4-1 四面楚歌の経営学 〜 関東最強の「維持(サステナブル)」大名・氏政と、規律が生んだ逆転劇 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。北条家四代目の北条氏政だ。
早雲がベンチャーを立ち上げ、氏綱が基盤を固め、先代・氏康が関東を制覇した。じゃあ、俺の仕事は何か?
それは、この巨大な「北条ブランド」を維持し、さらに盤石にすることだ。だが、これがなかなかのハードモードだったんだ。なんせ、俺の代は東西南北すべてが「ガチ勢」の敵ばかり。
北に佐竹義重、南に里見義弘、東(越後)に上杉謙信、そして西に武田信玄。「四天王に囲まれた中ボス」みたいな状況で、俺がいかにしてこの100年北条家を守り抜いたか、その「組織マネジメント」の極意を語ってやろう。
俺の代で徹底したのは、「個人の高名より、組織の勝利」だ。戦場での軍法は絶対。どんなに強かろうが、俺の下知なしに勝手に突っ込む奴は、たとえ手柄を立てても処罰対象だ。
なぜかって? 組織がバラバラになったら、信玄や謙信みたいなモンスターには勝てないからだ。ここで、歴史オタクなら知っている畠山重忠の話をしよう。
頼朝公が奥州を攻めたとき、先陣を任された重忠の陣を、7人の若手武士がこっそり追い越して一番乗りを狙ったことがあった。重忠の部下は「ルール違反だ! 訴えましょう!」と怒ったが、重忠はこう言った。
「いや、いいんだ。俺が先陣を任されている以上、彼らが勝てばそれは俺の手柄でもある。みんなで恩賞を分け合えばいいじゃないか」
……重忠は「武士の鑑」なんて言われてるけど、俺に言わせれば、今の時代にそんな「なあなあ」な管理じゃ組織は持たない。うちの侍の大石平次兵衛が詠んだ歌に、こんなのがある。
「樊噲のような最強の武者を集めても、命令に従わないなら餓鬼以下だ」
俺はこの歌に感動して、彼に足軽100人を預けて大将に抜擢した。「下知に従う者が、真のプロフェッショナルである」。これが北条の家訓だ。
規律を破るとどうなるか。その最悪のケースが「第二次国府台の戦い」だった。
永禄7年、宿敵・里見義弘と対峙したときのことだ。前線にいた遠山丹波守と富永三郎左衛門の二人が、敵が夜中に撤退したという報告を聞いて、功を焦って勝手に追撃を開始した。
「今行けば、一番手柄だ!」と思ったんだろう。だが、それは里見の罠だった。待ち伏せに遭った二人は、あっけなく討死。前衛部隊はパニックを起こして、俺のいる本陣まで崩れかかってきた。
だが、ここからが北条氏政の本領発揮だ。俺は冷静に団扇を上げ、乱れる兵たちを制止した。
「落ち着け。敵は勝って調子に乗っているが、長距離を走って疲れている。今こそ、一糸乱れぬ本陣の力を見せてやれ!」
太鼓の音に合わせて、しずしずと、だが圧倒的な圧力で進軍。結果、一日のうちに二度の激戦を制し、里見軍5000人を撃破。下総と上総を完全に掌握したんだ。
「熱くなった奴から負ける」。これはいつの時代も変わらない真理だな。
俺の成功を支えてくれたのは、代々仕えてくれた譜代の家臣たちだ。この『北条五代記』を書いている三浦浄心の親父さん、三浦茂信もその一人だ。彼は国府台の戦いでも先陣で首を取り、冬の海戦でも武田の船団を追い回す大活躍を見せた。
俺は彼のような「現場で結果を出すプロ」には、感謝状だけでなく、土地や金銀、さらには俺の私物までバンバン出して報いた。「北条で働けば報われる」。この信頼関係こそが、四方を敵に囲まれても裏切り者が出なかった理由だ。
……まあ、俺のことを「ただの堅物」だと思っているかもしれないが、実は風流なことも好きなんだ。自分で言うことじゃないが書道や歌が得意だ。天正15年の春には、こんな歌を詠んだ。
「いくはるをちぎりをきたるすみよしの はままつかえのみさほなるらん」
(幾春もの月日を、変わらぬ松の緑のように、この国と契約を交わしてきた。これからも、この平和が続きますように)
自筆で書いたこの歌の横に「てにをは、間違ってないかな?」なんて、ちょっと弱気な添え書きをしたのも、今となってはいい思い出だ。
天正18年(1590年)。時代の波は、ついに俺たちの想像を超えた。豊臣秀吉、50万の軍勢。小田原城に籠城し、俺たちは最後まで抗った。だが、時代の「仕様変更」には勝てなかった。
7月11日。俺は責任を取って切腹することを決めた。生涯の最後に詠んだ歌がこれだ。
「ふきとふく風なうらみぞ花のはる もみぢの残る秋あらばこそ」
(吹く風を恨んではいけない。春に咲く花があれば、秋に散る紅葉もある。それが世の理なのだから)
享年53歳。「汁かけ飯の話」とか、後世では色々言われてるみたいだが(笑)、俺は俺なりに、この関東という巨大な組織を、必死に守り抜いたつもりだ。
北条五代、100年の歴史。俺の代で大きな花を咲かせ、そして美しく散った。さて、俺の人生の締めくくりはどうだったかな?
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
一 北条氏政東西南北と戦の事
見しは昔。北条氏政は関八州に武威をふるひ、をそれざる敵なし。りんごくみな敵たるにより、諸国のさかひめに城有て、日夜朝暮に戦ひあり。然に東西南北の敵、氏政に年来遺恨有により、終に和平の義なし。其 意趣は、房州里見義弘は前代より安房かづきの国司たり。先年北条 氏康、かづさの国を切つてとる。佐竹義重はいにしへより相つたはり、ひたちの国の押領使たり。天文年中に氏康に半国切つてとられぬ。ゑちごの平の景虎は、上杉憲政武州河越にをいて氏康と合戦し、憲政うちまけゑちごへ落行き、景虎をたのみ其上上杉の家を譲次ぐによつて也。武田信玄は甲斐するが両国の主たりといへ共、長久保、いつみがしら、とくら、しし浜此四ケ城はするがの国中に有て、氏政持国也。信玄するが一国にきずを付る事口をしきと矢じりをかむが故也。然に氏政四方八方の敵と数年たゝかひ、他国のかたはしを切つて取、城をおほくせめおとすといへ共、氏政 領国に至つてつゐに一城も敵にせめ落されたる証跡なし。関東に出生して今四十歳五十歳の人々は、其時節の合戦 淵底存義也。氏政 武略智謀の大将とは、爰をもつて後世の人も察し申さるゝ義也。古頼朝公、尊氏公永久に世をおさめ家督さうぞくすといへ共、其内にもさゝはる義ありて、嫡々は家をつぎ給はずと聞えたり。北条家は五代つゝがなく嫡子家をつぎ来り、百余ケ年関八州を静謐におさめ、希代の武家なり。氏政かねて軍法に、東西南北の敵に向つて出馬するに至つては、其敵国近隣のさふらひ大将、何時も前陣たるべし。味方の先陣 戦場にのぞんで勝つとも負くる共、下知なくして他のそなへを散らすべからず。たとひぬきんで高名せしむといふ共、法度をそむくの上は誅罸すべき者也と云々。老士有しが此旨を感じ申されけるは、かくのごときの法度なくむば、誰か前登の心がけなからん。しからば軍陣入乱、散在し、軍法兵略も定まりがたかるべし。さればむかし頼朝公奥州泰衡退治として、文治五年七月十九日かまくらを打立ち発向し給ふ処に、国衡大将軍として数万騎を率し、大木戸に陣取、伊達郡あづかし由を前にへだてゝたゝかふ。頼朝公八月九日夜に入、明且にあづかし山の合戦をすぐべきよし相定めらるゝ。先陣は畠山次郎重忠(しげたゞ)なり。爰に三浦平太 義村、葛西の三郎 清重、工藤小次郎行光、同三郎 祐光、狩野五郎 親光、ふぢさわの次郎 清近、かはむらの鶴丸(年十三)、以上七騎ひそかに畠山次郎が陣をはせ過ぐる。此山を越え前登にすゝまんとす。是明けの後大軍と同時にけんそをしのぐ故也。重忠が郎従なりきよ、此事をうかゞひえて主人にいさめていはく、今度の合戦に先陣を承る事、抜群の眉目也。然るに傍輩のあらそふ所さしをきがたし。はやく先途をふさぐべし。しからずんば事のよしを訴へ、上命にまかすべしと云。重忠いはく、其義 然るべからず。たとひ他人の力をもて敵をしりぞくといふ共、すでに先陣を承る上は、むかはざる以前に合戦する者もみな重忠が一身の勲功たるべし。 且は前登にすゝまんとするともがらの事、妨げ申の条本意にあらずと云々。然に彼七騎の輩は重忠におとらぬ大将たりといへ共、後陣に有故此 望あり。親子兄弟の中にも先陣をあらそうは武士のならひ。然ば件の七人前登のほまれ有て其名あぐる。重忠 傍人に語つていはく、今度重忠先陣を承るといへ共、大木戸の合戦に先登を他人にうばはれをはんぬ。時に子細を知るといへども、重忠 敢てもつてかくしうせず。是賞を傍輩にあまねくせんが為也。今是を見れば果してみな数ケ所、くすうはくの御恩に預る。をそらくは重忠が芳志といふべきかと云々。ていれば重忠先陣を承て心はやき他人にうばゝれぬ後悔、ききにたゝぎる放言ともいふべし。昔はかくのごときの義有共、今以随ひがたし。扨又右の七人 尤も高名をあらはすといへども、後世大人の学ぶべき行にあらず。大将一騎先をかけば郎従等跡にのこり、誰が下知に随て合戦をとぐべき。主一人のわざはひ、万郎勝利を失ふに非ずや。され共泰衡は頼朝公たなごゝろにある敵、おそるゝにたらず。独歩の先立、武略のなす所なるべし。夫軍は勝つてまくる事あり、負けてかつ事有。引くべき所を引き、かけべき所をかけざるは大将の不覚。是みな武略智謀のなす所也。軍法兵略も後代に至つていよ〳〵厳重なりと云り。北条の侍に大石平次兵衛と云者、一首を詠ず。樊噲をあざむく武者をあつめても下知につかずば餓鬼にをとれりとよみけるを、氏政聞及び給ひ、かれは一方の大将すべき者也と御感有て、あしがるを百人あづけ給ひければ、いよ〳〵此 法度を諸侍信じき。扨又 亡父氏康公、上杉を追討し其威遠近にふるひしかば、信濃、かうづけ、下野、ひたちの国にをいて一城持つほどの士は皆降人と成て氏康幕下に属し、恐れうやまふといへ共、上杉殿ゑちごへ落行き景虎をたのみ、一度帰国をねがひ給ふによつて、関東侍 共旧君上杉殿へ心ざしつかへるものおほかりき。然に先年氏政と里見義弘、下総国高野の台にをいて対陣の時節、敵夜中に引しりぞく由告げ来によつて、遠山丹波守、とみなが三郎左衛門尉 前陣にあり。敵のてだてをわきまへず、卒爾に高野台へ取あがる所に敵待ちうけ、多勢をもつて切りかち、遠山・富長 討死し、悉くもて敗北す。味方是を見るといへ共、かつてもてさはがずして備をみださず、一手〳〵にいちじるしくよせ太皷をうつて、しづ〳〵とせめかくる有様、威敵もおもてを恥ぬべし。然に氏政旗本二陣につゞく所に、味方の士卒算をみだし、すでにはたもとへくずれかゝる。氏政下知していはく、敵かつに乗つて長途を過ぎ、労して功なしと云り。是を討つべしと団を上げ給へば、命は義によて軽んじ、討死し名を後記に留めんと、責め懸りはた本もの計一勢をもて既に切勝ち、敵をうちとる事、永禄七年 甲子正月八日 辰の刻なり。同き日 申の刻に至つて又大合戦有。氏政 鑓をつ取て真先にすゝみ、まういをふるひ、切勝て五千 余騎討取り、其いきほひに下総、上総を治められたり。一日に二度合戦あり、二度ながら氏政はたもとをもて切勝、希代の名大将のほまれをえ給ふ。其上 民をなで、国の政道ただしく仁義もつはらとし給ふ故、関東諸侍 二心(ふたごゝろ)なく二代の主君とあふぎ、忠をいたさんとす。ていれば氏政は関八州を治め、合戦の砌忠ある侍には其 浅深にしたがつて国郡一郷一村、太刀かたな、金銀小袖を出し、其上ほうびの感状を出せり。それかし親三浦五郎左衛門尉 茂信、相州三浦の住人、北条家譜代の侍なり。高野台一戦の刻、先陣にすゝみおほくの敵をほろぼし首取てほまれ有。又永禄二年の冬、義弘三浦へ舟にて渡海し合戦のみぎり、万人にぬきんでしゆうを决し、くみ討し、数ケ所のきずを負ふといへ共首取て威名をあぐる。同十三年の春、武田信玄と氏政対陣の時節、するがの海にをいて敵船と一戦し、うち勝て敵船をかんばら浦へ追ひあげ、もういをふるひ、数度の忠勤をはげまし軍功をぬきんで、氏政ほうびの感状数通是あり。誠に旧君の厚恩、亡父 残名のかたみを此物語の次に思ひ出で書加へ侍る。かく我家の美をあらはす事、他人のあざけりをかへり見ざるか。され共 戦国策に其善をば賞すべし、その悪をばかたるべからずと云り。扨又 穀梁伝に孝子は父の美をあげて父の悪をあげずと云々。父は子の為にかくし、子は父のためにかくす、直なる事其中に有と論語にも見えたり。然に氏政は文武の達人には常に和語をこのましめ給ふ。天正十五年の立春に「松に契る多き春を」といふ題の下に、氏政と書ていくはるをちぎりをきたるすみよしのはままつかえのみさほなるらんうつしうへし二葉の松のことしよりみどりにこもる春はいくはる此二首の自詠を自筆に書をき、「はの、てにはを、うたがはしくやおほすらんや」とそばに書そへ給けるを愚老持つたふる。今の能筆衆是を披覧有て筆勢のいつくしさたぐひあらじと皆人 感ぜり。身はこけの下に埋もれても、もしほ草書をき給へる言の葉は後の世までも朽ちやらず。誠に水ぐきの跡は千代も有らんとは是やらんと思ひけるにも、いとゝ涙をもよほせり。此二詠を是に残しをき、予がごとくいにしへを忍草のゆかりの人若しあらば思ひ出やせんと記し侍る也。氏政公は天文七 戊戌の年 誕生なり。小田原籠城は天正十八庚寅の年七月十一日、生涯に望んで「すけるみち」とてふきとふく風なうらみぞ花のはるもみぢの残る秋あらばこそと詠じ、五十三歳にして秀吉公のために切腹し給ひぬ。法名慈雲院殿勝岩傑公大居士と号し奉る。盛者必衰の世のならひ、歎きてもかひなかるべし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




