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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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20/20

4-1 四面楚歌の経営学 〜 関東最強の「維持(サステナブル)」大名・氏政と、規律が生んだ逆転劇 〜

挿絵(By みてみん)


北条五代記ほうじょうごだいき』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

どうも。北条家四代目の北条氏政だ。


 早雲じいちゃんがベンチャーを立ち上げ、氏綱おやじが基盤を固め、先代・氏康が関東を制覇した。じゃあ、俺の仕事は何か?


 それは、この巨大な「北条ブランド」を維持し、さらに盤石にすることだ。だが、これがなかなかのハードモードだったんだ。なんせ、俺の代は東西南北すべてが「ガチ勢」の敵ばかり。


 北に佐竹義重、南に里見義弘、東(越後)に上杉謙信、そして西に武田信玄。「四天王に囲まれた中ボス」みたいな状況で、俺がいかにしてこの100年北条家ギルドを守り抜いたか、その「組織マネジメント」の極意を語ってやろう。


 俺の代で徹底したのは、「個人ソロプレイの高名より、組織チームの勝利」だ。戦場での軍法ルールは絶対。どんなに強かろうが、俺の下知オーダーなしに勝手に突っ込む奴は、たとえ手柄を立てても処罰対象だ。


 なぜかって? 組織がバラバラになったら、信玄や謙信みたいなモンスターには勝てないからだ。ここで、歴史オタクなら知っている畠山重忠の話をしよう。


 頼朝公が奥州を攻めたとき、先陣を任された重忠の陣を、7人の若手武士がこっそり追い越して一番乗りを狙ったことがあった。重忠の部下は「ルール違反だ! 訴えましょう!」と怒ったが、重忠はこう言った。


「いや、いいんだ。俺が先陣を任されている以上、彼らが勝てばそれは俺の手柄でもある。みんなで恩賞ボーナスを分け合えばいいじゃないか」


 ……重忠は「武士の鑑」なんて言われてるけど、俺に言わせれば、今の時代にそんな「なあなあ」な管理じゃ組織は持たない。うちのメンバーの大石平次兵衛が詠んだ歌に、こんなのがある。


樊噲ハンカイのような最強の武者を集めても、命令に従わないなら餓鬼ザコ以下だ」


 俺はこの歌に感動して、彼に足軽100人を預けて大将マネージャーに抜擢した。「下知に従う者が、真のプロフェッショナルである」。これが北条の家訓だ。


 規律を破るとどうなるか。その最悪のケースが「第二次国府台の戦い」だった。


 永禄7年、宿敵・里見義弘と対峙したときのことだ。前線にいた遠山丹波守と富永三郎左衛門の二人が、敵が夜中に撤退したという報告を聞いて、功を焦って勝手に追撃を開始した。


 「今行けば、一番手柄だ!」と思ったんだろう。だが、それは里見の罠だった。待ち伏せに遭った二人は、あっけなく討死。前衛部隊はパニックを起こして、俺のいる本陣まで崩れかかってきた。


 だが、ここからが北条氏政の本領発揮だ。俺は冷静に団扇うちわを上げ、乱れる兵たちを制止した。


「落ち着け。敵は勝って調子に乗っているが、長距離を走って疲れている。今こそ、一糸乱れぬ本陣の力を見せてやれ!」


 太鼓の音に合わせて、しずしずと、だが圧倒的な圧力で進軍。結果、一日のうちに二度の激戦を制し、里見軍5000人を撃破。下総と上総を完全に掌握したんだ。


 「熱くなった奴から負ける」。これはいつの時代も変わらない真理だな。


 俺の成功を支えてくれたのは、代々仕えてくれた譜代の家臣たちだ。この『北条五代記』を書いている三浦浄心の親父さん、三浦茂信もその一人だ。彼は国府台の戦いでも先陣で首を取り、冬の海戦でも武田の船団を追い回す大活躍を見せた。


 俺は彼のような「現場で結果を出すプロ」には、感謝状だけでなく、土地や金銀、さらには俺の私物までバンバン出して報いた。「北条で働けば報われる」。この信頼関係こそが、四方を敵に囲まれても裏切り者が出なかった理由だ。


 ……まあ、俺のことを「ただの堅物」だと思っているかもしれないが、実は風流なことも好きなんだ。自分で言うことじゃないが書道や歌が得意だ。天正15年の春には、こんな歌を詠んだ。


「いくはるをちぎりをきたるすみよしの はままつかえのみさほなるらん」

(幾春もの月日を、変わらぬ松の緑のように、この国と契約を交わしてきた。これからも、この平和が続きますように)


 自筆で書いたこの歌の横に「てにをは、間違ってないかな?」なんて、ちょっと弱気な添え書きをしたのも、今となってはいい思い出だ。


 天正18年(1590年)。時代の波は、ついに俺たちの想像を超えた。豊臣秀吉、50万の軍勢。小田原城に籠城し、俺たちは最後まで抗った。だが、時代の「仕様変更」には勝てなかった。


 7月11日。俺は責任を取って切腹することを決めた。生涯の最後に詠んだ歌がこれだ。


「ふきとふく風なうらみぞ花のはる もみぢの残る秋あらばこそ」

(吹く風を恨んではいけない。春に咲く花があれば、秋に散る紅葉もある。それが世の理なのだから)


 享年53歳。「汁かけ飯の話」とか、後世では色々言われてるみたいだが(笑)、俺は俺なりに、この関東という巨大な組織ギルドを、必死に守り抜いたつもりだ。


 北条五代、100年の歴史。俺の代で大きな花を咲かせ、そして美しく散った。さて、俺の人生の締めくくりはどうだったかな?




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




一 北条氏政東西南北と戦の事


見しはむかし北条氏政ほうでううぢまさ関八州くわんはつしう武威ぶいをふるひ、をそれざるてきなし。りんごくみな敵たるにより、諸国しよこくのさかひめにしろ有て、日夜にちや朝暮てうぼに戦ひあり。然に東西南北の敵、氏政に年来ねんらい遺恨いこん有により、つゐ和平わへいなし。其 意趣いしゆは、房州ばうしう里見義弘さとみよしひろ前代せんだいより安房あはかづきの国司こくしたり。先年せんねん北条 氏康うぢやす、かづさの国をつてとる。佐竹義重さたけよししげはいにしへよりあひつたはり、ひたちの国の押領使おうりやうしたり。天文年中に氏康に半国はんごく切つてとられぬ。ゑちごのたひら景虎かげとらは、上杉憲政うへすぎのりまさ武州ぶしう河越かはごえにをいて氏康と合戦し、憲政うちまけゑちごへ落行おちゆき、景虎をたのみ其上上杉のいへ譲次ゆづえいつぐによつて也。武田信玄たけだしんげん甲斐かひするが両国のぬしたりといへ共、長久保ながくぼ、いつみがしら、とくら、ししはま此四ケ城はするがの国中に有て、氏政持国じこく也。信玄するが一国にきずを付る事口をしきと矢じりをかむが故也。然に氏政四方八方の敵と年たゝかひ、他国たこくのかたはしを切つて取、城をおほくせめおとすといへ共、氏政 領国りやうごくいたつてつゐに一城も敵にせめ落されたる証跡せうせきなし。関東に出生しゆつしやうして今四十歳五十歳の人々は、其時節じせつの合戦 淵底ゑんてい存義そんぎ也。氏政 武略ぶりやく智謀ちぼうの大将とは、爰をもつて後世の人もさつし申さるゝ義也。いにしへ頼朝公よりともこう尊氏公たかうぢこう永久えいきうに世をおさめ家督かとくさうぞくすといへ共、其内にもさゝはる義ありて、嫡々は家をつぎ給はずと聞えたり。北条家ほうでうけは五代つゝがなく嫡子家をつぎ来り、百余ケ年関八州を静謐せいひつにおさめ、希代きたい武家ぶけなり。氏政かねて軍法ぐんぱうに、東西南北の敵にむかつて出馬しゆつばするにいたつては、其敵国てきこく近隣きんりんのさふらひ大将、何時なんどき前陣せんぢんたるべし。味方みかたの先陣 戦場せんぢやうにのぞんでつともくる共、下知なくして他のそなへをらすべからず。たとひぬきんで高名かうみやうせしむといふ共、法度はつとをそむくの上は誅罸ちうばつすべき者也と云々。老士らうし有しが此旨むねかんじ申されけるは、かくのごときの法度はつとなくむば、たれ前登ぜんとうの心がけなからん。しからば軍陣ぐんぢん入乱みだれ散在さんざいし、軍法ぐんぱう兵略ひやうりやくさだまりがたかるべし。さればむかし頼朝公よりともこう奥州おうしう泰衡ひらやす退治たいぢとして、文治ぶんぢ五年七月十九日かまくらを打立うちた発向はつかうし給ふ処に、国衡くにひら大将軍しやうぐんとして数万騎すまんぎそつし、大木戸に陣取ぢんどり伊達郡だてのこほりあづかし由を前にへだてゝたゝかふ。頼朝公八月九日夜に入、明且めいたんにあづかし山の合戦をすぐべきよし相定あひさだめらるゝ。先陣せんぢん畠山はたけやま次郎重忠(しげたゞ)なり。爰に三浦みうら平太 義村よしむら葛西かさいの三郎 清重きよしげ、工藤小次郎行光、同三郎 祐光すけみつ、狩野五郎 親光ちかみつ、ふぢさわの次郎 清近きよちか、かはむらの鶴丸(年十三)、以上七騎ひそかに畠山次郎が陣をはせぐる。此山をえ前登にすゝまんとす。是明けの後大軍と同時どうじにけんそをしのぐ故也。重忠が郎従らうじうなりきよ、此事をうかゞひえて主人しゆじんにいさめていはく、今度の合戦に先陣をうけたまはる事、抜群ばつぐん眉目びもく也。然るに傍輩ほうばいのあらそふ所さしをきがたし。はやく先途せんとをふさぐべし。しからずんば事のよしをうつたへ、上命じやうめいにまかすべしと云。重忠いはく、其義 しかるべからず。たとひ他人たにんの力をもて敵をしりぞくといふ共、すでに先陣を承る上は、むかはざる以前いぜんに合戦する者もみな重忠が一身の勲功くんこうたるべし。 かつは前登にすゝまんとするともがらの事、さまたげ申の条本意ほんいにあらずと云々。然に彼七騎のともがらは重忠におとらぬ大将たりといへ共、後陣ごぢんに有故此 のぞみあり。親子兄弟の中にも先陣をあらそうは武士ぶしのならひ。然ばくだんの七人前登のほまれ有て其名あぐる。重忠 傍人ばうじんかたつていはく、今度重忠先陣を承るといへ共、大木戸の合戦に先登せんとうを他人にうばはれをはんぬ。時に子細しさいるといへども、重忠 あへてもつてかくしうせず。是賞しやう傍輩はうばいにあまねくせんがため也。今是を見ればはたしてみな数ケ所、くすうはくの御恩にあづかる。をそらくは重忠が芳志はうしといふべきかと云々。ていれば重忠先陣を承て心はやき他人にうばゝれぬ後悔こうくわい、ききにたゝぎる放言はうげんともいふべし。昔はかくのごときの義有共、今以いまもつてしたがひがたし。扨又右の七人 もつとも高名をあらはすといへども、後世こうせい大人のまなぶべきてだてにあらず。大将一騎先をかけば郎従等跡にのこり、誰が下知に随て合戦をとぐべき。主一人のわざはひ、万郎ばんらう勝利せうりうしなふにあらずや。され共泰衡は頼朝公たなごゝろにある敵、おそるゝにたらず。独歩どくほの先立、武略ぶりやくのなす所なるべし。それいくさつてまくる事あり、けてかつ事有。引くべき所を引き、かけべき所をかけざるは大将の不覚ふかく。是みな武略智謀のなす所也。軍法兵略も後代にいたつていよ〳〵厳重げんぢうなりと云り。北条の侍に大石平次兵衛と云者、一首しゆえいず。樊噲はんくわいをあざむく武者むしやをあつめても下知げちにつかずば餓鬼がきにをとれりとよみけるを、氏政うぢまさ聞及び給ひ、かれは一方ぱうの大将すべき者也と御感かん有て、あしがるを百人あづけ給ひければ、いよ〳〵此 法度はつと諸侍さふらひしんじき。扨又 亡父ぼうふ氏康公うぢやすこう、上杉を追討ついたう其威遠近ゑんきんにふるひしかば、信濃しなの、かうづけ、下野しもつけ、ひたちの国にをいて一城じやうつほどのさふらひ皆降人かうにんと成て氏康幕下ばつかしよくし、おそれうやまふといへ共、上杉殿ゑちごへ落行おちゆ景虎かげとらをたのみ、一度帰国きこくをねがひ給ふによつて、関東侍 共旧君きうくん上杉殿へ心ざしつかへるものおほかりき。然に先年氏政と里見義弘さとみよしひろ下総国しもふさのくに高野かうやだいにをいて対陣たいぢん時節じせつ敵夜中やちうに引しりぞく由告によつて、遠山丹波守とほやまたんばのかみ、とみなが三郎左衛門尉 前陣ぜんぢんにあり。敵のてだてをわきまへず、卒爾そつじに高野台へ取あがる所に敵待ちうけ、多勢たせいをもつてりかち、遠山・富長 討死うちじにし、悉くもて敗北はいぼくす。味方是を見るといへ共、かつてもてさはがずしてそなへをみださず、一手〳〵にいちじるしくよせ太皷だいこをうつて、しづ〳〵とせめかくる有様、威敵いてきもおもてをはぢぬべし。然に氏政旗本はたもと二陣につゞく所に、味方の士卒しそつさんをみだし、すでにはたもとへくずれかゝる。氏政下知していはく、敵かつにつて長途ちやうとぎ、らうしてこうなしと云り。是をつべしとうちはげ給へば、めいは義によてかろんじ、討死うちじにし名を後記こうきに留めんと、め懸りはた本もの計一勢せいをもて既に切勝きりかち、敵をうちとる事、永禄えいろく七年 甲子きのへね正月八日 たつこくなり。同き日 さるの刻にいたつて又大合戦有。氏政 やりをつ取て真先まつさきにすゝみ、まういをふるひ、切勝て五千 余騎よき討取うちとり、其いきほひに下総しもふさ上総かづさおさめられたり。一日に二度合戦あり、二度ながら氏政はたもとをもて切勝、希代きたい名大将めいたいしやうのほまれをえ給ふ。其上 たみをなで、国の政道せいだうただしく仁義じんぎもつはらとし給ふゆへ、関東諸侍 二心(ふたごゝろ)なく二代の主君しゆくんとあふぎ、ちうをいたさんとす。ていれば氏政は関八州をおさめ、合戦のみぎり忠ある侍には其 浅深せんしんにしたがつて国郡くにこほり一郷がう一村、太刀たちかたな、金銀小袖を出し、其上ほうびの感状かんじやうを出せり。それかし親三浦みうら五郎左衛門尉 茂信しげのぶ、相州三浦の住人、北条家譜代ふだいの侍なり。高野台一戦の刻、先陣にすゝみおほくの敵をほろぼしくび取てほまれ有。又永禄二年の冬、義弘三浦へ舟にて渡海し合戦のみぎり、万人にぬきんでしゆうをけつし、くみ討し、数ケ所のきずをふといへ共首取て威名いみやうをあぐる。同十三年の春、武田信玄と氏政対陣の時節、するがの海にをいて敵船てきせんと一戦し、うち勝て敵船をかんばら浦へひあげ、もういをふるひ、数度の忠勤ちうきんをはげまし軍功をぬきんで、氏政ほうびの感状数通是あり。誠に旧君きうくん厚恩こうをん、亡父 残名ざんめいのかたみを此物語の次に思ひ出で書加かきくはへ侍る。かく我家のをあらはす事、他人のあざけりをかへり見ざるか。され共 戦国策せんこくさくに其善をばしやうすべし、そのあくをばかたるべからずと云り。扨又 穀梁伝こくりようでん孝子こうしは父の美をあげて父の悪をあげずと云々。父は子の為にかくし、子は父のためにかくす、すぐなる事其中に有と論語ろんごにも見えたり。然に氏政は文武の達人には常に和語わごをこのましめ給ふ。天正十五年の立春りつしゆんに「松にちぎる多き春を」といふ題の下に、氏政と書ていくはるをちぎりをきたるすみよしのはままつかえのみさほなるらんうつしうへし二葉ふたばの松のことしよりみどりにこもる春はいくはる此二首の自詠じえい自筆じひつに書をき、「はの、てにはを、うたがはしくやおほすらんや」とそばに書そへ給けるを愚老持つたふる。今の能筆衆是を披覧ひらん有て筆勢ひつせいのいつくしさたぐひあらじと皆人 かんぜり。身はこけの下にうづもれても、もしほ草書をき給へる言の葉は後の世までもちやらず。誠に水ぐきのあとは千代も有らんとは是やらんと思ひけるにも、いとゝなみだをもよほせり。此二詠を是に残しをき、がごとくいにしへを忍草しのぶぐさのゆかりの人若しあらば思ひ出やせんとしるし侍る也。氏政公は天文七 戊戌つちのへいぬの年 誕生たんじやうなり。小田原籠城ろうじやう天正十八庚寅かのえとらの年七月十一日、生涯しやうがいのぞんで「すけるみち」とてふきとふく風なうらみぞ花のはるもみぢの残る秋あらばこそとえいじ、五十三歳にして秀吉ひでよし公のために切腹せつぷくし給ひぬ。法名ほうみやう雲院殿勝岩傑公大居士じうんゐんでんせうがんけつこうだいこじがうし奉る。盛者必衰しやうじやひつすいの世のならひ、なげきてもかひなかるべし。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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