3-4 「成果報告」は命がけ? 戦国時代のエグすぎる人事考課の裏側
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。戦国の「リアル」を書き残す記録マニア、三浦浄心だ。
今回は、北条家が関東の覇権を確固たるものにしたビッグイベント「第一次国府台の戦い」について語ろう。この戦い、ただの合戦じゃない。実は、武士たちが自分の「実績」をどうアピールし、いかにして「評価」を勝ち取っていたかという、泥臭い人事考課(首実検)のドロドロした裏側が詰まっているんだ。
事の始まりは、足利公方家のドロドロした内紛だ。下総(千葉県)に、源義明という男がいた。彼は足利政氏の次男で、今の公方・晴氏の叔父にあたる。小弓に御所を構えていたから「小弓御所」なんて呼ばれていたが、まあ平たく言えば「俺が本当のリーダーだ!」と主張する対抗勢力だ。
本家の足利晴氏は、これが面白くない。そこで、自分の義理の父であり、今ノリに乗っているベンチャー経営者・北条氏綱に泣きついた。
「お義父さん、あの生意気な叔父さんを黙らせてくださいよ」
氏綱公にしてみれば、公方様からの正式な「討伐依頼」だ。これを受けない手はない。天文7年(1538年)10月、北条軍は下総の国府台へと出陣した。
対する小弓御所・義明も、安房の里見義弘を味方につけて迎撃態勢に入る。10月7日、巳の刻(午前10時ごろ)。両軍は激突した。戦場は血煙が舞い、矢が雨のように降り注ぐ地獄絵図。だが、結果は北条軍の圧勝だった。義明公は息子や弟と共に戦死。里見軍は這々の体で安房へ逃げ帰った。北条軍が討ち取った首、その数なんと3000超。
さて、ここからが本当の「仕事」だ。戦いが終わると、氏綱公は床机にどっかと腰を下ろし、「首実検」を開始した。この首実検の仕切りを任されたのが、中山修理亮。彼は数々の修羅場をくぐり抜けてきたベテランで、軍法にも詳しい。
武士たちにとって、首実検は一生を左右するボーナス査定だ。「俺が一番槍だ!」「俺がこの大物を仕留めた!」と、みんな必死でアピールする。だが、証拠がなければ評価はゼロ。そこで、賢い連中は「第三者証明」を使いこなしていた。
片山弥兵衛という男が、敵の首を持って一番に名乗り出た。彼は中山修理亮に報告する際、たまたま横を通りかかった有名人の大藤左京亮を呼び止めた。
「左京亮殿! 俺がこの首を一番に取ったの、見てましたよね!?」
左京亮は「ああ、しっかり見たぞ。見事な一番首だ」と証言して去っていく。これで弥兵衛の評価は確定。「誰が証明してくれるか」が、戦国キャリアの鉄則だったんだ。
ここで、ちょっとグロテスクだがリアルな問題が浮上する。「首を持って帰るのが重い」「暑くて腐る」という理由で、鼻だけを削いで持ってくる連中がいたんだ。実際、佐竹義重との戦いのとき、6月の猛暑で首が腐りそうだったため、鼻だけを小田原に持ち帰った例があった。
だが、中山修理亮はこれに「NO」を突きつけた。
「鼻だけで実績を認めたら、戦場に転がっている『味方の死体』から鼻を削いで嘘をつく奴が出るだろうが!」
……戦国時代、実績を捏造するために味方の鼻を削ぐ。そんなエグい不正が実際に懸念されるほど、彼らは追い詰められていたわけだ。
そんな中、伊山助四郎と江川兵衛太夫というコンビがいた。二人は激戦の中でそれぞれ敵を討ち取ったが、助四郎が深手を負って動けなくなった。兵衛太夫は言った。
「お前、その傷じゃ首を抱えて帰るのは無理だ。鼻だけ削いで帯に挟んで帰れ。俺が証人になってやる。もし中山修理亮が疑うなら、俺の取った首を丸ごと、お前の手柄にしていいからな!」
これぞ、命がけのチームワークだ。結局、兵衛太夫は一度戻ってまた突撃する「二度駆け」を成功させ、もう一つ首を取って帰還。中山修理亮も彼らのコンビ愛と勇気を認め、二人とも最高評価を与えたという。
だが、美しい話ばかりじゃない。岡本左衛門尉という男は、武略に優れていたが、この日はなぜか運が悪く、一つも首が取れなかった。
「このままじゃ評価が下がる……」
焦った彼は、信じられない行動に出る。田んぼのあぜ道を、敵の首を提げて嬉しそうに帰ってくる味方の佐藤神三郎を見つけると、背後から襲いかかって神三郎を殺害。首を横取りして自分の手柄として報告したんだ。これを見た周囲は「おい、あいつ味方殺したぞ」と噂したが、結局お咎めはなかったという。このエピソードを語った老兵は、若者たちにこう忠告している。
「大合戦の最中に、一人でフラフラ歩くもんじゃない。味方のフリをして後ろから首を狙ってくる奴がいる。それが『功者』のやり方なんだからな」
……怖すぎるだろ、戦国時代の「プロ」。
北条五代が関東を治めた時代は、良くも悪くも「結果がすべて」の混乱期だったが、昔はもっと厳しかったらしい。あの源頼朝の時代。一条忠頼を暗殺した際の騒動で、混乱に乗じて味方を斬ってしまった鮫島宗家という武士がいた。
頼朝公は、たとえ混乱の最中であっても「味方を傷つけた罪」を許さず、彼の右手の指を切り落とすという厳罰を下したという。それと比べれば、北条時代の戦場は、もはや「何でもあり」の弱肉強食。評価を勝ち取るために友を助ける者もいれば、評価を盗むために友を殺す者もいる。
成果主義が極まると、武士たちの壮絶な、そして時に卑劣なまでの「上昇志向」が強くなり、同僚を(物理的に)蹴落とす奴が出てくる。
一番の敵は「味方」かもしれない。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
四 源義明公滅亡の事付首実検の事
聞しは昔、老士語けるは、天文の比、源義明公は下総の国司として小弓の舘にまします故、小弓の御所と号す。是は政氏公の次男、晴氏公の伯父。然ども古河の公方晴氏公と御中不和に有て、たゝかひ止む事なし。其比伊豆相模の守護北条氏綱は、管領上杉 修理大夫朝興、子息五郎 朝定とたゝかひ、武州江戸の城、同国河越南城をせめ落とし、武威を遠近にふるひ、をそれぬ敵なし。然に古河の公方は氏綱の聟一味なり。晴氏公小弓の御所を追討有度よし、氏綱を御頼によつて、氏綱下総へ出馬し、高野台を前にをき陣取る。義明公此よし聞召し、進発し高野台へ取あがり御はたを上られたり。里見義弘は安房上総の国主、義明公と兼て一味。是によて義弘、安房上総両国の軍兵を引率し、義明公加勢としてはせくはゝり、天文七年 戊戌十月七日、巳の刻に至て合戦す。たがひに鬨音をあげ、おめきさけんで射る矢は雨をふらし、義をおもんじ、命をかろんじ、討ちつうたれつ、血煙を立てたゝかひしが、御所うちまけこと〴〵く敗北す。氏綱勝に乗つて追つかけ、つきふせ切りふせ三千余人討捕たり。御所 父子、舎弟基頼公滅亡し給ふ。里見義弘は上総を指して落行ぬ。高名する勇士等、首引さげ〳〵氏綱の旗本へ来る。氏綱は高野台にはたを立てて、床机に腰をかけ給ひ、中山修理介、御前に候す。此者 数度の合戦に武勇をもつて敵を亡ぼし、軍法兵義をしる故実の者、兼て武士司にふせらる。此人 首じつけんの奉行なり。首討捕戦場の仕合を尋ね聞て、忠の軽重をしるす。大合戦に勝利をうる事なれば、一番 鑓にぬきんで首 討取者おほし。大将の首は扨おき、鑓下にて討る首、一番二番を論ずといへ共証拠なきは本意とせず。然に片山弥兵衛、前登にすゝみ首討捕所に、見れば味方に大藤左京亮、弓手をはせとをる。此人は武のほまれある勇士。幸かなと、甲の妻子の袖にとり付、片山弥兵衛首の証拠人よと云ふ。左京亮見たり、一番首 比類あるべからずといひてよせ過ぐ。かくたしかなる証人有故、三千 余討捕内にをいて、片山弥兵衛鑓下の一番首にしるす。扨又鼻を一つかき、首一つ持来りて二ツの首といひ、鼻計を一ツ二ツ持来て首帳に付べしといふ者おほし。修理介がいはく、此度討死する味方の死骸、道路山野に算を見だすがごとし。鼻が首になるならば、死する味方の鼻をかゝぬ者やあらん。一年(ひとゝせ)常陸の国にをいて、佐竹義重と小山の高井豊前守かつせんし、味方勝利をえ、首五百討つとる。六月中旬、炎熱の時節と云て、鼻をかき小田原へ持来る事あり。子細もなくて鼻かく事 分明ならずと、首帳につけず。然に伊山助四郎、江川兵衛太夫の両人は、諸人に抽んで先がけし、強敵と雌雄をあらそひ、討勝て相ならび、首一ツづゝうつ取る。助四郎は手を負ひたり。兵衛太夫是を見て、其方いた手負進退なりがたし。首の鼻をかき、鎧の上帯にはさみ、太刀を杖につき帰陣せよ。其方 途中にて死すとも我証拠人になりて首帳に付ぬべし。もし検使うたがひ有にをいては、我討捕首を其方ためにせん。然ばむかし摂州一の谷の合戦にをいて、梶原が二度のかけしてほまれ有事をいひ伝へり。我又二度かけんとほつするゆへ、討捕首の鼻をかき、帯にはさみたり。我討死するならば、其方 証拠に立て首帳につけてたべ。未来までの芳志たるべしと、いひすてはせ参じ、又首一ツ取て帰陣し、旗本実検場へ来つて、鼻と首と二つ御目にかけ、戦場前後の仕合を言上す。修理の介がいはく、其方より以前伊山助四郎いた手負、鼻をそぎ持来て、其方と立ならび首一ツづゝ討取、生死のせいごんつぶさに御前にをいて言上す。君其方二度のかけを感ぜしめ給ひ、首いまだ来らずといへ共帳に付けをきぬ。前後首二つ、江川兵衛太夫と注したり。臣々たれば君又君たり。君臣合体して望をたつする勇士のほまれ、希代のためしなるべし。扨又岡本左衛門尉は、武畧の達者、数度のたゝかひに首を討取るといへ共、此度首を取えず、遺恨止む事なし。然に敵一人田のあぜをつたひ横道してにぐる者あり。味方に佐藤神三郎といふ者是を見、たゞ一人をひかけ一町ほど先にてをひ付首取て帰るを、左衛門尉是を見て、又あぜを伝ひ行、途中にて相向つて、さても手がらとほうびし、其者を切ふせ、敵の首を引さげ、味方の陣中に入る。諸人是を見て、やれ味方討ちよといひしかど、あへてとがむる人なし。討たるゝ者いたづらに成ぬと語ければ、故実の老士聞ていはく、去程に大合戦には、人ばなれて独だちせぬ事なり。いまだ戦場をもふまざる若き人は、味方勝いくさとおもひ、独立して味方のためにかいせられぬ。すこぶる味方討あらかじめ功者のなすわざなりといふ。口才なる若殿原衆いひけるは、其儀ならば味方の首をも取二ならば猶益あらんか。左衛門尉かへつて無功者の名をあらはすといふ。老士聞て、され共所にこそよるべけれ。敵と味方と二ツの首を取ならば無功者、諸人の見る目あやうかるべし。左衛門尉、敵の首を目がけしは、いよ〳〵功者の心ふかしといふ。若き衆いはく、味方討ちはすでに諸人見たり。神三郎親類ありて、とがむるに至ては功者も無功者といつゝべし。老士いはく、大合戦は入れ、かならず味方討あり。うたるゝ者かへつて恥辱たり。其上敵の首を持来る、軍陣にをいて誰か諍論あらんと申されし。此この味方討に付て、むかしをおもひ出せり。頼朝公の時代、一条の次郎 忠頼、威勢をふるふのあまりに、乱世の心ざしをはさむのよし其聞えあり。武衛是を察せしめ給ふによつて、忠頼を栄中にをいて誅せらるべきため、晩景にをよび武衛西侍に出給ふ。忠頼 召しによつて参入す。宿老御家人数輩列候対座す。献盃の儀あり。工藤祐経てうしを御前にすゝむ。是兼て其討手に定められをはんぬ。然にことなる武将に対してたちまち雌雄を决するの条、重事たるの間、いさゝか思案せしむるか顔色すこぶる変ぜしむ。小山田別当有重、彼有様を見て座を立ち、かくのごときの御酌は老者のやくたるとせうじ、祐経が持所のてうしを取る。爰に子息稲毛の三郎重成、同弟 榛谷の四郎 重朝等、盃肴物を持て忠頼がまへにすゝみよる。有重両息にをしへていはく、配膳の故実は上りなりていれば持所の物をさしをき、くゞりむすぶの時、天野藤内 遠景、別の仰を奉り太刀を取、忠頼が左の方にすゝみ誅戮し卒ぬ。此時武衛は御うしろの障子をひらき入らしめ給ふ。其後忠頼が供のさふらひ、新平太、武藤与一、山村小太郎等、地下より主人の害せらるゝを見て、面々に太刀を取て侍の上にはしりのぼる事粗忽にして伺候の輩騒動し、おほく件の三人が為に討たれぬ。かれらすでに深殿近々に推参す。重成重朝、城結七郎朝光等らたゝかひ、新平太、与市を討取る。山村は遠景をうたんとす。遠景一ケ間を相へだて魚板を取て是を討つ。山村えんの下にてんだうするの間、遠景其首をえたりと云々。翌日武衛鮫島の四郎 宗家を御前にめし、右の手の指を切りしめ給ふ。是昨夕騒動の間、味方討の罪科有が故也と云々。頼朝公御前にをいて味方討さへかくなだめ、右の指を切り給ひぬ。いかにいはん大合戦にをいてをや。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




