5-3 北条氏政の倍返し!〜 国府台の決戦、美少年の死と出家 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも、北条氏政だ。父上・氏康と一緒に、相模から関東の覇権を握るために日々奮闘している。
今回の舞台は下総(千葉県)。相手は、海を越えて攻めてくる安房の暴れん坊・里見義弘だ。さらにマズいことに、北条方だったはずの岩付城主・太田三門守が里見に寝返りやがった。
里見父子は下総へ進出し、高野台――古くは国府台とか鴻岱とか書かれる、見晴らしのいい高台に陣を敷いた。
対する俺たちの先鋒は、江戸城を守る遠山丹波守と富永三郎左衛門。江戸っ子の意地を見せるべく、江戸川を挟んで睨み合ったんだが……。
ここからが「悪夢」の始まりだった。里見軍が夜のうちに引いたという誤報が流れた。「チャンス!」と思った遠山と富永の軍勢は、川を渡って一気に高野台へ駆け上がった。……だが、それは里見の「釣り」だったんだ。
待ち構えていた里見軍の正木大膳が、采配を振って正面からブチ当たってきた。その勢いたるや、まさに鬼神。坂の途中で北条の先鋒隊はズタズタに引き裂かれ、遠山、富永、さらには山角や太田越前守といった名だたる将たちが討死。
「北条、敗北か!?」
そんな絶望的な空気が流れる中、二陣にいた俺は冷静だった。
「敵は勝って調子に乗っている。今こそ叩くチャンスだ!」
俺は扇を掲げ、逃げ戻る味方を押し留めて逆襲を命じた。
「命は義に依って軽し」。
北条の旗本たちは一歩も引かず、勝利に沸く里見軍の喉元に食らいついた。ここで俺自ら指揮を執り、里見の首を40〜50ほど挙げ、本陣のあった場所に再び北条の旗を立て直してやったのさ。
後陣にいた父上・氏康は、まだこの逆転劇を知らなかった。
「遠山と富永を失うとは……無念だ。すぐにでも総力戦を仕掛けるべきか」と、軍議は紛糾していた。そこで俺は、父上にこう進言したんだ。
「父上、見てきましたよ。俺の送ったスパイ(物見)が報告してくれました。里見の連中、今朝の勝利で完全にお祭りモードです。高野台の上で車座になって酒を飲み、千秋万歳を歌ってどんちゃん騒ぎですよ。主人は家来の居場所も知らず、軍法もクソもない。バラバラです。今、俺たちが急襲すれば、崖の下にいる奴らは逃げ場を失い、上にいる奴らは見物するしかなくなる。――これ、絶対に勝てますよ」
俺の進言を聞いた父上は、ニヤリと笑って、得意の「歴史と占いの講釈」を始めた。
「なるほど。今朝の負けは、太陽を背にした里見に、西から挑んだ俺たちの『方位』が悪かったからだ。だが今はもう昼過ぎ。太陽は西に傾き、里見は逆光、俺たちの影が伸びている。時の占いは『吉』だ!」
さらに父上の解説は止まらない。
「今年は甲子だ」
かつて武王が暴君・紂王を滅ぼした年と同じ。
「先祖のラッキーイヤーだ」
初代・早雲も、二代・氏綱も、重要な合戦で勝ったのは全部「甲子」の年だった。
「場所も最高だ」
かつて氏綱が「小弓御所」を滅ぼしたのも、この高野台。
「これほどフラグが揃って、天が味方しているのに戦わない理由があるか? 今すぐ仕掛けるぞ!」
作戦は、俺が軍勢を率いて南から迂回し、台を完全包囲する「殲滅網」だ。折しも、辺りには霧が立ち込め、小雨が降り始めた。台の上の里見軍は、そんなこととは露知らず。
「明日も一揉みして、北条を全滅させてやるか〜」なんて言いながら、鎧を脱いで馬に餌をやっていた。
……油断、ここに極まれり。永禄7年1月8日、午後4時(申の刻)。
「どっ、とーっ!!」
俺と父上、二方向から同時にブチ上げた勝 鬨の声が、天地を震わせた。
「なっ!? 何事だ!?」と慌てて台を駆け下りる里見軍。だが、重装備の俺たちが、鎧を脱いでいた彼らを蹂躙するのは、もはや「将棋倒し」にするようなものだった。結果は……里見軍、5,000人以上の討死。
正木、勝山、秋末といった有力武将たちが次々と戦場に散った。里見義弘は馬を失い、家来が自分の馬を譲ってようやく逃げ延びるという、ボロボロの敗走劇だ。
この大勝利の裏で、一つの切ない物語があった。北条軍の剛の者、松田康吉が敗走する里見軍を追っていると、一騎の若武者を見つけた。里見家・長九郎弘次、15歳。初陣だった。康吉は組み伏せて首を獲ろうとしたが、その顔を見て絶句した。
「……なんて、美しい子供なんだ」
まるで花のような少年の顔を見て、康吉は刀を立てることができなくなった。「逃がしてやりたい」と一瞬思ったが、周りには手柄を狙う味方が雲霞のように押し寄せている。
「他の者に無惨に殺されるくらいなら……せめて俺の手で」
康吉は涙ながらにその首を落とした。その後、彼は悟った。「こんな美しい命を奪わねばならぬこの世は、なんて虚しいんだ」。康吉はそのまま出家し、「浮世」と名乗って、亡くなった少年の菩提を弔うために山寺へ消えていった。かつての熊谷直実が平敦盛を討って出家したのと、同じ道を選んだわけだ。
戦いが終わった後、夕日に染まる高野台に立った父上・氏康は、一首の歌を詠んだ。
敵をうつ、心まゝなる高野台、夕詠してかつ浦の里
(思い通りに敵を討ったこの高野台。夕暮れの景色を眺めれば、勝浦の里まで見渡せるようだ)
里見の領地である勝浦まで見通せるという、勝利の余裕に満ちた一首だ。
……どうだい?
一度はボロ負けしても、敵の油断を突き、天の時と地の利を味方につければ、こうして「倍返し」ができる。
これが、俺たち北条家が関東で生き抜いてきた「勝ちパターン」なのさ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
三 下総高野台合戦の事
聞しはむかし。さがみ北条氏 康と安房里見義弘たゝかひあり。然に太田みのゝ守、武州岩付に有て謀叛をくはだて、義弘と一味するによつて、義弘 義高父子、下総の国へ発向し、高野台近辺に陣をはる。この高野台、ふるき文には国府台、国府代、鴻岱共書たり。今所の者にとへば、高野台と書といふ。見れば字面にあふたるたかき台也。武州江戸より北条がた遠山丹波守、富永三郎左衛門尉はせ参じ、からめきの川を前にへだてゝそなへたり。下総小金より高木治部少輔出向つてぞさゝへける。此由小田原へ告げ来るによつて、小田原の城留守居として北条 幻庵、松田尾張守、石巻下野守をかしらとし残し置き、時日(じゞつ)をうつさず氏康、氏政父子 出馬し、高野台を中にへだて相向つて陣取り。かゝりし所に、義弘夜中にこと〴〵く引しりぞく由告げ来るによつて、氏康 先手の衆、がらめきの瀬を取こし、敵は高野台を二里ほど引てそなへたり。味方は是をしらず、遠山・富永人数台へ取あがる。すでに敵、待うけたるいくさなれば、きほひかゝつてたがひに死をあらそひたゝかふ。敵がたに正木大膳ざいをふつて正先にすゝみ、惣手をみだし切てかゝる。みかたくづれ坂中にて遠山丹波守ふし、富永三郎左衛門尉、山角四郎左衛門尉、太田ゑちぜんの守、中条出羽守をはじめ百余騎うたれ敗軍す。氏政旗本二陣に有て下知して云、敵かつに乗つて長途をすぐ、是を討つべしと囲扇をあげ給へば、命は義によつて軽し、面をふらず一足もひかず、まつしぐらに責かゝる。すでに切くづし、敵を追返し、首四五十討捕り本陣に旗を立られたり。大軍の威敵を氏政はた本計にて切勝給ふ事、前代未聞の猛大将と諸卒感じたり。氏康は後陣にて此義を知給はず。氏康 諸老を召あつめていはく、遠山・富永をうたせ無念やむ事なし。時日をうつさず一戦をとぐべしと評諚とり〳〵也。氏政仰けるは、先場のたかひにみかた敵を切くづし敗北する時に至て、我郎従二人敵にまぎれ入、陣中を見て来れと遣はす所に、二人見届けかへりて申は、敵先陣のたゝかひに遠山・富永を討取る。其いきほひに高野台へこと〴〵く取あがり、諸勢入乱れ酒宴し、千秋万歳をうたひ、一手づゝに引分けて備べき覚悟もなく、かたきよせ来らん事をもわきまへず、主は従を尋ね、従者は主の所在をもしらず、軍法のてだてはかつてなく算をみだしたる体、是義弘が運の末、わざはひをまねくにあらずや。みかた急によせかくるに至ては、敵の前勢は台をおりて向ふべし、次の勢は半に立、後勢は台に残り、三所に有て前士のたゝかひを跡の士卒ら見物するより外の事有べからず。前一手は蟷螂が斧、かれを切くづすに至ては跡は猶しかならん。今度の合戦にをいても氏政前陣といへり。氏康かさねていはく、今朝辰の刻のたゝかひをかんがふるに、敵は東方に陣し、出づる日の光をかゞやかす所に、みかた西より向つて、釼光をあらそふ事、是孤虚のわきまへあらざるがゆへ、遠山・富永勝利をうしなひたるなり。然に今はや未の刻を過ぎ、東敵は入日にして、みかたの後陣に影きへぬ。時のうらなひ吉事をえたり。其上 当年は甲子なり。甲子は殷の紂がほろぼされ、武王は勝てる年也。義弘は紂に同意し、氏康は武王に比してかれを討たん。しかのみならず、先祖の吉例多し。早雲氏茂、永正元年甲子九月、武州 立河原にをいて上杉 民部太輔顕定と合戦し、討勝ちて顕定敗北す。随つて父氏綱、大永四年甲申正月十三日武州江戸にをいて上杉 修理大夫朝興と合戦し討勝て、ともおきを追討す。就中今年今月は甲子正月八日に当る。吉例なり。扨又氏綱 天文七戊十月七日、この高野台に至て小弓の御所義明と一戦討勝てよしあきらをほろぼす。はなはだもて戦の場所かはらず。いかでか先例をたのまざらん。あまつさへ孤虚支干相応する事、われに天のくみする所なり。時刻うつすべからず、無二一戦に治定す。然に台より東北は節所にて寄所悪し。諸勢を二手に分け、両旗本前陣なり。氏政軍兵を率し、台より南三里下へ打廻り、台を取まき、敵をもらさず討捕るべきてだてなり。折節露立かすみ、台へ近く取よるといへ共、敵は是をしらず。義弘下知していはく、今朝辰の刻の合戦、思ふまゝに勝利をえたり。富永・遠山は安房・上総のかつせんに何時も先陣にさゝれたる両大将を討取ければ、敵はをくれを取、前陣のそなへはさぞ引しりぞきぬらん。暁天にからめきの瀬を取こし、此いきほひにあす又一合戦し、こと〴〵く討ほろぼさん事手のうちにありと触らるゝ。日もくれかゝり、小雨そゝぎければ、すこしつかれを休めん為、よろひを脱ぎ馬に水草、明日の合戦を心がけ、今を油断するこそ運命つくる時刻到来なれ。比は永禄七年甲子正月八日、申の刻に至て、氏政軍兵近々とをしよせ、鯨波のこゑをどつとあぐる。氏康は直にせめかゝり、又鬨音を二所にあげ、おめきさけんで責かゝる。義弘案外の仕合とおどろき、台を折下つて鬨音をあはせ、両方へ分けてせめたゝかふ。鉄砲矢さけびの音、天地をひゞかし、首をとつつとられつ、血煙を出し、半時勝負も見えざりしが、つゐには義弘討まけこと〴〵く敗北す。つき臥せ切ふせきり臥、追討する事将棊だをしにことならず。敵方討死の衆、正木弾正左衛門尉父子、勝山 豊前守父子、秋末しやうげん、里見 民部少輔、同兵衛尉、正木 左近大夫、次男平六、平七、菅野神五郎、加藤左馬丞父子、長南七郎、鳥井信濃守父子、佐貫いがの守、多賀越後をはじめ、五千余騎討取たり。上総の国しゐつ、ゑのもと、とねり、わだ、此外城々、此いきほひに皆こと〴〵く城をひらき落行ぬ。此度の合戦は氏康・氏政両はたもとにて切勝たり。北条新三郎、河越よりはせ来り粉骨を尽す。同源三、同 上総守父子、氏康 末子助五郎、新太郎 若輩たりといへ共、比類なき走めぐり、諸侍の忠節あげて記しがたし。右の趣は氏康より合戦の翌日、小田原城代伯父幻庵へ一 戦始中終をかきのせつかはさる状の文言をうつし侍る者也。太田みのゝ守は二百騎斗にてはせ参じ、舎人村上をはじめ一人も残らず討たれ、太美は二ケ所手負て東をさして迯げ行ぬ。其節の落書に、よしひろく、たのむ弓矢の岩付て、
からき浮めに、太田美濃はてとぞよみたる。氏康いはく、此度の合戦に累年の宿望を達す。然に謀叛の張本人、太田美濃守を討もらす事、無念千万。義弘は討死のさた有といへ共、首いまだ来らずと件の状に記せり。然る処に義弘、馬はなれ給ひけるに、安西伊予守、馬より飛んでおり義弘をのせ、主従二人、かづさ山へぞ分わけ入たる。はなれ馬をば落人見付乗て行たり。義弘の乗馬を見て、やかた討死必定のさた有ければ、房州討もらされの侍共、主君を討たせ生きがひ有べからずと、にげ行道すがらの寺々へ尋ね寄つて、皆出家し、一人も入道せぬはなかりけり。義弘三日すぎ、かづさ山を分出、房州へ帰城し給ひぬ。氏康 高野台にはたを立て、敵をうつ、心まゝなる高野台、夕詠してかつ浦の里とよめり。合戦ことに狂歌を記し侍るは、皆是氏康・氏政 興じてよみ給へるによて、皆人覚へたり。爰に里見ゑちぜんの守忠弘の息に、長九郎 弘次とて生年十五歳、ういぢんなりしが、鴇毛の駒に乗り、ほろをかけ弓持てたゞ一騎、はるかに落行を、さがみの国の住人松田左京亮康吉、是を見て、あつぱれ大将たり、うどんげと、馬にむちうて追かけをしならべて、むずとくんで落たり。康吉 剛者成ければ物の数共せず、くみふせ首をとらんとせしが、ようがんびれいにして花のごときの少人なり。争でか刀をたてん、たすけばやと思ひけるに、みかた雲霞にはせ来て首をうばひとらんとす。力をよばず、首討おとし、さすがにたけき康吉も涙にくれて前後に迷ふ。倩思ひけるは、我かゝるうき目に逢ふ事、弓箭に携はるが故也。百年の栄耀も風前の塵、一念の発心は命後のともしびとす。をよそ三界の輪廻、四生皆是無明の眠の中の妄想の夢ぞかし。此度の仕合こそ発心の種ならめと、帰国に及ばず山寺へ入、出家し、浮世と改名し、すみ染めの衣に身をまとひ、一筋に里見長九郎弘次の跡をとふ。皆人是を見て、それ道心を発すといふは、世の中の常なきことわりを知つて名利を捨つる心よりおこる。あしたにはくれないのかほばせ有といへ共、ゆふべには白骨となる。よろづ心にまかせぬあだなる世を観ずるが故也。古今集に、世のうきめ、見へぬ山路にいらんには、思ふ人こそほだしなりけれとよみしに、家をすて妻子をすて世をのがれ山に入る康吉が心ざし感ぜり。むかし熊谷の次郎直実、あつもりを討ち穢土のならひかなしび、世をのがればやと思ひ、西国のいくさしづまり、黒谷法然上人の御弟子となり、入道連生坊と名付たり。今又康吉が弘次を討て出家遁世する事、時かはり人ことなれども、其心ざしはをなじ、やさしかりけりと人皆いへり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




