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召喚した使い魔が、隣国の氷の皇太子だった  作者: 岡達 英茉
最終章 「分水嶺の術」
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久しぶりの庭師小屋へ②

本日、2話投稿しております。

こちらは2話目ですので、ご注意をください。

 魔術で移動先に到着した直後、シェリィは自分が今懐かしの庭師小屋にいることに、確信が持てなかった。

 シェリィが住んでいた時は小綺麗に掃除されていた庭師小屋が、すっかり散らかっていたからだ。

 床は足の踏み場に困るほどものが散乱し、テーブルは天板がすっかり隠れるほど上にものが並べられ、あるいは積まれていた。

 なぜか窓ガラスが割れ、風が吹き込んでカーテンが揺れている。

 蜘蛛が棲みつくのも時間の問題だったのか、天井には大きな蜘蛛の巣が張られ、その主らしき大きな蜘蛛が器用に足を動かして巣を移動していた。

 窓から雨が入り込んだ後に掃除をしていないのか、もしくは雨漏りでもしているのか、室内はずいぶん湿気っぽく、ジメジメしていた。床に散乱する雑誌や酒瓶をどかせば、下から虫がたくさん出てきそうな雰囲気だ。

 悪臭はしなかったが、バシレオスは無意識に鼻をハンカチで覆った。そのまま呆れたように呟く。


「なんていう有様だ。シェリィが出てから、三週間も経っていないというのに」

「な、なんでシェリィ、お前が。……いや、まさか皇太子殿下まで?」


 バシレオスの声を聞きつけ、驚愕に震える声を上げたのは、ソファーの上で寝転んでいた元公爵のシェリィの叔父だった。彼はシェリィを睨みつけた後でその場にバシレオスがいることに気がつき、すぐに低頭した。

 ソファーの上にはドレスやらショールやらが無造作に置かれ、衣の山に埋もれる格好で横になっていた叔父の存在に、バシレオスとシェリィは最初全く気づかなかったため、ドレスの山を崩しながら現れた叔父を前に、激しく瞬きをした。


「久しいな、元公爵」


 真顔に戻ったバシレオスが片手を上げ、挨拶をする。

 間をおかずにその声を聞きつけたアンジーが、隣室を繋ぐ扉をバーンと乱暴に開け、居間にやってきた。

 アンジーはこれまでシェリィが見たことがないほど髪をボサボサにして、薄汚れたドレスを着ていた。おそらく洗濯の方法を知らないのだろう。

 アンジーがわなわなと体を奮わせながら、口を開く。


「こ、皇太子殿下……! もしや私の様子を見にこられたのですか? どうか私の弁明を聞いてください!」


 バシレオスが答えないうちに、アンジーは転がるように彼の足元に跪いた。

 そうして彼を懇願するように見上げ、哀れっぽく言う。


「私は父の悪巧みを、何も知らなかったのです。本当です! 父が自分の兄の暗殺を計画し、公爵家を乗っ取ろうとしていたなんて」


 バシレオスはアンジーにしがみつかれたが、冷たい目で彼女を見下ろした。


「そなたは父のあやまちのせいで落ちぶれたのではない。己の幸福だけを追求しすぎたから、今の状況に陥ったのだ」

「そんな! ご無体な。幸せになろうとしてはいけませんの?」

「人から奪ったものは、いつか奪われると思うがいい」


 アンジーはバシレオスの隣にいるシェリィをキッと睨んだ。


「殿下は間違っています! 我が国の王太子殿下が捨てたような平凡な女を選んで、必ずそのうち後悔なさいますわ」

「アンジー、貴女失礼すぎるわ。それにマティアス様はもう、王太子ではないのよ……」


 シェリィが腰に両手を当てて口を挟むが、アンジーはそれを無視してバシレオスを見上げる。


「恋心はいつか冷めるものです。冷静になった時に、妃として隣に立つのは美しい女性であるべきだと、聡明なマティアス様はお分かりだっただけです」

「美も年月と共に必ず衰えるものだがな。その時、そなたには何が残る?」

「そ、それは……」

「答えられないのが、そなたの答えだ。俺は見た目で妃を選んだりはせぬ」

「ちょっと、皇太子殿下。それも十分、失礼です!」


 ムッとして唇を尖らせ、シェリィが不満そうにバシレオスを睨む。

 だがバシレオスはシェリィの怒りをよそに、固い表情を緩めた。


「怒った顔も可愛いな、シェリィ……」


 つられて喜んでなどやるものか、とシェリィはバシレオスから目を逸らし、アンジーを見下ろした。


「アンジー。私、貴女にはもう関わりたくないというのが本心よ。でもね、一点だけ貴女に恩返しをしないといけないことがあるの」


 アンジーは何も言い返すことが思い浮かばず、シェリィの続きを黙って聞いた。


「貴女は私がマティアス様の婚約破棄の代償に、三千万ドランを受け取る権利を、認めてくれた。あの時、支払いを渋る叔父様を説得してくれたわ」


「ああ、あれは……」と思い出したかのように目を彷徨わせ、頼りない口ぶりでアンジーがシェリィに説明する。


「あれはただ、貴女に必要だと思ったからよ。ただ、それだけ」

「ええ、そうかもしれないわね。深い意味はなかった。でもそれで十分よ。貴女も今、先立つものが必要だわ。それに私のせいで貴女も婚約者を失ったようなものだもの。だから、国王陛下からもらった金額のうち、三千万ドランは貴女に渡すわ」


 思わぬ発言に、アンジーがゆっくりとエメラルド色の目を見開く。汚れた服を纏い、櫛も通らぬ髪を垂らしていようとも、どんな宝石より美しい目だ、とシェリィは思った。

 シェリィはアンジーと初めて公爵邸で会った時のことを、不意に思い出した。


 あれは二人が五歳の時だ。

 叔父と共にやってきたアンジーは、教会の絵画に描かれている天使のように、愛らしかった。母を失ったばかりで寂しい思いをしないように、王宮の行事に出かける父が歳の近い親族を呼んでくれたのだ。

 幼いアンジーは、広大な公爵邸を隅々まで目を輝かせて走り回り「ここに住めるなんて、シェリィはお姫様みたいな暮らしをしているのね」と羨ましがった。

 あの頃すでに、アンジーの澄んだ目の奥では、あらゆるものが歪んで映っていたのだろう。

 シェリィはアンジーに一歩近寄り、正面から尋ねた。


「三千万ドランが、貴女には必要でしょう?」


 アンジーがポカンと口を開けていたが、すぐに表情を強張らせ、唇を噛み締めた。だがまもなく彼女はシミのついたドレスの裾を強く握りしめながら、固い動きながらも膝を折った。

 腰を深々と沈め、頭をシェリィに向かって下げるアンジーを、元公爵とバシレオスは驚いてじっと見ていた。

 対するシェリィは、極めて無表情にアンジーの行動を見つめていた。

 アンジーが震える声で、絞り出すように言う。


「ええ、その通りよ。どうか三千万ドランを、私にちょうだい」

「私が貴女に何かあげるのは、これが最後だと思って」

「もちろんよ、シェリィ。貴女の慈悲深さに、感謝するわ」


 アンジーがそう答えるなり、これで二人の会話は終わったとばかりにシェリィは居間の隅にある小さなキャビネットに向かった。足元に紙屑や食器が散らばっているので、避けつつ進まねばならない。

 シェリィが開けた引き出しには、アンジーが後から詰めたのか、髪飾りがたくさん押し込められていたが、その一番下にシェリィが探しているものがいまだ収められていた。

 マティアスとの婚約解消を承諾する書類である。

 勝手知ったる手つきでインク瓶と羽ペンもキャビネットから取り出し、シェリィはテーブルの上で書類にサインを入れた。


(なんて、呆気ないのかしら。署名するのはあっという間ね)


 赤ん坊の頃からシェリィに約束されていたマティアスの妃という立場。

 そのために自分を律し、努力を惜しまなかった。

 この婚約のために、さまざまな葛藤や駆け引きがあった。だが幕引きそのものは一瞬だった。

 しかもテーブルの上が散らかっているせいで、空いているわずかなスペースで書いたために、署名自体もあまり綺麗に仕上がらなかった、


「これでマティアス殿下と私は、完全に他人です」


 もはや署名などどうでも良かったのか、アンジーは「えっ? ああ、そうね」と気のない生返事をした。

 バシレオスはシェリィが署名を終えたのを見て一度簡潔に頷くと、胸ポケットから書類をガサガサと取り出した。そうして元公爵に話しかける。


「実は俺からはシェリィの保護者たるそなたに、頼まねばならんことがある。シェリィをゴダイバ帝国の皇太子妃として迎えたいのだが、知っての通り慣例として彼女には持参金が必要なのだ」


 そんな話をするつもりがあったとは思っていなかったシェリィは、ギョッとして目を剥いた。

 たしかに王侯貴族の結婚は、妻側が持参金を持ってくるのが常識だ。厳密に言えば、それは夫に与えられるものではなく、万が一夫の身に不幸があった場合、彼女の生活を支える「寡婦のための財産」にもなる。

 だが持参金の話を今するのは、早すぎやしないか、とシェリィはバシレオスの行動に唖然とした。


(最近、わかってきたわ。バシレオス皇太子殿下は、思い立ったら即行動をするタイプなんだわ。待つとか、一呼吸おくとか、慎重にっていう考えはないのね)


 叔父は途端に顔をしかめ、肩をすくめて短い首を動かして頭を左右に振った。


「何をおっしゃるかと思えば。この悲惨な有様を、ご覧くださいませ。金など一銭も残っておりません。ここにおりますのは、王太子殿下と帝国の皇子にまんまと利用された哀れな男です。お分かりでしょう? たかが一貴族に過ぎない私が、彼らを諭すことなど不可能だったのです」

「何を言う。マティアスとステンを利用したのは、お前も同じだろう?」


 この後に及んで都合のいい言い訳をする元公爵に呆れ、バシレオスが眉間に皺を寄せる。


「ご覧の通り、私は身を粉にして築き上げた全財産を失いました。この私めに、お相手がたとえ皇太子殿下とはいえ、支払える銭がありましょうか?」


 ふん、と呆れて鼻で笑ってから、バシレオスは彼の足の近くに転がっている酒瓶を爪先で突いて、転がした。


「酒を買う銭はあるようだがな」

「酒は領土も爵位も、地位も財産も何もかも失った哀れな中年男の、最後の生きる糧でございますよ。今王宮で開かれている裁判が終われば、収監は間違いございません。幻だとしても、酒の見せる一瞬の夢を心の支えにしておりますので」


 下卑た笑みを披露して両手を広げ、釈明する叔父に対し、シェリィは湧き起こる怒りをどうにかこらえた。


(お父様やユトレヒトから何もかも奪った本人が、何を言うの? どこが哀れなのよ)


 だがバシレオスは元公爵とアンジーに対し、にっこりと異様に社交的な笑みを披露した。


「それでは仕方あるまい。この庭師小屋を売ってまで金を作らせるのは、流石にこの俺も忍びないからな。かといって、俺にはシェリィを諦めるという選択肢はない。ならばいっそ、保護者としての立場を放棄してはどうだ?」


 バシレオスの意外な提案に、シェリィばかりか元公爵まで驚き、ごくりと生唾を嚥下して頭をガリガリとかいた。

 目を子どものようにパチパチとさせ、首を傾げて確かめる。


「放棄すれば、私はシェリィの持参金を準備しなくてもよろしいのでしょうか?」


「もちろんだ」とバシレオスが見惚れるほど綺麗な笑顔で頷く。


「シェリィはもう学院を卒業しましたし、十八歳です。保護者としての権利は主張致しません」

「それが互いにとって、最良の選択だろう」


 バシレオスの至極満足そうな笑顔に、シェリィはやっと気がついた。彼ははなから、結婚前にシェリィの保護者の同意を得るより、保護者としての立場を放棄させる方が簡単だと予想していたのだ。だからこそ、敢えて持参金の話を先に振ったのだろう。

 叔父はバシレオスの手のひらの上で転がされたとは露ほども思わず、さも助かったといった風情で安堵の息をついていた。

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