3-3 鉄砲伝来 ~“100万ドルの夜景”と五代目のポエム ~
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
どうも。歴史の「転換点」を追いかける記録魔、三浦浄心だ。
今回は、日本の合戦のルールを根底から書き換えてしまった「チート武器」――鉄砲が、ここ関東にどうやって広まったかというお話。
これ、実は小田原北条家がかなり早い段階で目をつけ、独自に「魔改造」と「量産」を進めていた最先端ガジェットだった。
「和泉の堺にヤバい鳴り物がある」
話は俺が若かった頃、小田原にいた王滝坊っていうベテラン山伏から聞いた話にさかのぼる。
そのじいさんが毎年恒例の「大峯修行(関西遠征)」に行っていたときのことだ。和泉国の堺(大阪)に立ち寄ると、何やら耳をつんざくような「ドーン!」という爆音があちこちで鳴り響いていた。
「おい、これ何事だ?」
と通行人に聞くと、「これですよ、これ。唐の国(中国)から最近入ってきた『鉄砲』っていう最新兵器です」と教えてくれた。時代は永正7年(1510年)。種子島に伝わる30年以上も前の話だ。
その山伏はピンときた。
「これ、関東に持っていったらバズるんじゃね?」
彼はさっそく一挺の鉄砲を買い込み、小田原へ持ち帰って北条家二代目・北条氏綱公に献上した。
実演を見た氏綱公はビビった。
「これ、関東に二つとないお宝だろ……!」
当時の武士たちにとって、最強の憧れといえば伝説のアーチャー・鎮西八郎為朝だった。彼は鎧を3領重ねて吊るしたものを射抜くほどの「強弓」の持ち主。保元の乱では一人で数万の敵を足止めしたという、まさに軍事界のレジェンドだ。
でも、武士たちは気づいてしまった。
「どんなに鍛えた強弓でも、いい鎧を着てればワンチャン防げる。でも、この鉄砲っていうやつは……為朝の弓よりパワーあるよね? 鎧とか紙同然じゃん」
噂は一気に広まり、関東の武士たちは「所領を売ってでも一挺ほしい!」と、最新のiPhoneを求めるような熱狂に包まれた。
三代目・氏康公の代になると、北条家はさらにエンジニアの引き抜きというアクセルを踏む。 堺から「国康」という鉄砲製作の神職人をスカウト。小田原で国内生産ラインを構築した。
紀州の根来寺から、杉の坊や二王坊といった「狙撃のプロ(僧兵)」を講師として招聘し、家臣たちに射撃訓練を徹底させた。こうして北条家は、製造と技術の両面で関東のトップを走る「鉄砲先進国」になったんだ。
時は流れて天正18年(1590年)。豊臣秀吉の軍勢が小田原を包囲した。海も陸も敵の軍勢で埋め尽くされ、まさに絶体絶命のイベント。ここで秀吉が粋な(?)提案をしてきた。
「せっかく両軍とも鉄砲を揃えてるんだ。一斉にぶっ放して、どっちの火力が上か、景気よく見せ合おうぜ!」
決行日は5月18日の夜。五代目・北条氏直も「受けて立ってやろうじゃん」と応じた。城壁の矢狭間(隙間)一つにつき、鉄砲3挺を配置。さらに特大の「大鉄砲」まで準備して、夜が明けるのを……いや、夜が深まるのを待った。
夕暮れとともに、数万挺の鉄砲が一斉に火を噴いた。「天地が震動した」と言われるほどの爆音。月の光さえも硝煙でかき消され、あたりは完全な闇に包まれた。だが、その闇の中で無数の発砲炎がまたたく。北条家五代目・氏直公は、高い矢倉に登ってその光景を眺めていた。敵軍の鉄砲の光と、自分たちの放つ光。それが暗闇の中で入り乱れる様子を見て、彼は思わず一首詠んだんだ。
「地にくだる、星が堀辺のほたるかと 見るや我がうつ鉄砲の火を」
(空から星が降ってきたのか? それとも堀端のホタルだろうか。いや、俺たちが撃ち出す鉄砲の輝きだ)
側近たちは「殿、お見事です! 敵の鉄砲は草むらのホタル程度ですが、我ら城内の光はまるで満天の星空のようですな!」と盛り上げ、氏直公もこれにはニッコリ。
……まあ、その後、城は落ちちゃうんだけどね。でも、その夜の光景は、戦国を生き抜いた俺たちの目に、一生モノの「神演出」として焼き付いているんだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
三 関八州に鉄炮はじまる事
見しは昔。相州小田原に、王滝坊と云て年よりたる山 伏あり。愚老若き比、其山 伏物語せられしは、我 関東より毎年大峯へのばる亭禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物のこゑする。是は何事ぞやととへば、鉄砲と云物、唐国より永正七年に初て渡たると云て、目当てうつ。我是を見、扨も不思義、きどくなる物かなとおもひ、此鉄砲を一挺かいて、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。此鉄砲を放させ御覧有て、関東にたぐひもなき実なりとて秘蔵し給へば、近国他国、弓矢にたづさはる侍、此よしを聞きゝ、是は武士の家のたからなり。昔 鎮西の八郎 為朝は、大 矢束を引き、日本 無双の精兵なり。弓勢をこゝる見んため、よろひ三領をかさね、木の枝にかけ、六重を射とをしたる強弓なり。保元の合戦に、新院の味方に八郎一人有て、忽射ころす者おほし。数万騎にてせむるといへ共、此矢にをそれ、院の御門破る事かなはずとかや。今弓は有ても、よきよろひをたいすれば、をそるゝにたらず。いかにいはんや彼鉄砲は、八郎が弓にも勝りなるべし。所帯にかへても一挺ほしき物かなとねがはれしが、氏康時代、堺より国康といふ鉄砲はりの名人をよび下し給ひぬ。扨又 根来法師に、杉房、二王坊、岸和田などゝいふ者下りて、関東をかりまはつて幾砲ををしへしが、今見れば人 毎に持しと申されし。然ば一 年北条 氏直公、小田原 籠城の時節、敵は堀ぎはまで取より、海上は波間もなく舟をかけをき、秀吉公西にあたつて山城を興じ、小田原の城を目の下に見て仰けるは、秀吉数度の合戦 城責せしといへども、か程軍勢をそろへ鉄砲用意せし事、さいはいなるかな。時刻を定め一同にはなさせ、敵味方の鉄砲のつもりを御 覧ぜんと仰有て、敵がたよりよばゝりけるは、来五月十八日の夜、数万挺の鉄砲にて惣ぜめして、楯も矢倉も残なく打くづすべしといふ。氏直も関八州の鉄砲を兼て用意し、籠めをきたる事なれば、敵にも劣るまじ、鉄砲くらべせんと、矢狭間一ツに鉄砲三挺づゝ、其間々に大鉄砲をかけをき、浜手の衆は舟に向つて海ぎはへ出で、暮るをおそしと相待つ処に、十八日の暮がたより放はじめ、敵も味方も一夜があいだ放しければ、天地震動し、月の光も煙に埋もれ、ひとへにくらやみとなる。され共火のひかりはあらはれ、限りなく見ゆる事、万天の星のごとし。氏直高矢倉に揚り、是を遠見有て狂歌に地にくだる、星が堀辺のほたるかと見るや我がうつ鉄砲の火をと口ずさび有しかば、御前に候かうする人々申ていはく、御 詠吟のごとく、敵は堀辺の草むらに蛍火の見えかくれなるがごとし、城中の鉄砲の光は、さながら星月夜にことならずと申ければ、氏直ゑみをふくませ給ふ事、なゝめならず。誠に其夜の鉄砲に、敵味方耳目をおどろかす事、前代未聞なり。愚老相州の住人、小田原にろうじやうし、其節今のやうにおもひ出られたり。然ば鉄砲唐国より永正七年に渡、それよりはんじやうし、慶長十九年迄八百五年なり。扨又関八州にてはなし始し事は亭禄元年より、今年迄八十七年以来このかたと聞へたり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




