7-4 【悲報】関東の「チート級」漁場、乱獲で枯渇寸前な件。
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、二代目・北条氏綱だ。今日は、俺たちが治める関東の「海」の話をしよう。
相模、安房、上総、下総、武蔵……この五カ国に囲まれた大きな入り海、つまり江戸湾は、かつては巨大な魚たちが集まる「約束の地」だった。地元の漁師たちは磯辺でちまちまと釣る程度で、海はまさに手付かずの宝箱だったんだ。
ところが、武蔵の江戸が繁栄し始めると、どこから嗅ぎつけたのか西国のプロ漁師たちが大挙して押し寄せてきた。彼らが持ち込んだのが、戦国時代の禁断兵器……「地獄網」だ。
この「地獄網」、名前からして物騒だが、その仕組みもえげつない。千貫石という二人がかりで運ぶような巨大な石を網の両端に結びつける。綱には数千もの木製の浮き(真木)を付け、魚を追い込む。そして7艘の舟に分かれ、潮の流れを読みながら一気に網を引き絞る。
この網にかかれば最後。大魚も小魚も、海底の泥の中に住む生き物まで、文字通り「一つも漏らさず」引き上げられてしまう。まさに海の中の焦土作戦だ。さらに彼らは砂底の貝を獲るために、鉄製の巨大な熊手と巻き車を使って、砂の底深くに眠る貝まで掘り起こす。
じいさんの代から20〜30年。この「地獄網」によって、関東の海からはかつての10分の1も魚がいなくなってしまった。
「網の目が細かすぎれば、池に魚はいなくなる」
かつて孟子が言った通りだ。目先の利益のために流れを絶てば、来年の魚はいなくなる。江戸の繁栄の裏で、俺たちの愛した豊かな海が死んでいくのは、なんとも切ない話だよな。
そんな海の話の中でも、俺たち北条家にとって特別な魚がいる。それが「鰹」だ。
天文6年(1537年)の夏のこと。俺は小田原の浦近くで、漁師たちが鰹を釣る様子を舟から見物していた。酒を酌み交わし、波に揺られる優雅なひと時……その時、とんでもないことが起きた。
ピチピチと跳ねた一匹の鰹が、あろうことか俺の乗った舟の中に飛び込んできたんだ!俺は直感した。「これは……『勝負に勝つ魚(勝つ魚=カツオ)』だ!」
縁起物として、即座にその鰹を酒の肴にして味わったよ。するとどうだ。その直後の7月、上杉朝定が攻めてきたが、俺は見事に返り討ちにして武蔵を平らげた。以来、北条家の侍たちの間では、戦場への門出には「鰹」を食べるのが鉄板のルーティンになったんだ。「勝つ魚」で「勝つ」。ダジャレみたいだが、戦国を生き抜くにはこういう「運」を味方につけるメンタルが大事なのさ。
最後に、海が時折見せる「恐ろしい予兆」について話そう。海の底には、人の姿に似て、腹に四つのひれを持つ「人魚」が住んでいるという。こいつが海岸に流れ着くとき、歴史は必ずと言っていいほど「悪い方向」へ動くという伝説がある。
文治5年(1189年):奥州に人魚が漂着。→ その秋、奥州藤原氏が滅亡。
建保元年(1213年):秋田に人魚が漂着。→ 和田義盛が乱を起こし、敗北。
建仁3年(1203年):津軽に人魚が漂着。→ 後の三代将軍・実朝公が暗殺される予兆に。
宝治元年(1247年):またも津軽に人魚。→ 名門・三浦一族が滅亡(宝治合戦)。
時の執権・北条時頼公も、この人魚のニュースを聞くたびに「また不吉なことが起きるのか……」と震え上がり、神社仏閣に必死で祈祷を命じたという。
つまり、それだけ当時の人間が「海」を畏敬していた証拠なんだ。
……どうだい?海はすべてを知っている。俺たち北条家も、最後は大きな時代の波に飲み込まれて消えていったけれど、あの日食べた「勝利の鰹」の味だけは、今でも俺の誇りの中に残っている。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
四 東海にて魚貝取尽す事付人魚の事
見しは今。相模。安房。上総。下総。武蔵此五ケ国の中に。大きなる入海あり。諸国の海をめぐる大魚は。此入海を。よきすみ所と知つてあつまるといへ共。関東のあま。取事をしらず。磯辺の魚を小網釣をたれて取計なり。然所に今武州江戸はんじやうゆへ。西国の海士は。ことゝく関東へ来り。此魚を見て。ねがふに幸かなと。地岳あみといふ大網を作り。あみの両のはじに。二人して持ほどの石を二つくゝり付。是を千貫石と石付縄を二筋付。長さ三尺ほど。はゞ二三寸の木をふりと名付て。大綱の所々に。千も二千も付る。此真木といふ木魚の目には。ひかるといふ。早舟一艘に水手六人宛。七艘に取乗。大海へ漕ぎ出で。綱をおろし両方へ三艘づゝ引わけて。大綱を引。一艘はことり舟と名付網本に有て。左右の綱のさし引する。此網の内にある。大魚小魚一つも外へもるゝ事なし。海底のうろくづまでもことゝく引上る。扨又砂底にある貝をとらむとて。網のもとに石を二つ。をも荷につけ。それにかな熊手を作り付網を海へおろし。大綱を引はへて。舟の内にまき車を仕付。いかりを打て。綱を引ぬれば。砂三尺底にある。もろゝの貝共を。熊手にかけて引おこす。天地より。関東にて見も聞もせぬ。海底の大魚。砂底の貝を取上る。其程に四時を待て。波の上砂の上に出る。魚貝共今は時をしらず。常にぶくしぬれば。江戸にて初魚初貝のさたなし。はや二十四五年以来このかた此地ごくあみにて。取つくしぬれば。今は十の物一つもなし。数罟汚池に入ずんば。魚鼈あげて喰ふべからずとは。孟子の言葉なり。其上淮南子に。流をたつてすなどるときんば。明年に魚なしといへるも。おもひ出てうたてさよ。もろゝの魚の中にも。とり分鯛鱸こそ床しけれ。扨桜鯛と名付春に用ひ鱸を秋の季によみ給へるも。いとやさしかりき。鰹鮪は毎年度に至て。西海より東海へ来る。伊豆。相模。安房の浦につり上る。初鰹しやうくはんなり。天文六年の夏。小田原浦近く。釣舟おほくうかび。鰹をつる。此よし北条氏綱聞召。小舟にめされ。海士のしわざを御見物。珍事の御遊。盃酒に興じ給ふ所に。鰹一つ御舟へとび入たり。氏綱喜悦におぼしめし。勝負にかつうをと御祝詞。なゝめならず。即時酒肴に用ひらる。然におなじき七月上旬。上杉五郎朝定。武州へ発向のよし告来る。氏綱出陣し同十五日の夜いくさに。氏綱討勝て。武州を治め給ひぬ。其比は四方に敵有て。毎日戦やむ事なし。氏綱賞翫し給ふ件の鰹は。勝負にかつうをと。もてはやし常に支度し。諸侍戦場門出の酒肴には。鰹をもつはらと用ひ給ひぬ。扨又本草綱目に人魚あり。かたち人に似て。腹に四足有。ひれのごとし。海山河にも有。魚人のあみにかゝる。人をそれてくらはずと。むかしみちのく出羽の海浦へ。人魚死んでながれよる事度々にをよべり。文治五年の夏。そとの浜へ。人魚ながれよる。人あやしみこぞつて是を見る。おなしき年の秋。秀衡子息ことゝく滅亡す。又建保元年の夏。秋田の浦へ人魚ながれよる。此よし鎌倉殿へ注意す。此義を。はかせにうらなはせ給へば。兵のもとひと申に付て。御祈祷あり。同き年五月二日。和田義盛大いくさあり。建仁三年四月。津軽の浦へ。人魚ながれよる。将軍実朝公。悪禅師に害せられ給ひぬ。宝治元年三月十一日。津軽の浦へ人魚ながれよるよし。注進す。是によて。八幡宮にをいて御祈祷あり。同き六月五日。三浦の泰村が合戦あり。同二年の秋。そとの浜へ。人魚ながれよるよし風聞あり。其比鎌倉殿のじつけんは。北条左近将監時頼なり。此よしをきゝ。先規不快の義なりと。おどろきみちのくの国司。三浦五郎左衛門尉盛時に。尋らるゝによつて。奥州へ飛脚をつかはす所に申て云。去九月十日津軽の浦へ。人魚ながれよるといへ共。先々三度御注進申。皆もつて不吉の事。地下人かくし。申上ざるのよしを申。此義不快たるにより。将軍家諸寺諸社へ御祈請の事あり。魚の中に人魚有事。必定海人の殺生。いふにたへたりと申されし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
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