第3話 宇宙屋
一人で夢を見るのは自由です。
けれど、その夢を「仕事」にした瞬間から。
予算がつきます。
人がつきます。
責任がつきます。
そして――止める人も必要になります。
相馬直人が十八年間、一人で考えてきた宇宙エレベーター。
第3話。
いよいよ、他人の手によって本気で壊され始めます。
翌朝。
相馬直人は、いつもより二十二分早く東亜建設総合本社へ着いた。
睡眠時間は四時間弱。
昨夜、沙織に「今日は絶対に寝なさい」と言われ、帰宅後すぐ風呂へ放り込まれ、そのままベッドへ追いやられた。
本人としては、もう少し計算したかった。
だが結果的には正解だった。
頭は昨日より明らかに動く。
問題は一つ。
動きすぎることだった。
エレベーターの中。
直人は昨日作った未解決課題一覧を端末で見直していた。
《長尺量産》
《接合》
《横方向損傷》
《疲労》
《宇宙デブリ》
《クライマー》
《電力》
《Earth Port》
《施工》
《保守》
《費用》
《政治》
昨日は十四項目。
帰宅後、風呂の中で五つ増えた。
今朝、電車の中で七つ増えた。
現在二十六項目。
たぶん、昼までには三十を超える。
扉が開く。
技術本部のフロアへ入る。
自席へ向かう途中で、何人かの社員から声をかけられた。
「相馬さん、おはようございます」
「おはよう」
「昨日、研究所だったんですか?」
「うん」
「また宇宙ですか?」
直人が足を止める。
「なんで知ってる」
若手社員が笑った。
「宮前センター長から電話来たって、井上部長が言ってましたよ」
「部長が?」
「『あいつ、また宇宙か』って」
直人は眉を寄せる。
広まり方が雑すぎる。
自席へ着く。
鞄を置いた瞬間。
内線が鳴った。
表示。
《井上部長》
直人は受話器を取った。
「相馬です」
『来い』
「おはようございます」
『五分以内』
「何かありました?」
『来れば分かる』
切れた。
直人は受話器を見た。
「朝から機嫌悪いな」
隣の席から越智悠斗が顔を出す。
「部長?」
「うん」
「相馬さん、何したんです?」
「まだ何も」
「“まだ”って」
直人は立ち上がる。
「たぶん今日から何かする」
越智は少し考えて、
「怖いなあ」
とだけ言った。
◆
井上剛志。
五十一歳。
東亜建設総合・技術本部特殊構造技術部長。
相馬直人の直属の上司である。
白髪はまだ少ない。
体格は大きく、若い頃は橋梁現場で鳴らしたらしい。
直人が入社した頃にはすでに現場責任者クラスだった。
怒鳴るタイプではない。
だが怒鳴らない分だけ怖い。
部長室へ入ると、井上は机の上の資料を見ていた。
「失礼します」
「座れ」
「はい」
直人が椅子へ座る。
井上は顔を上げない。
資料を一枚めくる。
また一枚。
直人は気づいた。
見覚えがある。
《軌道エレベーター施工計画》
自分の資料だ。
それもVer.37.4。
「……それ、どこから」
「宮前」
「勝手に?」
「会社のネットワークに上げたことあるだろ」
「あれは三年前の技術検討会で」
「じゃあ会社にある」
「そうですけど」
井上が顔を上げた。
「相馬」
「はい」
「お前、これ何年やってる」
「ちゃんと数えると十八年くらいです」
「昨日、宮前から十五年って聞いたぞ」
「会社に入ってからなら十六年です」
「どうでもいい」
資料を机へ置く。
「で」
井上は腕を組んだ。
「本当にいけるのか」
直人は一瞬、答えそうになった。
だが止めた。
昨日の自分なら、
「可能性があります」
と即答していたかもしれない。
沙織の言葉を思い出す。
――ちゃんと疑ってきてね。
「分かりません」
井上の眉が動く。
「分からん?」
「はい」
「昨日、研究所で朝から晩まで計算したんだろ」
「計算しました」
「材料強度は」
「条件次第では、必要領域に入る可能性があります」
「じゃあいけるんじゃないのか」
「材料が成立しても、建設できるとは限りません」
井上は黙った。
直人は続ける。
「ただ」
「ただ?」
「昨日までは、材料性能の時点でほぼ止まってました」
「今は?」
「止まってません」
「それは大きいのか」
「大きいです」
「どのくらい」
直人は少し考えた。
「……今まで、崖の向こう側に道があるかどうかも分からなかったんです」
井上が聞く。
「今は?」
「橋を架けられるかもしれないところまで来た感じです」
井上が鼻で笑った。
「橋屋らしい例えだな」
「分かりやすいでしょう」
「まあな」
しばらく沈黙。
井上は資料の最後にある未解決課題一覧を見る。
「二十六個」
「朝増えました」
「自慢するな」
「すみません」
井上はページをめくる。
「これ全部潰せば建つ?」
「たぶん増えます」
「何が」
「問題が」
井上は天井を見た。
「夢がないな」
「建設ですから」
「お前が言うか」
直人は少し笑った。
井上はまた資料を見る。
「相馬」
「はい」
「お前、昔から会社で宇宙屋って呼ばれてるの知ってるか」
「知ってます」
「嫌じゃないのか」
「別に」
「変人扱いだぞ」
「会社で認識されてるなら便利です」
井上が笑った。
「そういうところが変人なんだよ」
机の端に置いてあった封筒を一つ取る。
直人へ滑らせた。
「今日からしばらく、本業減らす」
「……はい?」
封筒を開く。
人事辞令ではない。
内部通知。
《軌道輸送構造物・予備技術検討会設置》
直人の視線が止まる。
構成員。
井上剛志。
宮前玲奈。
相馬直人。
黒田夏海。
安西圭吾。
片桐礼子。
越智悠斗。
三輪敦史。
森川真帆。
その他、必要に応じ追加。
直人はもう一度最初から読む。
「……これ」
「昨日の夜、技術本部長まで話が行った」
「早すぎません?」
「百三十五ギガパスカルって数字を聞いた役員が、勝手に早くなった」
「建設会社って数字好きですね」
「お前もだろ」
否定できない。
「正式プロジェクトですか」
「違う」
井上の声が少し低くなる。
「まだ“遊び”だ」
直人が顔を上げる。
「遊び?」
「会社が金を出して、お前らが本気で壊しに行く遊び」
直人は意味を理解する。
井上が言う。
「できることを証明するな」
「はい」
「できないことを探せ」
「はい」
「一つでも致命的なのが見つかったら、終わり」
「はい」
「いいな」
直人は通知書を見た。
これまで一人でやってきた。
誰にも頼まれず。
誰にも認められず。
勝手に。
そして今日。
初めて。
会社が人を付けた。
時間を付けた。
金を付けた。
直人は通知書を少し強く持った。
井上が見ている。
「嬉しいか」
「……はい」
「顔に出すな」
「無理です」
井上はため息をついた。
「だから嫌だったんだよ」
「何がです?」
「お前、本当にやる気になるから」
直人は笑った。
「そのための検討会でしょう」
「違う」
井上が即答する。
「諦めさせるための検討会だ」
「じゃあ困りましたね」
「何が」
直人は通知書を閉じた。
「俺、諦めるの苦手なんです」
井上はしばらく直人を見た。
「知ってるよ」
その言葉だけは、少し優しかった。
◆
午前十時。
第一会議室。
会議室としては中規模。
十二人用の長机。
壁一面の大型ディスプレイ。
直人が入った時には、すでに数人が座っていた。
越智もいる。
「相馬さん」
「なんでお前いるの」
「通知見てないんですか」
「見たけど」
「ロボティクス枠らしいです」
「逃げてもいいぞ」
「面白そうなんで嫌です」
直人は笑う。
他の面々を見る。
黒田夏海。
四十三歳。
海洋土木部門の主任技師。
直人とは何度か仕事をしている。
洋上風力の大型基礎工事で一度、徹夜で施工計画を組んだ仲だ。
「久しぶり」
黒田が言う。
「まさか相馬さんの趣味に付き合わされるとは思わなかった」
「会社の仕事になったから趣味じゃない」
「まだ検討会でしょう」
「細かいな」
「海は細かいところで人を殺します」
相変わらずだ。
隣に座る男。
安西圭吾。
四十五歳。
構造動力学。
超高層建築や長大橋の振動解析を専門にしている。
直人とは顔見知り程度。
「相馬さん」
「どうも」
「資料読みました」
「どうでした」
「振動モデルが甘い」
初手から容赦がない。
直人は笑った。
「後で教えてください」
「三時間くらいなら」
「ぜひ」
安西の隣。
森川真帆。
三十七歳。
工程・原価管理。
手元にはすでにノートPCが開かれている。
「相馬さん」
「はい」
「最初に言っておきます」
「何でしょう」
「私は夢を数字にする担当です」
「心強い」
「たぶん嫌われます」
「なんで」
「高いって言うから」
直人は少し嫌な予感がした。
三輪敦史。
四十四歳。
機械・電力系。
クライマー候補。
まだクライマー自体が存在しないのに、すでに難しい顔をしている。
「テザーにローラー押し付けるだけ、みたいな資料ありますけど」
「学生時代のです」
「消してください」
「記念なんで」
「技術資料に記念残さないでください」
そして。
一人だけ、直人をまっすぐ見ている女性がいた。
四十八歳。
短く切った髪。
表情は硬い。
手元には紙の資料。
タブレットではない。
赤い付箋。
黄色い付箋。
青い付箋。
大量に貼ってある。
直人は名前を知っていた。
片桐礼子。
安全品質統括部。
専門は安全工学。
巨大プロジェクトの事故調査や再発防止にも関わっている。
現場の間では別名がある。
――止める女。
工期がどれだけ遅れていても。
上がどれだけ急かしても。
危ないと思えば止める。
実際、一度停止命令を出した工事が三週間遅れたことがある。
その後、施工機械に重大欠陥が見つかった。
以来、誰も表立って文句を言わなくなった。
片桐が資料を閉じた。
「相馬さん」
「はい」
「お会いするのは初めてですね」
「そうですね」
「片桐です」
「相馬です」
「資料、拝見しました」
「ありがとうございます」
「あとで話しましょう」
笑わない。
直人は嫌な予感がした。
今日二度目だ。
◆
会議開始。
井上が立つ。
「先に言う」
全員を見る。
「これは正式な建設計画ではない」
ディスプレイに表示。
《軌道輸送構造物・予備技術検討会》
「新材料が見つかった」
次。
カグラ繊維の基本データ。
まだ正式名称ではない。
研究コードしかついていない。
宮前が説明する。
最大値。
平均。
保証下限。
製造長。
密度。
問題点。
誰も騒がない。
この場にいるのは全員、数字を見て騒ぐ前に裏を読む人間だ。
黒田が聞く。
「量産性は?」
宮前。
「不明」
三輪。
「導電性は使えるレベル?」
「候補にはなる。ただし発熱評価が必要」
安西。
「長期弾性特性」
「データ不足」
森川。
「単価」
宮前が止まる。
「……今の試験材?」
「はい」
「聞かない方がいい」
森川が真顔になる。
「一番嫌な答えです」
少し笑いが起こる。
井上が続ける。
「相馬」
「はい」
「お前の番」
直人が立つ。
ディスプレイへ。
自分の資料。
十八年間積み上げたもの。
だが今日は見せ方が違う。
夢の説明ではない。
構造計画として説明する。
「前提から」
赤道。
静止軌道。
カウンターウェイト。
テザー。
直人が言う。
「最初に一つだけ」
全員を見る。
「塔を地上から三万六千キロ建てる話じゃありません」
図が出る。
地球。
GEO。
外側。
「地球の自転による遠心効果と重力の釣り合いを使って、張力で維持する構造です」
三本の主索。
疎な横材。
「俺が今考えているのは、一本テザーではありません」
「三本?」
安西。
「はい」
「なぜ」
「一本切れた時に終わるから」
片桐の視線が少し動く。
直人は続ける。
「主索A、B、C。互いに距離を取り、必要箇所のみ軽量ブレースで結ぶ」
黒田。
「トラス化?」
「トラスに近い。ただ剛性材で組むつもりはない」
安西が言う。
「テンセグリティ寄り?」
「そうです。全部引張主体」
図が変わる。
断面。
地上付近は細い。
高度とともに太くなる。
GEO周辺で最大。
「テーパー構造」
直人は図を指す。
「個人的には逆スカイツリーって呼んでます」
数秒。
森川が吹き出した。
黒田も笑う。
安西だけ真面目な顔。
「分かりやすい」
「でしょう」
片桐は笑わない。
説明は続く。
Earth Port。
可動浮体。
クライマー。
GEO HUB。
補修ロボット。
建設工程の仮案。
一時間。
途中で何度も止まる。
質問。
反論。
修正。
直人は楽しかった。
自分一人では気づけなかった問題が次々出てくる。
安西。
「三索にしたら固有振動モード増えますよ」
「分かってます」
「分かってないと思う」
「じゃあ教えてください」
黒田。
「Earth Portの位置保持、簡単に“スラスター併用”って書いてますけど、必要推力試算しました?」
「概算なら」
「概算の十倍見てください」
「そんな?」
「海なめないで」
三輪。
「クライマーの電力供給、レーザーだけじゃ天候で止まります」
「だから併用」
「何と」
「考え中です」
「書かないでください、併用って」
森川。
「十万キロ分、何トンです?」
「設計詰めないと」
「桁だけでも」
「……聞きたい?」
「仕事なので」
質問が止まらない。
だが。
直人は思う。
これだ。
今まで一人でやっていた時とは違う。
自分が構造を考える。
黒田が海を壊す。
安西が振動で壊す。
三輪が機械で壊す。
森川が金で壊す。
宮前が材料で止める。
壊されるたびに。
少しずつ。
夢が、工事に近づいていく。
そして。
最後まで発言していない人間が一人いた。
片桐礼子。
井上がそれに気づく。
「片桐」
「はい」
「何かあるだろ」
「あります」
片桐が資料を開いた。
大量の付箋。
直人の嫌な予感が、確信に変わった。
◆
「全部で百三十七項目です」
直人は聞き間違えたと思った。
「……はい?」
「指摘事項」
片桐は淡々と言う。
「現時点で百三十七」
安西が小さく笑う。
黒田は目を逸らした。
完全に巻き込まれたくない顔だ。
直人は言う。
「百三十七?」
「重複を除いて」
「……どうぞ」
片桐が一枚目を出す。
「まず、主索破断時」
「はい」
「三索で冗長化する、とあります」
「はい」
「一本切れた場合、残り二本へ荷重再配分」
「はい」
「再配分完了まで何秒ですか」
直人は止まる。
「……未計算です」
「その間、局所荷重は?」
「未計算」
「クライマーが破断点近傍にいた場合」
「未検討です」
「避難方法」
「まだ」
「救助方法」
「まだ」
片桐が紙へ何か書く。
「次」
直人は嫌な汗を感じた。
「Earth Port非常離脱」
「はい」
「テザー側異常で地上接続を切る場合、誰が判断します?」
「運用責任者」
「判断基準」
「未策定」
「誤切断した場合」
「……未検討」
「切らなかった場合」
「未検討」
「次」
速い。
容赦がない。
落雷。
航空機。
船舶。
火災。
停電。
制御系暴走。
通信断。
クライマー停止。
乗客避難。
作業員被曝。
微小デブリ。
大型デブリ。
太陽嵐。
材料ロット異常。
接合部施工不良。
海上基地浸水。
係留破断。
テザー共振。
振動増幅。
センサー故障。
誤検知。
サイバー攻撃。
人為ミス。
意図的破壊。
直人が止める。
「ちょっと待ってください」
「何でしょう」
「まだ予備検討です」
「知っています」
「全部今答えるのは無理です」
「当然です」
直人が少し苛立つ。
「だったら」
片桐が直人を見る。
静かな目。
「相馬さん」
「はい」
「あなたはこれを建てたいんですよね」
「はい」
「人を乗せますか」
「将来的には」
「作業員は?」
「当然、必要です」
「何人」
「まだ」
「数百? 数千?」
「規模によっては」
「では」
片桐は資料を閉じた。
「誰かが死ぬ可能性があります」
会議室が静かになる。
直人は言う。
「どんな工事でも」
「そうです」
即答。
「だから聞いています」
片桐の声は冷たくない。
怒ってもいない。
ただ真っ直ぐだった。
「相馬さん」
「はい」
「これはあなたの夢でしょう」
直人は一瞬だけ黙る。
「……はい」
「なら」
片桐が机に指を置いた。
「私は、その夢で人が死なないかを見る」
直人の胸に少し刺さった。
「理論上成立する」
「材料強度を満たす」
「構造解析上安定する」
「全部大事です」
片桐は言う。
「でも、それで人が死なないとは証明できません」
直人が口を開く。
「安全率は」
「安全率の話をしていません」
遮られた。
「設備が壊れた時」
「人が間違えた時」
「想定外が起きた時」
「誰をどう生かして帰すのか」
片桐は直人を見る。
「それを考えずに“建てられる”と言わないでください」
直人の中で何かが動いた。
反発。
悔しさ。
そして。
少しの納得。
「……言ってません」
片桐が眉を上げる。
「何を」
「建てられるとは」
直人は昨日の言葉を思い出す。
「“造れない理由が一つ消えた”とは言いました」
片桐は数秒黙った。
「では」
「はい」
「次の造れない理由を、私が探します」
直人は片桐を見る。
この人は反対しているのではない。
少なくとも。
それだけではない。
本当に。
止めようとしている。
無理なら。
危険なら。
人を殺すなら。
止める。
だからこそ。
「お願いします」
片桐の表情がほんの少しだけ変わった。
「何をですか」
「百三十七個」
直人は言った。
「全部、潰したいです」
会議室の空気が少し変わる。
黒田が笑った。
「相馬さん、そう来ると思った」
安西も腕を組む。
「じゃあ振動の指摘、僕も追加していいです?」
「どうぞ」
森川。
「費用も」
「それは少なめで」
「駄目です」
三輪。
「電力」
「お願いします」
越智。
「補修ロボット」
「頼む」
宮前が笑う。
「何か楽しそうだね」
井上だけが頭を抱えていた。
「お前ら」
全員が見る。
「忘れるなよ」
井上が言う。
「これは諦めるための検討会だからな」
直人は答える。
「はい」
黒田も。
「はい」
安西。
「はい」
誰もそう思っていない顔だった。
井上は深いため息をついた。
◆
会議終了は午後四時を過ぎた。
直人の端末には、新しい共有フォルダが作られていた。
《SE_PreStudy》
まだ正式なプロジェクト番号すらない。
ただの社内予備検討。
だが。
アクセス権限。
メンバー。
会議予定。
資料管理。
課題管理表。
すべて会社のシステム上にある。
直人は自席に戻った。
個人端末を取り出す。
《軌道エレベーター施工計画_Ver.37.4》
開く。
十八年間。
ずっとこのファイル一つだった。
コピー。
会社側共有領域。
一瞬、指が止まる。
自分のものだった。
誰にも頼まれず育ててきた。
笑われても。
使われなくても。
自分だけは捨てなかった。
それを今。
会社へ渡す。
直人は少しだけ変な気持ちになった。
娘を嫁に出す、というほどではない。
そもそも娘を嫁に出したことはない。
ただ。
何かが自分の手を離れる感じ。
「相馬さん?」
隣から越智。
「何」
「何固まってるんです?」
「いや」
直人はマウスを動かす。
アップロード。
数秒。
完了。
《軌道エレベーター施工計画_Ver.37.4》
個人フォルダから。
会社の共有フォルダへ。
越智が画面を見る。
「おお」
「何」
「宇宙屋の秘伝書がついに会社資産に」
「勝手に資産にするな」
「十八年分でしょ?」
「そうだけど」
越智が少し真面目な顔になる。
「嬉しいですか」
直人は考えた。
「うん」
「やっぱり」
「でも」
「でも?」
直人は共有フォルダを見た。
片桐からすでにファイルが一件追加されている。
《安全上の主要検討事項_Rev.0》
開く。
百三十七項目。
一番上。
《S-001 全体構造破断時の公衆安全確保》
判定。
《未解決》
直人は笑った。
「一人でやってた時より、ずっと面倒になった」
越智も笑う。
「仕事ってそういうものじゃないですか」
どこかで聞いた台詞だった。
直人が越智を見る。
「それ、昨日娘にも言われた」
「中一と同レベルですか、僕」
「割と」
「ひどい」
直人は画面へ戻る。
未解決。
百三十七。
その数字を見て、不思議と気分が良かった。
昨日まで。
問題は直人の頭の中にしかなかった。
今日から。
他人も問題だと思っている。
他人が。
本気で。
壊そうとしている。
それはつまり。
ほんの少しだけ。
この計画が。
**現実の側へ移ったということだった。**
◆
午後六時三十二分。
片桐礼子は自席で資料を見ていた。
そこへ井上が来た。
「どうだった」
片桐は画面から顔を上げる。
「相馬さんですか」
「うん」
少し考える。
「危険ですね」
井上が苦笑した。
「やっぱり?」
「かなり」
「止めた方がいい?」
片桐は首を横に振った。
「違います」
「ん?」
「本気で建てようとしてます」
「だから危険なんだよ」
「はい」
片桐は資料を閉じた。
「だから、今から安全側の人間を入れておくべきです」
井上が片桐を見る。
「続ける?」
「検討は」
「百三十七も?」
「明日には増えます」
「勘弁してくれ」
片桐は少しだけ笑った。
「部長」
「何」
「相馬さん、たぶん」
少し間を置く。
「止めようとする人を嫌わないですね」
井上の表情が変わる。
「そうなんだよ」
「珍しいです」
「あいつは昔からそうだ」
井上は窓の外を見る。
東京の夕景。
「自分の案を否定されると喜ぶ時がある」
「変わってますね」
「宇宙屋だからな」
片桐はもう一度資料を見る。
百三十七。
いや。
画面の下に新しいメモを追加する。
《S-138 長期建設期間における安全文化の劣化》
井上が見る。
「もう増えたのか」
「一つ思いつきました」
「帰れ」
「あと十分」
「絶対十分じゃないだろ」
片桐は答えなかった。
◆
その夜。
直人はいつもより少し早く帰宅した。
二十時四十分。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
沙織の声。
結衣もリビングにいる。
昨日と同じ。
でも。
直人には少し違って見えた。
「どうだった?」
沙織が聞く。
靴を脱ぎながら答える。
「会社の仕事になった」
沙織が止まる。
「……本当に?」
「まだ予備検討だけど」
「それでも会社の仕事?」
「うん」
結衣が顔を上げた。
「宇宙エレベーター?」
「そう」
「給料出るの?」
直人が一瞬黙った。
沙織が笑う。
「大事なところだね」
「出る」
「じゃあ趣味じゃなくなったじゃん」
直人は考える。
「……そうだな」
十八年間。
初めて。
宇宙エレベーターを考えることで給料が出る。
妙に感慨深い。
「で?」
沙織が聞く。
「作れそう?」
直人は上着を脱ぐ。
「分からない」
「昨日と同じ?」
「昨日より分からなくなった」
結衣が呆れた顔をする。
「進んでないじゃん」
「いや」
直人は笑った。
「進んだよ」
「なんで」
「分からないことが増えたから」
結衣は母を見る。
「お父さん、意味分かんない」
沙織。
「昔から」
「ひどいな」
直人は笑いながら食卓へ座った。
その時。
スマートフォンが震える。
社内通知。
共有フォルダ更新。
片桐礼子。
《安全上の主要検討事項_Rev.1》
直人が開く。
百三十八項目。
一つ増えている。
「……早いな」
沙織が聞く。
「何?」
「宿題」
「何個?」
「百三十八」
結衣が目を丸くする。
「無理じゃん」
直人は画面を閉じた。
「そうでもない」
「なんで?」
「一個ずつやればいい」
結衣が完全に理解できない顔をする。
直人は思う。
橋も。
トンネルも。
超高層も。
全部そうだ。
最初に見ると。
無理に見える。
大きすぎる。
長すぎる。
高すぎる。
危なすぎる。
でも。
問題を分ける。
一個ずつ。
計算する。
試す。
失敗する。
直す。
それを繰り返す。
そしていつか。
何もなかった場所に。
構造物が立つ。
十万キロでも。
同じなのかもしれない。
直人はまだ知らない。
この百三十八という数字が。
やがて千を超え。
一万を超え。
世界中の技術者たちが、その一つ一つを潰すことになることを。
そして。
それでも最後まで消えない項目があることを。
この時の彼は。
まだ知らなかった。
ただ。
一つだけ分かっていた。
昨日まで。
宇宙エレベーターは相馬直人の夢だった。
今日からは。
少なくとも。
**東亜建設総合の仕事になった。**
第3話では、直人の個人的研究だった軌道エレベーターが、初めて東建総の正式な「予備技術検討」になりました。
そして登場した、安全担当・片桐礼子。
彼女は直人の夢を否定するための人物ではありません。
本当に建てるなら、「止める権限を持つ人」が必要です。
理論上成立すること。
構造物として成立すること。
人を乗せて安全に運用できること。
この三つは、似ているようでまったく違います。
直人たちはこれから、その違いを一つずつ思い知らされていきます。
次話――
**第4話「妻だけは知っていた」**
技術の話を少し離れて、相馬家へ。
直人にとっては人生最大の好機。
けれど沙織にとっては、二十年近く見続けてきた夫の夢が、本当に夫を連れていってしまうかもしれない瞬間でもあります。




