2-7 歴史談義 〜 誰が「天下の主」たり得るのか 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
ある日のことだ。俺の北条家の若手侍たちが集まって、熱い「歴史談義」を交わしていた。
「なあ、昔の合戦ってのは、やっぱり『公式の勅状』持ちが最強だったんだよな?」
「平将門を討った藤原秀郷、奥州を平定した源義家……頼朝公や足利尊氏様だって、結局は朝廷から『追討命令』をもらっていたから天下を獲れたわけだ」
一人の若手が鼻を鳴らした。
「だが、今は違う。近代のトッププレイヤーは、ライセンスなんて無くても『一身の腕前』だけで天下の主に成り上がっている。
将軍を害した三好修理亮。尾張・美濃・伊勢を制して京都を奪い返した織田信長。その信長を討った明智光秀をさらに撃破し、日本中を平定した羽柴秀吉……。
特に秀吉公なんて、俺たち北条を討ち、奥州まで飲み込み、さらには韓国まで攻めた。醍醐の花見や北野の大茶湯……まさに栄華の極み、人生の完全攻略者だろ!」
別の若手が追従する。
「全くだ。信長・秀吉の時代から、家系図なんていう古いステータスは意味をなさなくなった。民百姓だろうが、武勇さえあれば一国一城の主になれる。まさに前代未聞、中古開山の『権化』だ。あんな名大将、二度と現れないぜ」
盛り上がる若手たちの背後から、一人の老兵が静かに口を開いた。
「……フン。お前ら、表面上の戦果だけで判断するな。信長と秀吉の『弓矢の取り様』は、実は全く別物だぞ」
老兵は語り始めた。その目は、歴史を冷静に解析しているようだった。
「信長公は、永禄年間に京都へ上洛してから、あっという間に近江、摂津、越前、播磨など十五ヶ国を支配した。
世間じゃ『短慮で未練な暴君』なんて言われているが、俺から見ればあの人は凄まじい智謀武略の大将だ。
例えば、大坂の一向衆だ。坊主一人として旗下に従わず、籠城する奴らは一人一人が『死を恐れない狂戦士』。普通なら力押しでリソースを無駄にする。
だが信長公は、あえて五年間も決定的な攻撃をせず、放置し続けた。味方の損耗を最小限に抑え、最後は和平の儀で城を明け渡させたんだ。」
「隣国の武田信玄に対してもそうだ。信玄が生きている間は、徹底的になだめて和睦を維持した。そして、息子の勝頼の代になって『隙』ができた瞬間に馬を出して滅ぼした。
関東への進出も、北条という大勢力と西国の未平定エリアを天秤にかけ、無理に深追いせず甲州から引き揚げた。
『戦わずして勝つ』……その本質を理解していたのが、織田信長という男の真のステータスだ」
「一方で秀吉はどうだ?確かに武勇は凄まじかったが、勝つほどに『奢り』が蓄積されていった。
例えば、小田原攻めだ。北条氏直は一度は旗下に属する意思を見せ、使者を出し、翌春の上洛も決めていた。それなのに秀吉は、わずかな『遅参』を口実に関東へ出馬したんだ。
さらに奥州。伊達政宗たちが降伏して小田原に参じている以上、もう敵はいないはずだ。百余日の長陣で全軍が疲れ果てているのに、秀吉は『弓矢の威力を百姓に見せつける』ためだけに奥州へ下り、田畠の検地を強行した。兵たちの労苦も考えず、黒川(福島)から帰路につく……。これは名大将のすることじゃない。ただの自己顕示欲の塊だ。」
皆は、老兵の話を黙って聞いていた。
「孟子の言葉にもある。『君の政は民を養うを本とす』。国を治める大将とは、苛烈な政治を排除し、自らを律して、万民を安心させる者のことだ。そうすれば天眼に守られ、神仏の加護が得られる。
己の欲望のために軍を起こせば、一時は勝てても治世は続かず、必ず滅亡する。反対に、民のために弓矢を取れば、冥助があり、幸せが訪れる。
天下を治めたら、武器を袋に入れ、民を豊かにする『佚道』を歩むのが君子の道だ。
秀吉の『高麗出陣』はどうだ?唐の使いが来たという口実で、五十万騎もの大軍を動かした。その兵糧を運ぶのは、他でもない日本の百姓たちだ。その悲しみ、リソースの無駄遣いは計り知れない。幾千万の死体の山。これは全て、秀吉が『一身のほまれ』を願ったがゆえの科だ。」
比較対象として、老兵は初代・源頼朝公のエピソードを引用した。
「頼朝公が上洛する時、諸侍は準備を整えていた。だが頼朝公は、『今年は作物が不作だ。百姓たちが疲れているから中止しよう』と一年延期された。
天王寺参詣の際も、奉行が百姓に荷物運びを命じようとすると、『参詣は自分のためだ。百姓を苦しめるのは頼朝の罪になる』と陸路をやめ、淀から船を出された。
平家追討の時も、部下の源範頼へ送った命令書にはこうある。『敵国の百姓であっても、憐れみをかけ、苦しみがないように統治せよ』
……これこそが、国を治める大将の正しい政道だ。上に悪政あれば、下には悪党が増え、国は危うくなる。国主が道を違えるのは、盗賊と同じだと先哲も言っている」
ここで、老兵の口から俺の名前が出た。
「秀吉は天下を獲った後、百姓から年貢をむさぼり、日本中の検地を強行して民を悲しませた。だが、北条氏康公はどうだったか。
かつて家臣たちが集まり、評定所で『検地をしましょう』と提案した時、氏康公はこう言って一蹴された。
『老子も言っている。国を治めるのは小魚を煮るように静かに行うべきだと。己の欲のために戦えば神は見捨てる。天下の悪を払うために戦うからこそ天の助けがあるのだ』
氏康公が天下を望んだのは、私欲じゃない。国のため、民のためだ。
先祖の早雲公以来、北条家は『五ツ(50%)獲れるところを、一ツ(10%)許し、四ツ(40%)を年貢とする』という超ホワイトな税率を維持した。
これ以外に追加の税は一切かけない。もし日本中がこのルールで運営されていたら、民は豊かになり、国は安泰だっただろう。氏康公は朝晩仏神にそれを祈っていた。
今の世の百姓が、秀吉の作ったクソ重い税制に喘ぐたびに、『秀吉は欲深かった』とそしるのは当然のことだ。これは後代まで語り継がれるぞ。」
話はいよいよ、信長と秀吉の「終わり」に及ぶ。
「信長公は兄を殺して国を奪い、舅を追い、何より天台山を焼き払い、三千の僧の首を切り、高野山の聖を数千人殺した。その報いとして、高野山で信長調伏の儀式が行われ、三七日が満ずるその日に、明智光秀の手によって滅亡した。
秀吉もまた、根来の霊場を灰にし、数千の僧の首を切り、あまつさえ信長公の跡継ぎを殺した。主君の恩を仇で返したわけだ。寺社領を没収し、神国・日本の魂を汚した。
日本の法律の原点『御成敗式目』の第一条には、『神社を修理し、祭祀を専らとすべきこと』とある。神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う。仏を尊ぶのが政道の本だ。この本根本を疎かにして、枝葉が収まるはずがない。
異国にも悪王はいたが、最後には賢王が現れて再興した。今の家康公の時代になり、寺社領が復活し、神仏が敬われるようになってようやく世の中は喜びを取り戻したんだ。
信長も秀吉も、学問がなかった。だから仁義の道を知らず、神仏を敬わず、民を愛でず、ただ私欲に迷って一生を弓矢に捧げた。天道に背いたゆえに、あんなに強かったのに一代で滅亡してしまったのさ。……いいか、これが歴史の真の結果だ。」
老兵の話が終わり、若手たちは静まり返った。
「フン、よく言った、爺さん。俺たちが守り抜いた『四公六民』のシステムや、神仏への敬意……。それこそが、たとえ家が滅びようとも、人々の心の中に残り続ける『北条のブランド』なんだな。
どれだけ武勇を振るおうが、運営が民を苦しめれば、国は長続きしない。信長や秀吉のような『チート級プレイヤー』の末路を見て、何を学ぶか。」
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
七 古今弓箭の沙汰の事
聞しは今、若殿原達寄合、いにしへの時代の合戦を心(こゝろ)みに沙汰し給ふ。其中に一人申されけるは、むかしを聞に、朱雀院の御宇、東国下総の国にをいて、平将門むほんをおこし、逆威をふるふ。彼を退治の為、藤原の秀卿勅定をかうふり、天慶三年二月、討ちほろぼす。れいぜん院の御宇、奥州あべのさだたう、むねたうを追討として、いよの守源のよしより馳せ下り、十二年合戦し、つゐには平康五年九月ついばつせられぬ。白河院の御宇、永保元年、奥州の将軍三郎 武衡、四郎 家衡追放として、むつの守源の義家下向し、かれらを誅す。頼朝たかうぢ、平家を追罸し、天下一 統になし、弓箭の威光をかゞやかしたりしも、皆是りんし、ゐんぜんを下さるゝが故なり。然に近代は勅定なしといへ共、一身 弓矢の手柄をもつて、天下の主となる人おほし。見よし修理亮は、将軍 義輝を害し奉り、兵威をふるふ。織田の三郎 信長公は、尾州の住人、みの、いせ両国を手に入れ、京都へ責め上り、みよしを追討し、右大将に任ず。明智日向守光秀は、主君信長公をうち奉り、京都にはたをあげしに、羽柴筑前守秀よしは、明智を討て後、天下を治め給ひぬ。世 澆末にをよび、人の心たけきが故、一身の手柄をもつて、天下の主となる。なかんづく秀吉公は、数度の合戦に切りかち、西国をなびかし、関東北条 氏直を追討し、奥州くろ川迄下着有て、日本国を太平に治め、あまつさへ高麗国を責亡ぼし、世に有てのたのしみに、醍醐、よし野の花見、高野詣、北野の大 茶湯を興し、心のまゝの栄花栄耀をなし給ひぬといふ。又一人のいはく、秀吉は主君信長の心を移しえて、弓矢の取様おなじ。たゞ飛龍の雲をえてのぼり、大河の水まして、淵も瀬もなく、平等にをし流すがごとし。むかしより国郡を持来る大名は、武道の勇弱にもよらず、先例を追つて、氏系図をたゞし、その子孫知行する処に、信長秀吉の時代より、先規の氏位を用ひず、民百姓成共、武勇の者をほうびし、国郡を出し、俄大名になりて威勢をふるふ。かるがゆへに諸侍、大功を心がけ、弓矢も昔よりははげしかりき。件の両将は、前代未聞弓矢の、中古開山、権化の名大将、末代とても有べからずと、思ひ〳〵に沙汰せらるゝ所に、老人有りしが、此由を聞て、信長と秀吉の弓矢の有様、かくべつなり。それをいかにといふに、信長永録年中、京都へ責め上り、其勢に、あふみ、山城、摂津、いづみ、かわち、ゑちぜん、わかさ、たんご、たじま、はりまを手に入れ、みの、おわり、いせ、みかは、遠江合れば十五ケ国を治められたり。然ども大坂の一向衆、坊主ひとり旗下に付ずして敵たり、地下のだんな共一味し、籠城す。此等は一つをもつて千に当る血気の者どもなり。され共小 城なれば、輙く責めなどすべき所に、みかたをそんざす事、思慮ある故か、五年いらへもせず打置き、後和平の儀有て、城を開退きぬ。甲州武田信玄隣国に有て逆威をふるふといへ共、却つてなだめ和睦し、勝頼時代馬を出されければ、聞落にはいぼくし亡びぬ。此いきほひに関八州 望みたるべしと思ふ所に、氏直大国をしゆごし、その上西国いまだおさまらざる故にや、甲州より帰落し給ひぬ。爰(こゝ)をもつて察するに、信長は武勇にたけ、心いられ短慮未練のよし聞へしかど、さはなくして智謀武略の大将なり。扨又秀吉は、一身の武勇に秀でて、運にまかせ弓矢をとり、勝に乗つて奢りを旨とし給ひぬ。其子細は氏直 旗下に属し、使者をのぼせ、其上来春上落の議定、其支度有所に、遅参のよし事を左右によせ、関東へ出馬也。名大将といふは、たゝかはずして勝つ事を本意とす。秀吉は弓矢の手柄をもつて、国を治むるを専としたまへり。然に秀吉奥州下向はなにゆへぞ。伊達正宗をはじめ小田原へ悉くはせ参じ、手をつかね旗下となる。其上小田原百余ケ日の長陣に、しよぐん草臥れ、気もつかれ果てたる所に、おもひの外、計策のあつかひ有て落城す。万軍はやく帰国せんとする所に、諸勢の労苦をもわきまへず、奢るにまかせ敵もなき奥州に下り、田畠のけんちをさせ、黒川より帰路し給へり。是 偏に弓矢の勢を百姓等にしらせん為斗也。孟子に、君の政するは民を養ふを本とす。是恒の産と云々。国を治むる大将と云は、兆民をなで、苛政をのぞき、我身を苦しめ、万士をやすんず。然るときんば、天眼くらからず、神明のかごあり。上善政をほどこす時は、下に簾士多くして、国ゆたかに、万人心すなほなり。其上天下をあらそひ、たゝかひをなすといふ共、身の為に軍をおこすは、一旦の利有といふ共、治世久しからず、果たして滅亡其中にあり。国の為万民のために弓矢を取るは、神明の冥助有て、身のさいはひ出来すべし。上より下を撫育すれば、下又 父母の思ひをなす。天下を治めて後は、干戈を箱に納め、弓を袋に入、佚道を専とをこなひ、民をゆたかにするが君子の道なり。然に秀吉 高麗国へ出陣は、唐使参のよし、詞を工みにし、弓矢をのぞむが故也。人数五十万騎とかや。件の兵粮米運送は、日本国の民百姓也。其なげき悲み、其ついへいか計ならん。其上敵味方の死人、幾千万といふ数をしらず。これ秀吉奢りを旨とし、一身のほまれを願ふゆへ也。其科をそれざるべけんや。むかし頼朝公かまくらより御上洛、諸侍其 支度あり。当年 田畠そんじたり、百姓つかれなるべしと其年をやめられ、翌年上洛也。京都より天王寺へ御参詣の御もよほしに付て、奉行等路 次中の運送を百姓等にふれ遣はす沙汰あり。頼朝公聞きこしめし、仏神への詣では身のため也、百姓をつかひ其くるしみ却つて頼朝が科なるべしと陸地をやめられ、俄に淀より乗船有て天王寺へ参詣し給ふ。さて又平家追討として、関東より西国へ軍兵進発す。其後大将軍参河守範頼へつかはさるゝ状にいはく、みかたのしよぐん勢へ相ふれ、敵国の百姓共に憐愍をくはへ、苦しみなき様に政道せらるべしと、度々下知せらる。国を治むる大将は、かくこそ有べき事なれ。上悪政をおこなふときんば、下に奸人おほくして国あやうし。君一人の善悪により、一天下の人の心皆是に応ず。すべて天下の国主として其道にたがふは、盗賊にひとしきと先哲も申されし。私欲をかまふる国主は、めつばうその中にあり。秀吉天下を治めて後、百姓の年貢をむさぶり、其上日本国中田畠を検地し、百姓の悲み、たゞ是秀吉一 身欲するが故也。是に付て思ひ出せり。北条氏康関八州を治めて後、一門家老の者共より合、評定所にをいて田畠けんちの沙汰あり。氏康聞て其義然るべからず。老子経に、国を治むるは小鮮をにるがごとしと云々。弓矢を取るに、身の為にいどむ軍は、神明もいかでか守り給はん。天下の悪をはらはん為、おこす弓矢は天の助けあり。然に氏康天下の望あり。是まつたく私欲にあらず、国のため民百姓の為を思ふが故也。先祖早雲宗瑞年貢しゆなうの義を定をかるゝより以来、北条家にをいて五ツ取所をば一ツゆるし、四ツ地頭へしゆなうす。此外 役一 切かけず。日本国かくあらんにをいては、民もゆたかに国あんたいなるべし。此一事を仏神へ朝暮きねんす。いかで神明の御助けなからん。件の願ひ、をそきがうらみなると申されし。其比 永楽五十貫、百貫と名付、田地の跡は今五千石一万石ありとかや。百姓ら是をなげく度毎に当地頭をはから見ずして、秀吉重欲故と口びるをかへし、そしらざるはなかりけり。いかにいはん後代迄をや。然ば信長は兄を殺しおはりの国をうばひ取、しうとを追討し、みのゝ国を取、天台山を焼きほろぼし、三千の衆徒の首を切り、高野ひじり数千人をころす。是によつて高野山にをいて信長を調伏す。三七日まんずる日に当つて、日向守が為に滅亡し給ひぬ。秀吉はねごろ覚钁上人の霊場を灰燼となし、数千の僧徒の首を切り、あまつきへ信長公の遺跡をたやし申さんとて、主君三子信高を殺す事、皆是あだをもつて君恩を報ずる事、いふに絶えたり。下人に過分の国郡を出し、をんしやうをほどこすは、我がため子孫の為をおもふが故なり。秀吉主君の恩を忘るゝは、是大鑑にあらずや。然るときんば扶持す国大名は秀吉の大敵、いかでかをそれざるべけんや。日本国の寺領社領は、秀吉公の時代にこと〴〵く取はなされたり。文選に、君道あるときんばまもり、海外に有と云々。かまくら将軍の時代、政道たゝしくおはしませば、末代までも是をまなび給へり。それ御成敗式目は天下の亀鑑との御時代、公方家に是を専用ひ給ふ。件式目五十一ケ条の最初に、神社を修理し、祭祀を専とすべき事と云々。神社をはじめにをかるゝ事、日本は神国なり。其上天地開闢のはじめ陰陽是を神といふ。神は魂なり。神は人のうやまふによつて威をまし、人は神の徳によつて運をそふ。次に寺塔を修造し、仏事等をごんぎやうすべき事と云々。日域仏法流布の国也。寺塔は仏の廟也。但(たゞ)し内典には仏を先とし、外典には神を先とす。是水波のへだてなり。天下国家を守護する人は、仏師をそんきやくるが政道の本なり。故に君子は本をつゝしむ。本たつ時は末おさまる。件の両将、神社の為には大尺魔、国民の為には悪大将の出現とやいはん。異国にも此例あり。悪王有て或代には仏経を焼きすて、或代は儒書をあつめ焼やきうしなひ、本をたやさんとせしか共、後賢王出世し、再興有て今の世までも繁昌す。此二文は天地のごとし。国民の父母たり。然る所に家康公の御時代には、日本国の寺領社領を付をき給へば、寺社を修造し、神仏の祭祀をこたらず、世こぞつて悦びあへり。件の信長秀吉、文の学なき故、仁義の道を知ず、仏神をも敬せず、民をもなでず、偏に私欲にまどひ、一生涯弓矢を取給ふといへ共、天道に背き給ふゆへにや、一代にて滅亡し給ひぬと申されし
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




