第5話 国名で言え
宇宙エレベーターは、宇宙だけを見ていても造れません。
海があります。
船が通ります。
空には飛行機が飛んでいます。
島には人が暮らしています。
そして、そこには国があります。
今回は、相馬直人が初めて「最適な座標」と「建てていい場所」は同じではないと知る話です。
会議室の中央に、地球が浮かんでいた。
正確には、壁一面の大型ディスプレイに投影された3次元地球モデルだった。
青い海。
白い雲。
茶色と緑の大陸。
その中央を、1本の赤い線が横切っている。
赤道。
相馬直人は、その線を見ながら言った。
「まず、ここからです」
会議室には軌道輸送構造物・予備技術検討会の主要メンバーが集まっていた。
井上剛志。
宮前玲奈。
黒田夏海。
安西圭吾。
片桐礼子。
越智悠斗。
三輪敦史。
森川真帆。
そして直人。
ホワイトボードには今日の議題。
《Earth Port候補海域第一次選定》
井上が腕を組んでいる。
「確認するぞ」
「はい」
「今日は宇宙の話じゃないんだな?」
直人が答える。
「地球の話です」
「それなら少し安心した」
黒田が横から言った。
「部長、それたぶん間違ってます」
「なんでだ」
「海の話になるので」
「もっと面倒か?」
「はい」
即答だった。
井上がため息をついた。
「始めろ」
直人が操作する。
地球が回転した。
赤道が画面中央に固定される。
「軌道エレベーターの地上側拠点――Earth Portの位置について、候補を絞ります」
安西が聞く。
「赤道直下必須?」
「“絶対に1mもずらせない”という意味ではありません」
直人は答えた。
「ただ、構造上は赤道が最も素直です。緯度が上がれば、その分だけテザーが鉛直から傾く。地上側には横方向の力が増える」
安西が頷く。
「制御する側からすると、わざわざ条件悪くする理由はないですね」
「そういうことです」
画面上。
赤道を中心に、細い帯が表示された。
「なので第一次候補は赤道付近」
森川が言う。
「世界半周ありますけど」
「だから絞るんです」
「今日中に?」
「希望としては」
黒田が笑った。
「相馬さん。海、そんな簡単じゃないですよ」
「知ってます」
「昨日まで知らなかった顔してますけど」
「今日は知る日です」
「いい返事」
直人が次のレイヤーを表示した。
プレート境界。
地震活動。
火山帯。
海底地形。
色が増えていく。
「次。地質条件」
黒田が立ち上がった。
ここからは彼女の領域だった。
「固定式の海洋構造物を造るなら、海底地盤は非常に重要です」
ポインター。
「ただし今回、普通の洋上風力や石油プラットフォームと同じ発想はできません」
「水深?」
越智が聞いた。
「それもあります」
黒田は赤道付近の太平洋を拡大した。
「外洋は深い。普通に数千m級です」
画面に海底の起伏が現れる。
「ここへ“地面から塔を建てる”みたいな構造は、少なくとも私はやりたくない」
直人が言う。
「俺も」
「じゃあ最初から固定式って書かないでください」
「初期案です」
「初期案でも嫌です」
資料に赤線を引かれた。
井上が小さく笑う。
「相馬、また壊されてるぞ」
「順調です」
黒田は続けた。
「私なら半潜水式」
Earth Portの概念図が表示される。
海面に巨大な浮体。
複数の柱。
水面下の大型ポンツーン。
「セミサブ型?」
三輪。
「そう」
黒田が頷く。
「完全固定じゃない。深海係留を基本にしながら、推進器による位置保持も併用する」
直人が前を見る。
「移動できる?」
「程度問題です」
「何km?」
「まだ聞かないで」
「デブリ回避とか振動制御で、地上接続点を動かせたらかなり――」
「だからまだ聞かないでください」
「はい」
黒田はため息をついた。
「でも、考え方としては間違ってません」
直人が少し笑った。
「地上基地が動く宇宙エレベーター」
越智が言う。
「地上じゃなくないですか?」
全員が少し黙る。
直人が言った。
「Earth Portだからいいんだよ」
「雑だなあ」
笑いが起きた。
◆
候補地選定は、最初から難航した。
赤道という条件だけなら単純だった。
だが。
陸地。
人口。
地震。
火山。
海底地形。
海流。
熱帯低気圧。
雷。
漁業。
自然環境。
港湾までの距離。
資材輸送。
通信。
電力。
既存インフラ。
1枚。
また1枚。
地図へレイヤーが追加されていく。
赤道上にあった広大な候補帯は、条件を重ねるたびに削られた。
森川が画面を見る。
「これ、本当に残るんですか」
「残すんです」
直人が答える。
「気合いで?」
「工学で」
「気合いに聞こえました」
宮前が笑った。
片桐は笑わない。
「安全条件をまだ入れてません」
全員が一瞬黙る。
直人が聞いた。
「何が追加されます?」
「住民避難」
「……はい」
「テザー重大損傷時の危険区域」
「はい」
「大型部材落下」
「はい」
「Earth Port火災」
「はい」
「有害物質」
「はい」
「大規模停電」
「はい」
「周辺船舶との衝突」
黒田が頷く。
「入れます」
「航空機」
直人の指が止まった。
「航空機?」
片桐が直人を見る。
「テザー、空まで伸びるんですよね?」
「まあ……そうですね」
「“まあ”ではなく」
「伸びます」
「なら航空機は?」
直人は画面を見る。
誰も答えない。
数秒。
井上が言った。
「相馬」
「はい」
「忘れてた?」
「……優先順位が低かっただけです」
黒田。
「忘れてた顔ですね」
「低かったんです」
「はいはい」
片桐が資料へ書き込む。
「追加します」
「何番ですか」
「S-164」
「もう164まで増えたんですか?」
「昨日増やしました」
直人は何も言わなかった。
◆
午後。
会議室の人数が2人増えた。
海外インフラ事業本部から1人。
航空インフラ調査を担当する外部技術者が1人。
そして。
もう1人。
直人が初めて会う男が、会議室の一番奥に座った。
年齢は50代半ば。
日に焼けた顔。
濃紺のスーツ。
だが、ネクタイは少し緩い。
海外インフラ事業本部副本部長。
執行役員。
佐伯宗一郎。
東建総に30年以上在籍し、その半分近くを海外インフラ案件で過ごしてきた人物だった。
フィジー。
サモア。
パラオ。
キリバス。
太平洋島嶼国での港湾・道路・橋梁・電力案件。
社内では妙な評判がある。
「海外案件なのに、本社より現地の港のおっちゃんの方が話が早い男」
井上が小声で言った。
直人が聞き返す。
「何です?」
「独り言だ」
佐伯は聞こえていたらしく、笑った。
「褒め言葉として受け取っとくよ」
直人は軽く頭を下げた。
佐伯も返す。
それだけだった。
航空担当者がディスプレイへ接続する。
「では航空交通を重ねます」
直人の地球モデル。
候補海域。
その上に。
線が現れた。
1本。
2本。
ではない。
何十本。
何百本。
細い航跡が青い海の上を横切った。
直人は眉を寄せた。
「……これは?」
担当者が振り返る。
「航空機の航跡です」
「全部?」
「表示期間内の取得分です」
直人は画面を見る。
太平洋。
何もないと思っていた青い空間。
そこに人間が飛んだ痕跡が何本も刻まれている。
「こんなに通ってるんですか?」
「太平洋ですよ」
「いや、それは分かってますけど」
「相馬さん」
航空担当者が少し笑う。
「空にも道はあるんですよ」
黒田が隣から言った。
「海にもあります」
「分かってます」
「今知った顔してますけど」
「航空は今知りました」
「正直でよろしい」
画面が変わる。
航跡に加え、航空路や管制空域の情報が表示される。
「注意していただきたいのは」
航空担当者が説明する。
「洋上では、道路のように“この線以外は絶対飛ばない”というものではありません」
直人が聞く。
「日によって変わる?」
「変わります」
「天候?」
「天候、風、高度、運航条件、交通量。航空会社側が効率的な経路を選ぶ運用もあります」
直人が腕を組む。
「じゃあ、この航跡を避ければいいという話じゃない」
「はい」
「未来の航路まで考える必要がある」
「そういうことになります」
森川が小声で言う。
「また増えた」
片桐。
「増えますよ」
「言わないでください」
◆
直人は候補地点を拡大した。
赤道。
中央太平洋。
西経157度付近。
「今のところ、技術条件だけならこの帯がかなり残っています」
黒田が頷く。
「海底条件も、少なくとも大規模な活動的プレート境界の真上を選ぶよりは検討しやすい」
安西。
「赤道条件もいい」
三輪。
「洋上だから地上施設との干渉も減らせる」
森川。
「物流は最悪ですけど」
「それは後で」
「私の仕事、毎回後にされてません?」
画面を少し北へ動かす。
そこに島がある。
細長く、大きな環礁。
表示。
《Kiritimati》
直人が読む。
「キリスィマスィ島」
佐伯の視線が少し動いた。
直人は続ける。
「候補海域は、この島から南へ――」
航空担当者が止めた。
「その前に」
新しい記号が表示される。
島の北側。
飛行場。
《Cassidy International Airport》
直人が少し身を乗り出す。
「国際空港?」
「あります」
「この島に?」
「あります」
「滑走路方向は?」
航空担当者が画面を切り替える。
「08/26。概ね東西方向です」
滑走路延長方向が表示される。
直人は候補海域と見比べる。
「候補地点はかなり南ですよね」
「はい。直ちに滑走路の正面にぶつかる、という配置ではありません」
直人が少し安心する。
「じゃあ空港は大丈夫そうですね」
「まだです」
「……まだ?」
航空担当者が別レイヤーを表示する。
到着。
出発。
計器進入。
復行。
待機。
直人が黙る。
「着陸進入だけ見ても駄目です」
「はい」
「離陸した航空機もあります」
「はい」
「進入を中止した航空機はmissed approach procedureに従って復行します」
「はい」
「必要なら待機へ入ります」
「はい」
「さらに上空を通過する便もあります」
「……はい」
「なので空港がある以上、少なくとも現行手順と将来運用への影響評価は必要です」
直人が椅子へ深く座った。
「空って広いと思ってたんですけど」
「広いですよ」
「全然自由じゃないですね」
担当者が笑う。
「広いからルールが必要なんです」
◆
片桐が手を挙げた。
「質問」
「どうぞ」
「宇宙エレベーター周辺を飛行禁止にできますか」
航空担当者が少し考える。
「“できます”だけでは答えられません」
「例えば半径50海里」
直人が言った。
全員が直人を見る。
「何です?」
片桐。
「50海里の根拠は?」
「例です」
「なら数字を言わないでください」
「すみません」
航空担当者が苦笑する。
「平常時に必要な排除距離、建設作業時、異常時で分けるべきでしょう」
画面に3重の円を仮表示する。
中心。
Earth Port。
一番内側。
「常時、航空機を入れない区域」
次。
「テザー展張、特殊作業、レーザー送電試験などで一時的に拡大する区域」
外側。
「そして重大異常発生時の緊急区域」
片桐が頷く。
「分けましょう」
直人。
「作業日によって広げたり縮めたりする?」
「航空分野では一時的な制限や危険情報を公示して運用する仕組みがあります」
「なるほど」
「ただし」
航空担当者が直人を見る。
「テザー本体は毎日そこにあります」
「……そうですね」
「なので中心部は“今日は工事がないから開放”とはいかないでしょう」
直人が頷く。
「常設区域が必要」
「そう考えます」
三輪が手を上げた。
「レーザー送電は?」
全員が見る。
「クライマー電源。候補の1つですよね」
直人の顔が変わる。
「あ」
片桐。
「“あ”?」
「忘れてません」
黒田。
「今日2回目ですね」
「検討順位が」
「はいはい」
三輪が続ける。
「上空へ高出力レーザーを向けるなら、航空機検知で自動遮断が必要です」
片桐が即座に言う。
「人の判断では遅いです」
「自動化します」
「単一系統は禁止」
三輪が直人を見る。
「ほら」
「俺を見ないでください」
「相馬さんの宇宙エレベーターでしょう」
直人はため息をついた。
安全課題がまた増える音が聞こえた気がした。
◆
航空担当者が地図を引いた。
候補地点はキリスィマスィ島よりはるか南。
赤道付近。
島そのものから離れている。
直人が言う。
「これだけ沖なら、キリバス政府と調整して飛行禁止にすれば――」
「そこで止めた方がいい」
初めて。
佐伯宗一郎が口を開いた。
低い声だった。
会議室の空気が少し変わる。
直人が佐伯を見る。
「何でしょう」
佐伯が航空担当者を見る。
「この候補地点、領海内か?」
「いいえ。現在の仮位置ならかなり外です」
佐伯が直人へ戻る。
「そういうことだ」
直人は意味を考える。
「キリバスのEEZ内には入りますよね」
「海の話と空の話をごちゃ混ぜにするな」
直人が黙る。
航空担当者が補足する。
「沖合の国際的な航空空域については、キリバス国内だけで完結する話ではありません」
「じゃあ」
「関係する航空管制機関との協議、航空情報上の手続き、航空会社への影響評価。規模を考えれば国際的な調整が必要になります」
森川が言う。
「航空会社にも?」
「当然です」
「説明会?」
「早い段階で必要になるでしょうね」
直人が聞く。
「何を説明するんです?」
航空担当者は指を折った。
「恒久的に使えなくなる空域」
「はい」
「作業時に追加で閉じる空域」
「はい」
「迂回距離」
「はい」
「追加燃料」
「はい」
「飛行時間」
「はい」
「悪天候時の代替経路」
「はい」
「緊急時にどこまで閉鎖するか」
直人は途中からメモを取っていた。
「航空会社側からすれば」
担当者は続ける。
「“人類の夢ですから避けてください”では飛べません」
直人はペンを止める。
「……ですよね」
「安全と運航コストを数字で示してください」
森川が直人を見る。
「ほら、私の仕事必要でしょう」
「最初から必要です」
「後回しにしてましたよね」
「してません」
「しました」
「次行きましょう」
◆
夕方。
候補地点はまだ決まっていなかった。
しかし。
候補帯は見えてきた。
赤道。
中央太平洋。
キリスィマスィ島南方海域。
プレート境界からの距離。
海底。
気象。
海流。
環境。
船舶。
航空。
1つの地図の上に、膨大な情報が積み重なっている。
直人は画面を見た。
「……ここですね」
誰も答えなかった。
直人が振り返る。
佐伯だけがこちらを見ていた。
「相馬」
「はい」
「今、何て言った」
「ここですね、って」
「“ここ”ってどこだ」
直人が画面を指す。
「赤道上、西経157度付近。キリスィマスィ島の南方――」
「違う」
佐伯の声は強くない。
だが。
直人は言葉を止めた。
「国名で言え」
会議室が静かになった。
直人は佐伯を見る。
「……キリバス共和国」
「そうだ」
佐伯は立ち上がった。
ディスプレイへ歩く。
巨大な太平洋。
小さな島。
その南側にある、直人たちの候補海域。
「お前たちから見れば、ここは条件表の1行だ」
直人は何も言わない。
「緯度」
「水深」
「地盤」
「風」
「波」
「航空路」
「船舶航路」
佐伯が画面を指す。
「でもな」
少し北。
キリスィマスィ島。
「人が住んでる」
誰も話さない。
「学校がある」
また指す。
「病院がある」
「漁師がいる」
「港で働いてる人間がいる」
「子供がいる」
直人は画面を見る。
さっきまで。
海底地形しか見ていなかった。
航空路。
船舶。
赤道。
数字。
そこに。
人がいる。
当たり前のことだった。
当たり前すぎて。
考えていなかった。
佐伯が言う。
「相馬」
「はい」
「この海に宇宙エレベーターを建てるとして」
「はい」
「工事期間、何年だ」
「少なくとも20年以上」
「完成した後は?」
直人が止まる。
「……さらに長期間運用します」
「50年?」
「可能性はあります」
「100年?」
「設計によっては」
佐伯が頷く。
「なら、お前たちは一時的に海を借りるんじゃない」
直人の表情が変わる。
「何世代にもわたって、この地域を変える」
その言葉。
直人の胸に残った。
黒田が聞く。
「佐伯さん、キリバスに行かれたことが?」
佐伯が黒田を見る。
「行ったことが、じゃない」
少し笑った。
「昔、仕事してた」
「キリスィマスィで?」
「キリバスで何件か。キリスィマスィにも行った」
直人が初めて興味を見せる。
「どんなところです?」
佐伯は少し考えた。
「それを俺から聞いた気になるな」
「え?」
「俺が20分喋ったら、分かった気になるだろ」
直人は黙る。
「自分で見ろ」
佐伯は画面を見る。
「ただし」
「はい」
「1つだけ覚えとけ」
直人が聞く。
佐伯は言った。
「お前たちが欲しいのは座標だ」
「……はい」
「赤道に近くて」
「はい」
「プレート境界から離れていて」
「はい」
「海が深くて」
「はい」
「航路を調整できて」
「はい」
「宇宙エレベーターを建てるのに都合がいい場所」
「はい」
佐伯は振り返った。
「でも」
直人を見る。
「そこには国がある」
誰も動かなかった。
佐伯が続ける。
「日本が何を欲しいかは分かった」
「……」
「東建総が何をしたいかも分かった」
「……はい」
「じゃあ」
佐伯は地図を指した。
「キリバスは何を得る?」
直人は口を開いた。
閉じた。
答えがなかった。
「雇用?」
森川が小さく言う。
佐伯は首を振る。
「そういう話を今してるんじゃない」
「港湾整備」
黒田。
「それも手段だ」
「インフラ投資?」
「それもだ」
佐伯は直人へ戻る。
「相馬」
「はい」
「お前は、あそこに何を造るつもりだ」
簡単な質問。
宇宙エレベーター。
そう答えればいい。
だが。
直人は言えなかった。
昨日。
沙織と話したばかりだった。
20年。
人間の人生にとって。
どれだけ長い時間か。
ここでも同じなのだ。
20年工事をする。
その間に。
島の子供が大人になる。
家族ができる。
町が変わる。
物価が変わる。
働き方が変わる。
船が増える。
飛行機が増えるかもしれない。
外国人が来る。
企業が来る。
金が動く。
世界最大の工事が始まる。
それで。
何も変わらないはずがない。
直人はようやく答えた。
「……まだ、宇宙エレベーターしか考えてませんでした」
佐伯は怒らなかった。
「そうだろうな」
「はい」
「だったら今のうちに直せ」
「何を」
「考え方を」
佐伯は席へ戻った。
「土地でも海でも」
「はい」
「海外で工事するなら最初に考えろ」
「はい」
佐伯は言った。
「“何をもらうか”じゃない」
直人を見る。
「“何を残すか”だ」
直人はメモを取らなかった。
その言葉だけは。
書かなくても覚えていられると思った。
◆
会議は予定を1時間以上超えた。
結論。
Earth Portの建設地点は、まだ決定しない。
候補地域。
《赤道・西経157度前後を中心とする中央太平洋海域》
ただし。
最終座標については、
海底地形。
地震・火山リスク。
海象。
気象。
環境。
漁業。
船舶航行。
航空交通。
既存空港運用。
航空管制。
国際法。
安全保障。
物流。
そして。
ホスト国との協議。
すべてを踏まえて決定する。
直人は最後の項目を見ていた。
《ホスト国との協議》
今朝まで。
地点選定とは、条件を数字で比較する作業だと思っていた。
正解がある。
最適解がある。
計算すれば見つかる。
そう思っていた。
だが。
地図の向こうには人がいる。
相手がいる。
国がある。
最適解が1つとは限らない。
黒田が荷物をまとめながら言った。
「相馬さん」
「何?」
「今日は海の怖さ分かりました?」
「少し」
「少し?」
「海の上に空まであったから」
「そこは私の担当外」
航空担当者も笑う。
「空はよろしくお願いします」
「宿題増やさないでください」
片桐が言う。
「増えています」
直人が止まる。
「いくつ?」
「S-171まで」
「今日だけで7個?」
「航空関係がありますので」
「……帰っていいですか」
井上が言った。
「帰れ」
「ありがとうございます」
直人が端末を閉じようとした時。
佐伯が横を通った。
「相馬」
「はい」
「最後にもう1つ」
直人が顔を上げる。
「今後、候補地点を説明する時」
「はい」
佐伯はディスプレイを指した。
「“ここ”って言うな」
直人は少し笑った。
「分かりました」
「言ってみろ」
「何をです?」
「どこに建てたい」
直人は地図を見る。
赤道。
太平洋。
小さな島国。
そして答えた。
「キリバス共和国の――」
一瞬。
言葉を止める。
「……キリスィマスィ島南方の赤道海域です」
佐伯は頷いた。
「それでいい」
そして歩き出す。
直人はその背中へ聞いた。
「佐伯さん」
「何だ」
「もし本当にキリバスと話すことになったら」
佐伯が振り返る。
「何から話せばいいですか」
佐伯は少し考える。
「宇宙エレベーターの話をする前に」
「はい」
「相手の話を聞け」
それだけ言って。
会議室を出ていった。
◆
その夜。
直人は自宅へ向かう電車の中で、スマートフォンの地図を開いていた。
太平洋。
日本から東へ。
ずっと。
ずっと。
指で画面を動かす。
キリバス共和国。
その中の1つ。
キリスィマスィ島。
拡大する。
道路。
集落。
空港。
海。
今までは。
論文や構造計算の中でしか見ていなかった場所。
《0°00′00″》
赤道。
ただの数字だった。
だが。
今日は違った。
その北に。
人が暮らしている。
直人はスマートフォンを閉じた。
窓の外には東京の明かりが流れている。
昨日。
結衣に言った。
――俺が作るんじゃない。
――みんなで作るんだろうな。
あの時。
直人が想像した「みんな」は。
東建総の技術者たちだった。
だが。
足りなかった。
もっと。
ずっと多い。
建設する人。
材料を作る人。
船を動かす人。
飛行機を飛ばす人。
安全を守る人。
金を出す人。
法律を作る人。
そして。
その場所で暮らしている人。
その全員を無視して。
宇宙への道など。
造れるはずがない。
直人は目を閉じた。
頭の中に。
もう1度。
あの地図が浮かぶ。
赤道。
西経157度。
昨日までなら。
それで十分だった。
だが今日から。
その場所には。
名前があった。
**キリバス共和国。**
相馬直人の宇宙エレベーターは。
この日。
初めて。
地球の上に立った。
第5話で、Earth Portの候補地域が初めて具体化しました。
候補は、キリバス共和国・キリスィマスィ島南方の赤道海域。
ただし、まだ「建設地点決定」ではありません。
海底地形、プレート、海象、環境、船舶航行に加えて、航空交通も重要な条件になります。
そして何より。
直人たちが欲しいのは「宇宙エレベーターを建てるのに都合のいい座標」ですが、その場所は誰のものでもない空白の海ではありません。
「何をもらうかではなく、何を残すか」
佐伯のこの言葉は、今後のキリバス交渉の出発点になります。
次話――
**第6話「ゼロが1つ多い」**
場所の次は、金です。
テザー。
Earth Port。
軌道施設。
打上げ。
電力。
船舶。
工場。
20年以上に及ぶ工期。
森川真帆が、それらを初めて1つの金額にまとめます。
そして直人たちは、自分たちの夢が――会社1社より大きいことを知ります。




