素知らぬ顔で無神経
そこは昼間だというのに暗くよどんだ空気に満ちていた。
昼間から酒を飲んでいる者や明らかに堅気ではない雰囲気をまとった者が闊歩していて、乱雑に置かれた看板には怪しげな文言が飛び交っている。立ち並ぶ建物の背は高く、どれも四階よりも高いだろうか。通り沿いの店は一応開いているものの、王都の明るい活気とは無縁の薄暗さのせいで何を売っている店なのか一見には分からない。
ウルはテオの隣をぴったりとついて歩きながら、視線だけでこわごわと辺りを確かめながら歩いていた。
「て、テオさん、ここは…?」
ウルにきつく袖を引かれても揺るぎもしないでテオは傍らのウルに答えた。
「ここはレッド・エンドといって、王都の端に作られた街だ。元は武器商や奴隷商人といった違法なやりとりをする者たちが集まって出来た場所だが、現在の法では奴隷制度も武器の流通も固く禁じられているからな。今となっては少し大きな歓楽街だ」
少し大きな歓楽街、というにはウルのような少女が一人で歩けるような場所ではないことは十分に分かる。今も値踏みするような目があちこちから向けられている。
「……ここで、何をなさるんですか?」
早く帰りたいと言外に滲ませるウルに、テオは無情に告げる。
「仕事だ。少し付き合え」
そう言われてしまっては、ウルはテオに付き従う以外になかった。
テオがウルを連れて薄暗い道を行き、辿り着いたのは一際高い建物だった。門構えは貴族の邸の門扉をそのまま張り付けたような異様な様式で、その門の前には二人の屈強な男たちが立っていた。
彼らはテオを一瞥すると、
「ご苦労さまです!」
野太い声で労いをくれた。
ウルは思わずテオの上着を握りしめたが、彼は意に介さない。男たちは労いと共に門を開けてくれ、ウルとテオを招き入れてくれる。
その際ウルは男たちにじろじろと見られはしたものの、咎められはしなかった。
建物の中は極彩色に彩られていた。壺や骨董が所狭しと並べられ、天上は上階まで吹き抜けになっている。天井はガラス張りでそこから陽が差し込むからか、通されたエントランスには骨董と共に置かれた観葉植物も大きく葉を伸ばしていて、エントランスはさながら森のようだ。
「ようこそ。お待ちしておりました」
そう声をかけてきたのはエントランスの奥の廊下から現れたメイド姿の女性だ。無表情なその顔は特に感慨を浮かべる様子もないが、ちらりとだけウルを見る。
「連れだ」
メイドの視線に気づいたテオが口添えすると、メイドは頷いて「こちらへ」とエントランス正面にある階段へとウルとテオを招いた。
案内されて辿り着いたのは建物の三階。外の薄暗さが嘘のような明るい部屋だった。
大きな窓の向こうはベランダなのか、そこにも多種多様の観葉植物が並べられている。
部屋は広く、その真ん中に急遽用意されたかのようなティーテーブルが置かれ、男が一人すでに席についていた。禿髪で背の大きく曲がったその男は丸い瞳にずんぐりとした顔だからか、老齢だということは分かるがどれほどの年齢かは分からなかった。顔と同じくずんぐりとした体をコートに詰め込んでいる姿は丸く、丸くなったアライグマが椅子に腰かけているようにも見えた。
「やぁ、久しぶりだね。テオドール次官」
禿髪の男はそう声をかけるとテオに向かいの席を勧めたが、ウルを見つけて首を傾げた。
「そのお嬢さんは?」
「俺の連れです」
テオの返答に「そうか」と言い、禿髪の男は近くにいたメイドにもう一脚椅子を用意するよう申し付けた。
「君が連れを連れてくるなんて珍しいね」
「そうでしょうか」
メイドが持ってきた椅子をウルも勧められ、テオと並んで座ると禿髪の男と向かう合う。
「さて。今日は何の案件だったかな」
「西の違法奴隷と薬物の件についてです。ノイバーン老」
テオの言葉にノイバーンと呼ばれた禿髪の男は「ああ、そうだった」と頷いた。
「人の売り買いはしていないと言い張っているようだが、あれはやってるな。薬は建物の地下で作ってるよ。――そうだったな」
ノイバーンが尋ねたのは近くにいたメイドの一人だ。彼女は無表情に「はい」と肯いた。
「地下に精製工場がありました。壊しますか?」
まるでお茶のお代わりでも勧めるような口調だ。
「いや、やめておこう。それは執行官の仕事だろう?」
「はい」
ノイバーンに再び水を向けられ、テオは短く頷くと「ありがとうございました」と礼を述べた。
「あなたのおかげで裏が取れそうです」
「いいや、他でもない君の頼みだからね。また遊びに来るといい」
ノイバーンはそう言いながらちらりとウルを見遣った。その丸い顔の奥に収まった小さな瞳は穏やかだが、血のように赤い瞳だった。
「お嬢さんもまたおいで。今度はケーキでも用意させよう」
ここでウルも礼を言うべきなのだろうが、ウルは何も言わずに頭を下げるだけでテオと共に席を立った。
「では、失礼いたします」
テオと共に礼をすると、ノイバーンは鷹揚に手を振った。
「良いパートナーを見つけたな。いつでも歓迎するよ」
そう言われてテオとウルはノイバーンのいる部屋から追い出されるように出た。
メイドたちに見送られ、門を出る頃にはウルは一人で立っているのがやっとというほど疲れていた。
ようやく息をつく。レッド・エンドと呼ばれる薄暗い空気すら、ノイバーンの邸の中からすれば清々しく感じるから不思議だ。
「――よく何も喋らなかったな」
テオはよくやったとでも言うようにウルを見下ろし、成果を褒めるように目を細めた。
「一言でも答えていたら、何が起こったか分からないからな」
テオといい、ユーディトといいどうしてそう、危ない場所に真っ先にウルを連れていくのだろうか。何とも言えない気分で口を噤むウルに、テオは「行くぞ」と言って歩き出す。
「あの…老公はどういった方なんですか?」
何となく名前を呼ぶのは憚られてウルがテオを追いかけながら尋ねると、テオはウルをちらりと振り返る。
「このレッド・エンドの長老だ。お前はもうここで一人で歩いてもちょっかいをかけられない」
「……どういうことですか?」
「長老はこのレッド・エンドの生き字引で、彼の客に手を出した者は無事では済まない」
テオの後をついて歩いているとレッド・エンドの怪しい者たちも一様に寄り付かない。それは長老の威光というより、テオ自身を避けて歩いているようにも見えた。
もうすぐ最果ての街から抜ける。王都がひどく眩しく見えるのはこの街を抜けてきたからだろうか。
レッド・エンドを抜けると見慣れた王都の街が目の前に広がる。
「……あの」
「何だ」
ウルの問いかけにようやく足を止めたテオに、ウルは疑問をぶつけることにした。
「……テオさんのお仕事って、外交官なんですよね?」
次官とはいえただの外交官がどうしてレッド・エンドを出入りし、不穏な情報を探らなければならないのか。他の次官たちは、ウルの素人目にも部下を大勢抱えた普通の外交官だ。
ウルの疑問にテオは頷いた。
「普通の外交官だぞ。役職は次官。室名は特殊危機管理事務交渉係」
「特殊…?」
「今日の仕事は西の貴族邸での人身売買と薬物についての裏付け調査。危なくもない楽な仕事だ」
字面のどこにも危険な臭いがしない箇所がないのはウルの頭がおかしいせいだろうか。
「今の話で裏は取れた。あとは報告を待つだけだから、王都観光をするか」
どこへ行きたい、と平気な顔でテオが言うので、本当に何とも思ってないらしい。
デートかもしれないと浮かれた自分が恥ずかしい上に馬鹿馬鹿しい。
ウルは顔を真っ赤にして膨れながら、テオを睨んだ。
どうして睨まれているのか見当もつかないといった様子のテオに、ウルは提案する。
「シンシリー通りのミックス・ファクトリーに行きたいです!」
そこは、女性向けの店が集まる中でも特に女性に人気の喫茶店だった。
女官のあいだでも評判のその店は、特にケーキが有名なのだ。
テオを引っ張ってやってきたミックス・ファクトリーは白と緑を基調とした可愛らしい外観と調度に囲まれていて、店内は見事に女性ばかりだった。
連れられてきたテオはリボンとレースに囲まれて仏頂面で紅茶を飲むことになった。
女性ばかりで盛況な店内にあって、一人暗い色合いの男性が混じっているのは異質そのものだったが、意外なことにテオは眉一つしかめなかった。
店内は禁煙だと言われた時だけ少し残念そうな顔をしたものの、ウルに好きなだけケーキを頼ませて自分は紅茶だけを飲んでいる。
「テオさんは食べないんですか」
ちょっとした嫌がらせで連れてきたつもりが少しも嫌がられなくて、少しだけ悔しくてウルが口を尖らせるが、テオは「何を怒っているんだ」と呆れ顔をしただけだった。
「別に怒ってませんけど…」
今食べているイチゴのショートケーキは素晴らしい味だ。クリームは濃厚で砂糖でコーティングしてあるイチゴは素晴らしく甘い。スポンジは口に入れれば雲のように消えていく。先程食べたラズベリーのタルトも美味しかった。ラズベリーのコンフィチュールを山盛りに乗せたその下にはバニラビーンズの利いたカスタードクリームが慎ましくラズベリーの甘酸っぱさを柔らかく包んで甘さが爽やかに舌の上を抜けていく。
その素晴らしいケーキたちを不機嫌に食べるのはもったいない。だが、何だか納得がいかないのはウルのわがままのせいだろう。
テオは朝に仕事を済ませると言っていたのに、ウルのことを優先してくれなかったということが心に引っ掛かるだけ。
「ケーキは好きなだけ食べればいいが…」
テオはそう言ってカップをソーサーに戻した。
「朝の仕事のことなら、何をそんなに怒っているのか分からない」
せっかくウルが自分の中で消化させようとしていることをテオの方から蒸し返されて、ウルは思わずテオを睨んだ。だが彼は素知らぬ顔だ。
「お前を本当に危ない場所に連れていくはずがないだろう」
「え?」
ウルの怪訝そうな顔にテオは首を傾げた。
「王都案内のついでに仕事を済ませただけだ。ただの散歩だろう」
テオの仕事がいったいどういうものか、ウルでは見当もつかない。
だがこれだけは言える。
(この人、本当にずるい…!)
テオの無神経さに呆れていいのか、危ない場所に連れていかれたことを怒っていいのか、内実はウルを優先されていたことを嬉しく思えばいいのか分からず、ウルは顔を真っ赤にしてケーキを頬張った。
――結局、ウルはケーキを八個も食べてしまった。




