皇太子の召喚
ゴダイバ帝国の皇太子宮殿は、広大な庭園を擁している。
みっしりと密集した緑の芝は同じ長さに刈り揃えられ、まるで毛足の長い羊毛を緻密に織って作った絨毯のようだ。
その緑の長い毛足の上を、這うように朝の白い霧がユラユラと立ち込めている。
バシレオスはバードが執務室に現れた翌朝には、もう守護妖精の召喚術を準備し始めた。
分厚い背表紙の本を片手に、勝手に借りたゴードンの深紅のローブを纏い、そばで見守るシェリィに声をかける。
「このページを開く日がこの俺に来るとは、夢にも思わなかったな」
「やっぱり、一度リンツの庭師小屋にある私の学院の教科書を、とってきた方が良いのではないでしょうか? 召喚術について講義で先生に教わったコツとか注意点が、たくさん書き込んであるんです」
白い霧を手で払いながら、シェリィがバシレオスに本気で提案する。まさかこんなに早く、召喚術をするとは思ってなかったのだ。
バシレオスは徹底して、思いついたら即行動をする男だった。
心配するシェリィに対し、バシレオスは首の後ろを掻きながら苦笑した。
「気持ちは嬉しいんだが……。なんていうか、シェリィの学院での成績は、魔術だけはブービーだったんだよな?」
「いえ、ブービーではなくビリです」
「あ、ああ。そうか。――今回はゴードンのローブで気持ちを盛り上げているし、朝は一番魔力がコントロールしやすいから、心配無用だ」
「そ、そういうものでしょうか……?」
シェリィは朝のキンと冷えた爽やかな空気が、急に重くなったのを感じた。
バシレオスを中心に旋回し始めた魔力の風に煽られ、白い霧がいつの間にか消えている。彼が詠唱を始める前に、自身の魔力をかき集めているのだ。
シェリィは守護妖精の召喚術に必要な魔道具が収まる布袋を手にしていたが、風で飛ばぬようその口を固く握りしめた。
シェリィが緊張から急速に喉が渇いていくのを感じて、思わずごくりと喉をならした。
(すごい。凄まじい魔力だわ。学院の先生やマティアスは、クラスメイト達より強大な魔力を持っていたけれど。でもこれは、その比じゃない!)
バシレオスが、左手に持つ魔術書に視線を落とす。
緑の芝は彼を中心に左回りに丸くたなびいているが、その円周がどんどん広くなっていく。
「あの……。殿下、どうかお気をつけてください。無理をなさらないでくださいね」
「大丈夫だ。わかっている」
バシレオスがかすかに口角を上げ、はためくページを押さえるために右手を魔術書に添える。
旋回する風が突然止み、大きくなびいている芝が動きを止める。
溢れんばかりに集っていた魔力が、バシレオスの右手に凝縮される。
シェリィは彼の合図を正確に受け、手に持っていた布袋から絹の糸やダイヤモンドのカケラをバシレオスの足元に撒いた。
バシレオスは魔術書から目を上げ、足元を見つめながら唱え始めた。
「古の妖精女王を導きし異界への道よ。我が足元に開け」
絹の糸とダイヤモンドが溶け合い、輝きを放ちながらするすると伸びて文字の形となっていく。黄色く輝く文字は円を描いて進み、魔術が召喚陣を構成しだす。
その輝きの強さと描かれる線の太さに感心して、シェリィが息を呑む。
「我はゴダイバ家のバシレオス、初代皇帝に連なる者なり。この力に応える妖精を、妖精界より呼び寄せんとする」
召喚陣は眩しいまでに輝き、シェリィは目をすがめた。
バシレオスの魔法に応じる妖精がいれば、この召喚陣の中に出現するはずなのだ。
ちょうど、いつかのカイルがそのようにしてシェリィの前に来てくれたように。
シェリィは召喚陣の中心を見つめながら、「バード、お前を呼んでいるのよ!」とつぶやいた。
(まだなの? 妖精界にはまだつながらないの?)
シェリィがしびれを切らしそうになっていた矢先。
召喚陣の芝生がぐにゃりと曲がり、陣内の空間がおかしくなったのか、不思議な光景が見え隠れした。
召喚陣の中にはじめに見えたのは、真っ青な青空の下に聳える純白の城だ。
繊細な意匠は実に優美で、シェリィが知る大陸にあるどの城とも違う。
「なんて大きなお城なの……」
もっと詳しく見たくて、シェリィが召喚陣に近寄る。
だが城はすぐに消え、代わりに断崖絶壁に張り付くように点在する青い家並みが見えた。その近くを、見たこともないほど大きな鳥が優雅に飛んでいる。
断崖と青い家の光景はすぐに別の景色に切り替わった。
召喚陣が繋がる先が、コロコロと変わるようだ。
雪が積もる屋根が見渡す限り並んている。木造の家屋は密集して立ち並び、帝都のように巨大な街の中心には、幾つもの尖塔をもつ玉ねぎ型の屋根をもつ灰色の城が聳えている。
「これが……妖精界か?」
「そうです、殿下。私たちは今、召喚陣を通して妖精界を見ているんです!」
シェリィは生まれて初めて目にするその珍しい光景をもっとよく目に焼き付けようと、さらに召喚陣に近付いた。
学院の授業で、魔術の教師から「召喚陣に近づきすぎると、吸い込まれて危ない」と教えられてきたものの、異世界の景色に引き込まれ、好奇心と興味から足が自然と動いてしまう。
この目で初めて見る世界が、眼前に広がっているのだ。
赤い夕陽を背にした大きな城の窓の一つから、長い金髪を三つ編みに束ねた女性の妖精が顔を出す。
その妖精はバシレオスの方を見て、一度目を見開いた。世界を飛び越えて互いの存在に気がつき、目が合うという衝撃に、バシレオスとシェリィは声にならない声を上げた。
「殿下の魔術に、あの妖精が気がついたみたいです!」
「ああ。――だが、彼女じゃない。俺はバードを捜さねば……」
何か言おうとしたのか、三つ編みの妖精が口を開こうとしたその刹那。
景色がまた切り替わり、白銀の場所へと召喚陣が引っ張られた。
皇太子宮殿の青々とした木々が茂る皇太子宮の庭園の初夏の空気感とは真逆の、雪を被った黒っぽい木々を背景に、召喚陣はついに待ち侘びた妖精を写した。
厚く積もった雪の大地に屈み、木製の大きな棺に両腕を回してバシレオスを見上げているのは、バードだった。
バシレオスの術の発動を感知し、すぐに棺のある場所に飛んできたのだ。
妖精界で今何らかの魔力を使っているのか、彼の背に四枚の翼が見える。リンツ王国の大聖堂に登場した時のように。
ついにバードと繋がったことに安堵する。
シェリィが召喚陣の中に見えるバードに、声をかける。
「バード、ここよ! 殿下が守護妖精の召喚術を発動させているわ」
妖精界も魔法陣が現れたことで強い風が吹いているのか、バードの長い黒髪が激しく靡く中、彼は棺を手で叩いて示した。
何か叫んでいるのか、口を開け閉めしているが向こうの音は全くこちらに伝わらないため、聞こえない。だが彼の口の動きから「ラズロ」という名前を言ったことだけは、シェリィにもわかった。
シェリィが震える声で叫ぶ。
「その棺に、お父様がいらっしゃるのね?」
こちらの声も聞こえないのか、バードが頷くことはない。だが、相変わらず彼は懸命に棺を指差しながら、棺に積もっていた雪をもう一方の手で払っている。
バシレオスが魔術に集中するために、魔術書を離し、両手を召喚陣に向けた。
「バード、こっちへ来い! ラズロ・キャドベリーの棺をしっかり抱え上げてくれ!」
バードが魔術を使ったのか、どう見ても重量ある棺を両手で持ち上げ、バシレオスの方に向ける。向こう側にも召喚陣が見えているのか、彼はバシレオスに向けて棺を押し出していた。
魔力の風のせいか、景色がかしいだ。バードの姿がかすみ、彼の背景がぐにゃりと曲がり、棺の茶色しか認識できなくなる。
「ダメだ、俺の召喚術に応えようとする別の妖精に、召喚陣が引っ張られている! また別の場所に繋がってしまう!」
バシレオスはバードのいる場所になんとか召喚陣を繋げたままの状態を保とうと、意識を集中させた。
バシレオスの強力な魔力に惹かれた別の妖精が、彼を呼んでいるのだ。
「お前じゃない、俺はバード以外は呼んでいない」
苦しげにバシレオスがそう口走りながら、まるで甘く魅力的な呪文のように彼の脳裏に流れ込んでくるその妖精の反応を、なんとか拒否しようと頭を激しく左右に振って、抵抗する。
一方のバードも、一見召喚陣に向かってただ立っているように見えるが、繋がった扉を閉めまいと全身全霊で集中し、凄まじい量の魔力を使っている。額からは汗が流れるが、拭う間はなかった。
再び召喚陣の写す場所が白い雪原に戻るが、バードは苦しげに口を動かし、何やら唱えていた。
バードは妖精界から魔術を駆使して、棺を送ろうとしている。魔力という切符を失ったラズロを扉に通すために、妖精界からも魔術を発動させているのだ。
相当な魔力を消費しているのか、バードの顔は今や足元の雪のように真っ白だった。
棺をこちらに向ける長い指先は小刻みに震え、シェリィに彼の翼が見えた。
バードの四枚の翼のうち、下の二枚は捩れ、まるで根本からちぎれそうになって風に揺れている。
あまりに痛そうなその状況に、シェリィが悲鳴を上げる。
「翼をどうしたの、バード! 取れてしまいそうだわ!」
「おそらく、魔力を限界まで使っているのよ」
バードの代わりに不意に隣で答えた野太い声は、ゴードンのものだった。
気づけば皇太子宮殿の庭園には、大勢の人々が集まっており、皇太子の作り出す召喚陣を凝視していた。
バシレオスは秘密裏に召喚術を発動させたが、あまりの魔力の大きさに、すぐ近くにある皇宮に仕える高級魔術師達が、異変に気がついていたのだ。
当然、筆頭魔術師であるゴードンは真っ先に皇太子宮殿に駆けつけていた。
ゴードンの部下だけでなく皇宮の衛兵まで来ていたが、まさに今発動中の魔術の邪魔をするわけにはいかない。
とりわけ高度な魔術である召喚術は繊細で、中途半端に手助けや介入をすれば、バシレオスが魔力のコントロールを失う危険性もあるのだ。
本来、伝統的に不要とされている皇太子による守護妖精の召喚が、いろんな人々にバレてしまったことを気まずく思いつつも、シェリィはそれどころではない。
シェリィは厳しい表情のゴードンに尋ねる。
「限界まで魔力を使うと、妖精王族の翼はどうなるのですか?」
「アタシも文献で読んだことがあるだけだけれど。――翼は豊かな魔力の象徴なのですって。魔力が完全に底をつくと、妖精は死んでしまうのよ。魔力は体力と同じよ。日々鍛えて、その日の適正量を使わないと」
「そんな! バード、もう……もう十分よ。それ以上魔力を使わないで!」
バードはシェリィのために魔力を使っていた。
シェリィはたとえどんな姿でも、父に自分のもとに帰ってきてほしかった。
遺品しか納められていない墓石に会いに行くのは、虚しいのだ。
(お父様も絶対に帰りたがっているはず。でも、バードを止めたらもうお父様に会えなくなってしまう)
けれど、それでもシェリィは今生きているバードに、犠牲になってほしくなかった。
「バード、無理をしないで!」
今しも召喚陣の中に飛び込んでしまいそうなシェリィを視界の端にとらえつつ、バシレオスが前に差し出した両手から魔術の網を張り巡らせ、棺に向かって投げた。同時にバードも、バシレオスを補助しようと渾身の力で棺を押し出すのが見える。
「捉えたぞ! あとは網を引くだけだ」
バシレオスは自身の魔術の網によって、ラズロを棺ごと自分の魔術の中に引き込めたのを確信した。棺が人間界から勢いよく引っ張られたため、棺を抱えていたバードの手が滑るように棺から離れる。
魔法陣は最後の輝きを放ちながら、急速にその文字の一字一字が、消えていく。
広げた術式が畳まれていくのだ。
妖精界と繋がり白銀の世界を映していた召喚陣の中から、棺が勢いよく飛び出し、ほぼ同時に召喚陣が完全に消失する。
バシレオスは魔術を綺麗に畳み切る寸前、バードの翼が風の勢いで吹っ飛び、白い雪原の中へ消えていくのを見た。




