4-4 怨霊を神へと「昇華」させた江戸の街作りと、最強エンタメ「能」の秘密
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。歴史の「都市伝説」と「街作り」の裏側を深掘りする記録魔、三浦浄心だ。
今回は、今や日本の中心地となった「江戸」。この街がどうやって始まり、なぜこれほどまでに繁栄したのかというお話。
そこには、一人の「最強の怨霊」と、それを鎮めるための「神レベルのエンタメ」が深く関わっていたんだ。
江戸の守護神といえば、誰もが知る神田明神。ここに祀られているのは、あの平将門だ。将門は平安時代、東国で「新皇」を自称し、朝廷に反旗を翻したスーパー反逆児。噂によれば、彼の体は鉄でできていて、矢も刀も受け付けない「物理無効」のチートキャラだったという。
結局、英雄・藤原秀郷の放った白羽の矢が眉間に刺さって倒れるんだが、物語はここからが本番だ。
打ち取られた将門の首は京都で晒されたが、その怨念は凄まじく、夜な夜な天地が震動し、怪異が止まらなかった。
「これはマズい。怒らせたままじゃこの国が終わる……」
そう思った当時の人々は、彼を「神」として江戸の地に祀り、その心を慰めることにした。これが神田明神の始まりだ。「強すぎる敵は、神様にして味方につける」。これが日本流の危機管理術だ。
将門を討つために、京都から藤原忠文という「征夷大将軍」が派遣されたことがあった。忠文が駿河の清見関に差し掛かった時のエピソードが、また風流なんだ。忠文が海辺の美しい景色を眺めていると、同行していた軍監が唐の詩を口ずさんだ。
「漁船の火は寒く波を焼き、駅路の鈴の声は夜山を過ぎる……」
これを聞いた忠文、あまりの趣深さに思わず涙。……で、ポエムに感動して足止めを食っている間に、現地勢力の秀郷たちが将門を仕留めちゃった。「えっ、俺、将軍なのに出番なし?」と忠文は手ぶらで帰るハメになったが、その後の朝廷の会議で、ある大臣がこう言った。
「現場に着く前に終わったんだから、報酬はなしでいいよね?」
それに対して別の九条殿という大臣が、「いやいや、命令を受けて出発したんだから、その功績は認めるべきでしょ。『罰は疑わしきは罰せず、賞は疑わしきは与えよ』っていうのが王道だよ」と助け舟を出した。この「神対応」のおかげで、九条家はその後末永く栄えたという。「功績の査定は甘めに」。これが組織を長持ちさせるコツらしい。
さて、将門が神として江戸をガードし始めた後、ついに「江戸城」が歴史に登場する。最初に城を築いたのは、上杉家の敏腕マネージャー・太田道真・道灌父子だ。
道灌は「文武両道の天才」として天下に名を轟かせていたが、あまりに優秀すぎて主君の上杉定正に嫉妬され、最期は暗殺されてしまう(これが後に上杉家が没落する原因になるんだが、それはまた別の話)。
その後、主不在となった江戸城を巡って争いが続くが、大永4年(1524年)、ついに俺たちが推す北条氏綱(二代目)が動いた。氏綱公は上杉朝興を追い出し、江戸城を北条の重要拠点として再起動させたんだ。以来、氏康、氏政、氏直と四代にわたって、北条家はこの城を守り続けてきた。
北条家が江戸城に入ってから、特に力を入れたのが神田明神の「神事能」だ。神様(将門公)の宣託によれば、「俺を祀るなら、最高の「能」を見せてくれ。そうすればこの街を絶対守ってやる」とのこと。もともと「能」は、天照大御神が岩戸に隠れた時に神々が踊ったのが始まりとされる「神様向けのステージ」だ。
氏綱公は、江戸城を獲った翌年から、「中一年を空けて、3年ごとに神事能を開催する」という吉例を作った。京都からプロのパフォーマーを呼び寄せ、街を挙げての大イベントにする。これによって、神様も満足、民衆も楽しい、北条の支配力もアピールできるという、完璧な三方良しのサイクルが完成したんだ。
その後、北条が去り、徳川の時代になると江戸の繁栄は限界突破する。今や江戸は日本中から人が集まるマンモス都市だ。お城では一流の太夫が能を舞い、街中では芝口や浅草に特設 舞台が作られ、毎日どこかで勧進能が行われている。
人々は踊り狂い、「万歳楽!」と叫んで長寿を祝う。この圧倒的な活気、平和、そしてエンタメへの熱狂。すべては、あの「最強の怨霊」を神として迎え入れ、共に楽しもうとした江戸っ子たちの懐の深さと、北条家が築いた「祭りの伝統」があったからこそなんだ。
神田明神の鈴の音が響くたび、俺は思う。将門公も、きっと今のこの賑やかな江戸の街を見て、満足そうにニヤリと笑っているんじゃないかってね。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
四 神田神事能の事付江戸の城はじまる事
聞しは今、江戸神田明神の由来を、当所の古老物がたりせられしは、桓武天皇六代孫、陸奥の鎮守府前将軍従五位下、平朝臣良将次男、相馬の小次郎 将門といふ人、朱雀院御宇承平二 壬辰、東国にをいて叛逆をくわだて、伯父鎮守府の将軍良望、後のちは常陸の大椽平国香と改名す、かれを亡ぼし関八州をしたがへ、下総の国相馬の郡に京を立、百官を召仕ひ逆威をふるひ、平親王とみづから称す。身はくろかねにて矢石もたゝず、鬼神の来現したると見る人聞人、おそれざるはなかりけり。御門此よしきこしめし、下野の国の住人、俵藤太藤原秀郷は無双のつはもの、多勢の者也とて、将門が討手を仰付けられたり。又翌年参議右衛門督藤原忠文、征夷大将軍の宣旨をかうふり、節刀を給はつて、同き三年 癸巳正月十八日京都を打立、東国へ下向す。漸く駿河の国 清見関に着きぬ。忠文当浦の景風のたへなるに心をとむるとかや。是に付ておもひ出せり。鴨の長明海道路次の記に云、清身が関も過ぎうくて、しばしやすらへば、沖の石むら〳〵しほひにあらはれて煙なびきにけり。東路のおもひでとも成ぬべきわたり也。むかし朱雀院天皇の御時、将門と云 者東にて謀叛おこしたりけり。是をたいらげん為に宇治民部卿忠文をつかはしける。此関に至りてとゞまりたりけるが、清原滋藤といふ者、民部に伴ひて軍監と云つかさにて行けるが、漁船の火のかげはさむくして浪をやく、駅路の鈴の声は夜山をすぐと云唐の歌をながめければ、民部卿涙をながしけりと、聞にもあはれなりと書て、きよみがた、せきとはしらでゆく人も、心ばかりはとゞめをくらんと、長明詠ぜり。然所に忠文下らざる以前、秀郷貞盛と同意し、武略をめぐらし、同二月廿四日将門は秀郷が為に討たれぬ。又或説に、将門悪逆無道ゆへ、天より白羽の矢一筋降つて、将門がみけんに立、秀郷に誅せらるともあり。扨又延暦寺調伏の祈誓にこたへて、将門がいたゞきに神鉾あたつてほろぶともいへり。然間忠文は益なく途中より帰落す。同三月九日に将門が首都へのぼり、大路をわたし、ひだりの獄門の木にかけられたり。秀郷貞盛は上路し、勧賞にあづかり、天下にほまれをえたる所に、忠文もおなじく賞をかうふるべしと是を申に付て、小野宮殿申て云、賞のうたがはしきをばをこなはれずと云々。次に九条殿申されていはく、下着以前逆徒滅亡せしむといへども、勅定の功にしたがつてなんぞをこなはれざらんや。賞のうたがはしきはをこなはる、刑のうたがはしきはゆるすと云々。然ども先の意見に付ては沙汰なし。忠文九条殿御 恩言をよろこび、富貴の願券契状を九条殿へ送進上す。卒逝の期に至て、小野宮殿を恨みたてまつる其故にや、九条殿御家はいよ〳〵さかへ、小野宮殿の跡は絶へたると云々。然ば其後世にさとし様々有て、天地変異しやむ事なし。是将門が怨念によりてなりと、世上に沙汰しければ、さあらば神にまつり将門が心をなぐさめよとの宣旨によつて、武蔵国豊島の郡江戸神田明神にいはひ給ふ。それより天下の怪異もしづまり国土安全に、民もさかへたり。中古にもさるためしあり。後鳥羽院隠岐の国へながされ給ひて後、彼の怨念光物と成て人民をなやまし、都鄙しづかならず。かるがゆへに鎌倉雪下にをいて、後鳥羽院を新宮大権現といはひ奉りて後、天下をだやかなるとかや。それ相坂より西に霊神おほくまします。毎年 神祭あり。大和国奈良の都にをいて、聖武天皇東大寺を造立し給ひ、金銅十六丈のましやなぶつを安置し、行基菩薩を導師に請じ、供養をとげられ、供仏施仏の作善、残る所もなし。其上毎年二月六日、かすが祭の能あり。四座の猿楽あつまりて、今にたへず此能をつとむる。扨又坂より東に国おほし、在々所々にをいて神をまつる。天照太神は扨をき、鹿島の大明神を始め奉り、霊神其数あげて記しがたし。然所に能の祭は江戸神田明神に限りたり。それいかにとなれば、神田明神の御詫宣に、我 朝に能はじまる事、地神五代、あまてる御神の時、天の岩戸の前にて八百万神あそひ、朝倉返神楽歌をそうし給ひしよりこのかたはじまれり。是により能、式三番といふ事出来たり。翁太夫は天照太神、千歳暦は春日大明神、三番申雅は住吉大明神にてまします。是神代のまなびなり。わが氏子ども、いかなる祭祈祷をなすとも、能の舞楽にはしかじと有しより、毎年九月十六日に神事能あり。然る所に上杉 修理大夫藤原朝興は武蔵の国主として江戸の城にまします。大永四甲申の年、北条左京大夫氏綱、江城をせめ落し、上杉を亡し武州を治め給ふ。是によて申さるの年神事能なくして、次の年に神事能あり。是吉例なりと氏綱 仰有てより以来このかた、中一年へだて三年目ごとに神事能あり。京の八幡に暮松といふ舞楽堪能の者あり。此人下りて江戸を居住とし、三年に一度の神事能をつとめ、今にたへず。ていれば当誠の根源を或老人に尋ぬれば、翁語ていはく、文安の比、鎗倉山内に官領上杉右京亮憲忠は十州に及び受領す。其家の子に太田道真と云者、江戸をはじめて城郭をきづきぬ。子息道灌二代居城とす。然に享徳三年甲戌十二月廿七日、公方西御門成氏公、鎌倉御所にをいて憲忠を誅し給ひぬ。其後道灌は上杉修理大夫 定正の長臣。此父子は文武に名をえたる者なり。其比官領上杉 民部の太輔 顕定と定正弓矢を取て止む事なし。然る所に寄栖庵主顕定へ遣はす文に、太田 真灌ふしぎの着用をもて名を天下にあげほまれを八州にふるひ、諸家心をよせ万民かうべをうなたれ、饗をなす事。しかしながら天道のいたりか、又は其身の果報か、なに様両条に過べからずと書たり。されば真灌のあざ名、此文の外に見ず聞も伝へず。此名おぼつかなきゆへ、我老人に尋ぬれば、道真道灌父子の二名を一名に記したり。人のあらそふべき事なりと申されし。道灌 叛逆の義有て、文明十八 丙午のとし、定政のために誅せられぬ。其後此城定政主たり。定政は明応二年に逝去、子息五郎朝良、永正年中まで二代在城す。朝良卒して後、官領上杉修理大夫朝興 持てり。大永年中氏綱此城をせめ落し、再興有て居城とす。氏康、氏政、氏直まで四代守護たり。此城はじまつて名大将合九代もてり。天正年中まで北条 治部少輔、遠山左衛門 城代とす。氏直没落このかた天下大平にして、武州江城に将軍おはします。繁昌言葉にのべつくすべからず。日本国の人の集りなり。四座の太夫は諸国より毎年江戸へ上りて御城にをいて能を御覧ぜらるゝ。諸大名は家々に一座の太夫役者を扶持し、能をこたる事なし。町には西は志波口、東は浅草口、両所に舞台をたてをき、毎月毎日 勧進能有て、諸人見物し、万歳楽の遊舞に寿命延年をよろこびあへり。是ひとへに神田明神能をこのましめ給ふ御威光としられたり。誠に有難き神明の御慈悲なり。あふぐべしたつとぶべし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




