3-5 ソロプレイから「最強の組織」へ。戦国大名たちが辿り着いた、究極のマネジメント論
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。歴史の「アップデート」の瞬間を捉えるのが大好きな、三浦浄心だ。
今回は、日本の「戦争のやり方(軍法)」がどう変わってきたか、というお話。昔は「個人の戦闘力がすべて」という脳筋の時代だったんだが、戦国時代になるとそれが「組織のマネジメント力」へとシフトしていく。まさに「ソロプレイヤーからギルドマスターへ」の進化だ。これを知れば、なぜ北条が関東を100年も統治できたのか、その「経営のコツ」が見えてくるはずだ。
源平合戦のころ(保元・平治の乱〜)、軍法なんて言葉はあってないようなもんだった。大将軍といっても、一番前に立って弓を射り、一番手柄を狙うのがステータス。
伝説の弓使い・源為朝は逃げる敵を「どこまで逃げるんだ!」と追い回す、ガチの武闘派。九郎判官・義経: 浮世絵にも描かれているが、自ら先頭に立って暴れまわる。当時は「大将が一番強くなきゃ、誰もついてこない」という、シンプルな力の世界だったんだ。
頼朝公の時代、こんな面白いやり取りがあった。奥州侵攻の際、頼朝公が「日本一の勇士は誰だ?」と聞かれて、熊谷直家を指名した。それを見た大物・小山政光は笑ってこう言った。
「いやいや、熊谷さんは部下がいないから自分で頑張るしかないだけでしょ(笑)。俺みたいな大組織は、部下を先に突っ込ませるのが仕事なんです。でも、殿がそんなにソロプレイヤーを褒めるなら、今度は俺も自分で一番乗りして見せますよ!」
結局、小山の子分たちは「親分が自分でいくなんて言ってるぞ!」と焦って、夜中に先陣を追い越して突っ込んでいったという。昔の武士にとって、「現場主義」と「管理職のプライド」のせめぎ合いは、今も昔も変わらない悩みだったみたいだな。
だが、戦国時代になると、一人の英雄の力だけじゃどうにもならなくなる。兵士の数が万単位になると、大将の仕事は「刀を振ること」から「軍配を振ること」に変わったんだ。旗、太鼓、鐘の音で数万人をコントロールする軍法。兵糧の運搬や武器の配備を滞らせないロジスティクス。旗持ち、弓隊、鉄砲隊、鑓隊、それぞれに「物頭」を置いて、一糸乱れぬ統制をとる役割分担。
孫子も言っている。「軍は謀を第一とす。学ばなければ勝てない」と。今の時代、たとえ個人の戦闘力が凄まじくても、勝手にスタンドプレーをして軍法を破れば、たとえ手柄を立てても即、処罰。「最強の個人」より「最強のシステム」を優先する。これが戦国のスタンダードになった。
さて、ここからは、浄心流の「名将たちの通信簿」だ。
【織田信長:☆3.5】
長所: イノベーションの塊。私欲がなく、功績にはきっちり報いる。
短所: 長年の忠臣のアドバイスを無視(ワンマン経営)。
致命傷: 神仏を恐れず比叡山を焼くなど、社会的信頼を軽視した。結果、部下(明智)に裏切られて「一代限り」で倒産。
【豊臣秀吉:☆4.0】
長所: 圧倒的な智謀と武略。日本を統一し、海外にまで手を広げたカリスマ。
短所: 根来寺を焼くなど、仏敵としての悪名。
致命傷: 「仁義」のベースが弱かった。一代で天下を取ったが、二代目の教育と基盤固めに失敗。死後すぐに会社が乗っ取られた。
【上杉謙信(輝虎)・武田信玄:☆3.0】
輝虎: 自ら鑓を持って突撃する「ソロ最強」タイプ。猛烈だが、組織としての広がりが薄い。
信玄: 武勇へのこだわりが強く、プライドが高い。「戦わずして勝つ」という孫子の神髄より、「勝って名声をあげる」ことに執着しすぎた。
じゃあ、俺たちが仕えた小田原北条家はどうだったのか。早雲から五代。北条家がなぜこれほど長く関東を治められたのか。答えはシンプルだ。「仁義」と「民のケア」を経営のコアに置いたからだ。北条五代は神仏を尊び、自分たちの運を祈るだけでなく、民衆をなだめ、慈しむ政治を徹底した。「智・仁・勇」の三つの徳を揃え、関東を100年以上も静謐に保ったその実績は、他の爆速で滅びた天才たちとは格が違う。中国の賢人・蘇老泉は言っている。
「一忍もて百勇をささえ、一静もて百難を制す」
(一つの堪忍が百の血気を抑え、一つの冷静さが百のトラブルを解決する)
カッとなって山を焼き、数千人を殺す信長のようなやり方では、一時的な成功はあっても、持続可能性は無い。北条の強みは、民衆という名の「ステークホルダー」を大切にしたことだ。
今、みんなが持っている『吾妻鏡』。あれは徳川家康公が見つけ出し、流布させたものだ。家康公がなぜあれを愛読したか?それは、頼朝公の時代から北条の時代に続く、「どうすれば国は長く続くのか」というマネジメントの極意が詰まっていたからだろう。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
五 軍法昔にかはる事
見しはむかし。兵書は唐国より渡、我朝にをいて是を学び給ひぬ。孫子、呉子七書などゝ云て多し。されば保元の比までは軍法も定まらずと知られたり。其 時節の大将軍は馬上に弓を帯し、武芸をもつぱらにあらはせり。保元はじまる丙子の年、新院御むほんゆへ天下見だれ合戦す。みなもとの義朝、おなじき為朝兄弟は敵味方と相分れて、内裏新院の大将軍たり。然に此両将戦場に向つては、郎従等らにぬきんで前登にすゝみ、弓射て手がらをあらはし、にぐる者を見ては弓を脇にかいはさみ、大手でをひろげどこまで〳〵とのゝしりよばつて追つかけ、独気なげを専と振舞ひ給ふ事、文にしるし見えたり。其比は弓矢のはじめ、いくさ珍しくさも有べきか。頼朝も石橋山の合戦に弓射おほく敵を亡し給ひぬ。源平八島の合戦にをいて、義経、教経弓射給へる体、武者絵などに見えたり。扨又文治五年、頼朝公、秀衡が子退治として奥州へ発向、七月廿五日、宇都宮に着御し給ふ時に、小山下野の大丞政光入道、頼朝公へだかうをけんず。此間のひたゝれ着する者御前にしかと候す。なに者に候ぞやのよし、政光是を尋ね申す。仰せにいはく、かれは本朝無双の勇士、熊谷の小次郎 直家なりと云々。政光がいはく、何事に日本無双の剛の者に候ぞやと申す。仰せに云はく、平家追討の時、一の谷以下の戦場にをいて父子相ならび命を捨てんとほつする故なりとのたまふ。政光は有勢の者なり。すこぶる笑つていはく、君の為に命を捨つるの条、勇士の所為なり。いかでか直家にかぎらんや。たゞしかくのごときの輩は、こふくの郎従なきによつて直にくんこうをはげまし其号をあぐるか。政光がごときんば、たゞ郎従を先に遣はし忠をぬきんずる所なり。しよせん今度よりは、みづから合戦をとげ無双の御旨をかうふるべしと、子共朝政、宗政、朝光ならびに養子頼綱等らを御前に召しあつめ、是を下知す。二品聞召し興に入給ふと云々。政光申したるこそ道理至極なれ。故に頼朝公も邪興し給ひたり。然ば奥州あづかし山の城を明朝せめらるべき由、諸軍へ御ふれ有て、先陣を畠山次郎重忠に仰付られたり。彼政光が子どもをはじめ、其外の大将共、我をとらじと郎従どもをば跡に残しをき、我ひとり〳〵夜中に畠山が陣中をはせ過ぎ前登にすゝみ、大将七人高名をあらはし誉をえたると云て、昔はかくのごときの子細あり。今の時代の大将は、戦場に出ては団をとり軍兵を下知し、万人に勝事を専とす。たとへば一万騎持たる大人あり。皆下知する事あたはず。此一万人それ〳〵につとむる所の役あり。故に主人其内にをいて、数度合戦にあひ武功をつみ名をえたる者をえらんで武者奉行に定め団をあづくる。此大将法をよくしる。法は軍法曲制をいふ。是大将のをこなふ道なり。軍陣にをいて人数を立る次第、旗、金、皷、武具等、兵粮運送までも事かゝざるやうにするたぐひを法とはいへり。兵を出さんには、此五つの事をよく定めて、かならず勝つべしと云々。孫子が云はく、軍は謀を第一とす。まなばずんば有べからずと云り。去程に我が大将は何ほど程の智謀の者、敵の大将は何程なるものと、うかゞひ知ていくさを興す。むかし魏の大将に栢直と云者あり。高祖の云、我臣漢信にをよぶべからずとて、信を遣はし合戦し、栢直を討亡ぼす。大将あしければ軍乱れほろぶる事ひつせり。扨又郎従の其中にをいて器量をはかつて物頭をえらぶ。論語に云、一人につぶさなる事を求むる事なしと云々。故にそれ〳〵にえたる所の才智のをよぶ所を分明し、旗、弓、鉄炮、鑓の物頭を一人づゝ申付る時に、皆それ〳〵の奉行の下知を守る。其一人の物頭、他出に至つては、残る所の役人進退成がたし。これによつて軍法を定めをく。むかしはか様の法度もなかりし。軍陣にをいて若一人なりとも法度をそむく者有て、軍中をぬきんで、たとひ比類なき高名をあらはすといふ共、たちまち罪科にをこなはる。故に大小名に法度を用ひて、それ〳〵の役をつとむるをもつて弓法の本意とす。され共合戦により武略異なれば、一様には定がたし。唐と日本人の心おなしからず。関東と関西の弓矢のかたぎかはる。むかしと今猶もて各別なり。然といへ共、文を左にし武を右にするは、いにしへの法、兼てそなへずんば有べからず。保元の合戦より以来このかた、永禄八乙丑年、公方義輝公御滅亡まで、四百十一年の間の弓矢、その数あげてかぞふべからず。扨又鎌倉にをいて官領上杉 安房の守 憲実、むほんによつて永享十一年 持氏公御 生害にて、関東乱国と成て合戦 止む事なき所に、関東に主なくして国おさまりがたしと、諸侍相談し、持氏公の四男成氏公を引出し、公方の御遺跡を取立、主君にあふぎ、官領上杉の下知にしたがひ、をのれ〳〵が国郡居舘に有て永久を願ひ、先祖をまつり、旧功の郎従其子々孫々まで撫育せんと義を専に節を重くす。然どもやゝもすれば国堺をあらそひ、是は頼朝公より以来このかた、我家につたはる所領なり。此所領なかりせば君をもたつとぶべからず、戦場にて命をも捨つべからず。此所帯に身命を売切たる故に、一所懸命と書きていのちをかくるとよめりなど云て、或時はほんぎやくを企て、公方へ弓を引、或時は官領上杉と戦(たゝか)ひ止む事なし。世上無事に有ては先規を正し、家々の系図を諍論に及ぶ。延徳年中、公方政氏公時代、大森奇栖庵明昇、長尾左衛門尉景信、佐保田河内守亮治、太田左衛門大夫、寺尾若狭守、太田道灌沙弥、梶原能登入道などが取かはしたる古き小札共、愚老おほく披見せしに、此等の侍共家々の意趣をあらそひ、そし、そうりやう家を論じ、東鏡(あづまかゞみ)を証文とし沙汰にをよぶ。我等先祖へ謹上がきかくあり、誰々へは御教書もか様に有て厳重也。承久三年 兵乱、鎌倉より京都へ攻上る時節の引付共あり、吾妻鑑(あづまかゞみ)を披見せらるべし。是末代までの明鏡なりと記す。是 不審なり。今人々もてあぞび給へるあづまかがみは、慶長年中 家康公此 文を始めて見出し給ひしより世間に流布す。但し此文の外に吾妻鏡と号す書物有か。扨又此文の写有て其時代沙汰しけるが、おぼつかなし。然る所に、北条早雲東国へ打入り、氏康時代東八ケ国を追討せしより、関東侍の系図、意趣あらそひもみなすたれり。又ちかき年中、都鄙にをいてほまれ有る大将をうかゞひ見るに、弓矢の取やう心々に替れり。信長公は幼稚より武勇をこのみ、文を学び給はずといへども、私欲なく、忠臣に賞をほどこし、運に乗じて度々のたゝかひに討勝て、武将のほまれをえ給へり。され共長臣のいさめを用ひず、身のかへりみなき故にや、下人の明智が為に益なく害せられ、秀吉公は善悪を分明し、智謀武略をもて数度の合戦に切勝、高麗国迄したがへ、天下泰平に治め、希代の名大将たりといへ共、右の両君一代のほまれ有て武運尽き給ひぬといへば、老人云、此両将は文の学なきゆへ、武威のみにほこり、仁義の道なく、神明仏陀をもたつとび給はず、国民のなげきかなしびをも弁へず、心のいかりをやめず。信長公は天台山を灰燼し、三千の衆徒を殺害す。秀吉公は根来覚鑁上人の霊寺を焼亡し、僧侶の首を切り、仏敵たる故、一代に秀でゝ誉有といへ共二代つゞかず、家滅亡し給ひぬ。蘇老泉が云、一忍もて百勇をさゝへ、一静もて百難を制すと云々。是は大将の心持なり。一ツの堪忍を以て百の血気の勇をとゞむる。一つの静なるをもつて百のうごきをとゝむべし。一旦のいかりをしづめず、日本無双の霊山を破却し、数千の僧徒の首を切る。其罪おびたゞし。をそれずくなからずや。尚書に云、罪のうたがひをば軽くし、功のうたがひをばをもくせよと云々。国家を治むる君は先もて文を学び、仏神を信敬し、仏法王法繁昌し、国民安世をねがふ。ほとんど右の両将、文なき故、仁義をもをこなはず、仏神をも敬せず。故にや弓矢の冥加にそむき、一代にて滅尽し給ふ。扨又関東にをいて、上杉 輝虎は戦場に出、郎従に先立て鑓を取、太刀討し、独けなげを好み、猛き大将のほまれ有。武田信玄は武欲を専とし、片意地に弓矢を取て、つよき大将の名をえ給へり。此両将 独けなげを頼み、武威にほこるを専とせり。孫子は兵法をよくしり、勇士たりといへども、兵勇を用ひず、たゝかはずして謀を第一とし、勝つ事を専とす。扨又小田原北条家、早雲より以来このかた五代の弓矢を聞及びしに、仏神をたつとみ、我運をいのり、仁義を専とし、民をなで、智仁勇の徳有て、関八州を千余年静謐に持つゞけ、弓矢の誉を残せり。右の大将武運つき、皆滅亡し給ひぬ。され共善道をば後代までも学び、あしき道をば学びがたし。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




