6-5 正義の味方、北条氏政への「極秘依頼」
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、四代目・北条氏政だ。関東八州をガッチリ固め、文武両道のカリスマとしてノリに乗っていた俺の元に、ある日、とんでもない「招待状」が届いた。
差出人は、時の将軍・足利義昭。内容はこうだ。
「織田信長が京都で好き勝手やっててマジでうざい。あいつ、俺のこと軽んじてるし、やり方がエグすぎる。氏政、お前の大軍で京都に乗り込んで、あの魔王をボコボコにしてくれないか?」
……将軍直々の「信長討伐クエスト」である。俺は即座に引き受けた。
「望むところだ。名門・北条の名にかけて、あの悪逆無道を成敗してやるよ」
正直、当時の信長のやり方は、俺たちの美学からすれば「BAN対象」のオンパレードだった。宗教施設への全方位攻撃。高野山の聖たちを片っ端から処刑。800年の歴史を持つ王城の鎮守、延暦寺を文字通り灰にし、3,000人の衆徒を一人残らず消した。
歴史を振り返れば、仏法を邪魔したやつはみんな早死にしている。でも信長はそんなの関係なし。「武道一辺倒で『仁』の心がない」。
「勇者は必ずしも仁ならず」とはよく言ったものだ。
理不尽な恐怖で支配するやり方は、土木工事や石ころを積み上げるのと変わらない。そんな「道なき権力」が長続きするわけがないんだ。俺は、神仏に代わってあいつを「討伐」する義務があると感じていた。
信長を倒すために、俺はかつての宿敵・上杉謙信と手を組んだ。俺の弟・三郎が謙信の養子になり、「上杉三郎景虎」として跡を継ぐ約束もできていた。つまり、北条と上杉が魔王討伐の勇者チーム同盟を組んだわけだ。
天正6年(1578年)に向けた俺の「グランド・デザイン」は完璧だった。上杉軍は北陸・東山道から京都へ。北条軍は東海道から大軍で西上。日本の東西から二大勢力が挟み撃ちにして、信長を完膚なきまでに叩き潰し、正しい政治を取り戻す。天下は俺たちの掌中にあった……はずだった。
天正6年の春。作戦決行の直前。信じられない速報が入ってきた。「上杉謙信、トイレで倒れて急死」
……嘘だろ。このタイミングで退場かよ。最強のパートナーを失っただけでなく、上杉家では跡目争いの内乱(御館の乱)が勃発。さらに最悪なのは、身内だと思っていた甲斐の武田勝頼だ。
あいつは俺と義理の親子関係にありながら、「もっと領土が欲しい、金が欲しい」という目先の欲に目が眩み、上杉景勝と密約を交わして俺の弟である景虎を見捨てやがった。
結局、俺の弟は殺され、上杉・北条のドリームチームは崩壊。信長討伐の遠征も、延期せざるを得なくなったんだ。
振り返ってみれば、歴史は皮肉な「椅子取りゲーム」の連続だ。俺たちの計画を邪魔した武田勝頼は、後に信長に滅ぼされた。その織田信長は、部下の明智光秀に裏切られて本能寺で散った。明智光秀は、同僚の羽柴秀吉に討たれた。
そして、最後に残った俺たち北条家も、その秀吉によって滅ぼされる。みんな「自分が一番だ」「もっと欲しい」という欲望の波に呑まれ、気づけば後ろから刺されている。ある老人が言っていた。
「人間は、あっても悩み、なくても悩む。一生が終わっても、望みだけは尽きない。これが『貪・瞋・痴』という三毒の病なんだよ。どんな名医でもこの欲望の病は治せない」
富も名声も、武力で手に入れた栄華も、終わってみれば「ただの夢」だった。
……どうだい?「天下を獲る」と息巻いていた俺たちが、最後は全員「死」という名の巨大なリセットを食らったんだ。
「宝の山」に入りながら、結局何も持たずに帰ることになる。本当の勝利っていうのは、国を奪うことじゃなく、自分の欲望をコントロールすることだったのかもしれないな。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
五 欲心身をほろぼす事
見しはむかし。関東諸国見だれ、弓矢有てやむ事なし。中にも北条平の氏政は、文武の大将、関八州に威をふるひ、並ぶ人なかりき。然に永禄の比、織田上総守信長、京都へせめ上り、三好を追罰し、公方義昭公を都へ移し申、天下に義兵を上げ、関西をなびかすといへ共、我がまゝを振舞ひ、無礼をあらはし、公方を軽しめ申さるゝによつて、関東北条氏政、軍兵を率し、上洛仕り、信長を退治いたすべきの旨、義昭公より使者を下さるゝ。氏政承りて、此命を仰下さるゝ事、家にをいて面目たり。辞し申に却つて恐れあり、罷上り信長を追罰仕べき旨言上せしむ。氏政云く、それ信長は高野聖をこと〴〵く首を切りし事、言語にたへたり。昔仏敵と成る人を尋るに、天竺にては提婆たつた仏を猜み血を出す。我朝には守屋大臣、聖徳太子仏法を弘め給ふをさまたげ、清盛は南京七寺、扨又園城寺を放火し、松永弾正は奈良の大仏殿を灰燼とす。悪逆無道によつて天罰のがれがたく、此等の人々在世久しからず、皆ほろび果たり。然に比叡山は人皇五十代、桓武天皇延暦年中、伝教大師と御心をあはせ御建立有しより以来このかた、王城の鎮守として既に八百余年にをよぶ迄、此山をあふがずと云事なし。詫宣に三千の衆徒を養つて、我が子とし一乗の教法を守つて我命とすと示し給ふ所に、信長元亀二年辛未九月十三日、比叡山堂社仏閣こと〴〵く焼亡し、三千の衆徒一人も残さず首をはね、五逆の悪人、いふにたへたり。神明仏陀の冥感に背き、天道のにくみを請け、人罰のがれがたし。其上信長は武道のみ専とし、文を用ひ給はず。故に仁の道をしらず。仁者はかならず勇有、勇者はかならず仁あらずと、文宣王の微言おもひしられたり。政道理にあたる時は風雨時にしたがひ、国家も豊かに、善悪は草の風にしたがふがごとし。信長仁義の道しらざる事、土木瓦石となんぞことならん。人礼有ときんば則ちやすく、不礼なるときんば則あやうしと、礼記に見えたり。威有て道なき者、かならずほろぶといひ置きし先賢の言葉をしらず。氏政いやしくも弓馬の家に携はり、あひがたき時に今生まれあひ、君の御威光御佳運にくみ、しかれが悪逆をせめほろぼさん事、神明の守り天道もいかでかすくひ給はざらん。
然に隣国の敵、信玄入道は天正元年に卒去し、常陸の義重、安房の義頼和談し、同五年の夏、小田原へ証人を渡す。甲州勝頼も同五年旗下になり、其上氏政の妹聟たる越後は、氏政舎弟三郎 輝虎の養子と成り、上杉三郎 藤原景虎と改名し家督を次ぎ、関東におもひ残す事なし。是によて越後と相模一味、兼約有て、同来る六年には信長退治として、輝虎は東山道、氏政は東海道、両旗をもて京都へせめ上り、信長を追討し、義兵をあげ、仏法王法の衰へをおこし、天下の政をたゞしく執行はんと掌ににぎり、其支度有所に、同六年の春、輝虎 頓死す。此節に至て長尾景勝、源勝頼と一味し、三郎景虎をほろぼす。既に越後甲州敵たるゆへ、氏政上洛延引す。勝頼氏政と父子の契縁たりといへ共、欲心内にあれば骨肉も敵となる、世のことはり定めがたし。然に北条とたゝかひし勝頼は信長公にほろばされ、信長は家人の明智日向守に討たれ、日向守は傍輩の羽柴筑前守に誅せられ、信長を退治せんと望みをかけし北条家は秀吉公のためにほろび、是皆思ひの外にかたき有て滅亡し給ひぬとわれかたりければ、老人聞て、それ春栄の謡ひに、われ人をうしなへば、かれ人われを害す。世々 生涯、くるしみの海に、うきしづみて、御法の舟橋を、わたりもせぬぞかなしきと、皆人毎の口ずさみにある事なれ共、其わきまへなし。人間は有に付ても憂へ、なきに付ても憂へ、一生つくれ共望みはつきず。是貪瞋痴の三毒の病おもきがゆへに、出離生死をはなれがたし。此病は耆婆扁鵲が療治にもかなはず。経に「一切の悪業の源は貪欲よりおこる」と説かれたり。却つて身を害す。摩阿止経に、「みやう〳〵として独行、誰が是非をとふらはん。あらゆる所の財宝、いたづらに他のために有」と云々。釈迦八十善の位にそなはり、栄花にほこり給ふべき身なれ共、生死無常のはかなき事を歎き、王位をすて十九にて出家し、唯ひとり断独せんに入り、十二年の間 難行苦行の功つもり、十二月八日の暁明星現ずる時、諸法実相の理をさとり、衆生の苦をはなれ、三世了達の仏と成りて、三界衆生の導師となり給ひぬ。王と成りて栄花を極め、天下の武将と成りて楽しびにあへるも、唯夢まぼろしの間也。万法心のなす所にて、別に法なし。今人界に生まるゝ者は、実の山に入たるがごとし。手をむなしくして三途の古郷へ帰る事なかれ。如来の彼岸にあひ、すみやかに生死の大海をわたり、ねはんのきしに至らんこそねがはしき事ならめといへり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




