帝国の水の都①
薄い紅茶を飲みながら、窓の外を見る。
初夏の雨上がりの曇天の下、庭師小屋の前庭の雑草は雨の雫を纏い、好き放題に伸びきっている。
緑色のバッタがどこからかやってきて、雑草の上をピョーン、ピョーンと跳ねていく。
狭い前庭であるが、暖かくなって雨の日が増えてくると、雑草はすぐに伸びてしまって見苦しい。
「とはいえ、もうすぐガレル州に引っ越すのに、また雑草むしりをするのも骨折りよね。どうしよう」
ふぅ、と小さく息を吐いてシェリィが紅茶のカップをテーブルに置く。
引っ越し準備はあらかた済んでおり、庭師小屋の中は木箱だらけだ。
亡き母から譲り受けたガレル州の荘園に立つ小さな屋敷には、あまり家具がない。
だからこの家にあるものは、なるべく持っていこうと思っているのだ。
このテーブルはもともと、公爵邸に置かれていた。テーブルの隅に一箇所だけ、ナイフで付いてしまった傷があり、庭師小屋に置く家具として格下げされたのだ。
シェリィはその傷跡に指で触れ、感慨深くため息をついた。
傷跡は小さなナイフで、シェリィが子供の頃につけた落書きだった。ハートや犬の絵が、ガタガタの線で木の天板に刻まれている。その傷をつけた日のことを、シェリィはよく覚えていた。
使用人達に隠れてナイフでテーブルに絵を彫ったシェリィは、後でバレるや否や、こっぴどくバードに怒られたのだ。
「こんなの、お父様に言って魔法で治してもらうもん!」
なぜそんなに怒るのか、と頬を膨らませるシェリィに対し、バードは腕組みをしてキッパリと言った。
「魔法でなんでも治せばいいと思ってらっしゃるなら、大間違いですよ。シェリィ様の信頼は、魔法では戻せません」
「ちょっと彫っただけじゃない」
「テーブルは彫るためにあるのではありません。良いですか? 決して直さず、この先も毎日この傷をご覧ください。そうすれば元になど戻らないのだと、お分かりになるでしょうから」
「そんなの嫌よ」
「なぜです?」
「だって傷がついていたらみっともないもの。お友達をお茶会に呼んだ時に、笑われちゃう」
バードは長い腕を伸ばして、ドン、とテーブルの上の傷に手を置いた。そうして紫色の瞳でシェリィを厳しく睨め付ける。
「その傷をつけたのは、どなたです? よろしいですか、絶対に魔術で天板の傷を治してはなりません」
思い出したシェリィの口元に、弱々しい笑みが広がる。
(あの頃から、変わらずバードは私にきびしかったな)
バードはシェリィにいつも「王太子妃にふさわしい女性であれ」と言ってきた。
リンツ王家の権威の源である魔力は、はるか昔に属国となった際に、ゴダイバ帝国の皇帝から与えられたものだ。
皇帝は七本の王杖に魔力を分け、一本ずつ属国の七王国に与えたのだ。
そもそも遡れば、ゴダイバの初代皇帝が持つ魔力自体も、妖精女王から彼の人徳を認められて与えられたものだ。
その地位にふさわしくない者が国王や王太子位に就けば、魔力をゴダイバ帝国の皇帝にに返さねばならなくなるのだと言われている。
だからこそ、為政者は清廉潔白でいる必要があるのだ。
「良い子でいないと、王太子様と結婚できなくなっちゃう!」
シェリィはそう考えて、毎日の勉強も習い事のレッスンも頑張ってきたのだ。
思わずシェリィはボヤいた。
「良い子にしていても、マティアスとは結婚できなかったじゃないの」
テーブルの傷にしても、同じだ。傷は今も残してある。シェリィはバードの言い付けを守ったのだ。
それなのに、今はバードがいなくなってしまった。
シェリィは居間に掛けてある父の肖像画を見上げた。
「お父様、どこにいらっしゃるの?」
感傷的にそう呟いた直後。
居間の床に突如、黄色い光が走った。
それは瞬く間に円形と文字を床に構成していき、何事かと狼狽えるシェリィの前で完全な魔法陣となった。
もしや自分が召喚魔法陣を無意識に描いたのだろうか、とシェリィは思ってみたが、呪文も唱えずにそんな高度なことはとてもできない。
しかもシェリィが魔術で描くような太くやや読みにくい字ではなく、細くそれでいてくっきりと輝く美しい文字が魔法陣に描かれているのだ。
これほど完璧な魔法陣は、シェリィが通っていた学院の教師でも難しいかもしれない。教科書に載るレベルだ。
シェリィがアワアワと両手で頭を押さえながら居間の隅まで後退した矢先、魔法陣の中心から一人の大柄な人物が現れた。
長い赤毛を靡かせ、その人物は髪と同じくらい赤く人目をひく目で、シェリィをハッと見た。
その瞳が見開かれ、うっすら髭の生えた口元がワナワナと震える。
「う、うそぉおおおおおん! アンタがシェリィ・キャドベリー?」
「そ、そうですけど」と答えながら、シェリィもその人物の全身を組まなく観察した。
体型はどう見てもガチマッチョだった。間違いなく、片手でりんごを砕けそうだ。
濃い化粧をしているし口調が紛らわしいが、髭も生えているから男で間違いないだろう。
そして胸元に杖の模様が刺繍されたワッペンをつけ、立派なローブを羽織っていることから、おそらく男は魔術師だった。
男は目を見開いて焦点をシェリィに当てながら、おそらく自身が作り出した魔法陣の中心で、手招きをした。
「もう、しょうがないわね。このアタシがどうせ失恋するなら、もっととびきりの美女の方が屈辱じゃなかったんだけど。ほら、アンタ。こっちきて」
「は、はい?」
「こっちにきて魔法陣に入りなさい、って言ってんのよ! ゴダイバ帝国まで、移動陣を使えばひとっ飛びなんだから」
男はまるで物分かりの悪いシェリィを叱るように腰に両手を当てて、そう言った。
「それより、どちら様ですか? うちに勝手に……。あの、どこの所属の魔術師さんでしょうか」
すると男はガリガリと頭をかいた。
「カイル、って言えばわかるかしら。アタシは彼の家に仕えているの。アンタが彼の高貴で尊い大事な魂を、一時的に掻っ攫ってた女でしょう? その間、アタシが彼のお体を守ったんだから!」
「カイルの家の魔術師さんなんですか⁉︎ 彼の話で何度か、聞いております。あの、その節は本当にご迷惑をおかけしました……」
「んもう、そんなのは後よ、アト! いくらこのアタシでも、移動陣を開いたまま保つのって大変なのよ? さっさと来て頂戴!」
男が太い右腕をシェリィに伸ばし、クイッと手前に引く仕草をすると、魔術でも使ったのか彼女の体が見えない力にぐっと引かれ、あっという間に魔法陣の中に体ごと突っ込んだ。
男が「ハイ、確保〜!」と力強く宣言し、彼の腕がシェリィの肩をがっしりと掴む。あまりに筋肉質な腕に引き寄せられ、シェリィは一瞬丸太にでもぶつかったかと勘違いした。
直後、シェリィの目の前の景色がぐにゃりと歪む。椅子や窓が溶けて混ぜられるように渦巻き状に見え、立っていられないほど頭の中がクラクラしてしまう。
視界が歪むせいか、強烈な頭痛に襲われ、身の危険を感じたシェリィはなんとか魔法陣から逃れようと身をよじるが、彼女を捕らえる男の腕はビクともしない。
全力で腕を解こうとしているのに、男は「んもう、ジッとしてなさいよ」と余裕の様子で呟く。
まるでいろんな色の絵の具をごちゃませにしたように目の前の景色が歪み、見ていられず思わず目を閉じ、もう一度開いた時。
景色は一変し、シェリィは我が目を疑った。
眼前にはエメラルドブルーの穏やかな海が広がっている。左右に立っているのは、色とりどりの美しい建物群だ。
動揺して足の力が抜け、その場に膝をついてみれば、足元はなんと砂浜だった。
「こ、ここどこ? 家が、というより庭園もないわ!」
後ろを振り返ると、赤毛の男が後ろに広がる街並みを右手を広げて指し示した。
「ようこそ、ゴダイバ帝国が世界に誇る、美しきベネスティへ!」




