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帝国の水の都②

「べ、ベネスティ……。って、あの、水の都として有名な、観光地のベネスティですか⁉︎」


 頬を撫でていくのは、潮の香りのする湿った風だ。


 移動陣は学院の授業で、シェリィも発動したことがある。だがどれも隣の部屋に移動する程度の、短距離の移動がせいぜいで、まさか国を越える移動に応用できるとは、想像もしていなかった。

 何が起きているのか、これは現実なのかを確かめたくて、シェリィは目を見張り、耳を澄ませて周囲の様子を窺った。

 男の背後に広がるのは、歴史を感じさせる荘厳でいて華麗な建築様式の建物の数々で、陽光を浴びて煌めく水路が縦横に走っている。

 建物のすぐ脇を流れる水路には、ゴンドラが航行しており、漕ぎ手達が何やら陽気な歌をうたっている。どうやらシェリィたちはベネスティの端にいるのか、街を背後にラグーンの砂浜にいた。

 リンツの王都にあるシェリィの家の窓からは、分厚い曇り空が広がっているのが見えていた。だが今シェリィがいる場所は、見上げれば抜けるような青空に小さな薄い雲きれが漂っている。

 空は海との境界線がわからなくなるほど青く、まるで繋がるような錯覚さえ覚える。

 青空を背景に、宝石のような街並みの上を白いカモメが優雅に飛んでいる。

 リンツの王都もあたたかい日が増えており、シェリィは薄い生地のシンプルなワンピースを着ていたが、それでも着ている肩や腕周りの生地に暑さで不快に思える。

 気温の違いに、本当に大陸を一瞬で移動したのだ、と実感する。

 シェリィは自分の反応を愉快そうに観察している赤毛の男に話しかける。


「私たちは国境だけでなく、帝都も超えて水の都まで来たというの? あ、あなたは天才魔術師です!」

「あらぁ、アンタ、思ったより正直で良い子じゃないの。そ! アタシって自他ともに認める、帝国一偉大な魔術師なのよ」


 胸を張ってそこまで自信満々に言い切ってから、男はハッと気づいた。


「自己紹介がまだだったわね。アタシはゴードンよ。さ、今日は水の都でカーニバルが開かれるから。会場まで行くわよ。カイル様がアンタをお待ちなの」


 水の都のカーニバルは、リンツ王国でも非常に有名だ。

 貴族だけでなく、平民たちもお金を貯めて一度は行ってみたい、という歴史ある賑やかな祝祭なのだ。

 ベネスティだけでも見応えのある宝石のような街なのだが、年に一度行われるカーニバルは、誰もが仮面をつけて仮装をして通りを歩き、広場で踊る祭りである。

 この祭の発祥は、この地にいた魔獣を追い払い、ラグーンに杭を打ち込みベネスティの街を建設し始めたことにあるという。

 だからなのか浜辺から街中に入り、大きな運河にかかる橋を渡って通りを歩き始めると、すれ違うほとんどの人々が魔獣の仮装をしている。

 毛糸や毛皮で作った灰色や黒のマントを羽織り、牙のついた仮面。

 中には蛍光ピンクの毛皮を纏う、可愛らしい魔獣の仮装をする子どももいる。


「すごいわ。教科書に載っていた祭を、今見ているなんて。本当に私、ベネスティに来たのね。信じられない」


 絵画でみたり、観光で行ったことがある友人から聞いた通りの光景が広がっている。シェリィは興奮しつつ、ゴードンについていった。

 街の中心部に向かうにつれ、人々で通りはごった返した。

 道を歩くより水路を船で渡る方が効率的に進める、と考える者たちも多いのか、水路を行き交う小舟も仮装した人々で賑わっている。


「カイル様が、アンタにベネスティを見せたいんですって。羨ましいったら。アタシも仮装して、イイ男と広場でダンスしたかったわ。でもその前に、アタシ達は行くところがあるわよ」


 ゴードンは水路に停泊している黒い木製のゴンドラの漕ぎ手――舵手に向かって、片手を上げて合図を送った。

「あれに乗るからね」と簡素すぎる報告をシェリィにするなり、スタスタとゴンドラのすぐ脇へと歩いていく。

 舵手はまずゴンドラの上から先にシェリィに手を差し伸ばし、中に乗り込むよう促した。

 ゴンドラを前にして、数分ほどシェリィは躊躇した。

 初めて会った謎の魔術師を信用して、このままゴンドラに乗り込んでいいものか、考える時間が必要だった。


(信じてついていって大丈夫かしら? でも、移動陣まで使えるような魔法使いだもの。変なことをするはずないわよね)


 舵手の手を借り、彼の合図で陸からゴンドラに乗り移る。ゴンドラは離れて見るととても細く頼りなく見えたが、いざ乗り込んでみれば意外と幅があるように感じられた。

 中には橙色の絨毯が敷かれており、背もたれ付きの椅子が縦に二つ並んでいる。シェリィに続いて乗ってきたゴードンが後ろに座ったので、彼女はスカートをたくしあげて前の椅子に腰掛けた。

 舵手がオールを握り、静かに漕ぎ始める。

 不思議なことにオールは通常のボートとは違い、一本しかないようだ。オールの動きに合わせて、木を叩くようなゴトンという重い音と水の跳ねる軽やかな音が規則的に続く。

 シェリィはゴンドラが進み始めると、後ろを振り返りながらゴードンに尋ねた。


「カイルはベネスティに住んでいるわけではないんですよね? この先で、カイルが待っているんですか? ここに来るよう、彼が言ったんですか?」


 景色を眺めていたゴードンが「ええ、そうよ。全く、どうしてアタシがこんな役周りをしなくちゃいけないのかしら?」とボヤく。質問が多すぎたのか、なんだか虫の居所が悪くなってきたようだ。

 シェリィは急いで頭を元の位置に戻し、ゴンドラの進行方向に集中した。

 ベネスティは有名な観光地で、舵手はこの地域の民謡を歌いながらオールを握ると聞いている。だがシェリィ達を乗せた舵手は静かだ。

 ゴンドラは大きな水路を進んでいたが、一つ目の区画を右に曲がり、細い水路に入っていく。

 両側を建物に囲まれた暗い水路を、シェリィは見上げた。

 建物群は道路に面しておらず、ドアを開ければ直接水路に出る状態で立っている。ここでは水路が道路と同じような位置づけなのだろう。

 街の成り立ちや造りが違いすぎて、ここの住人たちの日常生活は一体、どんなものなのだろうと妄想が膨らむ。

 それにしても、にぎやかな大通りとは違って、シェリィたちの進む水路は静かだ。

 窓を開けているものもおらず、ベネスティの長い歴史を感じさせる古い建物は静けさの中にあった。


(どうしよう。なんだかちょっと、怖くなってきたわ)


 水路が多いせいか、街中はどこにいてもジメジメした湿気を感じる。水上を渡った風は、鼻腔を掠めるとカビっぽい臭いもする。

 ゴンドラは一軒の大きな建物の前に停まった。

 建物の正面玄関と思しき両開きの扉の前には、水路に二本の杭が打ち込まれていて、舵手はゴンドラに繋がるロープを杭に巻きつけ始めた。次いで彼は建物の扉を片手で開けた。


「着いたわ。ほら、キョロキョロしてないで、さっさと降りてちょうだい」


 ゴードンの野太い声に急かされるように、シェリィが舵手の手を借りてゴンドラから建物の中へ移動する。

 建物はどうやら教会のようだった。中に入ると聖水盤が彼女達を出迎え、内部は奥へ細長く続くつくりをしていた。

 信者が腰掛けるための暗い色の木製の長椅子が並び、奥には祭壇がある。

 外は快晴だというのに窓が少なく、天井近くの青や紫色のステンドグラスからしか日光が刺さないため、目を凝らしても細部が見えないほど暗い。

 シェリィはゴードンに後ろから押されるような格好で、恐々と小股で先へ進んだ。

 一番奥の長椅子には一人の男性が座っており、シェリィたちが来たことに気がついたのか、パッと立ち上がった。


(カイル? あそこにいるのが彼かしら?)


 カイルを思い浮かべて口元に途端に笑みを浮かべたシェリィだったが、すぐにその笑みは掻き消えた。

 その人物はカイルより背が低いし、猫背だった。

 カイルではないと気づいたシェリィが立ち止まり、後ろから歩いてきていたゴードンのつま先が彼女の踵にぶつかる。

 これはどういうことなのか、とゴードンを振り返る。

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