第1話 まだ、やってる?
人には、誰にも頼まれていないのに、ずっと続けていることがある。
役に立つ日は、たぶん来ない。
そう思いながら、それでも捨てられない。
相馬直人にとって、それは十五年以上続けてきた「軌道エレベーターの建設研究」だった。
――2026年。
その日までは。
「図面どおりです」
若い技術者が言った。
相馬直人は返事をせず、頭上を見上げた。
秋口とはいえ、東京湾岸の午後はまだ暑い。
ヘルメットの内側にはじっとりと汗が滲み、安全帯の金具が動くたびに腰のあたりで乾いた音を立てる。
建設中の巨大物流施設。
その屋上、地上四十メートル。
目の前には、建物の端から端までを一気に飛ばす長大な鉄骨トラスがあった。
数日前、その一部で設計値を超える微小な変位が検出された。
安全上ただちに危険という数値ではない。
計算上も問題なし。
施工記録にも異常なし。
ボルトの締付記録も、溶接部の非破壊検査も合格。
それでも、相馬は本社から呼ばれた。
「相馬さん?」
隣の若手社員――二十六歳の工事担当、村瀬が不安そうにこちらを見る。
直人はしゃがみ込み、鉄骨の接合部へ手を置いた。
もちろん、触ったところで応力が分かるわけではない。
ただの癖だ。
「村瀬君」
「はい」
「図面どおりってのは、何を確認した?」
「寸法、取付位置、ボルト軸力、溶接部、それから――」
「そうじゃなくて」
直人は立ち上がった。
「これ、どっちに力が逃げてる?」
村瀬が黙る。
直人はトラスの先を指した。
「この荷重が入る。ここで受ける。普通ならこっちに流れる。でも実測値を見ると、ほんの少しだけこっちへ逃げてる」
「でも、解析モデルでは――」
「解析モデルは風、吹く?」
「……入れてます」
「風速じゃなくて」
村瀬が首を傾げた。
直人は少し笑った。
「風、そのもの」
返事はない。
「解析モデルの風は、決められた方向から決められた速度で吹くだろ。でも本物の風はそんなに行儀よくない。建物の角で巻く。上に抜ける。下に潜る。隣の建物にも当たる」
直人は鉄骨を軽く叩いた。
鈍い音が返ってくる。
「図面は間違ってない。施工もたぶん間違ってない」
「じゃあ……」
「だから現場を見る」
村瀬が、もう一度巨大トラスを見上げた。
直人も同じ方向を見る。
「図面どおりなのは最低条件だよ」
そして続けた。
「建物は図面の中に建つわけじゃない」
その言葉に、村瀬が小さく頷いた。
◆
原因は、その日の夕方にはほぼ判明した。
隣接棟の工事進捗によって風の流れが変わり、想定より複雑な周期荷重が発生していた。
構造的な危険はない。
ただし今後、隣接施設が完成するまでの期間については監視条件を一段厳しくする。
センサーも二点追加。
現場事務所で対策案をまとめ終えた頃には、十八時を過ぎていた。
「相馬さん」
パソコンを閉じた村瀬が言った。
「ありがとうございました」
「何が?」
「いや……正直、最初は本社から大げさな人が来たと思ってました」
「大げさな人」
「すみません」
「いいよ。だいたい合ってるし」
村瀬が笑った。
「でも、すごいですね」
「何が」
「あのデータ見ただけで風だって分かったの」
直人は首を振る。
「分かったんじゃない」
「え?」
「昔、似たようなの見たことがあっただけ」
「どこで?」
「十四年前。橋」
「橋?」
「長大橋の仮設中。あの時はもっと酷かったけど」
村瀬が感心した顔をする。
直人は鞄を持った。
「経験っていうのは便利だぞ」
「やっぱり?」
「昔やらかした失敗を、格好よく言い換えられる」
村瀬が吹き出した。
直人も少し笑った。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れさまでした」
現場事務所を出る。
日が落ちた東京湾岸には、建設中の高層建築やクレーンの航空障害灯が赤く並んでいた。
直人は少しだけ立ち止まった。
クレーン。
橋。
ビル。
道路。
トンネル。
人間は、随分いろんなものを造る。
そして彼は昔から思っていた。
――だったら。
もう少しくらい、とんでもないものを造ってもいいんじゃないか。
◆
東亜建設総合株式会社。
通称、東建総。
国内最大手の一角に数えられる総合建設会社である。
直人がこの会社へ入って十六年。
現在は技術本部特殊構造技術部、主任技師。
名刺だけを見ると、それなりの人物に見える。
実際、社内評価も悪くない。
現場経験が多く、設計も分かる。
研究者とも話せる。
職人とも話せる。
何か特殊な構造物で揉めたら、とりあえず相馬を呼べ。
そんな扱いになりつつあった。
本人としては、それで十分だった。
出世欲がないわけではない。
給料は上がってほしい。
役職手当も欲しい。
住宅ローンだってある。
娘はこれから高校、大学と金がかかる。
ただ、部長になりたいとか役員になりたいとか、そういう明確な野心はなかった。
彼には昔から、別の野心があったからだ。
◆
本社へ戻ると、フロアにはまだ何人か残っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
後輩社員へ返事をしながら、自席へ座る。
メールを確認。
報告書をアップロード。
翌日の会議資料を一枚修正。
時計を見る。
二十時十一分。
帰るには少し遅い。
だが直人には、もう一つだけやりたいことがあった。
周囲を確認する。
別に禁止されているわけではない。
ただ、なんとなく見られると面倒なのだ。
会社の業務用端末とは別に、鞄から個人用の小型端末を取り出す。
パスコード。
フォルダ。
さらにその中のフォルダ。
表示されたファイル名は、
《軌道エレベーター施工計画_Ver.37.4》
直人は何の違和感もなく開いた。
三万六千キロ。
正確には静止軌道高度、約三万五千七百八十六キロ。
そのさらに外側まで伸びるテザー。
カウンターウェイト。
クライマー。
Earth Port。
施工設備。
テザー補修機構。
動的制振。
緊急時退避。
材料のテーパー設計。
ファイルの中には、図面、論文、計算シート、思いつきを書き殴ったメモが混在している。
一番古いデータの日付は二〇〇八年。
大学三年。
二十歳。
十八年近く前だ。
もちろん、当時の中身は酷い。
今見ると笑えるほど酷い。
施工というものをほとんど知らない学生が、教科書と論文だけを頼りに考えた代物である。
だが、削除していない。
Ver.1。
Ver.2。
Ver.3。
就職。
Ver.7。
地下工事。
Ver.11。
橋梁。
Ver.15。
洋上。
Ver.21。
超高層。
Ver.28。
研究所勤務。
Ver.34。
そして現在、Ver.37.4。
仕事で経験したことを、一つずつ加えてきた。
橋のケーブルを学べば、テザーへ。
洋上構造物を学べば、Earth Portへ。
制振を学べば、長大テザーの振動制御へ。
自動施工を学べば、補修ロボットへ。
本人以外、誰にも頼まれていない。
給与も出ない。
評価もされない。
むしろ同期には、
「まだやってんの?」
と何度言われたか分からない。
直人は気にしなかった。
今日の現場データを一部加工して、振動制御メモのところへ追加する。
《非定常外力に対する局所応答――地上側構造にも応用可能性》
入力。
少し考える。
削除。
《Earth Port接続部における局所風荷重・テザー横振動連成評価》
今度は残した。
「……いや」
また消した。
まだ雑すぎる。
その時。
「相馬さん」
びくりとして振り返る。
後輩の越智悠斗が立っていた。
三十四歳。
建設ロボティクス担当。
「びっくりした」
「何してるんですか」
「仕事」
越智が画面を覗く。
「軌道エレベーターって書いてありますけど」
「仕事」
「会社、宇宙エレベーター受注したんですか?」
「したら教える」
「またそれやってるんですか」
「またって言うな」
「だって僕が入社した頃からやってるでしょう」
直人は画面を閉じた。
「いつか役に立つ」
「いつ?」
「宇宙エレベーター造る時」
越智は数秒黙った。
「相馬さん」
「何」
「疲れてます?」
「今日は割と元気」
「じゃあ大丈夫か」
「お前、今俺を心配した?」
「少し」
越智が笑う。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
後輩が去っていく。
直人は閉じた画面を見た。
本人だって分かっている。
宇宙エレベーター。
現在の材料技術では成立が極めて難しい。
何万キロという自重。
強度。
疲労。
宇宙デブリ。
大気。
雷。
振動。
クライマー。
電力。
メンテナンス。
挙げればきりがない。
最大の問題はテザー材料。
理論上なら候補はいくつもある。
だが、
「理論上強い」
と、
「十万キロ単位で製造できる」
の間には、絶望的な谷がある。
そんなことは十五年以上調べてきた直人自身が、誰より分かっていた。
だから誰かに、
「本当に造れると思ってる?」
と聞かれたら、
直人はこう答える。
――今は無理。
それでも。
「じゃあ、諦めるの?」
と聞かれれば。
答えは昔から一つだった。
――それは別の話だ。
◆
帰宅したのは二十一時半を少し過ぎた頃だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
リビングから返事。
「おかえりー」
沙織だ。
もう一つ、小さめの声。
「おかえり」
結衣。
靴を脱ぎながら直人は少し笑う。
中学一年生になってから、娘の「おかえり」の音量が目に見えて減った。
成長なのか反抗期なのか。
おそらく両方だろう。
リビングへ入る。
相馬沙織、三十七歳。
旧姓、高瀬。
直人とは大学時代からの付き合いである。
現在は公立中学校の養護教諭。
髪を後ろで簡単にまとめ、部屋着のまま食卓で学校関係の書類を読んでいた。
その向かいには娘。
相馬結衣。
十三歳。
中学一年生。
イヤホンを片方だけつけて、タブレットを触っている。
「ご飯、温める?」
沙織が聞く。
「お願い」
「今日は現場?」
「うん」
「どうだった?」
「風」
沙織がこちらを見る。
「台風?」
「違う。風」
「……なるほど」
全く分かっていない顔で頷いた。
長い付き合いなので、理解できない技術話を無理に聞かない技術だけは完璧に身につけている。
結衣がタブレットから顔を上げた。
「お父さん」
「ん?」
「銀英伝って長い?」
直人の動きが止まった。
「……何で?」
「友達のお父さんが好きなんだって」
直人は椅子へ座る。
「どれを見る?」
「知らない」
「原作? アニメ? アニメならどっち――」
「やっぱいい」
「待て」
結衣はもうイヤホンへ戻ろうとしている。
「今、非常に重要な分岐点だから」
「なんで」
「入り口を間違えると、その後の人生が」
沙織がキッチンから言った。
「直人」
「はい」
「娘を沼に引きずり込まない」
「まだ何もしてない」
「顔がしてる」
結衣が笑った。
直人は少し不満だった。
「SFはいいぞ」
「知ってる」
「本当に?」
「お父さんが何年その話してると思ってるの」
今度は沙織が笑った。
電子レンジが鳴る。
沙織が夕食を運んできた。
焼き魚。
味噌汁。
野菜炒め。
直人は手を合わせる。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
食べ始めてしばらく。
沙織が聞いた。
「今日は宇宙エレベーターやってないの?」
直人の箸が止まった。
結衣が顔を上げる。
「なんで分かるの」
「帰り遅い日にたまにやってるじゃない」
「仕事もしてる」
「“も”なんだ」
「語弊がある」
沙織が笑う。
結衣が言った。
「お父さんって、本当に作るつもりなの?」
直人は味噌汁を一口飲んだ。
「何を?」
「宇宙エレベーター」
「そのつもりで会社入った」
「それ、本気だったの?」
「本気じゃなかったら十六年もゼネコンにいない」
「普通、仕事ってそういうものじゃない?」
沙織が吹き出した。
「結衣、それは言っちゃ駄目」
「何で」
「お父さん、自分だけ特別な理由で働いてるつもりだから」
「つもりって」
直人が抗議する。
沙織は楽しそうだ。
いつもの会話だった。
宇宙エレベーター。
この家では珍しくも何ともない単語。
結衣が幼い頃には、寝る前に何度も聞かせた。
地球から糸を伸ばす。
宇宙までエレベーターで行く。
昔、まだ四歳か五歳の結衣が、
『お父さんが作ったら乗せて』
と言ったことがある。
直人は、
『最初に乗せてやる』
と答えた。
本人はもう覚えていないだろう。
直人は覚えている。
とはいえ。
現実には、まだ存在しない。
完成どころか着工予定さえない。
夢という言葉は便利だ。
叶わなくても、夢だったと言えば済む。
だが直人にとっては、少し違った。
夢というより、
未着工。
そんな感覚だった。
◆
食事を終える。
結衣は自室へ。
沙織は食器を片付けている。
直人も皿を運んだ。
「置いといていいよ」
「これくらいする」
「珍しい」
「いつもやってるだろ」
「三回に一回くらい」
「十分」
「何基準?」
二人で皿を流しへ置く。
沙織が横から直人を見る。
「ねえ」
「ん?」
「本当にまだ諦めてないんだね」
唐突だった。
直人は少し考えた。
「宇宙エレベーター?」
「うん」
「諦める理由がない」
「造れないんでしょ?」
「今はね」
沙織は何も言わなかった。
直人は続ける。
「橋だって、昔なら造れなかった」
「うん」
「超高層だって、昔なら造れなかった」
「うん」
「材料が変わる。施工方法が変わる。計算方法が変わる。機械が変わる」
「うん」
「だから今できないことと、ずっとできないことは違う」
沙織は少し笑った。
「大学の頃から変わらないね」
「そう?」
「変わらない」
少し間を置いて。
「老けたけど」
「そこ必要?」
「重要」
直人が笑う。
沙織も笑った。
「先、お風呂入って」
「分かった」
「明日も仕事でしょ」
「うん」
「宇宙は逃げないんだから」
「まあね」
直人はリビングを出ようとした。
その時。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
表示された名前に、足が止まる。
宮前玲奈
「……珍しいな」
「誰?」
「宮前さん」
沙織も名前を知っている。
東建総の技術研究所。
先端材料研究センター長。
昔から何度か世話になっている。
沙織が皿を拭きながら言った。
「出たら?」
「うん」
直人は通話ボタンを押した。
「はい、相馬です」
『久しぶり』
聞き慣れた、少し低めの女性の声。
「お久しぶりです。どうしました?」
『今、話せる?』
「大丈夫です」
『家?』
「はい」
一瞬。
電話の向こうで紙を動かすような音がした。
妙だった。
宮前玲奈は、雑談で夜に電話してくるような人ではない。
「何かありました?」
『相馬君』
「はい」
少しの沈黙。
そして。
『あなた、まだ宇宙エレベーターやってる?』
直人は眉を寄せた。
後ろで皿を拭いていた沙織の手も止まる。
直人は答えた。
「やってますよ」
『まだ?』
「まだ、じゃありません」
思わず笑った。
「やめる理由がありません」
電話の向こうで、宮前も小さく笑ったようだった。
『そう』
また沈黙。
今度の沈黙は、さっきより長かった。
直人の中で、妙な感覚が膨らんでいく。
長年の経験で身についたもの。
現場で何かがおかしい時。
図面にはない何かが動いている時。
理屈より先に来る、あの感じ。
「宮前さん?」
『明日、研究所に来られる?』
「何時ですか」
『朝一』
「行けます」
『井上部長には私から話しておく』
直人の表情が変わった。
直属の部長へ、宮前から話を通す。
普通ではない。
「……何があったんですか」
また少しだけ沈黙。
そして宮前玲奈は言った。
『相馬君』
「はい」
『たぶんね』
声が少しだけ柔らかくなる。
『あなたが十五年待ってたものが、できた』
直人は動かなかった。
意味を理解するまで数秒かかった。
いや。
理解したくなかった。
期待するのが怖かった。
「……何ですか」
『電話では話さない』
「宮前さん」
『明日、自分で見て』
直人の心臓が速くなる。
頭の中に、いくつもの可能性が浮かぶ。
高強度繊維。
CNT。
グラフェン。
複合材料。
接合技術。
生産技術。
どれだ。
どこまで。
数字は。
強度は。
密度は。
長尺化は。
直人は無意識に、質問を始めようとしていた。
だが宮前が先に言った。
『それと』
「はい」
一拍。
『相馬君』
「はい」
『そろそろ、本気でやろうか』
通話が切れた。
直人はスマートフォンを耳に当てたまま、動かなかった。
沙織がこちらを見ている。
「直人?」
返事ができない。
「どうしたの?」
直人はゆっくりスマートフォンを下ろした。
「……分からない」
「何が?」
「まだ分からない」
胸の奥で、何かが騒いでいる。
大学三年。
二十歳。
図書館。
初めて宇宙エレベーターの施工計画を自分で書いた夜。
橋の現場。
海の現場。
研究所。
徹夜。
計算。
数え切れないほど引いた線。
数え切れないほど書いた、
現状技術では成立困難
という文字。
十八年。
待っていた。
いや。
待っていたつもりさえなかった。
ただ、やめなかっただけだ。
沙織が小さな声で聞いた。
「宇宙エレベーター?」
直人は妻を見た。
答えようとする。
声が少し掠れた。
「……かもしれない」
沙織の表情が変わった。
直人より先に、彼女の方が理解したようだった。
何が起こったのかではない。
これから何が起こるのかを。
リビングの窓の向こう。
東京の夜空には、雲が薄くかかっている。
宇宙など見えない。
静止軌道は遠い。
三万五千七百八十六キロ。
さらに、その先へ。
人間が造ったものなど、何一つ続いていない距離。
直人は十八年間、その場所へ線を引き続けてきた。
紙の上に。
画面の中に。
頭の中に。
まだ一度も、
現実の空へ引けたことはない。
――でも。
その夜。
相馬直人は初めて思った。
もしかしたら。
本当に。
あそこまで、造れるのかもしれない。
【第1話 まだ、やってる? 了】
ここから、『宇宙への道を、僕らは造る』が始まります。
相馬直人は天才科学者でも、宇宙飛行士でもありません。
橋を造り、海で働き、現場で失敗し、その経験を一つずつ積み上げてきた建設技術者です。
彼が十八年近く誰にも頼まれず考え続けてきた「宇宙エレベーター」。
次話――第2話「135ギガパスカル」。
直人は、自分が待ち続けていた「数字」と対面します。
そして初めて、夢だったものを本気で疑い始めます。




