第2話 135ギガパスカル
夢が現実になりそうな時。
一番危険なのは、それを信じたくなることなのかもしれません。
十八年間待ち続けた数字を前に、相馬直人が最初にすること。
それは喜ぶことではなく――徹底的に疑うことでした。
目覚ましが鳴る前に、相馬直人は目を開けた。
午前四時四十七分。
天井を見つめる。
眠った気がしない。
正確に言えば、二時間ほどは眠ったはずだった。
だが、目を閉じるたびに昨夜の宮前玲奈の声が頭の中で再生された。
――あなたが十五年待ってたものが、できた。
何ができた。
材料か。
製造技術か。
接合技術か。
あるいは、直人が勝手に期待しているだけで、宇宙エレベーターとはまったく関係のないものなのか。
最後の可能性が一番高い。
そう考えておいた方がいい。
期待というものは、構造計算より厄介だ。
入力値を間違えても警告してくれない。
直人は隣を見る。
沙織が眠っている。
起こさないようにそっと布団を抜けた。
リビングへ行き、水を一杯飲む。
それでも落ち着かない。
気づけば個人端末を開いていた。
《軌道エレベーター施工計画_Ver.37.4》
昨夜も見たファイル。
材料条件のシートを開く。
密度。
引張強度。
安全率。
設計応力。
テーパー比。
長期疲労。
製造時欠陥。
直人は一つの欄を見つめた。
《実用テザー材料:未確立》
十八年間、一度も消したことのない文字だった。
理論値ならある。
期待値もある。
論文だって山ほどある。
だが、構造物は論文の中には建たない。
十センチの試験片で成立することと、十万キロの構造物として成立することの間には、ほとんど別の世界と言っていいほどの距離がある。
「……何ができたんだよ」
独り言が漏れた。
「朝から怖いよ」
背後から声がした。
直人が振り向く。
沙織が立っていた。
寝癖のついた髪。
半分眠った顔。
「起こした?」
「起きたらいなかったから」
時計を見る。
五時十三分。
「まだ寝てていいよ」
「直人こそ」
沙織は直人の画面を見る。
「やっぱり、それ?」
「うん」
「遠足前の小学生みたい」
「寝た」
「何時間?」
「……二時間くらい」
「それは寝たって言わない」
沙織が冷蔵庫を開ける。
「コーヒー?」
「欲しい」
「濃いのは禁止」
「なんで」
「今日、頭使うんでしょ」
「濃い方がいいだろ」
「胃が死ぬ」
反論できなかった。
沙織が湯を沸かす。
直人はもう一度画面に視線を戻した。
「ねえ」
「ん?」
「もしさ」
沙織がこちらを見る。
「本当にできてたら、どうする?」
沙織は少し考えた。
「何が?」
「材料」
「宇宙エレベーターの?」
「うん」
「作るんじゃないの?」
あまりにも当然のように言われて、直人は黙った。
沙織はカップを二つ並べた。
「そのために会社入ったんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「じゃあ作れば」
「簡単に言うなあ」
「簡単に言わないと、直人が勝手に難しくするから」
湯気が上がる。
沙織は少しだけ笑った。
「でも」
「うん?」
「ちゃんと疑ってきてね」
直人は妻を見る。
「疑う?」
「昨日から、ちょっと嬉しそうだから」
「……そう見える?」
「見える」
沙織はコーヒーを差し出した。
「嬉しい時の直人、判断早くなるから」
直人は何も言わなかった。
否定できない。
昔からそうだった。
面白い構造案を見つけた時。
新しい工法を知った時。
頭の中で先へ先へ進んでしまう。
そして、その度に誰かに止められる。
学生時代は教授。
若手時代は上司。
今は時々、妻。
直人はカップを受け取った。
「分かった」
「何が?」
「今日は信じない」
沙織が眉を上げる。
「昨日まで十八年待ってたのに?」
「だからこそ」
直人はコーヒーを一口飲んだ。
「疑ってくる」
◆
東建総技術研究所。
東京都心から少し離れた研究開発拠点に直人が到着したのは、午前七時四十二分だった。
始業時刻よりかなり早い。
だが受付にはすでに宮前から連絡が入っていた。
通常の来客証とは違う臨時カードを渡される。
「第六材料棟へお願いします」
「第六?」
思わず聞き返した。
第六材料棟は、社内でも機密性の高い共同研究に使われる施設だった。
「宮前センター長がお待ちです」
「……ありがとうございます」
嫌な予感がする。
いや。
正確には、良すぎる予感がする。
エレベーターを降りる。
二重扉。
カード。
本人認証。
さらに扉。
その向こうに宮前玲奈がいた。
白衣ではない。
濃紺のパンツスーツ。
片手にタブレット。
相変わらず、研究者というより経営会議に出てきそうな雰囲気をしている。
「早いね」
「寝てませんから」
「だと思った」
「何ですか」
挨拶より先に聞いた。
宮前は呆れた顔をする。
「おはようくらい言いなさい」
「おはようございます。何ですか」
「変わらないねえ」
「宮前さんが昨日あんな電話するからでしょう」
「ごめんごめん」
まったく悪びれていない。
直人は周囲を見る。
「で?」
「こっち」
宮前が歩き出す。
「先に言っておくけど」
「はい」
「東建総が作ったものじゃない」
「共同研究?」
「正確には、外部研究チームの成果をうちで再評価してる」
「大学?」
「大学と国研」
「材料?」
宮前が立ち止まった。
直人を見る。
少し笑う。
「やっぱり分かる?」
「ここ材料棟ですよ」
「可愛げないなあ」
再び歩く。
直人は後を追った。
「種類は?」
「自分で見て」
「引張?」
「見て」
「炭素系?」
「相馬君」
「はい」
「うるさい」
黙った。
◆
会議室には二人いた。
一人は五十代後半の男性。
細身。
銀混じりの髪。
机の上に紙資料を広げている。
もう一人は三十代前半と思われる女性。
短めの黒髪。
眠そうな顔をしているが、直人が入ってくると鋭い視線を向けた。
宮前が紹介する。
「片瀬創先生。国立先端材料研究機構」
男性が立つ。
「片瀬です」
「相馬です。東建総特殊構造技術部です」
握手。
「話は聞いています」
「どんな話でしょう」
「宇宙エレベーターに人生を半分使っている変わった建設屋がいると」
直人が宮前を見る。
「私は“熱心な技術者”と言った」
「言ってませんよね、それ」
片瀬が笑った。
宮前は気にしない。
「こっちが水城理奈さん。今回の架橋プロセスを作った本人」
水城が軽く頭を下げる。
「水城です」
「相馬です」
「宇宙エレベーターの人ですよね」
「社内でそういう分類になってるんですか」
「宮前さんが」
また宮前を見る。
「早く本題に入りません?」
「賛成」
宮前はテーブルの中央に小さなケースを置いた。
透明なケース。
その中に、黒いものが入っている。
直人は身を乗り出した。
細い。
糸。
いや。
リボンに近い。
艶のない黒。
見た目だけなら、何の変哲もない。
「触っていいですか」
水城が即答した。
「駄目です」
「ですよね」
「壊したら怒ります」
「そんな高いんですか」
「金額じゃないです」
その言い方で分かる。
まだ大量に作れない。
直人はケース越しに見る。
「グラフェン?」
水城が一瞬、宮前を見る。
宮前が頷く。
「そうです」
水城が答えた。
「ただし、単純な積層材ではありません」
「架橋?」
「はい」
片瀬が資料を一枚差し出した。
模式図。
グラフェン系の長尺構造。
各層が独立して滑るのではなく、一定間隔で立体的に結合されている。
直人はページをめくる。
製法。
結晶配向。
欠陥制御。
連続製造。
途中で手が止まった。
「……これ」
「何です?」
「連続プロセス?」
水城が少しだけ胸を張る。
「そこが今回の肝です」
「試験片を作って終わりじゃない?」
「終わりじゃありません」
直人の視線が速くなる。
次。
次。
次。
「現在の連続長は?」
「三・二キロ」
直人が顔を上げた。
「三・二?」
「キロです」
「一本で?」
「一本で」
「接合なし?」
「ありません」
直人は資料へ戻る。
「ばらつき」
「後ろ」
ページをめくる。
統計。
破断。
欠陥分布。
試験数。
直人の口元から表情が消えた。
宮前が椅子へ座る。
「どう?」
直人は答えない。
ページをめくる。
密度。
弾性。
熱特性。
導電性。
耐環境試験。
そして。
引張強度。
直人の指が止まった。
何秒か。
誰も話さなかった。
数字が書いてある。
最大値。
171.8 GPa
直人は瞬きをした。
もう一度見る。
次に平均値。
さらに保証下限。
そこにあった。
135 GPa
直人は資料を机に置いた。
「……測定系は?」
水城の眉がわずかに動く。
「校正済みです」
「どこで?」
「AMRIと二大学。ここでも再試験しました」
「断面積の評価方法」
「電子顕微鏡と質量法の双方」
「エッジ欠陥の補正」
「しています」
「温度条件」
「標準条件のほか、二百二十三から三百七十三ケルビン」
「湿度」
「地上環境試験は別資料です」
「試験速度依存性」
「あります」
「どのくらい」
水城が数値を答える。
直人は次。
「ロット数」
「十二」
「少ない」
「分かってます」
「製造装置は同じ?」
「三系統」
「設備由来の偏りは」
「統計的には今のところ見えてません」
「今のところ?」
水城の声が少し低くなる。
「だから研究中です」
直人は止まらない。
「長尺化した時の強度低下」
「三キロ程度までは有意差なし」
「三キロと十万キロは別物です」
「知ってます」
「接続したら?」
「まだ十分な答えはありません」
「横方向剪断」
「弱いです」
「どのくらい」
水城が答える。
直人は眉を寄せた。
「かなり弱い」
「だからそう言ってます」
「原子状酸素」
「表面処理候補を試験中」
「放射線」
「長期データなし」
「熱サイクル」
「加速試験途中」
「疲労」
「途中です」
「クリープ」
「途中です」
「微小欠陥の進展」
「相馬さん」
水城の声が変わった。
直人が顔を上げる。
「何ですか」
「数字が気に入らないんですか?」
部屋が静かになった。
宮前が口を挟もうとする。
だが直人は先に答えた。
「逆です」
水城が眉を寄せる。
直人は資料を指で叩いた。
「気に入りすぎるから疑ってます」
沈黙。
直人は続ける。
「俺はこの数字を十八年待ってた」
声が少し低くなる。
「だから、間違いだった時に一番困るんです」
水城の表情が少し変わった。
直人は資料を見た。
百三十五ギガパスカル。
たった一行。
だが直人にとっては、それが一行ではなかった。
十八年間。
何度計算しても、最後に立ちはだかった壁。
材料強度。
理論上存在する材料ではなく。
実験室の数ミリの試料でもなく。
人間が。
製造装置で。
キロ単位に。
作った材料。
「実物の試験、見られますか」
水城は数秒黙った。
それから立ち上がった。
「どうぞ」
◆
試験室。
巨大な万能試験機。
とはいえ、対象物は驚くほど細い。
装置の方が圧倒的に大きい。
直人は防護ガラスの外側に立った。
水城が試験片をセットする。
片瀬が説明する。
「同一ロットから切り出したものです」
「加工は?」
「端部処理のみ」
「破断予想位置は」
「中央付近」
モニターに数値が並ぶ。
荷重。
伸び。
温度。
直人は腕を組む。
試験開始。
数字が上がる。
材料が引かれていく。
見た目には、ほとんど変化がない。
音もない。
ただ数値だけが上がる。
直人はモニターから目を離さない。
普通なら、そろそろ。
まだ。
さらに。
まだ。
水城が横目で直人を見る。
直人は気づかない。
数字が上がる。
そして。
――パン。
乾いた小さな音。
直人の肩がわずかに動いた。
試験終了。
モニター。
148.6 GPa
水城が言った。
「この試験片は、まあ普通ですね」
直人が彼女を見る。
「普通?」
「このロットなら」
直人はもう一度モニターを見る。
百四十八・六。
普通。
その言葉がおかしかった。
十年前なら、論文のタイトルにする数字だ。
いや。
今だって異常だ。
直人は防護ガラスの向こうの破断した黒い繊維を見る。
ほんの小さな試験片。
宇宙まで届くには、あまりにも小さい。
でも。
初めてだった。
「……宮前さん」
「なに?」
「計算機、借りられます?」
宮前が笑った。
「そのために呼んだ」
◆
午前十時十四分。
直人は会議室のホワイトボードを占領していた。
最初はノートPCだけだった。
十五分後にはタブレットが増えた。
三十分後にはホワイトボード。
一時間後には宮前が別部署から構造解析用ワークステーションの使用権限を取ってきた。
直人は喋らない。
入力。
計算。
消す。
入力。
計算。
また消す。
「何をやってるんです?」
水城が聞いた。
「壊してます」
「何を?」
「宇宙エレベーター」
水城が意味を理解できず片瀬を見る。
片瀬は少し笑う。
「成立しないことを確認してるんでしょう」
「はい」
直人は答えた。
「できる前提で計算すると、できる数字を探し始めるから」
宮前がコーヒーを置く。
「だから?」
「無理な理由を順番に入れてます」
密度。
二・二。
強度。
保証下限百三十五。
その数字をそのまま使わない。
安全率。
長期劣化。
製造ばらつき。
施工損傷。
温度変化。
宇宙環境。
直人は設計応力を大きく落とす。
六十五。
さらに。
「下げすぎじゃないですか」
水城が言う。
「建設物ならこんなもんです」
「材料強度の半分以下ですよ」
「試験片を宇宙に吊るすわけじゃない」
水城が口を閉じる。
計算。
テーパー。
長さ。
GEO。
その外側。
カウンターウェイト。
主索質量。
直人は何度か首を振る。
「一本は嫌だな」
「一本?」
宮前が反応する。
「テザーです」
ホワイトボードに縦線を三本引く。
「一本に全荷重持たせる設計は、施工も保守も怖すぎる」
三本。
横に線。
斜めに線。
水城が近づく。
「トラス?」
「剛体じゃない。張力材だけで疎なラチスにする」
「重くなりません?」
「なります」
「駄目じゃないですか」
「だから削る」
直人は言いながら線を消す。
「地上に近いほど軽く。GEO付近で必要断面を取る」
「逆三角形?」
「逆スカイツリー」
水城が吹き出した。
「何ですかそれ」
「学生の頃からそう呼んでる」
「ダサい」
「分かりやすい」
宮前が笑う。
「相馬君らしいね」
直人は聞いていない。
計算。
また計算。
十二時。
十三時。
昼食を勧められ、片手でサンドイッチを食べながら続けた。
十四時。
問題。
横裂け。
十六時。
問題。
長期疲労。
十八時。
問題。
接合。
十九時。
問題。
大気圏内での環境負荷。
二十時。
問題。
微小隕石。
二十一時。
問題。
クライマー接触。
「……駄目じゃないですか」
水城が言った。
直人は首を振る。
「駄目です」
「じゃあ」
「今のままじゃ」
水城は疲れ切った顔で椅子へ沈んだ。
片瀬は夕方に一度別の会議へ出て、また戻ってきている。
宮前もまだいる。
直人は席を立ち、ホワイトボードを見る。
赤。
青。
黒。
線だらけ。
問題点だらけ。
水城が言う。
「こんなに問題あるなら、結局無理なんじゃないですか」
「それを調べてます」
「十八時間くらい?」
「まだ十三時間」
「十分長いです」
直人は笑わない。
問題点を見る。
一つずつ。
変な感覚がある。
おかしい。
いつもと違う。
昔の計算なら。
どれだけ工法を工夫しても。
どれだけ安全率を調整しても。
どこかで必ず、
材料が耐えない
に戻ってきた。
必ず。
ゲームの行き止まりのように。
何を選んでも最後は同じ壁。
だが今日は。
そこへ戻らない。
別の問題へ行く。
疲労。
補修。
デブリ。
製造。
電力。
施工。
つまり。
「……宮前さん」
直人が言った。
全員がこちらを見る。
「過去の計算、持ってきてもらえます?」
「どの?」
「俺が昔渡したやつ」
「宇宙エレベーター?」
「はい」
宮前が端末を操作する。
「あるよ」
「Ver.?」
「二十九」
「古いな」
「勝手に更新する人が悪い」
ファイル転送。
直人は開く。
当時の判定表。
赤文字。
《材料性能不足》
別案。
《必要安全率を確保できず》
別案。
《テーパー比過大》
別案。
《総テザー質量非現実的》
直人は現在の数値を入れる。
密度。
保証強度。
設計応力。
製造補正。
計算。
画面が更新される。
赤文字が一つ消える。
直人は固まった。
もう一案。
入力。
計算。
消える。
もう一案。
消える。
宮前が後ろから画面を見る。
「相馬君」
直人は返事をしない。
胸が速い。
試験室で見た時より速い。
これは数字だ。
ただの数字。
計算条件を変えれば結果も変わる。
当たり前。
なのに。
十八年間、そこにあり続けた赤文字が。
消えた。
直人は新しい一覧を作る。
《未解決課題》
一。
長尺量産。
二。
接合および増強方法。
三。
横方向損傷への冗長設計。
四。
長期疲労。
五。
原子状酸素および放射線劣化。
六。
宇宙デブリ対策。
七。
クライマー接触方式。
八。
電力供給。
九。
大気圏内挙動。
十。
Earth Port。
十一。
施工手順。
十二。
保守。
十三。
費用。
十四。
政治。
そこまで書いて、直人は少し笑った。
「政治まで入れるんですか」
水城が聞く。
「最後は工事だから」
「材料研究とは世界が違いますね」
「たぶん、これでも足りない」
宮前が直人を見ている。
「で?」
直人は黙った。
「結局どうなの?」
片瀬も見る。
水城も見る。
直人は椅子へ座った。
両手で顔を覆う。
疲れている。
眠い。
腹も減った。
それでも、頭だけ異常に冴えていた。
宮前が聞く。
「相馬君」
「はい」
「造れる?」
直人は手を下ろした。
少し迷った。
口を開く。
「……造れます」
水城が目を見開く。
片瀬も表情を変えた。
宮前だけが黙っている。
直人はすぐ首を振った。
「いや」
宮前が眉を寄せた。
「どっち?」
「すみません。違います」
直人は立ち上がる。
ホワイトボードへ行く。
赤いペンを取る。
中央に大きく書いた。
《宇宙エレベーター》
その下。
《建設可能?》
さらに下。
昨日までなら、
《材料性能不足により成立困難》
と書いていた。
直人はペンを止める。
そして。
その言葉を書かなかった。
代わりに。
《要検討》
と書いた。
水城が言う。
「それだけ?」
「それだけです」
「十三時間やって?」
「十三時間やって」
直人は振り向いた。
少し笑う。
「今すぐ造れる、とは言いません」
宮前は黙って聞いている。
「この材料も、まだ分からないことだらけです」
水城を見る。
「長尺化も」
片瀬を見る。
「劣化も」
宮前を見る。
「施工方法も、予算も、場所も、何も決まってない」
一つ息を吐く。
「でも」
声が少し震えた。
自分で分かった。
だから一度止めた。
直人は、もう一度言った。
「昨日までは、材料がないから無理だった」
十八年。
ずっとそうだった。
「今日からは違います」
ホワイトボードを見る。
問題点は山ほどある。
むしろ増えた。
だけど。
問題として扱える。
解かなければならないものとして、並んでいる。
それは。
「“造れない理由”が」
直人は赤いペンを机へ置いた。
「一つ、消えました」
誰もすぐには答えなかった。
研究室の空調音だけが聞こえる。
やがて宮前が、小さく息を吐いた。
「……そっか」
その声には、昨日の電話にはなかった重さがあった。
水城が自分の材料を見る。
片瀬は腕を組んだまま、ホワイトボードを見上げている。
直人は時計を見た。
二十二時十九分。
スマートフォンを見る。
沙織からメッセージが来ていた。
《生きてる?》
その下。
《結衣がお父さん宇宙行った?って言ってる》
直人は思わず笑った。
返信。
《まだ地上》
少し考えて。
もう一行。
《でも、もしかしたら道は作れるかもしれない》
送信。
数秒。
既読。
沙織から返ってきた。
《じゃあ今日は帰ってきて》
直人は画面を見つめた。
「……はい」
誰にともなく答える。
宮前が聞いた。
「何?」
「帰ります」
「明日は?」
直人は鞄へ端末を入れる。
「朝からもう一回計算します」
「休まないの?」
「寝ますよ」
水城が呟いた。
「この人、怖いですね」
片瀬が笑う。
「だから呼んだんでしょう」
直人は会議室を出る前に、一度だけ振り返った。
机の上の透明ケース。
中にある黒い一本の繊維。
三・二キロ。
宇宙までは、まだ途方もなく遠い。
十万キロ。
三・二キロでは到底届かない。
だが直人は知っている。
橋だって最初から対岸まで架かっているわけじゃない。
一本目のケーブル。
一本目の杭。
最初の掘削。
最初の一メートル。
巨大な建造物も。
始まりだけを見れば、驚くほど小さい。
扉が閉まる直前。
直人は、もう一度だけ黒い繊維を見た。
そして思った。
――最初の一本になるかもしれない。
その夜。
十八年間《不可能》だった構造物は。
まだ《可能》にはならなかった。
ただ。
初めて。
《未着工》と呼べる場所まで、ほんの少しだけ近づいた。
第2話では、軌道エレベーター最大の壁の一つである「テザー材料」が初めて動きました。
ただし、135ギガパスカルという数字だけで宇宙エレベーターが完成するわけではありません。
長尺化、疲労、接合、宇宙環境、デブリ、施工、保守。
直人が喜ぶより先に問題点を書き始めたのは、彼が「夢を見る人」であると同時に「建設する人」だからです。
そして次話――
第3話「宇宙屋」。
一人で十八年間研究してきた直人の夢が、ついに会社の仕事になります。
そこで待っているのは、応援ではありません。
「それで、人は死なないんですか?」
宇宙エレベーターを本当に造るなら、夢を最も厳しく否定する人間が必要になります。




