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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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2-7  歴史談義 〜 誰が「天下の主」たり得るのか 〜

挿絵(By みてみん)


『北条五代記(ほうじょうごだいき)』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 ある日のことだ。俺の北条家(ギルド)の若手侍たちが集まって、熱い「歴史談義」を交わしていた。


「なあ、昔の合戦ってのは、やっぱり『公式の勅状(ライセンス)』持ちが最強だったんだよな?」


「平将門を討った藤原秀郷、奥州を平定した源義家……頼朝公や足利尊氏様だって、結局は朝廷から『追討命令』をもらっていたから天下を獲れたわけだ」


 一人の若手が鼻を鳴らした。


「だが、今は違う。近代のトッププレイヤーは、ライセンスなんて無くても『一身の腕前』だけで天下の主に成り上がっている。


 将軍を害した三好修理亮。尾張・美濃・伊勢を制して京都を奪い返した織田信長。その信長を討った明智光秀をさらに撃破し、日本中を平定した羽柴秀吉……。


 特に秀吉公なんて、俺たち北条を討ち、奥州まで飲み込み、さらには韓国まで攻めた。醍醐の花見や北野の大茶湯……まさに栄華の極み、人生の完全攻略者(コンプリーター)だろ!」


 別の若手が追従する。


「全くだ。信長・秀吉の時代から、家系図なんていう古いステータスは意味をなさなくなった。民百姓だろうが、武勇さえあれば一国一城の主になれる。まさに前代未聞、中古開山の『権化(アバター)』だ。あんな名大将、二度と現れないぜ」


 盛り上がる若手たちの背後から、一人の老兵(ベテラン)が静かに口を開いた。


「……フン。お前ら、表面上の戦果(リザルト)だけで判断するな。信長と秀吉の『弓矢の取り様』は、実は全く別物だぞ」


 老兵は語り始めた。その目は、歴史(ログ)を冷静に解析しているようだった。


「信長公は、永禄年間に京都へ上洛してから、あっという間に近江、摂津、越前、播磨など十五ヶ国を支配した。


 世間じゃ『短慮で未練な暴君』なんて言われているが、俺から見ればあの人は凄まじい智謀武略の大将だ。


 例えば、大坂の一向衆だ。坊主一人として旗下に従わず、籠城する奴らは一人一人が『死を恐れない狂戦士(バーサーカー)』。普通なら力押しでリソースを無駄にする。


 だが信長公は、あえて五年間も決定的な攻撃をせず、放置(ウォッチ)し続けた。味方の損耗を最小限に抑え、最後は和平の儀(イベント)で城を明け渡させたんだ。」


 「隣国の武田信玄に対してもそうだ。信玄が生きている間は、徹底的になだめて和睦を維持した。そして、息子の勝頼の代になって『隙』ができた瞬間に馬を出して滅ぼした。


 関東への進出も、北条という大勢力と西国の未平定エリアを天秤にかけ、無理に深追いせず甲州から引き揚げた。


 『戦わずして勝つ』……その本質を理解していたのが、織田信長という男の真のステータスだ」


「一方で秀吉はどうだ?確かに武勇は凄まじかったが、勝つほどに『奢(バッドステータス)り』が蓄積されていった。


 例えば、小田原攻めだ。北条氏直は一度は旗下に属する意思を見せ、使者を出し、翌春の上洛も決めていた。それなのに秀吉は、わずかな『遅参』を口実に関東へ出馬したんだ。


 さらに奥州。伊達政宗たちが降伏して小田原に参じている以上、もう敵はいないはずだ。百余日の長陣で全軍が疲れ果てているのに、秀吉は『弓矢の威力を百姓に見せつける』ためだけに奥州へ下り、田畠の検地(システムスキャン)を強行した。兵たちの労苦も考えず、黒川(福島)から帰路につく……。これは名大将のすることじゃない。ただの自己顕示欲の塊だ。」


 皆は、老兵の話を黙って聞いていた。


 「孟子の言葉にもある。『君の政は民を養うを本とす』。国を治める大将とは、苛烈な政治を排除し、自らを律して、万民を安心させる者のことだ。そうすれば天眼(システム)に守られ、神仏の加護が得られる。


 己の欲望のために軍を起こせば、一時は勝てても治世は続かず、必ず滅亡する。反対に、民のために弓矢を取れば、冥助(バフ)があり、幸せが訪れる。


 天下を治めたら、武器を袋に入れ、民を豊かにする『佚道(いつどう)』を歩むのが君子の道だ。


 秀吉の『高麗出陣』はどうだ?唐の使いが来たという口実で、五十万騎もの大軍を動かした。その兵糧を運ぶのは、他でもない日本の百姓たちだ。その悲しみ、リソースの無駄遣いは計り知れない。幾千万の死体の山。これは全て、秀吉が『一身のほまれ』を願ったがゆえの科(とが)だ。」


 比較対象として、老兵は初代・源頼朝公のエピソードを引用した。


「頼朝公が上洛する時、諸侍は準備を整えていた。だが頼朝公は、『今年は作物が不作だ。百姓たちが疲れているから中止しよう』と一年延期された。


 天王寺参詣の際も、奉行が百姓に荷物運びを命じようとすると、『参詣は自分のためだ。百姓を苦しめるのは頼朝の罪になる』と陸路をやめ、淀から船を出された。


 平家追討の時も、部下の源範頼へ送った命令書にはこうある。『敵国の百姓であっても、憐れみをかけ、苦しみがないように統治せよ』


 ……これこそが、国を治める大将の正しい政道(ムーヴ)だ。上に悪政あれば、下には悪党が増え、国は危うくなる。国主が道を違えるのは、盗賊と同じだと先哲も言っている」


 ここで、老兵の口から俺の名前が出た。


「秀吉は天下を獲った後、百姓から年貢をむさぼり、日本中の検地を強行して民を悲しませた。だが、北条氏康公はどうだったか。


 かつて家臣たちが集まり、評定所で『検地をしましょう』と提案した時、氏康公はこう言って一蹴された。


『老子も言っている。国を治めるのは小魚を煮るように静かに行うべきだと。己の欲のために戦えば神は見捨てる。天下の悪を払うために戦うからこそ天の助けがあるのだ』


 氏康公が天下を望んだのは、私欲じゃない。国のため、民のためだ。


 先祖の早雲公以来、北条家は『五ツ(50%)獲れるところを、一ツ(10%)許し、四ツ(40%)を年貢とする』という超ホワイトな税率を維持した。


 これ以外に追加の税は一切かけない。もし日本中がこのルールで運営されていたら、民は豊かになり、国は安泰だっただろう。氏康公は朝晩仏神にそれを祈っていた。


 今の世の百姓が、秀吉の作ったクソ重い税制に喘ぐたびに、『秀吉は欲深かった』とそしるのは当然のことだ。これは後代まで語り継がれるぞ。」


 話はいよいよ、信長と秀吉の「終わり」に及ぶ。


「信長公は兄を殺して国を奪い、舅(しゅうと)を追い、何より天台山を焼き払い、三千の僧の首を切り、高野山の聖を数千人殺した。その報いとして、高野山で信長調伏の儀式が行われ、三七日が満ずるその日に、明智光秀の手によって滅亡した。


 秀吉もまた、根来の霊場を灰にし、数千の僧の首を切り、あまつさえ信長公の跡継ぎを殺した。主君の恩を仇で返したわけだ。寺社領を没収し、神国・日本の魂を汚した。


 日本の法律の原点『御成敗式目』の第一条には、『神社を修理し、祭祀を専らとすべきこと』とある。神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う。仏を尊ぶのが政道の本だ。この本根本を疎かにして、枝葉が収まるはずがない。


 異国にも悪王はいたが、最後には賢王が現れて再興した。今の家康公の時代になり、寺社領が復活し、神仏が敬われるようになってようやく世の中は喜びを取り戻したんだ。


 信長も秀吉も、学問がなかった。だから仁義の道を知らず、神仏を敬わず、民を愛でず、ただ私欲に迷って一生を弓矢に捧げた。天道(システム)に背いたゆえに、あんなに強かったのに一代で滅亡してしまったのさ。……いいか、これが歴史の真の結果(リザルト)だ。」


 老兵の話が終わり、若手たちは静まり返った。

 

「フン、よく言った、爺さん。俺たちが守り抜いた『四公六民』のシステムや、神仏への敬意……。それこそが、たとえ家が滅びようとも、人々の心の中に残り続ける『北条のブランド』なんだな。

 

 どれだけ武勇を振るおうが、運営(プレイヤー)が民(ユーザー)を苦しめれば、国(サーバー)は長続きしない。信長や秀吉のような『チート級プレイヤー』の末路を見て、何を学ぶか。」


 


校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




七 古今弓箭の沙汰の事


聞しは今(いま)、若殿原(わかとのばら)達寄合(たちよりあい)、いにしへの時代(じだい)の合戦(かつせん)を心(こゝろ)みに沙汰し給ふ。其中に一人申されけるは、むかしを聞に、朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇(ぎよう)、東国(とうごく)下総(しもふさ)の国にをいて、平将門(たひらのまさかど)むほんをおこし、逆威(ぎやくい)をふるふ。彼を退治(たいぢ)の為、藤原の秀卿(ひでさと)勅定(ちやくぢやう)をかうふり、天慶(てんきやう)三年二月、討(う)ちほろぼす。れいぜん院(ゐん)の御宇、奥州(おうしう)あべのさだたう、むねたうを追討(ついたう)として、いよの守(かみ)源(みなもと)のよしより馳(は)せ下り、十二年合戦し、つゐには平康(へいかう)五年九月ついばつせられぬ。白河院(しらかはのゐん)の御宇、永保(えいほ)元年、奥州(おうしう)の将軍(しやうぐん)三郎 武衡(たけひら)、四郎 家衡(いへひら)追放(ついはう)として、むつの守源(みなもと)の義家(よしいへ)下向(げかう)し、かれらを誅(ちう)す。頼朝(よりとも)たかうぢ、平家(へいけ)を追罸(ついばつ)し、天下一 統(とう)になし、弓箭(ゆみや)の威光(いくわう)をかゞやかしたりしも、皆是りんし、ゐんぜんを下さるゝが故なり。然に近代は勅定(ちやくぢやう)なしといへ共、一身 弓矢(ゆみや)の手柄(てがら)をもつて、天下の主(ぬし)となる人おほし。見よし修理亮(しゆりのすけ)は、将軍 義輝(よしてる)を害(がい)し奉り、兵威(へいゐ)をふるふ。織田(をだ)の三郎 信長公(のぶながこう)は、尾州(びしう)の住人、みの、いせ両国を手に入れ、京都へ責(せ)め上り、みよしを追討(ついたう)し、右大将(うだいしやう)に任(にん)ず。明智(あけち)日向守(ひうがのかみ)光秀(みつひで)は、主君信長公をうち奉り、京都にはたをあげしに、羽柴(はしば)筑前守(ちくぜんのかみ)秀(ひで)よしは、明智を討て後、天下を治(おさ)め給ひぬ。世 澆末(げうまつ)にをよび、人の心たけきが故、一身の手(て)柄をもつて、天下の主(ぬし)となる。なかんづく秀吉公(ひでよしこう)は、数度(すど)の合戦に切(き)りかち、西国をなびかし、関東北条 氏直(うぢなを)を追討(ついたう)し、奥州(おうしう)くろ川迄下着(げちやく)有て、日本国を太平に治(おさ)め、あまつさへ高麗(かうらい)国を責亡(せめほろ)ぼし、世に有てのたのしみに、醍醐(だいご)、よし野の花見、高野詣(かうやまふで)、北野の大 茶湯(ちやのゆ)を興(けう)し、心のまゝの栄花栄耀(えいぐわえいよう)をなし給ひぬといふ。又一人のいはく、秀吉(ひでよし)は主君(しゆくん)信長(のぶなが)の心を移(うつ)しえて、弓矢の取様おなじ。たゞ飛龍(ひりう)の雲をえてのぼり、大河の水まして、淵(ふち)も瀬(せ)もなく、平等(べうどう)にをし流(なが)すがごとし。むかしより国郡(こほり)を持(もち)来る大名(だいみやう)は、武道(ぶだう)の勇弱(ゆうじやく)にもよらず、先例を追(お)つて、氏系図(うぢけいづ)をたゞし、その子孫(しそん)知行(ちぎやう)する処に、信長(のぶなが)秀吉(ひでよし)の時代(じだい)より、先規(せんき)の氏位(うぢくらゐ)を用ひず、民(たみ)百姓成共、武勇(ぶゆう)の者をほうびし、国郡を出し、俄(にはか)大名になりて威勢(いせい)をふるふ。かるがゆへに諸侍(しよさふらひ)、大功を心がけ、弓矢も昔(むかし)よりははげしかりき。件(くだん)の両将(しやう)は、前代未聞(ぜんだいみもん)弓矢の、中古開山(ちうこかいさん)、権化(ごんげ)の名(めい)大将、末代(まつだい)とても有べからずと、思ひ〳〵に沙汰せらるゝ所に、老人有りしが、此由を聞て、信長(のぶなが)と秀吉(ひでよし)の弓矢(ゆみや)の有様、かくべつなり。それをいかにといふに、信長永録年中、京都へ責(せ)め上り、其勢(いきほひ)に、あふみ、山城(やましろ)、摂津(せつつ)、いづみ、かわち、ゑちぜん、わかさ、たんご、たじま、はりまを手に入れ、みの、おわり、いせ、みかは、遠江(とをたうみ)合れば十五ケ国を治(おさ)められたり。然ども大坂(さか)の一向衆(かうしゆ)、坊主(ばうず)ひとり旗下(はたした)に付ずして敵(てき)たり、地下(ぢげ)のだんな共一味し、籠城(ろうじやう)す。此等は一つをもつて千に当(あた)る血気(けつき)の者どもなり。され共小 城(しろ)なれば、輙(たやす)く責(せ)めなどすべき所に、みかたをそんざす事、思慮(しりよ)ある故か、五年いらへもせず打置(うちお)き、後和平の儀有て、城(しろ)を開退(あけの)きぬ。甲州(かうしう)武田信玄(たけだしんげん)隣国(りんごく)に有て逆威(ぎやくい)をふるふといへ共、却(かへ)つてなだめ和睦(くわぼく)し、勝頼(かつより)時代(じだい)馬を出されければ、聞落にはいぼくし亡(ほろ)びぬ。此いきほひに関八州 望(のぞ)みたるべしと思ふ所に、氏直(うぢなを)大国をしゆごし、その上西国いまだおさまらざる故にや、甲州(かうしう)より帰落(きらく)し給ひぬ。爰(こゝ)をもつて察(さつ)するに、信長(のぶなが)は武勇(ぶゆう)にたけ、心いられ短慮(たんりよ)未(み)練(れん)のよし聞へしかど、さはなくして智謀(ちぼう)武略(ぶりやく)の大将(しやう)なり。扨又秀吉は、一身の武勇(ぶゆう)に秀(ひい)でて、運(うん)にまかせ弓矢をとり、勝(かつ)に乗(の)つて奢(ご)りを旨(むね)とし給ひぬ。其子細(しさい)は氏直 旗下(ばつか)に属(しよく)し、使者(ししや)をのぼせ、其上来春(らいしゆん)上落(じやうらく)の議定(ぎぢやう)、其支度(したく)有所に、遅参(ちさん)のよし事を左右(さう)によせ、関東へ出馬(しゆつば)也。名大将(だいしやう)といふは、たゝかはずして勝(か)つ事を本意とす。秀吉(ひでよし)は弓矢の手柄(てがら)をもつて、国を治(おさ)むるを専(もつぱら)としたまへり。然に秀吉奥州(おうしう)下向(げかう)はなにゆへぞ。伊達正宗(だてのまさむね)をはじめ小田原へ悉(ことごと)くはせ参(さん)じ、手(て)をつかね旗下(ばつか)となる。其上小田原百余(よ)ケ日の長陣(ながぢん)に、しよぐん草臥(くたび)れ、気(き)もつかれ果(は)てたる所に、おもひの外、計策(けいさく)のあつかひ有て落城(らくじやう)す。万軍(ばんぐん)はやく帰国(きこく)せんとする所に、諸勢(しよせい)の労苦(らうく)をもわきまへず、奢(ご)るにまかせ敵もなき奥州に下り、田畠(でんばた)のけんちをさせ、黒川(くろかは)より帰路し給へり。是 偏(ひとへ)に弓矢の勢(いきほひ)を百姓等にしらせん為斗(ためばかり)也。孟子(もうし)に、君の政(まつりごと)するは民を養(やしな)ふを本とす。是恒(つね)の産(さん)と云々。国を治(おさ)むる大将と云は、兆民(てうみん)をなで、苛政(かせい)をのぞき、我身を苦(くる)しめ、万士(ばんし)をやすんず。然るときんば、天眼(てんがん)くらからず、神明(しんめい)のかごあり。上善政(ぜんせい)をほどこす時は、下に簾士(れんし)多くして、国ゆたかに、万人心すなほなり。其上天下をあらそひ、たゝかひをなすといふ共、身の為(ため)に軍(ぐん)をおこすは、一旦(たん)の利(り)有といふ共、治世(ちせい)久しからず、果(は)たして滅亡(めつぼう)其中にあり。国の為万民のために弓矢を取(と)るは、神明(しんめい)の冥助(みやうぢよ)有て、身のさいはひ出来(しゆつらい)すべし。上より下を撫育(ぶいく)すれば、下又 父母(ふぼ)の思ひをなす。天下を治(おさ)めて後は、干戈(かんぐわ)を箱(はこ)に納(おさ)め、弓を袋(ふくろ)に入、佚道(いつだう)を専(もつぱら)とをこなひ、民をゆたかにするが君子(くんし)の道なり。然に秀吉 高麗(かうらい)国へ出陣(しゆつぢん)は、唐使(たうし)参(さん)のよし、詞(ことば)を工(たく)みにし、弓矢をのぞむが故也。人数(にんしゆ)五十万騎(き)とかや。件(くだん)の兵粮米(ひやうらうまい)運送(うんそう)は、日本国の民(たみ)百姓也。其なげき悲(かなし)み、其ついへいか計ならん。其上敵味方(てきみかた)の死人(しにん)、幾(いく)千万といふ数をしらず。これ秀吉奢(ご)りを旨とし、一身のほまれを願ふゆへ也。其科(とが)をそれざるべけんや。むかし頼朝(よりとも)公かまくらより御上洛(じやうらく)、諸侍(さふらひ)其 支度(したく)あり。当年 田畠(たはた)そんじたり、百姓つかれなるべしと其年をやめられ、翌年上洛也。京都より天王寺(てんわうぢ)へ御参詣(さんけい)の御もよほしに付て、奉行(ぶぎやう)等路 次(じ)中の運送(うんそう)を百姓等にふれ遣(つか)はす沙汰あり。頼朝(よりとも)公聞きこしめし、仏神(ぶつじん)への詣(まふ)では身のため也、百姓をつかひ其くるしみ却(かへ)つて頼朝が科(とが)なるべしと陸地(りくち)をやめられ、俄(にはか)に淀(よど)より乗船(ぜうせん)有て天王寺へ参詣(さんけい)し給ふ。さて又平家追討(ついたう)として、関東より西国へ軍兵(ぐんびやう)進発(しんぱつ)す。其後大将軍(しやうぐん)参河守(みかはのかみ)範頼(のりより)へつかはさるゝ状にいはく、みかたのしよぐん勢(ぜい)へ相ふれ、敵(てき)国の百姓共に憐愍(れんみん)をくはへ、苦(くる)しみなき様に政道(せいだう)せらるべしと、度々下知(げち)せらる。国を治(おさ)むる大将は、かくこそ有べき事なれ。上悪政をおこなふときんば、下に奸人(かんじん)おほくして国あやうし。君一人の善悪(ぜんあく)により、一天下の人の心皆是に応(おう)ず。すべて天下の国主(こくしゆ)として其道にたがふは、盗賊(たうぞく)にひとしきと先哲(せんてつ)も申されし。私欲(しよく)をかまふる国主は、めつばうその中にあり。秀吉(ひでよし)天下を治(おさ)めて後、百姓の年貢(ねんぐ)をむさぶり、其上日本国中田(た)畠(はた)を検地(けんち)し、百姓の悲(かなし)み、たゞ是秀吉一 身(しん)欲(よく)するが故也。是に付て思ひ出せり。北条氏康(うぢやす)関(くわん)八州を治(おさ)めて後、一門家老(からう)の者共より合、評定(へうぢやう)所にをいて田畠(たはた)けんちの沙汰(さた)あり。氏康(うぢやす)聞て其義然(しか)るべからず。老子(らうし)経(きやう)に、国を治(おさ)むるは小鮮(せうせん)をにるがごとしと云々。弓矢を取(と)るに、身の為にいどむ軍は、神明(しんめい)もいかでか守り給はん。天下の悪をはらはん為、おこす弓矢は天の助(たす)けあり。然に氏康天下の望(のぞみ)あり。是まつたく私欲(しよく)にあらず、国のため民(たみ)百姓の為(ため)を思ふが故也。先祖(せんそ)早雲宗瑞(さううんそうずい)年貢(ねんぐ)しゆなうの義を定をかるゝより以来、北条家にをいて五ツ取所をば一ツゆるし、四ツ地頭(ぢとう)へしゆなうす。此外 役(やく)一 切(せつ)かけず。日本国かくあらんにをいては、民(たみ)もゆたかに国あんたいなるべし。此一事を仏神へ朝暮(てうぼ)きねんす。いかで神明(しんめい)の御助(たす)けなからん。件(くだん)の願(ねが)ひ、をそきがうらみなると申されし。其比 永楽(ゑいらく)五十貫、百貫と名付、田地(でんち)の跡(あと)は今五千石一万石ありとかや。百姓ら是をなげく度毎(たびごと)に当地頭をはから見ずして、秀吉(ひでよし)重欲(ぢうよく)故(ゆへ)と口びるをかへし、そしらざるはなかりけり。いかにいはん後代(こうだい)迄(まで)をや。然ば信長(のぶなが)は兄(あに)を殺(ころ)しおはりの国をうばひ取、しうとを追討(ついたう)し、みのゝ国を取、天台(てんだい)山を焼(や)きほろぼし、三千の衆徒(しうと)の首(くび)を切(き)り、高野(かうや)ひじり数(す)千人をころす。是によつて高野山にをいて信長を調伏(てうふく)す。三七日まんずる日に当(あた)つて、日向守(ひふがのかみ)が為に滅亡(めつぼう)し給ひぬ。秀吉はねごろ覚钁(かくはん)上人の霊場(れいぢやう)を灰燼(くわいじん)となし、数(す)千の僧徒(そうと)の首(くび)を切(き)り、あまつきへ信長公の遺跡(ゆいせき)をたやし申さんとて、主君三子信高を殺(ころ)す事、皆是あだをもつて君恩(くんおん)を報(ほう)ずる事、いふに絶(た)えたり。下人に過分(くわぶん)の国郡を出し、をんしやうをほどこすは、我がため子孫(しそん)の為をおもふが故なり。秀吉主君(しゆくん)の恩(おん)を忘(わす)るゝは、是大鑑(だいかん)にあらずや。然るときんば扶持(ふち)す国大名は秀吉の大敵(てき)、いかでかをそれざるべけんや。日本国の寺領(じりやう)社領(しやりやう)は、秀吉公の時代(じだい)にこと〴〵く取はなされたり。文選(もんせん)に、君(きみ)道(みち)あるときんばまもり、海外(かいぐわい)に有と云々。かまくら将軍(しやうぐん)の時代(じだい)、政道(せいだう)たゝしくおはしませば、末代(まつだい)までも是をまなび給へり。それ御成敗式目(せいばいのしきもく)は天下の亀鑑(きかん)との御時代(じだい)、公方家に是を専(もつぱら)用ひ給ふ。件(くだん)式目(しきもく)五十一ケ条の最初(さいしよ)に、神社(しんじや)を修理(しゆり)し、祭祀(さいし)を専とすべき事と云々。神社をはじめにをかるゝ事、日本は神国(しんこく)なり。其上天地開闢(かいびやく)のはじめ陰陽(ゐんやう)是を神といふ。神は魂(たましひ)なり。神は人のうやまふによつて威(い)をまし、人は神の徳(とく)によつて運(うん)をそふ。次に寺塔(じだう)を修造(しゆざう)し、仏事等(ぶつじとう)をごんぎやうすべき事と云々。日域(じついき)仏法(ぶつぱふ)流布(るふ)の国也。寺塔(じだう)は仏の廟(びやう)也。但(たゞ)し内典(ないでん)には仏を先(さき)とし、外典(げでん)には神を先とす。是水波(すいは)のへだてなり。天下国家を守護(しゆご)する人は、仏師をそんきやくるが政道(せいだう)の本なり。故に君子(くんし)は本をつゝしむ。本たつ時は末(すへ)おさまる。件(くだん)の両将、神社の為(ため)には大尺魔(ま)、国民(こくみん)の為には悪(あく)大将の出現とやいはん。異国(いこく)にも此例(れい)あり。悪王(わう)有て或(ある)代(だい)には仏経(ぶつきやう)を焼(や)きすて、或代は儒書(じゆしよ)をあつめ焼やきうしなひ、本(もと)をたやさんとせしか共、後(のち)賢王出世し、再興(さいこう)有て今の世までも繁昌(はんじやう)す。此二文は天地のごとし。国民(こくみん)の父母(ふぼ)たり。然る所に家康(いえやす)公の御時代には、日本国の寺領(じりやう)社領(しやりやう)を付をき給へば、寺社(じしや)を修造(しゆざう)し、神仏の祭祀(さいし)をこたらず、世こぞつて悦(よろこ)びあへり。件(くだん)の信長(のぶなが)秀吉(ひでよし)、文(ふみ)の学(まなび)なき故(ゆへ)、仁義(じんぎ)の道を知ず、仏神(ぶつじん)をも敬(きやう)せず、民(たみ)をもなでず、偏(ひとへ)に私欲(しよく)にまどひ、一生涯(しやうがい)弓矢を取給ふといへ共、天道(てんだう)に背き給ふゆへにや、一代(だい)にて滅亡(めつばう)し給ひぬと申されし

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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