6-1 龍と虎が小田原へ?「最強」の名声に隠された、あまりにダサい真実。
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺だ、居酒屋のウンチク王、三浦浄心だ。いつの時代も、男が集まれば始まるのが「誰が一番強いか」という不毛な議論だ。
ある時、元・越後の侍と元・甲斐の侍が酒を飲みながら、ドヤ顔でこんな話をしていた。
「やっぱり最強は上杉輝虎(謙信)様だろ! 越後一国から関東へ殴り込みをかけ、あの小田原城の目鼻先まで攻め込んだんだ。北条氏康もビビって城に引きこもるしかなかったんだからな」
「いやいや、武田信玄公こそ至高。駿河を奪い、小田原まで攻め寄せ、帰り際の『三増峠の合戦』では北条軍をボコボコにして勝った。氏康なんて、最強の二人に蹂躙されただけの敗北者よ。末代までの恥だな!」
……聞いてるこっちはカチンとくる。すると、隅っこで居眠りしていた一人の老いぼれ……かつて北条氏康公に仕えていたベテラン侍が、ヌッと首をもたげて議論に割り込んだ。
「……おいおい、お前ら。聞き捨てならねえな」
老兵の目は、現役さながらに鋭く光っていた。
「当時のリアルを知らねえ連中が、表面的な戦果だけで語るんじゃねえよ。俺が、その『最強コンビ』のあまりにダサい舞台裏を教えてやる。耳をかっぽじって聞きやがれ」
まず、謙信や信玄が小田原の近くまで来られた理由だ。お前らは「龍や虎が羽を生やして飛んできた」とでも思ってるのか?現実はもっと泥臭い。
関東の諸侍……上野、下野、武蔵の連中が、隙あらば北条を裏切って「謙信様〜!」「信玄様〜!」と手引きしただけだ。「内通者が門を開けてくれたから入れた」。これを最強の武勇と呼ぶのは、ちょっと盛りすぎじゃないか?氏康公はわざと深追いせず、敵の「補給線」が伸び切るのを待っていただけなんだ。
次に、甲斐の信玄公。ファンにはカリスマ扱いされてるが、俺からすれば「官賊(公的な泥棒)」の極みだ。国を乗っ取るために親を捨て実父(信虎)を追放。意見が合わないだけで実子(義信)を殺害。 姉の息子で、自分の甥っ子である氏真が弱ったのを見て、「他人にとられるくらいなら俺が食う」と駿河を強奪。
論語に「君子は親を捨てない」という言葉がある。昔、鎌倉の北条 泰時公は、弟がピンチだと聞けば会議を放り出して助けに走った。部下に「もっと慎重に!」と怒られても、「弟を見捨てるくらいなら、今の役職なんていらねえよ」と笑ったものだ。
それに比べて信玄はどうだ?「六順(道徳)」を捨てて「六逆」に全振り。そんなやつがどれだけ勝ったところで、後世の笑いものになるのは当然だろ。
信玄は「百戦百勝」なんて自称していたが、氏康公とのガチ対決ではかなり無様な姿を晒している。永禄12年。氏康公と氏政公が5万の軍勢で駿河へ進発したとき。信玄は「これ以上はヤバい」と判断し、なんと夜中に道もない野山を這いずり回って、甲斐まで逃げ帰ったんだ。それだけじゃない。同年の別の合戦では、北条の夜討ちにビビって敗走。その際、あろうことか軍のシンボルである「八幡大菩薩」の旗を戦場に捨てていった。氏康公はその旗を拾って大爆笑だ。
「敵の情けなさは、この忘れ物を見れば分かるな!」
その時、小田原ではこんなディスり川柳が流行った。
「名をかえよ、武田が欲すと八幡の、旗打ち捨てて逃げた信玄」(武田「信玄」なんて名乗るなよ。八幡様の旗を捨てて「逃げた」信玄に改名しな!)
甲斐の連中がよく自慢する話があるだろ?「川中島の決戦で、謙信の三連撃を信玄が床几に座ったまま軍扇でガードした」っていう、あのシーンだ。老兵は鼻で笑った。
「扇に8箇所の傷があっただと? それ、鉄板でできてんのかよ。 普通の扇なら一撃で腕ごと叩き斬られて終わりだ。甲斐の連中は、首を1つ獲れば『100獲った!』と盛るのがお家芸だからな。女子供でも信じないような作り話をドヤ顔で語るなよ」
氏康公は、信玄のように自分から「俺、最強!」なんて言わなかった。
「勝てたのは神仏の加護と、部下たちの頑張りのおかげだよ」
そう言って手柄を譲るから、一度裏切った関東の侍たちも、氏康公の「情」に触れて最後には泣いて謝ってきた。氏康公は「罪を許すのは大将のスキルだ」と言って、彼らを再び迎え入れた。だからこそ、北条家は五代100年にわたって領民からも愛され、安定した国作りができたんだ。
一方で、信玄亡き後の武田家はどうだ?信長公が攻めてきたとき、あんなに強かったはずの「武田家臣団」は、戦う前から散り散りに逃げ出した。
最後まで武田勝頼付き従った有名人は土屋惣蔵だけ。 長坂長閑は10日前から失踪。跡部主計は前日までいたのに消えた。 絶望した北の方は「兄さん(景虎)を殺したあんたの顔、もう見たくないわ!」と勝頼より先に自害。これが、「恐怖と自慢」で支配した国の末路だ。
信長公が甲府に入った後、山から這い出てきて「また雇ってください!」と媚びを売った元・武田家臣たちを、信長公は「主君を見捨てた臆病者どもめ」と、100人以上まとめて処刑した。これが現実だよ。
氏康公が遺した言葉がある。
「能ある鷹は爪を隠す」
――本当に強いやつは、普段から武勇をひけらかしたりしない。初代・早雲公が書いた『早雲寺殿二十一ヶ条』。そこには、朝4時に起きろとか、掃除をしろとか、そんな生活習慣ばかり書かれているが最後の最後に一言、
「文武の道は当たり前だから、あえて書く必要もない」
とだけ添えられている。自分の手柄を叫ばなければ認められない「小将」と、語らずとも歴史が証明する「名将」。
……どうだい?君たちが憧れる「龍虎」の陰に、こんなにも「静かで、強く、優しい」北条の弓矢があったんだ。さあ、酒の続きを飲もう。今度は、本当の意味での「勝利」が何かって話をしようじゃないか。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
一 上杉輝虎武田信玄小田原へ働事
聞しは今。侍衆四五人寄合よりあひ、むかし関東にての軍物語をおもひ〳〵にさた有。其中に一人云けるは、我生国は越後なり。上杉輝虎はゑちご一国を持ちて、関八州の主たる北条氏康とたゝかひ、つゐに討負ず。あまつさへ一年、小田原近所までをし込みたるは、其名をえたる猛強の大将なりといふ。又一人、われは甲州の住人なり。武田信玄は甲斐するが両国を持ちて、氏康とたゝかひ、是も一年小田原へをし入、退く時に至て、城より出て跡をしたひける所に、相模三増にて合戦し、信玄 討勝ちおほくの敵を討取りたり。氏康武勇よはき故、輝虎も信玄も小田原へをし込みぬ。氏康 耻辱を末代に残すといふ。爰にいにしへ北条家につかへし老士、下座のかたすみにそらねぶりして居たりしが、此よしを聞、耳にやかゝりつらん。座中へにじり出て云けるは、愚かなる人々のいひ事かな。其時代のいくさを、あらかじめ聞きかずして難ぜらるゝは僻事也。われはいにしへ氏康の家人、其比の軍にあひたり。然に上野下野、武蔵、下総に前々より居住する氏康旗下の侍共、逆臣をくはだて、輝虎信玄にくみし、小田原へはたらくといへ共、かれらが働きをばかつてさたせず、遠国よりたゞ我独り羽おひて飛来るやうに云なせる故、聞人武勇きどくに思へり。逆臣有て国を乱すは古今の例。小田原へ働くとて、いかで氏康の耻辱ならん。然ば甲州衆我国の贔屓して、大将の威光、諸侍の武辺の手柄をさたする事、其方一人にかきらず、甲州衆あまたの人の物語をわれ聞をぼえたり。され共 相違あり。其是非を申さんに気にかけとがむべからず。それいかにといふに、人をあなどれば後のち人にあなどられぬと古人云り。ていれば甲州侍武勇に自慢し、広言をはき、他国の大将をあなどつて数度の合戦に切勝多く国を切取よし利口せらるゝといへ共、丸く持たる国は甲斐するが両国なり。其外は近国のかたはしの小侍を旗下になす斗なり。永禄十二年の冬蒲原に北条新三郎在城す。小城なれば信玄のつ取ぬ。其節 高国寺三枚橋ををのづから開退きぬ。此三城を取返し手柄にすといへ共、するが国中に長久保、泉頭、戸倉、志師浜、此四ケ城は氏康 持国なり。扨又海浦里つゞき、香貫、志下志師浜、真籠江の浦、多飛口野、此七ケ所の浦里もするが領、氏康持国なり。信玄勝頼時代まで此するが領を取かへさんと、一生涯望斗にて過られたり。いかにいはん、氏康前々より持来る城をや。然に信玄は父信虎を追出し、甲州をうばひ取て我国とす。駿河は今川氏真の国なるを、氏真 若輩にて隣国の源家康に切てとらるべし。他人にとらせ無念なり、氏真母は信玄があね、氏真は我甥なりと、氏真を遠州へ追はらつて我国とす。いにしへ今に至るまで、大名小名子を持ち、親類縁類をねがひもとめるは、自然の時力をあはせ、たがひに頼み、たのまれんが為也。信玄世の誹見をもわきまへず、他のあざけりをもはぢず、五常に背き、深欲に着して悪逆無道、ことばに絶たり。両国を押取り手柄をふるふといへ共、をのが骨肉のうち、悪子は耻を父にゆづるといへる古人のこと葉、たゞ此人の噂。人非人、鬼畜木石となんぞことならん。論語に、君子は親をすてずと云々。是は周公旦の言葉也。をよそ君子たる人は、我親類一族を忘れ捨ざるをもて仁とす。寛喜の比、北条武蔵守恭時は、かまくらの実検、文武の達人、天下静謐に治まりぬ。然に日中に名越辺騒動す。北条 越後の守の亭に敵打入のよし其聞えあり。此人は武州の弟なり。武州 評定の座にありて此よしを聞、直に彼地へむかはしめ給ふ。相州以下 出仕の人々、其後にしたひて駕を馳す。然に越州は他行なり。留守居の侍ども悪党共と戦ひ、討亡し無事に成ぬ。武州此由を聞き、路次より帰り給ひぬ。左衛門尉盛綱、武州を諫め申て云、重職を帯し給ふ御身也。たとひ国敵たりといふ共、先づ御使をもつて左右を聞召し、御はからひ有べき事か。盛綱等をさしつかはされば、謀をめぐらさしむべし。事を聞あへずむかはしめ給ふの条不可也。向後もしかくのごときの儀にをいては、ほとんど乱世のもとひ、世のそしりをまねくべきかと云々。武州答ていはく、申所しかるべし。但し人の世にあるは、親類を思ふが故也。眼前にをいて兄弟を殺害せられん事、豈人のそしりを招くにあらずや。其時は定めて重職のせんなからんか。武道は争でか人体によらんや。只今越州敵にかこまるゝのよし、是を聞きて他人は少事にしよずるか。兄の心ざす所は、建暦承久の大敵にたがふべからずと云々。時に駿河の前司義村かたはらに候し、是を承り感涙を拭ふ。もりつなは面をたれて径廻す。義村座を立つの後、御所に参じ、御台所にをいて此事を語る。伺候の男女是を聞、感歎するのあまり、盛綱が諷詞の句、武州の陣謝、其理猶いづれの方にあらんやのよし、すこぶる相論に及んで是を決せずと云々。誠に世に有て親類をばかくこそ思ふべき事なれ。信玄一生涯六順をすてゝ六逆に着し、仏神のにくみをうけ、弓矢の冥加に背き、永代のあざけりを成ぬ。然に信玄は近国の敵と百度たゝかつて一度うちまけずと広言すといへ共、其益なし。百度たゝかつて百度勝つを善とはいはず。はかりごとを油幕のうちに廻らし、たゝかはずして国を治むるを名大将とす。するがの内氏康持の四ケ城を一城取かへさぬ無手柄にて、人の国へいかでをよばんや。誠の願事、益なき過言也。上をまなぶ下なれば、郎従等武辺の手柄をいひ、敵は五万三万、みかたはわづかに五千三千にて、数度の合戦に切勝、われは首を百取、誰は首を五十三十取たると、人偽りをいへば我もいひ、たがひにほめつほめられつ、他人にあひて手柄をいふは国ならひぞかし。是又主君のまねをなす。信玄は常に武威を言葉にはき、悪体を面にあらはし、けんきやう人といはるゝをよろこべり。故に従者の云、信長も氏康も君の御鑓さきにをそれ、彼のけんきやう人に我が国を切てとられぬ様にねがひ候といへば、微咲み其者をほうびせられたり。去程に五常の道をしらず、父信虎を追出し諸国を牢籠させ、わが耻辱をもわきまへず、子息太郎 義信を籠に入、後に害す。六親不和にして三宝の加護有べからず。忠功の郎従等、すこし誤りあれば例のけんきやうおこり、首を切る事むしを殺すよりいとやすし。神明の冥感に背き、人罰のがれがたし。其上信玄 大僧正と自ら名付けたるとや。それ僧正号は大切の官位、行基菩薩よりはじまりぬ。かるがゆへに出家の官にのばる事は、仏道を二十年と卅年修行し、智得霊験のしるし有て禁中へ奏聞し、其功による。かるがゆへに徳なくして高位に有をば官賊と名付。信玄一生涯 極欲に着し、逆罪はなせ共あきたらず、修善は一塵ほどもたくはへず、かしらをそりても心をそらず。悪逆無道にして大僧正にすゝむ事、誠の官賊、前代未聞なり。扨又 甲州侍は義理を知て、けなげに死すべき所なれば一足もひかず、君のために勲功をぬきんで、命をば一塵よりも軽く、名をおしみ義を重んずといふ。然に天正十年の春、信長公甲州へ発向し給ふ。勝頼も郎従等も此威勢に恐れ、肝をけし、甲冑を帯し弓鑓を取てむかはん事は思ひもよらず、身をかろくし手を打ふつて、一足も前へにげゆかん事をねがひ、敵のはたをも見ずして、只聞落ちに敗軍す。勝頼公 古府中へ落給ひし時迄は一二百人供しつるが、皆にげ散ちつて、勝頼 野田といふ在所へ落行給ひし時、名有侍には土屋惣蔵たゞ一人供す。勝頼公さがみは敵たらといへ共、北のかたを先立て、氏政をたのまんと思ふはいかにとのたまふ。北のかた云、兄三郎景虎を情なくもころし、何を面目にやと、勝頼より前に自害あり。皆人是を見て、女姓たりといへ共勝頼に心勝れりと感じたり。家老 長坂長閑を尋給ひければ、十日以前より見えず。跡部主爨と尋ぬれば、昨日まで見えしが失せぬといふ。勝頼は野田のおく天目山の郷人共に害せられ給ひぬ。甲州侍 兼日の広言、みぬ世の嘲りとなる。信長公甲府へ打入給ひて後、甲州にて古誉有し侍共、みな罷出候へ、御扶持有べしと高札を立られければ、誠とおもひ山嶺を分わけ出て、我も〳〵と着到に仮名を記す。然に甲駿両国の侍共、鑓を一挺取なをさず、矢を一筋はなさず、敵のはたをも見ずたゞ聞落ちに主を見すて迯げ行く臆病者、後代のこらしめとて百余人 縄をかけ、皆首をぞ切られたり。されば俗語に、能有鷹は爪をかくすと云事おもひ合せり。但し古事あるやらん是をしらず。我此ことばを察するに、鷹は爪有ゆへに鳥をとる。爪なくして鳥はとりがたし。其爪と云は勝負を決する随一也。扨又侍の爪は武勇也。其武の爪を戦場にもあらずして常に外にあらはさんは、無能の鷹のたぐひ、高く飛ぶとりをはうべからず。されば早雲寺殿、二十一ケ条と号し侍一生涯身の行ひの教をしるしをかれたる文有。其内二十ケ条に武道のさた一言なし。終りの一ケ条に、文武弓馬の道は常なり、しるすに及ばず。左文右武はいにしへの法、兼てそなへずんばあるべからずと書とめ給ひぬ。又氏康は文武の達人、猛強の大将にて此時代に至て関八州をおさめられたり。氏康のたまふは、数度の合戦に勝利をうる事、我力にはあらず、ひとへに八幡大菩薩の冥感にかなひ、其上郎従等が忠功によるがゆへなりと、わが武勇をいひかくせり。此等の人をそも能ある鷹爪をかくすといふべけれ。誠に後代の記録にも残るべきは小田原北条家の弓矢なり。ていれば関東侍はいにしへより数十代相つたはり、かまくらの公方の御被官、官領上杉の郎従等也。然に古河の公方春氏公、上杉憲政と一味し、天文十五年四月廿日武州河越の舘にをいて氏康と合戦し、氏康討勝て公方をも上杉をも追討す。猛威を遠近にふるひしかば、関東侍皆こと〴〵く降人と成て氏康幕下に属し、上杉は越後へ落行、景虎を頼み、公方は氏康妹聟、其上若君御誕生骨肉同姓の儀たるによて、さすがうちはたしがたく逆意をなだめ、後も公方にあふぎ奉る所に、動もすればいにしへの郎従等を相かたらひ、氏康に敵対有によて、或時は相州はた野へながされ、或時は下総の国関宿へ流罪せられ、世に有ても有がひなし。されば氏康は関東諸侍の底意を兼てはかり知て、無事の時境目の城々に多人数を入、兵粮米を籠めをき、敵にはかに逆乱出来すといへ共、あへてもておどろかず、持国を堅固に守護し給へり。然に関東侍古をしたひ、公方上杉の帰国を一度とねがひ、二度古主をあふがばやと、其内に一人野心をさしはさみ文をめぐらせば、皆それにつきしたひ、信濃上野武蔵下野常陸下総の侍共一味し、輝虎を大将軍とし、永禄三年の春大軍を引率し、さがみ大磯辺まで働き、在家を放火し帰陣す。扨又永禄十一年の冬、武田信玄するがへ出陣し、今川氏真を追討す。氏真は遠州懸川へ落行、信玄は駿府に旗を立られたり。其旗のそばに、いかなる者か狂歌を書札を立ける。かひもなき、大僧正の官賊が、よくにするがのをひたをす見よとぞよみたる。然に氏真は氏康の聟たり。此よしを聞、氏康氏政父子同十二年正月中旬五万余騎を率し、するがへ進発す。信玄此よしを聞、急ぎ小田原へ使者として寺島甫庵入道宏才者を遣す所に、同十三日三島にて出合たり。氏真の不義、信玄異心なき旨謝すといへ共、しやつに物ないはせぞと首につなさし、三枚橋に張付けにかけられけり。氏康するがへ打入、信玄押領所こと〴〵くもて追討し、同十八日蒲原由井薩埵山へ取のぼり、はたを上られたり。信玄是を見て興津清見辺へ人数を出し、たがひにいどみたゝかふといへ共、中間に難所有て大合戦なりがたし。数日を送る所に信玄四月廿八日惣陣をはらつて、道もなき野山をたどり夜もすがら甲州へにげ行ぬ。氏康は信玄にげ行由聞、するが国中蒲原高国寺三枚橋戸倉志師浜泉頭長久保七ツの城に人数を籠めをき、氏康父子小田原へ帰陣せり。するが大宮、善徳寺、富士のすそ野の過半氏康に切とられ、信玄遺恨たるべしといふ所に、信玄同年六月二日甲州を打立、駿州がはなり島に陣取。氏康も駿河へ出馬あり、対陣す。然る所に蒲原、高国寺、三枚橋の二城より相図をさだめ、信玄陣場へ夜討し、火をはなち焼立、四方より鯨波のこゑをどつとあぐる。信玄おどろき敗軍す。一陣破れ残党全からず、夜もすがら甲府へにげ行。信玄八幡大菩薩と書たるはたを捨たり。是を拾ひ氏康へ参らすれば、敵のをくれ此旗にて知れたりと笑ひ、小田原へ帰陣なり。其節 落書に、名をかへよ、たけだがほすと八幡の、はた打すててにげ田信玄とぞよみける。信玄当春夏両度の合戦に二度甲府までにげ行、是にもこりず信玄又出陣すべしと、この人数をこと〴〵く駿州へさしつかはして七の城々に加勢を入、相待つ所に、信玄 上野下野武蔵下総に居住するいにしへ公方上杉の郎従等一味し、信玄甲府を同十月二日に打立。一味の加勢大軍を引率し、道筋の城々にをさへを置き、すでに小田原へはたらきをなす。氏康案外無勢なれば合戦かなはず、小田原の人数は芦子河原へ打出、大河をへだてゝ陣す。信玄さき手の者酒勾の宿を放火し、即刻引返す。時に至て小田原より切て出、追返し敵敗軍す。氏康氏政 団扇をあげて、もらすな、あますな、討とれと下知し給へば、松田尾張の守、山角上野守、伊勢備中守、福島伊賀守等前をかけ、酒勾より大磯平塚辺までをひうつ首の数千余と云々。北条上総守子息常陸守は甘縄よりはせ参じ、同陸奥守、同安房守、大道寺駿河の守は居城をあげてはせくはゝる。十月六日の事なるに、相甲のさかひ三増到下に信玄人数を残しをきぬ。味方是をしらず北条助五郎同新太郎勝に乗て前登にすゝみ追討する所に、かくしをく所の多勢切てかゝる。味方くづれ坂中にて雑兵二三十人討れぬ。信玄北条家と弓矢を取て勝利を得る事一代に是一度なり。輝虎信玄関東逆臣の諸侍と一味し小田原へはたらくといへ共、我一身のはたらきの様にいひなせり。此両将の弓矢は項羽が独りけなげをたのむ所、疋夫の勇士をそるゝにたらずとこそ氏康は申されしに、北条助五郎をば甲州へ証人に渡すといふ、片腹いたく言葉にたへたり。件の助五郎新太郎兄弟に永禄七 甲子正月八日高野台合戦に先陣にすゝみ誉をえたる大人なり。氏綱氏康よりこのかた信玄国をおほく切て取、証跡有といへども、氏康国を一郷一村信玄取たる証跡有べからず。信玄西上州へ出馬せらるゝは、氏康旗下の侍逆心有て一味するが故也。勝頼は天正五年氏政旗下になるにより、甲州侍弓矢にをとらじと作言のさへづりをもつてはじをすゝがんとの謀なるべし。あまつさへ小田原町を放火すといふ。其軍は天正十八年まで廿二年以前の事也。今四五十歳にをよぶ相模小田原の男女までこと〴〵く其軍をば知りたり。国語に、民の口をふせぐ事川をふせぐよりはなはだかたしと云々。虚実を尋らるべし。甲州衆虚笑なる事小田原のうはさのみにあらず。永禄四年九月十日信州河中島にをいて輝虎と信玄合戦あり。語ていはく、信玄床机に腰をかけ居所へ輝虎はせ来て馬上にてつゞけて三刀うつ。信玄少もさはがず、小勇は太刀をとり大勇はうちはを取といふ兵書の軍法を知て、三度ながら団扇をもて請ながし、其外敵共にも団扇にて請られたり。後に見れば団扇にきず八刀有といふ。さぞ鉄の団扇にてこそ有つらめ。常の団扇ならば輝虎いかで一太刀に打おとさざらん。甲州衆首を一ツとれば百といひ、十とれば千といふ、かくのごとき虚言あげてかぞふべからず。たゞ右の団扇一ツをもて察するにしかじ。信玄団扇に太刀疵八ケ所有といひて人の誠にせんと思ふは、女わらはへにもをとりたる侍の所存にあらずや。論語に、言をたくみにし色を令くするはすくないかな仁あることと云々。耻べし〳〵。随分我ためをいへ共首尾不合のわきまへもなく、他人のあざけりをもしらず口にまかせ作言をさへする事、いふにたへたり。ていれば信玄氏康へ逆臣の輩に手をひかれ小田原へはたらくといへ共、其いきほひに小城を一ツせめ落すべきてだてもせず、一時さゝゆる事もなく、たゞ是一揆の寄合にて、しりぞく時に至ては誰が下知にもをよばず、我先にとひとり〳〵に打成て退散しをのれ〳〵が居城へひいて入る有様、たとへば大名狂言にゑぼし直垂を着し太郎冠者次郎冠者をあとにつれ、真しく大名に成て出るといへ共、舞台より楽屋へ帰ればもとの猿楽なり。輝虎信玄数国の主と成り数万騎を引具し大名がほに先立ていかめしく小田原へはたらくといへ共、たゞ一時のあいだ邯鄲の夢、退散に至てはともなふ人もなく手ににぎるたからもなし、ひとりに成て帰りたるは誠に大名狂言にことならず。然に氏康彼逆臣追討のため出馬し、先其内張本人の居城を取巻きせめらる。その後に至ては以前の科を悔悲しみ、ひたすら降参す。氏康家老の者ども云く、やゝもすればかれら野心をさしはさみ敵をなす。其上一人罰すれば衆人をそる。此小城をせめ落す事手の内にありといふ。氏康聞て、それ国を治むるには民をもとゝす。われに一たび敵対の者とてみなうちほろぼす、是仁道に背けり。小人は一旦の科を見て遠き徳をしらず。罪をゆるすは是将のはかりごとなり。関八州旗下の侍共みな是かくのごとき小城也。せめ落す事日を過ぐべからず。然どもかれを討はたすに至ては関東諸侍我身の上と用心し氏康に心をくべし。降人と成て入道し墨染の衣を着し出仕の上は子細有べからず。其上法度は慈悲よりをこる。罪のをもきをばかろくし功のうたがはしきをばおもくするにしかじと、かれが罪科をあへてもてとがめず宥免せらる。扨又其時節逆臣一味のともがら此よしを聞、われ先にと急ぎはせ参じ降人となる。関八州もとのごとく治まりぬ。然に隣国四方八方に敵有て、西より発向すれば又東よりも後詰をなし敷度の合戦有といへ共、帰降のともがら二心なく以前の罪宥免せらるゝ氏康の深恩を感じ、身命をなげうち一筋に勲功をはげます。是に付て思ひ出せり。治承の比頼朝公相州石橋山の合戦にうちまけ房州へ落行給ひぬ。畠山次郎重忠(しげたゞ)、河越太郎重頼、江戸太郎重長等は有勢の者、源氏へ弓を引、三浦の大介義明を討ほろぼす。然に頼朝公鎌倉へ打入給ふ時、右の三人をはじめ逆心の輩こと〴〵く降人と成て出る。味方に候する者共いはく、今先非をたゞされずんば後輩をこらしめがたしと。然共みな宥免せられ刑法に及ぶ事十に一かと云々。此等の者其厚恩を感じ後忠を尽す。国を治むる大将古今ことならず。関八州の武士輝虎信玄にもくみせず氏康におもひより幕下に属し、故に多国を永久に治め文武智謀の名大将のほまれをえ給へり。古語に日月の蝕をば人皆見る、あらためてもとのごとく明に立かへれば民みなあふぐ。一度しよくするとて日月をいやしむる事なし。氏康のあやまちも又しか也、あらためて善にかへれば人皆たつとぶ。一度あやまつとていかで其能よきをうすく思はんや。孟子に、まつりことをするに人毎によろこばせんとならば日も又たらずといへり。一つを賞してもて百をすゝむといふ事あり。楚の荘王夜中の酒宴に臣下共の冠を切り罪ゆるされたるも後は荘王の命にかへられたり。古語に地うすければ大木生せず、水浅ければ大魚あそばずとかや。氏康は心を大きに持てる故幕下に大名多し。名大将はわれと手がらをいはね共多国を守護する証跡世に聞え弓矢の威光をかゞやかす。小将はわれと武辺を利口すれ共小国の主たるゆへ武道のよはきしるしをあらはす。それ北条家の根源を尋るに、早雲は京都の公方に仕へ御他界以後たゞ一人駿河へ下り今川氏親をたのみ、其後武略をもて伊豆を切てとり、扨又相模を半国手に入。長兄氏綱相模をおさめ武蔵下総の城をおほくせめ落し、子息氏康時代八ケ国を治め、氏政氏直まで五代嫡々 家督をつぎ、百余年関八州を静謐に治め、武運の末に到ては大城に有て天下を引請百余ケ日楯籠り滅亡し給ひぬ。引矢を取てかく始終を治めたる武家、前代未聞、後代の亀鏡にもとゞまり、仏神へ祈てもねがはしきは北条家の弓矢なるべしと広言す。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




