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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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4-3 民衆ファースト経営 〜 伊豆を「ホワイト企業」に変えて、国を盗った男の人心掌握術 〜

挿絵(By みてみん)


『北条五代記(ほうじょうごだいき)』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 どうも。北条家の創業者、伊勢新九郎だ。


 世間じゃ「戦国最初の下剋上」なんて言われて、冷徹なリアリストだと思われがちだが、実は俺の「国盗り」の原動力は、徹底した「民衆ファースト」にある。


 今日は、俺がどうやって伊豆一国をわずか30日で完全掌握し、ブラックな旧体制をひっくり返して「理想のホワイト国家」を作ったのか、その極意を教えてやろう。


 俺が京都から駿河に下ってきたときは、文字通り身一つ。甥の今川氏親を頼って、なんとか食客(フリーランス)としてスタートした。


 そこで俺が最初にやったのは、武功を挙げることじゃない。「地元の百姓(ファン)を増やすこと」だ。駿河の興国寺城周辺を与えられた俺は、毎年の年貢を大幅に免除した。


 部下たちは「殿、そんなに甘やかして経営大丈夫ですか?」と心配したが、俺には確信があった。


「いいか。慈悲こそが最大の投資だ。民に恩を売っておけば、いざという時に彼らは最強の味方になる」


 狙い通り、百姓たちは「こんなに優しい地頭殿は初めてだ!」「この人のためなら、後で何かあっても恩返ししたい!」と、俺にガチ恋……いや、絶大な忠誠を誓うようになったんだ。


 ある時、俺は「病気療養」という名の市場(ステルス)調査で伊豆の修禅寺温泉へ出かけた。そこで耳に入ってきたのは、伊豆を治めている上杉家の評判の悪さと、内部崩壊の噂だ。


「上杉の殿様たちは上野(群馬)で内輪揉めしてて、伊豆はスカスカ。おまけに重税で民はヘトヘト……」


 ――これ、勝てるわ。


 俺はすぐに駿河へ戻り、俺を慕う百姓たちを集めてスカウト会議を開いた。


「今、伊豆の侍たちは留守だ。俺が伊豆を獲る。お前ら、協力してくれないか? もちろん、成功報酬はたっぷり出すぞ」


 百姓たちの返事は爆速だった。


「殿のためなら、命なんて惜しくない! むしろ新九郎様を国主にしたいって、みんなで話してたんですよ! さあ、今すぐ行きましょう!」


 こうして、プロの侍だけでなく、「武装した熱狂的な百姓(ファン)」という異色の軍団が結成されたんだ。


 延徳年間の秋。俺は百姓(ファン)たちを引き連れ、夜闇に乗じて伊豆の「堀越御所(ほりごえごしょ)」を急襲した。時の権力者・足利茶々丸はパニック。反撃する暇もなく、俺の軍団は御所を焼き払い、一気に制圧した。さて、ここからが重要だ。


 「国を獲った直後のムーブ」で、その後の生存率が決まる。俺は即座に伊豆中に「高札(プレスリリース)」を立てた。


【北条ホールディングスからのお知らせ】

 伊豆の侍・百姓は全員味方として扱う。前職の知行はそのまま保証する。協力してくれるなら、一切の嫌がらせはしない。もし拒否するなら……悪いが、田畑を荒らして家を焼く。どっちがいいか選んでくれ。


 これを見た百姓たちは「話がわかるじゃん!」と続々と合流。さらに、佐藤四郎兵衛という地元の有力者が真っ先に降伏してきたのを見て、俺は「お前、一番乗りだな! 偉い!」と、即座に彼の土地を「永久保証(印判付き)」にした。


 これを見た他の侍たちも「え、北条ってめちゃくちゃホワイトじゃん!」と、わずか30日で伊豆一国が俺の傘下に入ったんだ。


 俺が伊豆を手に入れて一番にやったのは、「税制改革」だ。当時のブラックな地頭たちは、五公五民(50%)どころか、もっと無茶な取り立てをしていた。

 俺はそれを一気に「四公六民(40%)」に引き下げた。さらに、それ以外の追加課金(夫役や棟別銭など)は一切禁止。


「民は子、地頭は親だ。親が子から絞り取ってどうする?」


 これが俺の経営哲学だ。四方八方の百姓たちがこれを聞いて、「いいなぁ伊豆。俺たちの国も早く新九郎様の領地にならないかな」と噂し始めた。これが最強の「リファラル採用(他国からの寝返り)」を誘発したんだな。


 儒教の教えに「苛政は虎よりも猛し」という言葉がある。山の中で虎に家族を殺された女が、それでも山を降りない理由。それは「街に行けば虎より怖い、厳しい役人がいるから」という悲しい話だ。


 これ、戦国時代もまったく同じなんだ。信長や秀吉のような「天才」たちは、堤防が決壊したような凄まじい勢いで時代を変えたが、そのやり方は時に激しすぎた。比叡山を焼き、根来を攻め……その「激しさ」は、外敵には強いが、内の人心を疲弊させることもある。


 俺たち北条家が五代、100年も続いたのは、「ぬるま湯」のような優しさがあったからじゃない。「民と地頭が水と魚の関係になる(水魚の交わり)」という、持続可能(サステナビリティ)な組織作りを追求したからだ。


 俺だけが自慢してるわけじゃない。歴史を振り返れば、頼朝公だってそうだった。源頼朝公の懐の深さは石橋山で自分を射た滝口経俊を、その母親の必死の訴えと先祖の功績を免じて許した。


 岡崎義実の慈悲の逸話(アーカイブ)は 自分の息子を殺した仇・長尾定景が、牢内で必死に法華経を唱える姿を見て、「仏様に免じて許そう」と和解した。


 こうした「許し」と「慈悲」の積み重ねが、強固な組織を作る。自分勝手な「国替え」や「重税」に明け暮れる大名は、いざという時に民に見捨てられる。武田勝頼が滅びたとき、領民が誰も助けず、逆に追い詰めたのは、日頃の「ブラックな統治」のツケが回ったからだと言われている。


 俺は「蟷螂の斧(カマキリが斧で立ち向かうような無謀)」と言われながらも、このやり方で伊豆一国を、そして関東八州を飲み込んだ。


 武(パワー)を右に、文(インテリジェンス)を左の翼にして、俺たちの龍は天へ昇ったんだ。


 さて、北条五代の物語。俺が蒔いた「慈悲の種」が、その後どう育っていくんだろうか。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




三 北条氏茂百姓憐愍の事


聞しは昔、北条早雲入道氏茂。伊豆の国を切て取事、しなすこしかはり説(せつ)おほし。或(ある)老士(らうし)語りけるは、早雲は民(たみ)百姓をれんみんし、慈悲(じひ)ふかき故(ゆへ)に伊豆の国を治められたり。仲の伊勢新九郎氏茂は京都より唯一人するがの国へ下り、今川(いまがは)五郎 氏親をたのみ堪忍(かんにん)し給ふが、文武(ぶんぶ)の侍たるにより今川殿の縁者(えんじや)となりて、するがの高国寺(かうこくじ)辺を知行(ちぎやう)し居住(きよぢう)す。其比郎従(らうじう)二三百人程 扶持(ふち)す。此人慈悲の心ふかくして百姓をあはれみ、毎年の年貢をゆうめんせらる。是によつて百姓共、かくじひなる地頭殿にあひぬる物かなとよろこび、此君の情(なさけ)に後の用にもたつべし、あはれ世に久しくさかへ給へかしと心ざしをはこばずといふ者なし。誠に慈悲あらん人をば親踈(しんそ)をいはず親のごとく思ひ、恩(おん)あらん輩(ともがら)には貴賤(きせん)を論ぜず主従(しゆじう)の礼をいたす。是仁(じん)の道也。然に新九郎いれいとなぞらへ、伊豆の国 修禅寺(しゆぜんじ)の湯にしばらく入て伊豆の国の様子をつぶさに聞届け、伊豆の国を切てとらんと思慮(しりよ)をめぐらさるといへ共、伊豆は上杉 民部大夫(みんぶのたいふ)顕定(あきさだ)の領国、其上両上杉殿と号し、さがみ上野(かうづけ)に有て諸侍の統領(とうりやう)、奥州までも彼の下知(げち)にしたがふなれば、わたくしの計策にて及びがたし。然所に両上杉の中不和出来、諸国みだれ算(さん)を散(ち)らし合戦す。是によて伊豆のさふらひ共悉く上州へはせ参じたり。新九郎此よしを聞、願(ねが)ふに幸(さいはひ)かな、是天のあたふる所時をえたりと、百姓共をまねき、此内武の用に立べき者どもを近付(ちかづ)けていはく、さがみ・上野両国に弓矢おこつて伊豆の侍ども皆上野へ参じ、伊豆には百姓斗(ばかり)也。我伊豆の国を切て取べし。我に同心 合力(がうりよく)せよ。其忠恩(ちうおん)いかでか報ぜざらんやと申されければ、百姓共聞て累年(るいねん)の御あはれみ忘れがたし。御扶持人も我等も同意なり。あはれ地頭殿を一国の主になし申さんとこそ願ひつれ。たとへ命を捨つる共 露散(つゆちり)おしからじ、はや思ひ立給へと衆口(しゆうこう)一同に返答す。新九郎 喜悦(きえつ)なゝめならず。その上 近里(きんり)他郷(たごう)の者までも此よしを聞き、新九郎殿へ与力(よりき)せんと参集(さんじう)す。新九郎云、伊豆の国北条に堀越(ほりこし)の御所、成就院殿(じやうじゆゐんどの)と号し名高き人あり。軍(いくさ)のはじめに先是を討亡(うちほろ)ぼすべしと、延徳(えんとく)年中の秋、百姓共を引つれ夜中に北条へをしよせ、御所の舘を取きり、鯨波(とき)のこゑをどつとあげ家屋へ火をかけ焼立る。御所は肝(きも)をけし、ふせぎたゝかふべき事を忘れ火災をのがれ落行けるを追かけ、郎従共に皆討亡したり。新九郎北条に旗を立る。伊豆の国の百姓ども是を見て、するがの大将軍として伊勢新九郎働くぞと山嶺(みね)をさしてにげ行たり。然に新九郎高札(かうさつ)を立る。其こと葉にいはく、伊豆の国中の侍百姓、皆もつて味方に候すべし。本知行(ほんちぎやう)相違有べからず。若もし出ざるにをいては作毛(さくもう)をこと〴〵くちらし、在家(ざいけ)を放火すべしと、在々所々に立をきたり。是を見て百姓共我先にとはせ来て、是はそんじよう其所の百姓又は郷のおさといへば、其所相違なしと印判(ゐんばん)をとらせ皆々安堵(あんど)せり。扨又佐藤四郎兵衛といふ侍一人、降人(かうにん)と成て出る。新九郎いはく、伊豆国中田方(たかた)の郡(こほり)大みのえは佐藤四郎兵衛先祖の相伝(さうでん)也。然に最前に身方に候するの条神妙(しんびよう)なり。此度あらためて地頭職(ぢとうしよく)にふせらる。子々孫々 永代(えいたい)他のさまたげ有べからず。百姓等承知すべし。あへて違失(ゐしつ)有べからずと印判を出す。上州へ参じたる伊豆の侍共、此由を聞急ぎはせかへつて降人と成て出る。本地皆 領納(りようなう)すべき旨印判を出されければ、一人も残らず伊豆の侍新九郎 被官(ひくわん)に候す。三十日の中に伊豆一国治(おさ)まりぬ。新九郎 収納(しゆなう)する所は御所の知行一つか有計ばかりを台所領に納め、みな本の侍領知す。其上新九郎高札を立る。前々の侍年貢過分の故百姓つかるゝ由聞及びぬ。以来は年貢五ツ取所をば一ツゆるし四ツ地頭おさむべし。此此外一銭にあたる義なり共 公役(こうやく)かけべからず。もし法度を背くともがらあらば百姓等申出べし。地頭職を取はなさるべき者也と云々。是によて百姓共よろこぶこと限りなし。他国の百姓此由を聞き、おはれ義等が国も稍九郎殿の国になるばやとねがふと云々。早雲(さううん)諸侍(しよさふらひ)をいさめていはく、国主(こくしゆ)の為に民(たみ)は子也。民の為には地頭(ぢたう)は親なり。是わたくしにあらず、往昔(わうじやく)より定(さだ)まれる道也。いかでか憐(あはれ)みをたれざらん。世澆末(げうまつ)にをよび、武欲(ぶよく)ふかくして百姓年中の耕作(かうさく)を検地(けんち)し、四ツもなき所をば五ツ有といひかけて取る。此此外夫銭(ぶせん)棟別(むねべつ)野山(やさん)の役(やく)をかけ、あらゆる程の物を押て取、分際(ぶんざい)に過(す)ぎたる振舞をなし、花麗(くわれい)に心をつくし、米穀(べいこく)を徒(いたづら)についやす故に、百姓苦しみ餓死(がし)に及ぶ。是によて早雲は定(さかむ)る所、年中収納(しうなう)する穀物の外に一銭にあたる義なり共、百姓にいひかけすべからず。諸役(しよやく)宥免(ゆうめん)せしむるにをいては、地頭と百姓和合(わがう)し、水魚(すゐぎよ)の思ひをなすべし。早雲守護(しゆご)する国の百姓、前世(ぜんせ)の因縁(ゐんえん)なくして生(う)まれあひがたし。ねがはくは民ゆたかにあれかしと申されければ、民家(みんか)聞て此君の時代永久(ゑいきう)にあれかしと仏神へきせいし、喜悦の外他なしと云々。其後新九郎、さがみ小田原大森筑前守(おほもりちくぜんのかみ)居城(きよじやう)をのつ取、三浦介陸奥守(むつのかみ)義同(よしあつ)、法名(ほうみやう)道寸(だうすん)かれを亡(ほろぼ)し、さがみを治(おさ)めても伊豆のごとくの掟(おきて)なれば、百姓よろこびあへり。此新九郎文武の侍、慈悲の政道を専(もつぱら)とし、はかりごとを旨(むね)とする故、国家(こくか)けんごにおさまりぬ。孟子(まうし)に鎡基(しき)ありといへ共時を待にはしかじと云々。君子のまつりごとは民をやしなふを本とす。早雲伊豆の国に望をかくるは、蟷螂(たうらう)が斧(をの)といへ共、能(よ)く時を待て一国を切て収(をさ)め、諸侍民百姓をなびかす事、智謀(ちぼう)故也。去程に小敵といへどもあなどらず、勝軍(かちいくさ)にほこらず、昼夜(ちうや)をむなしくせずして大功(たいこう)のみ心にかけ、武を右に文を左のつばさとし、千里をかけんとほつす。故に武勇(ぶゆう)さかんにして、飛龍(ひりう)の天にかけるにことならず。早雲 子息(しそく)氏綱(うぢつな)時代に至ても父の掟に相替(あひかは)らず、氏康(うぢやす)時代も猶しかなり。氏康河越(かはごえ)一戦に討勝(うちか)ち、公方(くばう)晴氏(はるうぢ)官領上杉 憲政(のりまさ)を追出(ついしゆつ)し、河越にはたを立、猛勢(まうせい)をふるひしかば、武蔵(むさし)・上野(かうづけ)・下野(しもつけ)の侍共こと〴〵く降人(かうにん)と成て氏康旗下(はたもと)に候(かう)す。其後公方は配所(はいしよ)へうつり流罪(るざい)せられ、上杉は越後へにげゆき景虎(かげとら)をたのみ帰国を一度とねがふによつて、関東侍氏康 被官(ひくわん)に属(しよく)すといへ共、其中に一人 野心(やしん)をさしはさみ文をめぐらせば、皆それに一同し、或時は景虎を大将軍とし、或時は信玄(しんげん)に一味し小田原へ働くといへ共、国中へをし入たるを一身の手柄(てがら)におもひ、一時もさゝへずして両将我国へ引て入る。其節に至て氏康かれらを討亡(うちほろぼ)さんため出陣(しゆつぢん)すれば、彼の関東侍 先非(せんび)を悔ひ、手をつかね偏(ひとへ)に降参す。皆もつて罪をゆるし、却(かへ)つて芳情(はうせい)をくはへらるゝ。其後四方に敵有てたゝかふといへ共、数度の厚恩(こうをん)を忘れざるが故、一度も変ぜず、氏政(まさ)氏直(うぢなを)まで主君にあふぎ、永久に関八州を治められたり。然ば頼朝(よりとも)公ぬしの手柄(てがら)をもつて六十六ケ国を切て取給ひけれ共、国を所領(しよりやう)する事 私意(しい)にはかりがたくや。勅定(ちよくぢやう)をうけ五十八ケ国をば忠臣(ちうしん)等らにさきあたへ、頼朝は東八ケ国を収納(しうなう)し給ひぬ。京都へ申上らるゝ其詞(ことば)に云、東八ケ国の分は頼朝が知行(ちぎやう)仕候。是をば別紙(べつし)に注(しる)しのせ下さるべく候。閑院(かんゐん)の御修理(しゆり)といひ、六条殿の経営(けいゑい)といひ、朝家(てうか)の御大事(だいじ)といひ、御所中の雑事(ざうじ)と云、何ケ度も頼朝こそ勤仕(きんし)すべき事にて候へば、愚力(ぐりき)の及びけん程は奔走(ほんそう)せしめべく候と、東(あづま)かゞみ九の巻に記(しる)し見へたれば、日本国領知(りやうち)おほしといへ共中にも東八ケ国は弓矢(ゆみや)をつかさどる名誉(めいよ)の武国(ぶこく)也。然るを北条 氏康(うぢやす)東八ケ国を静謐(せいひつ)に治(おさ)めしは希代(きたい)の武家(ぶけ)なりといへば、若(わか)き衆聞て、北条家の弓矢は大様(たいよう)にしてはげしき事なし。管子(くわんし)が云、儒弱(だじやく)の君は内の乱をまぬかれずと云々。軍法(ぐんぱふ)をやはらかにぬるくをこなへば内の男女(なんによ)の間より見だれ、国に逆臣(ぎやくしん)出来す。y関東侍一同し景虎(かげとら)にくみする以後、縦(たと)ひ降参(かうさん)すといふとも其節の張本(ちやうほん)人せめてひとり討果(うちはた)すに至ては、重ねて信玄(しんげん)に一味すべからず。一悪罸(あくばつ)すれば衆悪(しゆあく)おそるゝならひ也。昔北条家の弓矢はぬるく池のたまり水ながるゝがごとし。近代 信長(のぶなが)秀吉(ひでよし)などの弓矢は堤きれて大水をながすにことならず、いさぎよく凉しといふ。老士(らうし)聞て、をろかなる若殿原達(わかとのばらたち)のいひ事かな。それ国を治(おさ)むる君子(くんし)の心、古今かはるべからず。氏康諸侍の科(とが)をなだめられたるは是はかりごと也。氏康は大功(たいこう)をおもひ関八州をおさめん智略(ちりやく)有により、はたして関東諸侍こと〴〵く旗下(はたした)に属す。荀子(じゆんし)にいはく、川淵(せんえん)ふかふして魚鼈(ぎよべつ)帰(き)す。山林(さんりん)茂(も)して鳥獣(てうじう)帰す。刑政(けいせい)平(たひら)かにして百姓帰すと云々。大将の道は善(ぜん)を賞(しやう)する事は厚(あつ)く、悪(あく)を咎(とが)むる事は薄(うす)し。よろづ申付ても心おほやけに慈愛(じあい)あれば、上下の心おなじくして背(そむ)かざるをたいらかなりといへり。又古語に云、君臣一体なれば政(まつりごと)おさまる。君民一心なれば国家(こくか)おさまると、先哲(せんてつ)も申されしなり。ひとり思はゞそのかひもなしと云前句に、なべて世はめぐむ心におさまりてと兼裁(けんざい)といへる連歌師(れんがし)付たりしも、今爰におもひ出けり。然に治承(ちせう)四年の比、頼朝公伊豆の国にをいて義兵(ぎへい)をあげ、相模(さがみ)の国石橋(いしばし)山の合戦に討(う)ちまけ安房(あは)の国へ落行給ふといへ共、かづさ、下総(しもふさ)、武蔵の侍味方に候す。頼朝相模 鎗倉(かまくら)へ打入給ひて後、石橋山にて源氏へ弓を引者共、或はからめ、或は降人と成て出る者おほし。大かた罪をゆるさるゝ。中にも其節の張本人科もなき者共をば諸侍に預けをかるゝ。大庭(おほば)の三郎 景親(かげちか)をば上総(かづさ)の介 広常(ひろつね)に預けらる。長尾(ながを)新五郎 為景(ためかげ)は岡崎(をかざき)四郎義実(よしざね)にあづけらる。おなじき新六定宗(さだむね)は三浦介 義澄(よしずみ)に預けらる。河村(かはむら)三郎 義秀(よしひで)は景義(かげよし)に預け、滝口(たきぐち)の三郎 経俊(つねよし)は土肥(どひ)次郎 実平(さねひら)に取預け置き、後ざんさいせらるゝ。爰に山内の滝口三郎経俊を誅(ちう)せらるべきよし其沙汰有。滝口が老母(らうぼ)の尼(あま)此よしを聞、子の命を助(たす)けんがため頼朝公の御前に参上し、直に申ていはく、資通(すけみち)入道八幡殿につかへてより以来このかた、代々忠功(ちうこう)を源家につくす事あげてかぞふべからず。中に付て俊通(としみち)、平治(へいぢ)の戦場を望(のぞ)んで六条河原にかばねをさらし畢(をは)んぬ。然るに経俊大庭三郎景親にくみせしむるの条其科あまりありといへども、是一旦平家の後聞(こうぶん)をはゞかる所也。をよそ軍陣を石橋辺に張るの者おほく恩赦(をんしや)に預かる乎。経俊も又なんぞ先祖の功に宥(ゆう)ぜられざるものをや。頼朝御旨なし。土肥の次郎実平をめされ、預けをく所のよろひを参らすべきの由仰らる。実平是を持参し、ひつのふたをひらき是を取出し老母の尼が前にをき、是石橋合戦の日君のめされたる御よろひ、経俊が矢此御よろひの袖に立所也。件の矢の口巻(くちまき)の上に滝口三郎藤原経俊と注(しる)す。此字のきはより箟(ゐ)を切て御よろひの袖に立たてながら今に是を置かるゝはなはだもつていちじるしき者也。よつて頼朝公直に是をよみ聞かしめ給ふ。尼かさねて子細を申にあたはず、双涙(さうるい)を拭(のご)ひ退出(たいしゆつ)す。兼て後事(こうじ)をかゞみ給ふによつて此矢を残さるゝと云々。経俊が罪科にをいては刑法にのがれがたしといへ共、老母の悲歎(ひたん)に宥し先祖の忠功をしたひて忽(たちま)ち凶罪(けうざい)をなだめらるゝと云々。上にかく慈悲有故、下万士(ばんし)も又しか也。件の石橋合戦にをいて真田(さなだ)の与市義忠うつとられぬ。是は頼朝公義兵をあげらるゝ最前に御味方になる忠の者也。頼朝公なげきおぼしめす事きはまりなし。其後長尾新六定景(さだかげ)をからめ来る。此者与市を討取たり。頼朝公此者を御前に召よせ御覧有て、数月の欝望(うつまう)散じたり。せめてかれを害(がい)し与一の恩を報(ほう)ずべし。おなじくは父岡崎四郎義実に遣はされ是を誅すべき旨仰らる。義実は本より慈悲を専とする者也。よて誅するにあたはず、囚人(めしうど)として日を送る所に、定景法花経(ほけきやう)を持(じ)して毎日 転読(てんどく)してあへてをこたらず。然に義実 武衛(ぶゑい)へ申て云、定景は愚息敵たるの間 誅戮(ちうりく)をくはへずんば欝陶(うつらう)をさんじかたしといへ共、法花の持者として読誦(どくじゆ)の声をきく毎ごとに怨念(をんねん)やうやく尽畢(つきをは)んぬ。若(も)し是を誅せられば却て義忠が冥途(めいど)のあだたるべきか。是を申なだめんとほつすと。ていれば仰にいはく、義実が欝をやすめんが為に下し給はり畢ぬ。法花経にゆうじ奉るの条尤(もつと)も同心なり。はやく請(しやう)によるべき者と、すなはち免許(めんきよ)すと云々。早雲まつりごとよければ士も民もおもひよりて北条家へ帰服(きふく)す。然に我物おぼしてより近き年迄関八州の国主(こくしゆ)其下々の侍までのおもはく、我 領納(りやうなう)する一 所懸命(しよけんめい)の地はそのかみ八幡殿よりゆづりつたはりて子々孫々まで我所領、我百姓なれば民ゆたかにさかふるやうにとあはれみをたれ政道なせるは唯親が子を愛するがごとし。又百姓も我地頭殿はおやおうぢよりつたはり孫ひこやしや子の末までもはなれぬ地頭なれば永久に栄おはしませと神仏へいのり、子がおやをおもふごとし。是に付て思ひ出せり。永正(えいしやう)七年上杉 顕定(あきさだ)と越後(ゑちご)の長尾太郎為景(ながをたらうためかげ)と鉾楯有て為景たゝかひに討まけ越中(ゑつちう)西浜まで敗北し、顕定武威をふるふといへば百姓地頭をおもふが故一揆(き)おこつて顕定滅亡し、為景本国に帰る。是百姓と地頭一味の故なり。今の時代国郡を持侍は来年にも国がへやあらん。今年の年貢をば妻子をうらせても残なく取はらはんと百姓の妻子を籠(ろう)にいれ水に入て呵責(かしやく)す。又百姓はことしにも国がへあれかし、別の地頭にあひなばよも是程からき目にはあはじ物をと、明暮のろひごとして仏神へいのる。是身にそふかたきならずや。いかでかつゝしみなからん。天正十年の春、信長(のぶなが)甲州(かうしう)へ発向の風聞あり。甲州の百姓共此よしを聞、累年信玄(しんげん)勝頼(かつより)に非道(ひだう)の年貢を責とられ其外非分の法度にあひつるを、此度取返し其報を知(し)らせんとのゝしりあへりければ、信長のはたさきもいまだ見へねども百姓共のいきほひにをそれ、勝頼も郎従等も我先にと東西南北へにげゆき、勝頼つゐには天目山(てんもくざん)の郷人(がうにん)に害せられ給ひぬ。是百姓と地頭 別心(べつしん)の故にあらずや。それ苛政(かせい)といふはからきまつりごと、上のきびしき事也。孔子(こうし)門人(もんじん)を引具(ぐ)し道を過ぎ給ふに、或山中に老女の子を一人かゝへ泣居たり。孔子なにゆへに爰にて泣くぞと問ひければ、答て云、我夫(をつと)を虎にくらはれぬ、子一人もくらはれぬ、又けふあす此子も我もくらはれん事の悲さに是を愁(うれ)へてなくといふ。孔子のたまはく、さらばなど家にはかへらざる。女答て家には苛政ありといふ。孔子是を聞て子路(しろ)と云者をめして、苛政は虎よりはげしといふ事を記させて帰り給ひぬ。誠に上のきびしくからきは虎よりつらかりけるにや。家語(けご)と云文は孔氏一生涯の事をあつめたる物なり。其内に此事もありと云々。はげしき心虎はものかはと云前句に、きくもうしさもからき世のまつりごとと宗祇(そうぎ)付たり。康誥に赤子(せきし)をあひするがごとし、心誠に是を求(もと)むれば遠からずと云々。君は民のこのむ所、にくむ所をよく知て民をおさむるが肝要(かんよう)也。君として民をめぐむ所をおしひろぐる時は大小高下(かうげ)不同あれ共、真実(しんじつ)の道理は不同なし。君は民を思ふ事子のごとくすれば、民は君を父母(ふぼ)のごとくおもふ。然る時は大事にのぞめども君を捨る民なく、君にそむく臣なし。慈悲の政道には国家大平なるべし。むかしを聞て今をおもふに、君子の守る所の道はかはらず。管子が云、猛毅(まうき)の君は外の難をまぬかれずと云々。たけくあらき君には臣おそれしたしまず、法度きつき君には遠国(をんごく)したがはず。いにしへより今に至るまで誰かしかならん。北条早雲入道は仁義を専とし政道ただしく民をなで、あはれみふかし。其子々孫々に至るまで其法をまなぶ故、法をもちゆるは是家のさかふる道なり。故に幸慶(かうけい)たちまちに純熟(じゆんじゆく)して関八州を永久におさめ、世に秀でたる武家なりと申されし。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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