絶筆断片 断片三「絶筆・這い上がる影」
(編者注。第三のものは、束ではない。塔の部屋の壁と床に書かれていたものを、私が写した。墨で書かれた箇所と、炭で書かれた箇所と、爪か何かで引っ掻いた箇所とがある。日付はどこにもない。婆やが最後に先生を見たのは王国歴1455年、芽吹きの月のはじめというから、その頃のものと思うほかない。どれが先に書かれたかは、分からない。私の判じた順に写すが、当てにしないでほしい。)
(机の上の壁。この一角だけ、文字がまだ小さい。)
灯りを、五つにした。それでも隅が暗い。
影の長さを、毎夕、測ることにした。物差しは使える。手が震えても、数字は震えない。
三日で、指二本ぶん、長い。日は、同じ刻に沈んでいるのに。
(同じ壁の続き。文字が大きくなる。)
はかった きょうも、ながい
ゆかを、つたってくる。ひかりを、よけて、くる。
めのつかれでは、ない。めをつぶっても、そこにある。
(編者注。この一角の行頭には、文字とも図ともつかぬ書き込みが幾つも挟まる。写せないものは、写さない。)
(北の窓の側の壁。炭書き。)
まもりのかたの、なをよんだ。
ノヴ・ガーレ・シルディン。もんをまもるかた。
こたえは、ない。あたりまえだ。かみは、がくしゃのへやになど、こない。
だが、きいてほしかった。もんは、そとのためのものか。それとも、したのためのものか。
もんばんどの。とは、どちらをむいて、たっておられる。
(同じ壁。文字が斜めに流れはじめる。)
ノヴ・ガーレ・シルディン
ノヴ・ガーレ
ノヴ
きしんでいる。よるになると、いえのしたで、とがきしんでいる。
(部屋の中央の床。大きな渦の図があり、そのまわりに、ぐるりと書かれている。)
よどみが、くる
よどみが、もう、くる
そこが、ぬける
うつわが、みちる
あらいなおしが、くる
だれも、おぼえていられない
(編者注。渦の図は床板三枚にまたがるほど大きい。中心にあたる場所の床板が、他より黒ずんでいる。煤ではない。婆やも、拭いたが落ちなかった、と孫に語ったそうである。)
(戸の内側。ここだけ、文字が整っている。目の高さに、三行。)
ばあや、はいるな。
かぎは、かけた。めしは、うまかった。
むぎもちは、そとに、おいてくれ。
(戸の脇の壁。ふたたび、崩れている。)
わるいわるいと、ゆびさされ
わるいわるいと、ゆびさされ
そのさきを、しっている。よまなくても、しっている。
ゆるして、ゆるして、いちばんやさしいあのかたを
ゆるしてやってくれ、わたしのことは、いい
(北の窓の下の床。爪書き。ここがいちばん読みにくい。)
ふちを、ながくみるものではありませんよ
ばあやは、ただしかった
ながくみたから、わかった。ふちも、こちらを、みていた
ずっと、みていてくれたのだ。だれも、みかえさなかっただけで
したで、ひとりで、いまも
よには、きずがある。ふさがらぬ……
(編者注。ここで、終わっている。最後の一画は、細く、長く、壁の下端まで引かれて、切れている。この先は、どの壁にも、どの床にも、ない。)
(編者注。写しを終えて、ひとつだけ付け加える。あの唄の先を、私は知っている。編みものの手を借りて、東の里々を巡って拾った。唄は、こう終わる。いちばん、やさしいこ、だったのに。彼は唄の先を読めぬまま、同じところに、自分の言葉で着いていた。狂人の書いたものが辻褄に合うはずはない、と世の学者は言う。ならばこの符合に、誰か、別の説明を付けてもらいたい。私は、付けられなかった。
塔を出たのは、三日目の昼である。日のあるうちに山を下り、麓で振り返ると、北の崖の上に、塔は静かに立っていた。ただの、古い塔である。そう見えた。そう見えることが、帰り道じゅう、妙に、恐ろしかった。)




