3-1 河越夜戦 ~ 絶体絶命のワンオペ城守備を「逆転無双」で救った三代目氏康の経営戦略
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名は北条家三代目の北条氏康だ。
初代・北条早雲が「正直に生きろ」「朝4時に起きろ」なんてストイックな人生哲学を遺してくれたおかげで、二代目の北条氏綱の代には、うちの北条家は関東でも有数のメガベンチャーに成長した。
だが、二代目が亡くなって俺が跡を継いだ途端、待ってましたと言わんばかりに「北条潰し」の包囲網が敷かれたんだ。これが世に言う「河越夜戦」という名の超大型イベント。
正直、これ、無理ゲーだろ?ってレベルの難易度だったんだが……どうやってひっくり返したか、その舞台裏を語ってやろう。
事の始まりは、西と北からの同時多発テロ……じゃなくて、同時侵攻だった。西からは駿河の今川義元。あの「東海道一の弓取り」が、うちの重要拠点・長久保城を包囲した。北からも 関東管領の上杉憲政が、河越城に攻め込んできた。
しかも憲政は、うちの縁戚だったはずの古河公方・足利晴氏まで「北条は生意気だ。あいつら倒して天下を正そうぜ」とそそのかして味方に引き入れやがった。気がつけば、河越城を取り囲む敵軍の総数は約8万。対するこっちの守備隊は、たったの3千。この時点で、普通なら「サービス終了のお知らせ」が出るレベルの絶望的状況だ。
ただ、河越城を守っていたのは、ただの部下じゃない。俺の義理の兄弟でもある北条為昌……じゃなかった、今回大暴れしたのは北条 綱成だ。この男、戦場では「地黄八幡」の旗を掲げて突っ込んでいくガチの戦闘狂。
旗には墨で「八幡」の二字。これを見た敵は「うわ、あいつが来た!」と秒でビビる。彼は一生に30回以上の大合戦を経験しているが、勝つたびに「勝ったぞー! 勝ったぞー!」と叫ぶルーティンがある。これが味方の士気を爆上げし、敵の心を折る最強のパッシブスキルだった。憲政たちは「あんな城、籠の中の鳥よ」と余裕ぶっこいていたが、綱成率いる3千の「精鋭オタク集団」は、2年もの間、一切の隙を見せずに籠城し続けたんだ。
とはいえ、2年も包囲されりゃ食糧も尽きるし、城内は餓死寸前。俺はなんとか彼らを助けようと、まずは「平和的解決」を提案してみた。公方様や上杉憲政に対して、めちゃくちゃ謙虚な書状(DM)を送ったんだ。
「いやー、北条家はもともと公方様の忠実な臣下ですから! 今回のことは誤解です。河越城にいる3千人の命さえ助けてくれるなら、城はタダで返します。なんなら今まで占領した土地も返上しますんで、勘弁してください!」
これ、本心かって? まさか。敵を油断させるための「徹底的な低姿勢ムーブ」だ。これを見た敵陣営の難波田弾正とかいう連中は、「氏康もビビってんな! 逃がすわけないだろ。一人残らず殲滅だ!」と、完全に調子に乗った。彼らは「天の網にかけた魚だ、逃がさない」なんて中二病全開の返事を寄こして、攻勢を強めてきた。
――よし、フラグ回収完了だ。天文15年(1546年)4月20日。俺は決めた。
「運は天にあり。命は惜しまない。10倍以上の大軍? 関係ねえ、気合いの入った1人が10人を倒せば計算は合うんだよ!」
俺は全軍に向かってこう宣言した。
「いいか、戦は数じゃない。心のシンクロ率だ! 上杉の弱兵どもに、北条の『太刀風』を叩き込んでやれ!」
深夜、雨の音に紛れて俺たちは敵陣へステルス侵攻を開始。同時に、城内の綱成も「勝ったぞー!」の咆哮とともに門をぶち破って突撃してきた。寝ぼけていた8万の連合軍は大パニックだ。
「え、北条って降伏するんじゃなかったの!?」
「味方か!? 敵か!?」
暗闇の中、同士討ちを始める連中を尻目に、俺たちはひたすら斬って、斬って、斬りまくった。
終わってみれば、敵の戦死者は3千人以上。俺のことを「生意気だ」とディスっていた難波田弾正は、親子揃って戦死。関東管領・上杉憲政は、着の身着のまま越後(上杉謙信のところ)へ逃亡。古河公方の足利晴氏も、プライドをズタズタにされて下総へ逃げ帰った。
この一戦で、関東のパワーバランスは完全に崩壊。北条家は「地元の有力企業」から「関東の覇者」へと一気にランクアップしたんだ。
そうやって俺は親父から受け継いだ河越の地を、命を賭けて守り抜いた。
この後、俺は家督を息子の氏政に譲り、元亀元年(1570年)にこの世を去った。法名は「大聖寺殿東陽岱公大居士」。人々は俺のことを「関東随一の名将」と呼んでくれる。でも、一番の誇りは、あの夜、俺を信じてついてきてくれた家臣たちの勇気だ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
一 北条氏康と上杉憲政一戦の事
聞しは、昔北条左京大夫 平の氏康は、弓矢をとりて関八州にまういをふるひ、名大将のほまれをえ給へり。亡父氏綱、駿河長久保の城、武蔵河越の城をせめおとせしより以来このかた、氏康守護たり。然にするが今川義元、上州上杉 憲政と一味し、義元は駿・遠・参の勢を率し、長くぼの城をかこむ。此よしつげ来るによて、氏康軍兵をもよほし、するがへ出馬あらんとする所に、官領上杉 後詰として河越へ発向し、城を取まはし、すきもあらせずせむる事、昼夜をわかたず。然ども氏康は、さかひ目の諸城に常に多勢をこめ、兵粮米を入れおき、自国を堅固に守り給ふゆへ、俄の逆乱出来といへ共、あへてもておどろきがたし。其上河 越には北条 上総守在域す。此人は数度の合戦に先をかけ、其名をえたる大剛のものなり。はたは朽葉の地に八幡の二字をすみにて書たり。皆人黄八幡とぞいひける。敵此はたを見て、をそれざるといふ事なし。上総守合戦のたび毎に、黄八幡のはたを真先にたて、うちわをあげて衆をいさめ、かつたぞ〳〵と斗ふ人なり。上総守一 生涯、三十 余度の大合戦に、かつたぞ〳〵といひて勝利をえたり。味方も此はた先立つをみては、勝つたり〳〵とおめき、いさみたり。是によて万の引句にも、上総守の弓箭にてかつたぞ〳〵といひならはし候ひぬ。然に憲政いはく、河越の城に上総守たゞ一人有事、籠鳥を見るがごとし。先年此城は、同名朝定居城なり。氏綱にせめおとされ、一門のちじよくいこんやんごとなし。無二に此城せめおとし、会稽の恥をすゝぐべしと、数万の勢にてせめたゝかふといへ共、上総守籠るゆへ、力せめには成がたし。其比古河の公方晴氏公は、氏康には縁者、憲政は旧臣、いづれ御ひいきなく、双方無事の御あつかひあり。然処に憲政 馬まはり難波田弾正入道、小野因幡守(をのゝいなばのかみ)、公方様へ参候し申ていはく、伊豆相摸は公方様の御領国といへ共、其はゞかりもなく、早雲氏綱父子横領し、その上武蔵下総の国のかたはしを切て取、逆威をふるひをはんぬ。氏綱は六年以前 卒去すといへ共、其子氏康若年より数度の合戦に勝利をえ、世にひいでたる大将のほまれをあらはす。憲政をほろぼし、其上は古河様を追討仕り、をのれ公方にもならん望たなこゝろににぎるかとおばへ候。此度御馬出さるゝにをいては、東西南北に敵共味方共見へず、善悪を見合をるさふらひども皆ことごとく御旗本へはせ参べし。然るときんば河越の城は数日をへずせめおとし、其いきほひに氏康御退治しかるべしと、しきりにいさめ申によて、公方様 河越へ両年御馬を出され。是によて河越の城、通路二年ふさがり、すでに城中餓死に及ぶよしを聞きゝ、氏康出陣し、有無に一合戦し、運命をば天にまかすべしと、敵陣ちかくはたを立。一戦いぜんに、公方様へ氏康一通の状を進上す。河越籠城に付て、これ公方様御あつかひ、きよくなく存奉るといへ共、すでに骨肉同姓の宮仕に参られ候上、若君様御 誕生以来このかたは、猶以 忠臣一三昧にあふぎ奉る。然に去年 駿州より長久保の地、取つめ候処に、憲政後詰として河越をとりまき、其上御動座の儀を憲政しきりに申上らるゝよし、其聞へ候。氏康事も御ひざもとに候へば、此刻一方向に御 懇切めいわくたるべく候。たゞ何方へも御はつかうなく、たがひの善悪により、いか様御 威光あふぎ候よし申上候所に、過半御なつとく有て、御せいくの御書、つゝしんで頂戴、再三はいどくを経、安堵のおもひをなし奉り候所に、難波田弾正忠、小野 因幡守以下申上るにより、やがて上意をひるがへされ、御馬出され両年に及び、御はた立られ候間、城中三千余人 籠置候者共、運粮の用路をふさがれ、をの〳〵難儀に及ぶ由承るに付て、河越籠城のもの、身命ばかり御赦免候ばゝ、要害あけわたすべきよし申候上所に、御納得のへんたうの上、氏康武州砂窪の地へ打出、諏訪右馬助、小田政治、代官菅谷隠岐守、未聞不見の人に候といへ共、御陣中より招き出し、たゞ今ようがいあけわたし進ずべきよし申上候所に、城中の者どもは天の網にかけをき候間、一人ももらすべからずのよし、御ふくりつもつてのほかの間、かさねて上聞に達しがたきよし、中使挨拶の時刻をうつさず、諸軍一戦をもよほし、下立砂窪へをしよせられ候。氏康時節 到来のがれがたきの条、今日 有無に一戦をとげ奉るべく候。先年も父氏綱、上意をもて内々御たのみの間、君命そむき難きによて、義明様を追討し奉り、関東諸侍にぬきんで忠勤をはげまし候事、都鄙まで其かくれなく候処に、いく程なく先忠を御忘れ、其子孫を絶されべき御くはだて、君子逆道なに事に候哉。不善と善不悪と悪、君臣あまねくもてなんぞあふぎ奉るべく候。今日一戦をとげ、氏康心底正路のぎ、天道のあはれみむなしからずんば、うんめいを開き、累年の宿望をはれ候べし。此旨啓達せしめ候をはんと書きてをくり、氏康諸軍にむかつていはく、それ運は天にあり。いさゝか命おしむべからず。其上合戦の勝負、大勢小勢によらず、たゞ軍士の心ざしを一味にするとせざるとにあり。小敵をばをそれ、大敵をあざむくと老士のいさめも此義もてなり。憲政と近年 数度の合戦に及ぶ時に至つて、味方一人を敵十人に心あて、十人は百人、百騎は千騎につもり合戦するに、一度ふかくをとらず。此度の人数も、敵を十分にして味方一ツは有ぬべし。いまにはじめぬ合戦。其上味方の士卒等ら一もて千にあたる。氏康が太刀風をば、憲政弱兵等ら、さぞ身にしみて覚ゆらんと。天文十五年四月廿日、時刻を移すべからず、かゝれ兵どもと団をあげて下知し給へば、命は義によつて軽し、討死して名を後記にとゞめんと、命をば一塵よりも軽く、おもてもふらず太皷を撞つてせめかゝる。城中上総守是を見て、門をひらき三千余騎いさみすゝみ切て出る。公方も憲政も兼て催す合戦、たがひに鬨の音をあげ天地をひゞかし、討つうたれつ半時たゝかひしが、憲政うちまけ敗北す。氏康勝に乗つていきほひ、追懸をいたをし、つきふせ切ふせ三千余人 討捕たり。難波田入道は、此度讒訴の張本人、父子三人、をいの隼人正をはじめ皆こと〴〵くうつとられぬ。憲政は越後をさして敗北す。晴氏公は下総へ落行。氏康 猛威を遠近にふるひしかば、公方上杉の郎従等らこと〴〵くはせ参じ降人と成て幕下に付。それより以来このかた、関八州をせいひつにおさめ給ひぬ。其後 氏康の長兄氏政に家督をわたし、氏康は元亀元年庚午十月三日逝去なり。法名は大聖寺殿 東陽岱公大居士と号す。氏康のちゝ氏綱、天文六年七月十五日、上杉朝定と河越にをいて合戦し、氏綱うち勝つて朝定を亡ぼし、其例にかなひ、戦場かはらず又此度、氏康宿望に達し、勝利をえられし事、弓矢の冥加にかなへる武家、くわん東にをいて名誉の大将とぞ人沙汰し侍る。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




