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第1部 夢が工事になるまで  作者: IORI


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4/10

第4話 妻だけは知っていた

夢が叶いそうな時。


喜ぶ人がいれば、怖くなる人もいます。


しかも、それは別々の人とは限りません。


嬉しい。


誇らしい。


怖い。


寂しい。


全部が同時に存在することがあります。


今回は少しだけ技術の話を離れて。


宇宙エレベーターを誰より長く見てきた、もう1人の人の話です。

「会社の仕事になった」


相馬直人がそう言った時。


沙織は、すぐには答えなかった。


食卓の向かいで箸を持ったまま、夫の顔を見ている。


隣では結衣が、露骨に「それってすごいことなの?」という顔をしていた。


「……正式に?」


最初に聞いたのは沙織だった。


「まだ正式な建設計画じゃない」


直人は言う。


「予備技術検討。会社として本当に成立するのか、まず徹底的に調べる」


「じゃあ、仕事ではあるんだ」


「うん」


「給料も出る?」


結衣がまたそこを聞いた。


直人は娘を見る。


「出るよ」


「宇宙エレベーター考えてお金もらえるの?」


「そういう言い方すると、すごく楽そうに聞こえるな」


「違うの?」


「今日、安全担当から138個宿題出された」


結衣の箸が止まる。


「138?」


「うん」


「1日で?」


「うん」


「……ブラックじゃん」


沙織が吹き出した。


「結衣」


「だって138個だよ?」


「まだ1日目だからな」


「増えるの?」


「たぶん」


「絶対やりたくない」


直人は笑った。


「お父さんは?」


そう聞かれて、少し考える。


「やりたい」


「138個あるのに?」


「あるから」


結衣は完全に理解できないという顔をした。


沙織が言う。


「お父さん、そういう人だから」


「変なの」


「知ってる」


「2人とも聞こえてるぞ」


家族3人。


いつもの食卓。


味噌汁。


鶏の照り焼き。


小松菜のおひたし。


テレビはついているが、誰も見ていない。


ただ。


直人には分かっていた。


いつもと同じに見えるこの食卓が、少しだけ変わった。


昨日まで。


ここで話す宇宙エレベーターは、家族の中だけで通じる父親の変な趣味だった。


今日からは違う。


会社の会議室で、何人もの技術者がそれについて話している。


共有フォルダがある。


予算がある。


会議予定がある。


安全担当がいる。


138個の課題がある。


まだ何1つ造っていない。


それでも。


直人にとっては大きな変化だった。


「ねえ」


結衣が言った。


「何?」


「じゃあ本当に宇宙まで作るの?」


直人は少し迷った。


「分からない」


「またそれ?」


「本当に分からない」


「でも作りたいんでしょ」


「うん」


「できそう?」


「昨日よりは」


「昨日より?」


「昨日は材料ができただけだった」


「今日は?」


直人は箸を置いた。


「一緒に考えてくれる人ができた」


結衣が首を傾げる。


「それってそんなに大事?」


「めちゃくちゃ大事」


「材料より?」


「場合による」


「人の方が?」


「建設は1人じゃできないから」


結衣は少し考えた。


「じゃあ、お父さんが作るんじゃないんだ」


その言葉に。


直人は少しだけ止まった。


「……そうだな」


初めて言われた気がした。


宇宙エレベーターを造りたい。


昔からそう言ってきた。


自分が。


自分の手で。


そんな感覚がどこかにあった。


だが。


本当に造るなら。


1人で造れるはずがない。


材料の研究者。


構造。


海洋。


電力。


機械。


安全。


施工。


政府。


外国。


何万人。


ひょっとすれば何十万人。


1人の夢だったものが。


いつか。


大勢の仕事になる。


「お父さん?」


結衣の声で我に返る。


「ん?」


「なんか難しい顔してる」


「いや」


直人は笑った。


「そうだなって思って」


「何が?」


「俺が作るんじゃない」


1度、言葉を選ぶ。


「みんなで作るんだろうな」


結衣は「ふうん」と言った。


それだけだった。


13歳にとっては、それほど大きな発見ではないらしい。


だが直人には妙に残った。


みんなで。


造る。


その言葉が。



          ◆



食後。


結衣は部屋へ戻った。


沙織は台所に立っている。


直人も食器を運ぶ。


昨日より早い時間。


家に帰れた。


ただ、それも今のうちかもしれない。


直人は自分でも、それを分かっていた。


「今日は洗うよ」


そう言うと、沙織が振り返る。


「どうしたの?」


「何が」


「やましいことある人みたい」


「皿洗うだけで?」


「普段の積み重ね」


「俺、そんなにやってない?」


「3回に1回」


「昨日も言ってたな、それ」


「事実だから」


直人がスポンジを取る。


沙織は隣で食器を拭き始めた。


水の音。


皿が触れる音。


しばらく、どちらも話さない。


その沈黙を先に破ったのは沙織だった。


「嬉しい?」


直人は手を止めなかった。


「うん」


「すごく?」


「……うん」


短い。


沙織はそれ以上聞かない。


直人は皿を1枚洗う。


次。


もう1枚。


「怖いくらい」


自分から言った。


沙織の手が止まる。


「そっか」


「うん」


「じゃあ」


直人は次に何を言われるか。


なんとなく分かった。


沙織が言う。


「怖いままでいて」


水の流れる音だけが残る。


直人の手が止まった。


その言葉。


何年ぶりだろう。


いや。


正確な日付までは覚えていない。


だが。


場所は覚えている。


声も。


電話越しの息遣いも。


忘れていない。



          ◆



2011年。


直人が入社して2年目。


まだ23歳だった。


地方の大型工事。


仮設構造物の施工中。


大事故にはならなかった。


結果だけを見れば。


負傷者なし。


設備損傷、小。


工程への影響、1日半。


報告書にはそう書かれた。


だが。


直人は今でも覚えている。


金属が軋んだ音。


作業員が一斉に叫んだ声。


仮設材が予定外にずれた瞬間。


あと少し。


タイミングが違えば。


そこに人がいた。


自分が出した施工指示。


自分が確認した手順。


自分が「これでいけます」と言った方法。


誰も死ななかった。


だから。


事故ではない。


社内では「重大ヒヤリハット」と処理された。


当時の上司は言った。


「次から気をつけろ」


先輩は背中を叩いた。


「若いうちはある」


作業員も。


「誰も怪我してねえんだから気にすんな」


全員。


励ましてくれた。


直人も、


「はい」


と答えた。


だが、その夜。


宿舎に戻って。


1人になった瞬間。


手が震えた。


もし。


あそこに人がいたら。


もし。


あと30秒ずれていたら。


自分の判断で。


誰かが死んでいた。


直人は携帯電話を持った。


誰に電話しようと思ったのか。


今なら分かる。


その頃。


まだ沙織とは結婚していない。


沙織と知り合ってから、数年。


付き合い始めて2年ほど。


電話が繋がる。


『もしもし?』


「沙織」


『うん』


「今、大丈夫?」


『大丈夫だけど。どうしたの?』


直人は言えなかった。


喉が詰まる。


沙織は急かさない。


何秒か。


いや。


もっと長かったかもしれない。


やっと言った。


「今日」


『うん』


「人、殺しかけた」


電話の向こうが静かになる。


『怪我した人いるの?』


「いない」


『直人は?』


「大丈夫」


『じゃあ何があったの』


説明した。


うまく話せなかった。


専門用語が混じる。


途中で何度も言い直す。


沙織は全部理解してはいなかっただろう。


それでも。


最後まで聞いた。


直人は言った。


「俺が決めたんだ」


『うん』


「俺が、あの手順でいけるって言った」


『うん』


「もし人がいたら」


声が止まる。


『直人』


「うん」


『怖かった?』


予想していなかった質問だった。


大丈夫とか。


仕方ないとか。


次に活かせばいいとか。


そう言われると思っていた。


「……怖かった」


初めて。


口にした。


「すごく」


電話の向こう。


沙織が息を吐く。


それから。


『じゃあ、怖いままでいて』


直人は意味が分からなかった。


「え?」


『怖くなくなったら、たぶん危ないから』


その1言を。


直人は今まで忘れたことがなかった。



          ◆



現在。


キッチン。


水道の水が流れている。


直人は蛇口を閉めた。


「覚えてたんだ」


沙織が言う。


「覚えてるよ」


「15年?」


「うん」


「そんな前?」


「俺、23だった」


「若っ」


「沙織も22」


「嫌なこと思い出させないで」


直人が笑う。


沙織も笑った。


だが。


すぐに表情が戻る。


「今度は、あの時よりずっと大きいんでしょ」


直人は答えない。


沙織が続ける。


「橋とかビルとかと比べても」


「うん」


「危ないこと、いっぱいあるんでしょ」


「ある」


「知らないことも?」


「いっぱい」


「何年かかるかも分からない?」


直人は少し迷う。


「……たぶん、20年じゃ終わらないかもしれない」


沙織が止まる。


直人は続けた。


「本当に造るなら」


「20年」


「うん」


「直人、何歳?」


「38」


「完成したら?」


「60前後」


沙織は小さく息を吐いた。


「定年じゃん」


「その頃、定年何歳かな」


「そういう話じゃない」


「はい」


怒られた。


少しの沈黙。


沙織は皿を拭く。


1枚。


もう1枚。


「結衣は?」


その言葉。


直人はすぐに意味を理解できなかった。


「何が?」


「20年後」


「……33」


「もっとかも」


「30代半ば」


沙織は頷いた。


「今、13だよ」


「うん」


「あと5年で高校卒業する」


「うん」


「大学行くかもしれない」


「うん」


「就職する」


「うん」


「結婚するかもしれない」


直人は少しだけ嫌な顔をした。


「そこはまだ考えなくていいんじゃない?」


「そういうところだけ父親だね」


「大事だろ」


沙織が小さく笑う。


だが。


その笑顔もすぐ消える。


「20年って、そういう時間だよ」


直人は何も言えない。


工期。


20年。


数字で見れば。


長期プロジェクト。


だが。


家族で考えれば。


娘が大人になる時間。


自分と妻が老いる時間。


親がさらに年を取る時間。


人生。


だった。


「直人」


「うん」


「これ、本当に始まったら」


沙織が夫を見る。


「家にいなくなる?」


その質問だけは。


すぐに答えられなかった。


「……まだ分からない」


「海外も行く?」


「たぶん」


「長く?」


「場合によっては」


「海の上?」


「そうなると思う」


「宇宙も?」


「俺が行くかは分からない」


「行けるって言われたら?」


直人が黙る。


沙織は少し笑った。


「行くんだ」


「……行きたいとは思う」


「知ってる」


責める声ではない。


だからこそ。


少し痛かった。


沙織は食器を棚へ戻した。


「別に、やめてって言うつもりじゃないよ」


「うん」


「言ってもやめないし」


「……そこは」


「やめる?」


直人は答えない。


沙織が笑う。


「ほら」


「ごめん」


「謝ることでもない」


沙織は台所の照明に背を向ける。


「私ね」


少し間。


「この日、いつか来ると思ってた」


直人は妻を見る。


「この日?」


「宇宙エレベーターが、本当に仕事になる日」


「……本当に?」


「本当に」


「俺より信じてた?」


「違う」


即答された。


「直人が諦めないことを信じてた」


直人は何も言えなかった。


沙織は続ける。


「材料ができるとか、会社が本気にするとかは知らないよ」


「うん」


「でも」


「うん」


「直人が60になっても、70になっても、“まだ無理なんだよなあ”って言いながら計算してるのは想像できた」


直人は笑った。


「嫌な老後だな」


「私は慣れてるからいいけど」


「いいんだ」


「問題は」


沙織が少しだけ真面目になる。


「本当に始まっちゃったこと」


その言葉には。


喜びだけではないものが混じっていた。


「嬉しいよ」


沙織は言う。


「直人がずっとやりたかったことだから」


「うん」


「たぶん、すごく嬉しい」


「ありがとう」


「でも」


来る。


直人には分かった。


「怖い」


沙織が言った。


「私も」


直人は返事をしなかった。


「直人が事故に遭うとか、そういうのももちろん怖い」


「うん」


「でも、それだけじゃなくて」


沙織は少し言葉を探した。


「この仕事が大きくなりすぎて」


直人を見る。


「直人の中で、他の全部より大きくなるのが怖い」


胸の奥。


何かが止まった。


「俺は」


と言いかけて。


直人はやめた。


家族を1番にする。


そんな簡単な言葉を言うのは。


違う気がした。


仕事で。


命を預かる。


何千人。


何万人。


国家規模。


世界規模。


もし本当にそうなったら。


家族と仕事を、簡単な順位で並べることなどできない。


そして。


沙織はたぶん。


それが分かっている。


だから。


「大丈夫」


なんて言葉は。


むしろ失礼だった。


直人は考えた。


長く。


それから。


「約束はできない」


沙織が少し驚いた顔をする。


直人は続ける。


「何時に帰るとか」


「うん」


「何日家にいるとか」


「うん」


「そういうのは、たぶん」


「うん」


「できなくなると思う」


沙織は黙って聞いている。


「でも」


直人は妻を見る。


「忘れないようにする」


「何を?」


直人は答えようとする。


だが。


沙織が先に言った。


「帰ってくる場所」


直人の表情が変わった。


沙織が笑う。


「大学の時にも言ったじゃん」


直人は思い出す。


何度目かの長期現場。


まだ結婚する前。


若かった。


仕事が面白くなり始め。


電話の回数が減った。


沙織に怒られた。


その時。


彼女は言った。


――帰ってくる場所だけ、忘れないで。


「覚えてた」


直人が言う。


「私の台詞なんだから覚えてるよ」


「俺も」


「本当?」


「本当」


沙織はじっと直人を見る。


「じゃあ」


少しだけ笑って。


「もう1回言っとく」


「うん」


「帰ってくる場所だけ、忘れないで」


直人は頷いた。


「忘れない」


今度は。


約束した。



          ◆



少しして。


結衣が部屋から出てきた。


「喉乾いた」


冷蔵庫を開ける。


夫婦2人が並んで立っているのを見る。


「何してるの?」


「皿洗い」


直人。


「終わってるじゃん」


「今終わった」


結衣は麦茶をコップへ注ぐ。


1口。


そしてふと思い出したように言った。


「そういえば」


「何?」


「お父さん」


「ん?」


「宇宙エレベーターできたら、一般人も乗れるの?」


直人は少し驚いた。


「そのつもりだけど」


「高い?」


「たぶん最初は」


「いくら?」


「そこまでは知らない」


「じゃあ乗れないじゃん」


「完成する頃には、お前大人だぞ」


「だから?」


「自分で稼いで」


「親が作ったのに?」


「親割引あるかな」


沙織が横から。


「ないでしょ」


「会社に言ってみる」


「やめて」


結衣が笑う。


その笑顔。


直人は見ていた。


幼い頃。


肩車して。


明石海峡大橋を見せたこと。


プラネタリウム。


宇宙の話。


星の名前。


そして。


『お父さんが作ったら、最初に乗せてね』


突然。


記憶が戻った。


直人は娘を見る。


「結衣」


「何?」


「覚えてる?」


「何を?」


やっぱり。


「小さい頃さ」


「うん」


「宇宙エレベーター作ったら――」


途中で止めた。


「何?」


直人は少し笑う。


「いや。いい」


「気になる」


「忘れてるならいい」


「何それ」


「そのうち」


「今言って」


「嫌だ」


「うざ」


「父親にうざいって言うな」


「うざ」


沙織が笑う。


直人も笑う。


今は。


それでいい。


約束を覚えているのは。


自分だけでいい。



          ◆



夜。


結衣が寝たあと。


直人は書斎代わりの小さな机へ座った。


個人端末を開く。


《軌道エレベーター施工計画_Ver.37.4》


もう会社にも同じデータがある。


だが。


こちらは消さなかった。


長年の癖。


ファイルを開く。


今日までなら。


新しい課題を書き込んでいた。


だが。


今夜は別のファイルを作った。


《SE_個人メモ》


タイトル。


しばらく考える。


そして入力。


《忘れてはいけないこと》


1.安全を数字だけで考えない。


2.できることと、やっていいことを分ける。


3.分からない時は分からないと言う。


4.怖さを失わない。


指が止まる。


5.


直人は少しだけ笑った。


入力。


《帰ってくる場所を忘れない》


保存。


たった5行。


技術的な価値は何もない。


構造計算にも使えない。


会社の共有フォルダに入れるつもりもない。


だが。


もしかすると。


これから何十年も続く工事の中で。


1番大事な仕様書になるかもしれない。


直人は端末を閉じた。


窓の外を見る。


夜空。


今日も。


宇宙へ伸びる線などない。


その代わり。


直人の机の向こう。


廊下の先。


妻と娘が眠っている。


宇宙への道を造る。


ずっと。


それだけを考えてきた。


でも。


道というものは。


どこかへ行くためだけにあるわけではない。


帰ってくるためにも。


必要なのだ。


相馬直人は。


そのことを。


この夜。


もう1度、覚え直した。

第4話は、相馬家の回でした。


沙織は直人の夢を否定しません。


けれど、無条件に背中を押すだけの存在にもしたくありませんでした。


巨大プロジェクトには、何十年という時間がかかります。


その時間は「工期」であると同時に、家族にとっては人生そのものです。


そして今回、直人の個人メモに2つの言葉が入りました。


「怖さを失わない」


「帰ってくる場所を忘れない」


この2つは、これから先の物語で何度も直人へ戻ってくる言葉になります。


次話――


第5話「国名で言え」。


舞台は再び技術検討へ。


赤道、海底地形、プレート、気象、海流、船舶航路。


そして――空にも道があります。


直人たちは初めて、「技術的に最適な場所」と「本当に建てられる場所」が同じではないことを知ります。

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