絶筆断片 断片二「真実の到達と恐怖」
(編者注。第二の束は、王国歴1453年、聖燭の月の日付を持つ十数葉である。紙の質が落ち、大きさも揃っていない。文字は読めるが、行がところどころ波を打ち、読点の位置が、時折おかしい。)
聖燭の月 2の日
五年ぶりに、日付を入れて書く。
あのあと何があったかは、書くまでもない。私は覚え書きを一書に編み、王都の版元がこれを刷り、二年ののち、機構がこれを異端と定めた。私の書は、広場ではなく、監理局の炉で焼かれたそうだ。丁寧なことである。版元は商いを畳み、私は塔に戻った。学府の旧友からの文は、あの冬を境に、来なくなった。
書を焼かれた学者は、二度目からは紙を選ぶ。これは誰にも見せぬ紙である。だから、ここには本当のことだけを書く。
婆やは変わらず麓から上がってくる。先生は近ごろ痩せました、と言う。冬だからだ、と答えておいた。
聖燭の月 5の日
底の器のことを、あれからずっと考え続けてきた。
器に限りがあるなら、満ちたとき、どうなるか。
水瓶なら、あふれる。だが世界の底があふれるとは、どういうことか。私は長らく、澱みが地表に滲み出す図を描いていた。井戸が重くなり、畑が枯れ、ゆっくりと世が濁る図である。恐ろしいが、まだ人の頭で考えられる恐ろしさだ。
違うのではないか、と気づいたのは、この冬である。
濁った酒は、捨てて、袋を洗う。
濁り切った世界を前にして、造り手が為すことは、ひとつしかない。洗い直しである。創世の前に在ったという、あの何もないところまで、いったん戻す。無に、巻き戻す。
書いていて、手が止まった。いまも、この行の前で、しばらく止まっていた。
器が満ちれば、世界は終わるのではない。始まりの前へ、戻るのだ。誰の記憶にも残らぬ形で。
同じ夜
眠れぬので、灯りを点け直して書く。
五年前の私は、今夜はよく眠れそうである、と書いて眠った。あの晩の眠りを、返してほしい。
聖燭の月 13の日
では、誰が堰き止めているのか。かつて馬鹿げていると退けた、三つ目の説明だけが残った。
八柱を、ひとりずつ検めた。嵐の方ではない。あの方は天の上のことしかなさらない。叡智の方でも、律の方でもない。帳簿を検めるだけの神に、澱は啜れない。
途方に暮れて、書き付けの山を浚っていて、古い写しに行き当たった。例の、龍語学者の書の写しである。若いころ、面白がって手に入れ、九章の途中で笑って閉じた、あれだ。最も古い龍が、人の言葉で語ったという章である。龍の口を借りた作り話と、皆が言った。私もそう言った。
今夜、九章を、終わりまで読んだ。
龍は言ったという。人が反逆神と呼ぶあの神を、我はいまも、いにしえの名で呼ぶ。日の暮れるたびに世を巡り、疲れた者に眠りを配って歩いていた、あのころの名で。あれは慈宵神であった、と。
笑って閉じた本に、答えが、書いてあった。
五年、世界じゅうの紙を漁った男より、五十年、声を追った猟師のほうが、先に着いていた。学問とは、なんと遅い乗り物であることか。
聖燭の月 19の日
順に書く。落ち着いて、順に書く。
底に溜まるものに、最初に気づいたのは、私ではない。創世のすぐあとに、気づいた方がいた。日暮れごとに世を巡る神である。世のいちばん低いところを、毎晩歩く方だからだ。
あの方は、誰にも言わなかったのだろう。言っても、誰も受け取れぬからだ。代わりに、あの方は、受け止めた。
彼は、裏切っていない。
澱みを、己の喉へ、流し込んだのだ。ひとりで。誰にも言わずに。
濁りを呑み続けた水が、澄んだままでいられるものか。あの方は、変わってしまわれた。そこへ兄神たちの雷が落ち、戦が起き、勝った側が、あの方に新しい名を塗った。反逆。万夜。終焉。
我々が、あの方を狂わせた。我々が、彼ではない彼を、作り上げたのだ。我々の灯りと、竈と、癒やしの、澄んだ暮らしの澱で。
そして機構は今日も、あの方の名で、人を焼いている。
この行を書くのに、三たび筆を置いた。読み返さぬことにする。読み返すと、手が、こうなる。
(編者注。この葉の後半、文字が急に大きく崩れている。墨も飛んでいる。)
聖燭の月 25の日
昔、東の里で書き取った唄を、山の中から掘り出した。子供の唄である。写したときは、意味を考えもしなかった。
よるのにいさん、くらいのをのんで。みんなのかわりに、くろくなった。
学者が束になって届かなかったところに、子供の唄が、とうに立っていた。誰が作った唄かは、知れない。ただ、作った者は、知っていたのだ。あるいは、憶えていたのだ。
唄は、こう続く。わるいわるいと、ゆびさされ。
その先を、私は書き取れていない。里の子らも、そこから先は知らなかった。
先が、知りたい。知りたくない。両方である。
聖燭の月 30の日
夜、机の前で、あの方の最初の名を、小声で呼んでみた。
数千年、誰にも呼ばれなかったかもしれぬ名である。詫びの言葉を続けようとして、やめた。ゆるしてくれ、とは言えない。ゆるされたいのは、こちらの都合である。呑まれたものは、返せない。私にできることは、ひとつもない。知ることだけがある。知ることは、力ではなかった。ただ、重い。これも、沈む性質のものらしい。
部屋の隅が、このごろ、暗い。灯りをひとつ増やしたのに、暗い。目の疲れであろう。冬だからだ。
淵を、長く見すぎたのかも、しれない。
だが傍に誰かがいる。
(編者注。第二の束は、ここで終わっている。終わりの数葉には、同じ一文が、幾度も書き直されている。彼は、裏切っていない、という一文である。書くたびに、読点の位置が違う。余白の渦の図は、もう整っていない。)




