雪原に残されて
雪原には静寂が戻っていた。
先ほどまでバシレオスの作り出した召喚陣が起こしていた激しい風が、召喚陣が消えたのと同時になくなったからだ。
大きな魔術を終えたバードは、全身から力が抜けて雪原に崩れ落ちるように膝をついた。
棺が置かれていた場所は雪が沈み、長方形に雪が凹んでいる。
十ヶ月近くその場所に置かれていたため、バードが手を触れると、雪は押し固められてガラスのように硬くなっていた。
無事、ラズロの棺を妖精界から人間界に送り出せたのだ。疲労はとてつもなかったが、満足感はそれを上回った。
先ほど、バシレオスが放った魔術の網は召喚陣の中に入り込み、棺を包み込んで引き寄せた。
皇族とはいえ、さすがバシレオスの魔力は大きかった。
バードは震える手を雪原について再び立ち上がりながら、考えた。――初代の妖精女王は、なぜこれほど大きな魔力を人間の皇帝に授けたのだろうか?
(正義感からくる、人間界のため? 或いは――純粋に大きな褒美を与えてまで、人間の皇帝が欲しかった……?)
閉じゆく召喚陣の向こうのシェリィの悲痛な叫び声は、バードには届かなかった。
彼はただ、目の前に出現した召喚陣の中へ棺を送ることだけを考えていた。
自分の魔力の枯渇がまもなくだと、バードには自覚があった。
妖精の中では大きな魔力を持つ方であったが、バードは一度妖精王の怒りを買い翼を切られたために、魔力を制限されていた。
だがここで投げ出すわけにはいかなかったのだ。
正直なところ、ここまで魔力を消費するとは思っていなかった。誰も契約もなしに死者を二つの世界の間で渡らせたことがないため、難易度など正確には予想しようがなかったのだ。
シェリィの父ラズロの死について、バードは大きな責任を感じていた。
ラズロの遺体を、父の帰りを待つシェリィのもとへ、つまり人間界に返すことが、バードにとっては彼ができるせめてもの償いだった。
魔力が尽きる前に、バードは妖精王のもとに戻らねばならない。
(妖精王に、顛末を報告しに行こう。それに私も治療を受けなければ)
寒さでほとんど感覚のない膝を動かし、王都へ飛ぶためにどうにか地面を蹴って、空へと飛び上がる。
翼が二枚しかない状態では、上手に羽ばたけない。真っ直ぐ南に向けて飛んでいるつもりなのに、やたらと左右に振られる。
どうにか真っ直ぐに進み始めた時。バードは肩甲骨の辺りに強烈な痛みを感じた。
「うぁぁぁぁぁっ!!」
まるで翼を背中からむしり取られたような痛みだった。バードの視界が180度向きを変え、彼は雪の深く詰まる地面に転がるように落ちた。
雪が衝撃を和らげたとはいえ、全身を地面に打ちつけたせいでバードの息が一瞬止まり、しばらくの間頭の中がグラグラした。
深呼吸を繰り返し、目をゆっくりと開ける。
バードは顔を上にして仰臥していた。
辺りにはただ、バードの短い呼吸音だけが聞こえている。
起きあがろうと思ったが、体が言うことを聞かない。
背中の下の雪は冷たかったが、最早起き上がる気力も体力もなかった。
自力で向かうには王都は遠く、かと言って移動陣を開く魔力はもう残されていない。
疲労と諦めから全身だけでなく頭の中までも重くなり、そのまま脱力してぼんやりと考える。
(そうか。私は……ここでこうして死ぬのか)
王城のそばの邸宅で生まれ、妖精王のすぐ近くで育った自分が、これほど寂しく誰にも弔われずに生を終えるとは、思っていなかった。
孤独な雪原でひっそりと、生者達の前から姿を消す運命にあったとは。
妖精は死後、遺体が残らない。光の粒となって霧散し、自然に還る。だからこそ二つの世界の行き来も容易なのだが、死後の体は脆かった。
こうなると大勢の人々に墓に会いに来てもらえるラズロが、バードには羨ましく思えた。
(人間を羨ましいと思うなど、どうかしている)
己を嘲笑しつつも、バードは考えた。自分が消えてしまったら、少しでもあの子――シェリィは寂しいと思ってくれるだろうか。
見上げれば暗い色の空から、チラチラと白い粉雪が降り始めていた。神がこの地に巨大なふるいで、粉砂糖を散らしているかのようだ。
小指の先よりなお小さな雪の結晶が、バードの額に舞い降りる。顔にチラチラと落ちる雪に、微かな冷たさを感じる。
バードはかつて、魔術を駆使して自分の手のひらの上に雪を降らせ、シェリィに見せたことを思い出した。
シェリィは絵本の中でしか見たことがない雪を見て、いつも興奮していた。だがバードの手の上から顔を上げるたび、なぜか彼女は少し不機嫌になった。
「バードったら、また! 私の顔ばっかり見てないで、バードも雪を一緒にちゃんと見てよ!」と。だがバードはシェリィの小さな要求に応えることはなかった。
雪など見るよりも、バードは喜ぶシェリィの顔を見ていたかったのだと、伝えればよかっただろうか。
マティアスは人間界に生まれたにも関わらず、人の心に寄り添えない、空虚な王太子だった。彼の様子を探りにいったはずが、バードはいつのまにかシェリィの守護妖精に成り切っていた。
人間は守護妖精を「使い魔」と呼ぶ。けれどシェリィはバードのことを、決して「使い魔」とは呼ばなかった。
未来の王太子妃として育てられながらも、決して他者に上下を作らず、誰に対しても同じ姿勢で接するシェリィを、バードは誇りに思った。
シェリィはバードの主人ではなかった。もちろん、召喚主でもない。シェリィはただ、バードにとって最も大切な存在だった。
(もう二度と会えることはないというのに。今さら、こうして自分の気持ちが分かるとは)
シェリィ達を騙していた自分にふさわしい皮肉だと感じて、バードの口元に苦々しい笑みが浮かぶ。
だが、それでも。
――もしも、次に生まれ変わることがあるのなら。
叶うならば、バードは普通の守護妖精でありたいと思った。主人に忠実に仕え、ゆくゆくは妖精界に連れ帰り、共に手を繋いで生きられることに勝る幸福はないだろう。
空は吸い込まれそうなほど暗く、高い。降る粉雪を避けようと瞬きしつつも懸命に眺め、届きはしないと分かっていても、シェリィに語りかける。
「ちゃんと今、雪を見ていますよ。シェリィ様」
凍りそうな舌をどうにか動かし、その名を口に上らせた直後。
バードは頼りなく揺れる小さな灯の如く残っていた気力を、雪原の冷気についに奪われ、もはや瞼すら動かせなくなった。だが彼の胸の中にあふれたのは、途方もなく温かい気持ちだけだった。
最期に自分の中に残るものが愛だということを、バードは誇りに思った。




