4-2 武器のメタ変遷 〜 古参兵が語る“リーチこそ正義”の武器論 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。戦国時代の装備のトレンドを追いかける、三浦浄心だ。「武器の長さ(リーチ)」は常に議論の的になるよな。今回は、北条家五代目の北条氏直の時代に大流行した、ある「クセの強い武器」を巡る、新旧世代のバトルをお届けしよう。
キーワードは、「長柄刀」。刀の柄(持ち手)をめちゃくちゃ長くした、いわば「ハイブリッド武器」だ。
北条氏直の時代、関東の武士たちの間では、刀の柄を極端に長く作り、腕抜きを付けて、柄の部分でも人を殴ったり斬ったりできるような「長柄刀」が空前のブームだった。
ところが、時代が少し流れると(慶長年間あたり)、トレンドは「かぎ鑓」にシフトした。これは鑓の先に十字のフック(鍵)をつけた、これまたリーチ重視の装備だ。
今の若者たちは、昔の長柄刀の絵あるいは現物を見て、こう笑う。
「うわ、何これ。柄が長すぎて、差して歩くとき目や鼻に当たりそうじゃん。超ダサいし、使いにくそう(笑)」
……まあ、確かに「UI」としては最悪に見えるかもしれない。だが、そこで黙っていないのが、その時代を生き抜いてきた古参兵老士だ。
老士は若者たちの嘲笑を聞いて、静かに、だが鋭く切り出した。
「おいおい、若いの。そう安易に昔の装備をディスるもんじゃない。どんな時代の変化にも、得と失があるんだ」
老士の言い分をまとめると、こうだ。
「かぎ鑓」の弱点:
確かにお前らが使っている「かぎ鑓」はリーチも長くてフックも便利だ。だが、考えてみろ。戦場はいつも平地とは限らない。藪の中、笹原、葦原、深い森。 そんな障害物だらけのステージでその長いフック付きの鑓を振り回してみろ。速攻で枝に引っかかって「ゴミ捨て場行き」確定だ。
「長柄刀」の合理性:
長柄刀は、刀の「取り回し」と長刀の「リーチ」の中間を狙った究極のハイブリッドなんだ。
刀じゃ短すぎる。長刀じゃ長すぎて扱いが難しい。その「ちょうどいい中間の使い勝手」を、腰に差したまま持ち歩けるようにしたのが、この長柄刀の「徳」なんだよ。
そもそも、この兵法や武器の使い方はどこから来たのか。老士は語る。「それは、武家の守護神・鹿島大明神が認めたスキルなんだ」
鹿島神宮といえば、神功皇后が三韓征伐の前に軍議を開いたとされる、「軍事」の聖地。あの源頼朝公もガチ勢の信者だった。
頼朝が木曽義仲や平家を倒そうとしていたとき、鹿島の神職から「明神様が雲に乗って、西国へ義仲退治の加勢に行かれました!」と速報が入った。実際、その直後に義仲は討たれ、平家は滅亡。頼朝は「やっぱり鹿島様の加勢、神すぎる……」と、いっそう信仰を深めたという。
そんな「武の神」の意志を現代に伝えたのが、鹿島の住人・飯篠家直。彼こそが、中世兵法の「元祖」だ。
そして、この「長柄刀」を世に広めたのが、林崎甚助や田宮平兵衛といった、伝説の剣客たちだ。
田宮平兵衛は、神から授かった秘術として「長柄」を使いこなし、諸国を修行して歩いた。彼の哲学はこうだ。
「柄に8寸の徳、見越しに3寸の利あり」
(持ち手を8寸長くし、間合いを3寸広げる。それだけで戦闘力は大幅に上がる)
「勝つ事は一寸にあり」
(勝敗を分けるのは、わずか1寸のリーチの差だ。扱える範囲で、武器は長ければ長いほどいい)
老士は締めくくる。
「確かに、腰に差しているときに目や鼻に当たりそうなのは、ちょっとした『失』だ。だがな、『敵を殺して、自分が生き残る』という究極の『得』に比べれば、そんなの些細なことだろ?」
俺たちは、新しいツールや流行に飛びつくとき、「古いやり方」を笑いがちだ。でも、その古いやり方が「なぜそうなっていたのか」を深掘りすると、案外、本質的な「生き残り戦略」が隠れているものだ。
今の時代、かぎ鑓を自慢する奴も多いが、俺はあの不格好な長柄刀を差して戦場を駆けた親父たちの背中、嫌いじゃない。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 関東長柄刀の事付かぎ鑓の事
見しは昔。関東北条 氏直時代まで、長柄刀とて人毎に刀の柄をながくこしらへ、うでぬきをうて、つかにて人をきるべく体をなせり。当世はかぎ鑓とて、くろがねを長くのべ、かぎをして鑓の柄に十文字に入、其先に小じるしを付、柄にて人をつくべき威風をなし給ふ。物すきも時代によりて替ると見えたりといへば、人聞て其むかしの長柄刀、当世さす人あらば目はなのさきにさしつかへ、見ぐるしくもおかしくもあらめとわらひ給ふ所に、昔関東にてわかき輩みな長柄刀をさしたりし老士の有けるが、此よしを聞、耳にやかゝりけん、申されけるは、いかにや若きかた〳〵、さのみむかしをわらひ給ひぞ。古今となれ共、其心ざしはおなじ、得のみ有て失なく、失のみ有て得なき事有べからずと先賢のつくれる内外の文にも見えたり。それ人をそしりては我身の失をかへり見る、是人を鏡とすと云々。それ鎌鑓はむかしより用ゆ。此鎌にも失あれ共、四寸のまがり身の楯となる。深きをかしこき人たくみ出せり。片鎌にさへ利あり、十 文字に猶益有とて後出来ぬ。当代の人、十文字もみじかきとて、かぎ鑓と名付て用ひ給ふ。是長きを益とせざるや。され共是にも失有べし。たゝかひは所をきらはず、藪せこ、篠原、あし原、森林に入て此かぎ鑓捨つるより外の事有まじ。然ども古語に、我うけぬ事には得の有をかんがへて、あながちにそしるべからず、是 達人の心也といへるなれば、是をとがめて益なし。それ兵法のおこりを尋ぬるに、唐国にては孫子呉子、日本にては鹿島大明神つかひはじめ給ふゆへに、兵法とうぜんに有といひ伝へり。鹿島は武家護持の神にてまします。それをいかにと申に、むかし神功皇后新羅をしたがへ給はんと思食立、軍評定のため日本国中大小の神祇、冥道をこと〴〵く勅諚にしたがつて常陸の国鹿島に来給ひ評定有て後、三韓をしたがへ給ふ事、古記に見えたり。扨又右大将 頼朝公、別して鹿島を信仰候ひし。其比 木曽よしなか、寿水三年 甲辰正月十日 征夷将軍に任ず。然共京都にをいて逆威をほしいまゝにふるひしかば、是を退治の為 蒲冠者のりより、九郎 判官よしつね両大将として京都へさしむかはしめ給ふ所に、おなじき正月十九日、鹿島の明神は義仲ならびに平家ついばつの為京都におもむき給ふと其御つげ有と鹿島の禰宜、かまくらへ使者を立る。同廿日の戌の刻、鹿島の御殿しんどうし、明神は雲に乗じ西国に渡り給ふを諸人の目に見えつる由。頼朝も聞召し誠に有難くおぼしめす所に、同廿一日に義仲を討取り、其後平氏をたいらげ給ふ事、ひとへに鹿島の神力なりと、頼朝公いよ〳〵信仰有しと、ふるき文にくはしく見えたり。鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰かあふがざらん。然にかしまの住人、飯篠山城守 家直、兵法のじゆつを伝へしよりこのかた、世上にひろまりぬ。此人 中古の開山也。さて又長柄刀のはじまる子細は、明神 老翁に現じ、長柄の益有を林崎かん介 勝吉と云人に伝へ給ふゆへに、かつよし長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛 成政という者に是を伝ふる。成政長柄刀をさし、諸国兵法 修行し、柄に八寸の徳、みこしに三寸の利、其外神妙秘術を伝へしより以後このかた、長柄刀を皆人さし給へり。然に成政が兵法第一の神秘奥義といはく、手に叶ひなばいか程も長きを用ひべし、勝つ事一寸にして伝へたり。其上文選に、末大なればかならず折れ、尾大なればうごかしがたしと云々。若し又かたき長きを用ゆるときんば、大敵をばあざむき、小敵をばおそれよと云をきし、光武のいさめを用ゆべしと云り。むかしの武士も長きに益有にや、太刀をはき給へり。長刀は古今用ひ来れり。扨又長柄の益といはく、太刀はみじかし、長刀は長過ぎたりとて、是中を取たる益なり。又刀・太刀・長刀を略して一 腰につゝめ、常にさしたるに徳有べし。それ関東の長柄刀、めはなのさきのさし合はすこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは大益なるべし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




