のはからひ。あしからじと。過し給ふ。其比国のえびすおこり。大王合戦討負。ならびの国ににげ行給ふ。其時千人の臣下。君恩を捨て皆にげ失せぬ。王一人に成つて。すでに自害せんとし給ふ時。ちやうしが云。しばらく待給へ。此国の市にて。買置し善根此度尋て見むとて行。其実たからをえたりし貧人の中に。しばうといふ。武勇の者。善根の心ざしを感じて。おほくの兵をかたらひ。此王のために城郭をこしらへ。引こめ奉りぬ。はたして運をひらき。二度国へ帰り給ふ事。これ偏にちやうしが。買をきたる。善根の故なりと。国王かんじ給ふ。一人当千といふ事。此時よりはじまれり。其時もとにげ失せし千人の臣下。又出てつかへんといふ。大王いはく。又事出来なばにげべし。別臣をつふべしとのたまふ。ちやうしが云。別臣は心しり難し。たゞもとの。にげ失せし。旧臣を召仕ひ給へ。二たびの恩を忘れんやと云。大王ことわりを聞召して。もとの臣下を尋出し。ことゝく召つかふ時に。又国大きに乱れおこつて。王宮をかたぶく時。かの帰り来る所の臣下二度の恩をはぢて。身命を軽じ。ふせぎたゝかふ。されば。勝つ事を。千里の外にえ。位を永久に治め給ふ。氏康のはかりごとも。又是におなし。故に年をゝひ。他国をしたがへ。武蔵。下総。上総。下野。常陸。八ケ国を治め。信濃。するがの国のかたはしを切て取。近国の逆徒を討ちたいらげ。其うへ京都へせめ上り。天下に旗をあげんと。其いきほひのいかめしかりしが。氏康は。元亀元年 庚午。十月三日。病死也。氏政氏直時代まで。東西南北に。敵有て。合戦すといへども。関八州静謐に治め。氏直時代に至て。安房の里見義頼和睦し。小田原へ証人を渡し。幕下に付。甲州武田勝頼。常州佐竹義宣。敵たるにより。たゝかひやむ事なし。然に勝頼は天正十年三月十一日。信長公のためにほろび。其いきほひに。滝川左近将監。西上州に打入。前橋の城に有て。近辺の城主共を。我幕下になし下知する所に。信長公同年六月二日。明智に討たれ給ひぬ。是によて。氏直。上州へ発向し。同月十八日 滝川と合戦し。氏直うち勝つて。滝川を追討し。関八州静謐に治まりしが。北条家武運末になり。天正年中 秀吉公の武威。甚だしきにより。関八州の軍兵。小田原に籠城す。然といへ共。城中 堅固に有て。落まじかりしに扱い有て。武。相。豆の三ケ国にをいては。前々のごとく。氏直修領せらるべきよし。老将の謀計におとされ。氏直卒爾に。出城の事。天運の尽る故也といへば。かたへなる人のいはく。氏直関八州の軍兵を。小田原へ集むるといへ共。一合戦もせず滅亡する事。後代の耻辱たりと云。老人聞て。愚かなるいひ事哉。それ君子は武略をもつて。敵をほろぼし。国を治むといへども。天災は遁れがたし。運に乗じてあだをくだくときんば。善悪ともに善なり。運尽る時に至ては。善悪共に悪也。むかし平氏の大将軍。小松少将惟盛朝臣。数万騎を率し。するがの国にはせ下り。富士川を前にをき陣をはる。其沼にをりゐる所の鳥水とり。群がりてたつ。其羽音ひとへに軍勢の。よそほひをなす。夜中の事なれば。平氏おどろき。さはぎ天の明をまたず。よろひをすて兵具をおとし。とる物も取あへず。敗北し迯げのぼる。運の末には。異国本朝ためしなきにあらず。相国清盛公。世を治め。廿余年。然に東国の源氏発向に至て。軍兵たて籠るべき。城郭なきがゆへ。平家の一門ことゝく都を去つて。西海のみくづと成給ひぬ。平泰衡は。出羽。陸奥の官領たり。頼朝公奥州出馬に至て。あつかし山に城壁をかまふといへ共。廿日の内に滅亡す。信長公天下に威をふるひしか共。関西にをいて。一城なきが故家人の日向守に。暫時の間に害せられぬ。然に氏直は。めぐり五里の大城を構じ関八州の。民百姓までも籠めをき。天下を引請。百余ケ日せむるといへ共。終に落城せず。然所にあつかひ有て。小田原没落す。翌年われ京都へのぼりしに。駿河の府中。町はづれに。大なる堀ふしんあり。是はいかなる事ぞと問へば。するがは中村式部少輔領国なり。其年小田原の城。総がまへ有によて落城せず。是目前の鏡なりとて。府中の城に総がまへの堀を。ほらしめ給ふと云。それより京まで。海道の城々。みな総がまへの堀ぶしんありつるを見たり。今もつて猶しか也。一身一代の出世も。天のまもりなくしてはかたし。頼朝公三代も。四十年につくる。それ北条家は。早雲氏茂延徳年中。伊豆の国へ打入しよりこのかた。氏直まで五代。百余ケ年。関八州を静謐に治め。希代の武家なり。ていればよき事をば。末の世迄も学ぶならひ。馬の鞍の手がた有事。平治の合戦よりはじまる。悪源太鎌田に。をしへけるとかや。扨又小田原総がまへ。前代未聞後世の亀鑑たり。智慧才覚ありといへ共。運命つきければ。功をなさず。此理知らざる人他を難せり。たゞ人は。盛者必衰のことはりを。分明すべし。古今常の理也。其理方寸に有て。万物皆我にそなはれり。是真実の道理なり。扨又運命のがれがたき事。思ひあはせり。昔かまくらの将軍頼家公は。御舎弟実朝の為に。滅亡し給ひぬ。頼家に二人の若君あり。長君は害せられ。をと君をば。尼御台所出家になし。公胤僧正貞暁の御弟子となし。阿闍梨公暁と号す。成人し給ふの後。二位の禅尼。公暁をよび下し。鶴岡の別当職に。ほせらるゝの後始て神拝あり。阿闍梨の云。宿願の儀によて。一千日参籠せしめ給ふべきと云々。然に将軍家。右大臣に任ぜらる。是に依て建保七年己卯正月廿七日。右大臣拝賀のため。鶴岡の八幡宮。御社参酉の刻御出有べしとの御もよほしによつて。御供群集す。此時に当つて。怪異一ツならず。前の大膳大夫入道覚阿。御前に何候しかうす。申て云。覚同成人の後いまだなんだの面にうかぶ事をしらず。然に今。昵近し奉る所に。落涙禁じがたし。是たゞ事にあらず。定めて子細有べきか。先年東大寺御供養の日。右大将軍の御出の例にまかせ。御そくたいの下に。腹巻を着せしめ給ふべしと申。文章の博士仲章朝臣が云。大臣大将に。のぼる人のいまだ其式あらずと申に。依て此儀をやめらるゝ。次に宮内兵衛尉公氏御鬢に候するの所に。右大臣みづから御びんの髪。一筋をぬき。形見としやうじ給はる。次に庭の梅を御覧じて。和歌を詠じ給ふ。出ていなば。ぬしなき宿と成ぬとも。軒はの梅よ。春をわするな次に南門を御出の時。霊鳩しきりに鳴さへずる。右大臣車より下給ふの刻雄釼つき折らるゝと云々。将軍宮寺の。楼門に入しめ給ふの時。右京兆義時。御釼を持御供す。俄に心神違例有て。御釼を仲章に。ゆづり渡し退出す。神宮寺にをいて。御神拝事をはり。夜陰にをよび。退出せしめ給ふの所に。当宮の別当阿闍梨。石階のきはにうかゞひ来て。右大臣を。をかしたてまつる。其首をひつさげ。後の山に入給ふ。其後随兵共はせ参じ。阿闍梨を害す。次の日御しがいを。勝長寿院のかたはらにをいて。はうふりたてまつる。去夜の御首のあり所をしらず。五体不具なり。よて其はゞかり有べし。昨日公氏に給る御びんの髪一筋を。御首に用て。くはんに入奉ると語る所に。皆人聞て右大臣ひとり御身の上に。様々の怪異有事。ふしぎ哉と沙汰して云々。大膳の大夫覚阿が落涙。是いかなる悪妖ぞ。はかりがたし。それ二位尼は。頼朝の後室。北条時政がむすめ也。頼朝公卒去し給ひて後。頼経まで四代の間。いかばかり謀叛の侍有て。国をみだす事。あげてかぞふべからず。二位禅尼此乱逆を。ことゝくしづめ。承久三年。官軍をたいらげ。後鳥羽院。土御門。順徳院をはじめ奉り。島へながし。天下のみだれをしづめたるは此人なり。天地開闢このかた。女姓の中に。比類なき智女。日本図をたなごゝろに。にぎれる人なり。然に実朝は。阿闍梨の親のかたき。是を一所へまねかれたる。尼公一代是一ツのあやまちなりと云人あり。扨又阿闍梨。宿願といひて一千日の参籠。すこぶるかしこきはかりごとなりと云もあり。義時俄に違例し。仲章に。御釼をゆづりたるも。運命つよき幸なりと云もあり。右大臣門出にびんのかみ一すぢぬき。公氏にかたみに出し。後其毛一筋。首になりたるも希有なり。実朝は。歌の名人。二十一代集の内にをほくもつて。鎌倉右大臣とのせられたるは。実朝公の名也。梅の詠歌殊勝とやいはん。御気ちがひとや申さんなどゝ色々沙汰する所に。其中に老人有て云けるは。此儀批判すべからず。是天道のしめす所にて人。心のをよぶ所にあらず。運命の期に至ては。是非を論ずべからずといへり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




