あなたを助けるために
「バード。バードったら! バードッ‼︎」
自分の名を呼ぶ声を、今しも眠りにつこうとしていたバードの耳が拾う。
幻聴だろうか、とバードが微かに瞳を動かした直後。
「起きて! 寝てはダメよ。しっかりして!」
意識が混濁するバードは、両肩を掴まれて急に激しく揺さぶられた。
紫色の目が彷徨い、自分を覗き込む者と目が合う。
雪原に横たわるバードの傍に膝をついているのは、シェリィだ。
今度は幻覚かと自分の目を疑うバードは、頬を叩かれて、鋭い痛みにこれが現実だと悟る。
バードの背中に細い腕を入れ、彼の上半身を起こしているのは、間違いなくシェリィだ。
いるはずのない――いや、いてはならない人物の登場に、バードの意識が急速に明瞭になっていく。
手放そうとしていた生への執着が、みるみる膨らんでいく。
シェリィはバードを起こすなり、彼の首にショールを巻きつけ、雪に半ば埋もれていた彼の両手を取った。
「私を置いて死んでいいと思った? 私がお父様のご遺体を取り戻すより、お前が生きていることを望むと、分かっているはずよ!」
シェリィはバードの両手を包み込むように持ち、彼の手を摩りながら必死に息を吹きかけていた。
華奢なシェリィの吐く息の温かさなど、たかが知れている。それでも必死に彼の手を温めるその姿に、バードは束の間見入った。
死にかけのバードの体には、なかなか温もりが戻らない。事態の深刻さを悟ったシェリィが、真剣な表情で何やらブツブツと呟き始める。必死さのあまり、彼女の眉間に深い皺が寄っている。
バードはシェリィの両手を通して、暖かな魔力の粒が流れ込んでくるのを感じた。春の穏やかな日差しを浴びた石に触れた時のように、じんわりとバードの全身を巡り、温めていく。
シェリィがバードに魔力を流し込みながら、魔術で彼の体を温めているのだ。
だが妖精が人間界で魔力を発揮しにくいように、シェリィも妖精界で使える魔力には限りがあるはずだ。
バードはシェリィの両手が震えていることに気がつき、ようやく冷静に事態を把握した。
シェリィは薄手のドレスを着たままで、バードのまとうローブよりよほど寒そうな姿なのだ。
そもそも人間であるシェリィがなぜ、どうやって妖精界に単身で来ているのか。
「シェリィ様……、どうしてここに⁉︎」
どうにか声が出せたバードに、シェリィがパッと顔を上げて嬉しそうに彼を見上げる。
「お前の翼が取れたのを見て、私は棺と一緒に人間界にお前を引こうとして、咄嗟に手を伸ばしたのよ。そうしたら、私自身が召喚陣の中に吸い込まれてしまったの。召喚陣に近づき過ぎてしまったのね」
「なぜそんな危険なことを。ここは妖精界ですよ⁉︎」
「分かっているわ。だけどお前を助けるには、仕方がなかったのよ」
「シェリィ様は――私を恨んではいないのですか? 私はラズロ様を……クレバスから突き落としてしまったのに」
シェリィがバードをじっと見上げた。バードは彼女と目を合わせるのが辛く、咄嗟に逸らしたくてたまらなくなったが、どうにか踏みとどまった。
そんなバードの手を、シェリィが力強く握る。
「お前はお父様を守ろうとしてくれたんでしょう? 今こうして私が生きているように、お前はお父様も生きて妖精界に渡れると思ったのよね?」
「はい……。ですが……」
「お父様を守ろうとしてくれて、ありがとう。私がもっと強ければ、バードは事実を私に早く打ち明けることができて、きっとお前の苦しみもこれほど長引かせずに済んだわ」
シェリィが妖精界に来たために極度の緊張と焦りでいっぱいだったバードの体から、緩やかに力が抜けていく。
バードはシェリィに恨まれていなかったと知ったことで、今までの苦しみ全てから解放された気がした。
両手を握るシェリィの手を、バードも握り返す。
「シェリィ様は、十分お強いです。こうして妖精界にまでいらしてしまうんですから」
するとシェリィは少し考え込んでから、はにかんだ様子で呟いた。
「そうね、たしかに私は最近急に精神的に強くなったかもしれないわ。すごく心が逞しい人が、近くにいて色々教えてくれたの」
シェリィの言うその人が、ゴダイバ帝国の皇太子であることは、バードには聞かずとも分かった。もっとも、確かめようとも思わなかったが。
バードが黙っていると、シェリィは彼を真っ直ぐ見上げて言った。
「でも今私がこの見知らぬ世界で気丈にふるまえるのは、どうしても助けたい人がいるからよ。私はお前がここにいるから、強くなれるの。――さぁ、バード。一緒に人間界に戻るわよ」
シェリィが片手を伸ばし、雪で濡れているバードの顔を優しく拭う。
「ですが、どうやって人間界に戻られるおつもりなのです? クレバスはもうなくなりましたし、皇太子には、もう一度召喚術を行うような魔力は残っていないでしょう。彼の回復を待たれるおつもりですか?」
生身の人間が長く妖精界に留まったら。
そうなったらどうなるかを、バードは知っている。
バードは冷気と降る粉雪からシェリィを守ろうと、彼女を抱きしめた。
離れていた時期があろうとも、シェリィの寒そうな姿を見てしまえば、バードはまるで時が戻ったかのように、彼女の守護妖精だった頃にそうしていたように、ごく自然に腕の中に招き入れた。
「公爵様がお好きだった曲を――『妖精達の踊り』をご存じでしょう? 妖精と一緒に妖精界に行った少女は、二度と人間界に戻らなかった。人間は妖精界で長く過ごしすぎると、妖精に変化してしまうのですよ」
「大丈夫よ、ゴードンが皇太子宮殿に来てくれていたから。ゴードンがきっと私たちを助けてくれるわ。あの人、百年に一度の逸材らしいから」
シェリィが利き手の手のひらを緩く握り、その中に魔術で小さな橙色の灯りを灯らせる。
自分の魔力を放つことで、誰かが人間界で召喚術を開いた時に、シェリィの存在に気が付きやすくなるのだ。
魔力を垂れ流し続けるのは、シェリィのような魔力量の少ない者にとって楽ではない。
垂れ流す魔力の大きさを調整しようと集中し、シェリィが再び眉間に皺を寄せて俯く。
「シェリィ様、大丈夫ですか? 召喚陣を通って妖精界へ来るだけで、かなり魔力を消費されたはずですよ」
抱き寄せるシェリィを覗き込んだ拍子に、バードの長い髪が彼女の顔にかかる。
バードはシェリィの顔をよく見ようと、指先で髪を払い除けた。
「シェリィ様の魔力を指標にゴードンの召喚陣を呼んで、彼に私を召喚させるのですか? それで私が彼の守護妖精に?」
「そうね、おかしいようで……。しっくりくるような……ゴードンは、魔術の超人だから」
シェリィは妙に間延びした話し方をした。その上、背中から力が抜けたようにフラリと傾き、バードに寄りかかる。
「いえ、そういう意味ではなくて。シェリィ様、お顔を上げてください」
「うん……」
シェリィは左腕をバードの背中に回し、彼にしがみついた。顔は上がらず、彼の胸に押し当てられたままだ。右手の中の魔力の灯りが、目に見えて弱くなっている。
「少し疲れたわ。なんだか眠くて」
「いけません。こんなに寒い所で寝ては……、さっき私をそう注意されたばかりではありませんか。目を開けて」
バードはシェリィを抱きしめたまま軽く揺する。だが彼女はグラグラ揺れただけで、辛うじて開いた薄目はまた閉じられていく。
シェリィの茶色いまつ毛にのる粉雪が、そのまま彼女の瞼を閉じたまま凍らせてしまいそうで、バードはゾッとした。彼女の父が亡くなった時も、同じようにまつ毛に雪が載っていたことを思い出し、胸を突かれるような焦りを覚える。絶対に目を開けさせなければならない、との一心でバードは彼女の瞼に唇を寄せ、ついばむように粉雪を払ってやった。
その刺激に意識がはっきりしはじめたのか、シェリィが再び目を開き、バードを見上げた。
「目を開けていてください。凍え死にたいのですか?」
「そうね。助けに来たのに、私が足手纏いになったらおかしいものね」
あやふやに微笑みつつ、シェリィが何度も瞬きをする。
シェリィを寝させまいと、バードが会話を続ける。
「シェリィ様。さっきの話の続きですが、ゴードンが私を召喚して私が彼の守護妖精になったら、悔しくないですか?」
シェリィは目をパチパチと瞬いて、緩く笑った。同時に彼女の手の中の灯りの強さが、また少し大きくなる。
「妖精なのに、人間の心の機微がよく分かっているじゃないの。そうね、悔しいわ。でも今は二人で助かることが一番大切よ」
そう言うとシェリィは遠慮がちに尋ねた。
「背中は大丈夫? 召喚陣越しに、翼の下の二枚が取れてしまうのを見たわ。……触ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
シェリィが恐る恐る左手をバードの肩甲骨近くに滑らせる。
「服に穴でも空いたのかと思ったわ。でも違うのね。今は何ともなさそうだけれど、痛みはない?」
「ありません。多少痺れを感じる程度です。翼は魔力が形になったようなものですから、実態はないのです」
「それならよかった」と吐息まじりにつぶやき、背中から手を離すシェリィを見て、バードは平板な調子で質問を投げた。
「私の翼を見て、驚きませんでしたか?」
「ええ、驚いたわ。もちろん。あの時、リンツの大聖堂にいた誰もが、間違いなく驚いていたわ。だって大聖堂の絵画に描かれる妖精女王の背中にあるものと全く同じ本物の妖精王族の翼を、初めて自分の目で見たんだもの」
「翼ある姿が、気持ちが悪いと思われませんでしたか?」
「えっ、なぜ?」
バードの疑問が純粋に不思議で、シェリィは目を丸くして彼を見上げた。
バードは自分を見上げる茶色の瞳に、自分がどう映っているのかが狂しいまでに気になり、それでいて自分自身の心境を非常に不可解だと思った。
シェリィの口から、自分が欲しい言葉を引き出したい一心で、バードは澄ました顔で言い重ねる。
「翼は普通の妖精にはありませんから。鳥のようで……気持ちが悪いと思われませんでしたか?」
「思わないわよ。むしろ綺麗だったわ。そもそもバードにはトカゲの尻尾がついていたって、気持ち悪くなんてならないわ」
シェリィは少し怒ったような口調になったが、バードはむしろ安堵した。
どこまでも無表情に頷くバードの反応に満足できず、シェリィが言い足す。
「本当よ。たとえバードのおデコから長い触角が生えていようと、私は気にしないわ」
「そんなはずないでしょう」
「それにもし、ウサギのような長い耳がバードの頭の上についていたとしても……、ううん待って。それってすごく、むしろちょっとイイかもしれない……!」
バードの顔と彼の頭上の耳を妄想でもしているのか、瞳をキラキラと輝かせるシェリィに、バードは「おかしなことを仰る」と苦笑をした。
ひとしきり笑った後で、シェリィは真剣な顔でバードを見上げた。
「バードは私の守護妖精じゃなかったのに、どうしてお父様と私のために翼を失うまで尽くしてくれたの?」
バードはシェリィを見つめたまま、しばらく沈黙した。
答えはもう彼の中ではっきりしていた。
あれこれ理由を付け加えようとも、バードを動かした本当の理由はひとつだった。
たとえシェリィが男としてバシレオスを愛していようとも、バードは彼女を愛しいと感じる。
バードはシェリィの頭の上に積もった粉雪を、何度も優しく払った。
この愛が、人間界で報われなくてもいい。
シェリィにとって、自分が親代わりであれ兄がわりであれ、彼女が望む何者かになれるのであればそれでいいのだ。
バードが万感の想いを込めて囁く。
「いつかお教えしますよ」
「何よ、それ」
シェリィは不満そうだったが、手の中の魔力が不安定になったことに気がつき、慌てて魔術に集中をする。
粉雪はもう止んでいたが、バードはシェリィの髪を優しく撫でた。
「これからも、今まで以上に誠心誠意、シェリィ様にお仕えします。ですからいつか、私の願いをひとつだけ聞いてください」
シェリィがゆっくりと顔を上げ、バードを見つめる。
風にたなびき、バードの顔を何度も隠す彼の長い黒髪に触れ、片耳にかけてやりながら、シェリィは穏やかに微笑んだ。
「バードったら。まるで本当の守護妖精のようだわ」
「契約はいりません。ただ、貴女からの約束の言葉が欲しいのです」
答えをこい願い、バードがシェリィの頬を指先で撫でる。
シェリィは小さく頷いてから、言った。
「わかったわ。約束する。いつかバードのために、私もなんでもするわ」
バードの全身を、狂おしいまでの歓喜が駆け上がる。
たまらずバードはシェリィの頭に、そっとキスをした。
いつかその日が来たら。
シェリィが人間界での生を終えたら、妖精界に彼女の魂を連れてこよう。
その時はもう二度と、他の男にシェリィの手を握らせはしない。
誰に心を奪われようとも、誰と人生を歩もうとも。シェリィの最後の伴侶となれるのは、自分だけだ――そう確信して、バードは微笑を浮かべた。




