第9話 知っ——
何も、変わらなかった。
告白から一週間が経ち、律が思い知らされたのはその事実だった。朝の「かわいい」は今日も決まった時間に飛び交い、光は別館から学校へ通い、囲炉裏の日は今週も金曜にやってくる。家族の誰も告白を忘れてなどいない。話題にものぼるし、男の子なんだよね、と口では認めている。
変わったものは一つだけ、光の返答だった。
「ひかるちゃん、そのシャツかわいいね」
「————ん。知ってる」
二秒の間が、すっかり当たり前になっていた。四月には淀みなく返していた決め台詞に、今は毎回、二秒の助走がいる。その間、光は小さく息を吸い込み、いつもの笑顔を取り繕ってから言葉を出す。取り繕っていることに、声をかけた側は気づかない。輪の内側から見る光は、今日も余裕たっぷりに褒め言葉を受け取る、いつものひかるんのままだった。
光の側も、抵抗していなかったわけではない。律はそのすべてを目にしていた。
「あのさ、ちゃん付け、そろそろやめない?」
「照れてるの? かわいい〜」
「今日の煮付け、失敗した。しょっぱい」
「謙遜までかわいい」
「……僕の話、聞いてた?」
「聞いてたよ? 真剣な顔もかわいいなって」
全部、耳には届いている。届いた上で、相手の頭に入った瞬間に別の意味へとすり替えられてしまう。本人がどれほどまっとうな主張をしても、相手の抱く印象の中で都合よく解釈される——好の講義で聞いた現象が、居間のあちこちで現実になっていた。
そして木曜の夕方、ついに、あの台詞が途切れた。
場所は本館の玄関、声をかけたのは結だった。学校から戻った光と鉢合わせして、いつもの調子で何気なく口にした。ひかるん、今日もかわいいね。他意も悪意も、探したところで欠片も見つからないような一言だった。
「知っ——」
そこで音が途切れた。
光は口を開けたまま、喉のあたりをそっと触れた。出るはずの言葉が喉で詰まってしまったかのように立ち尽くす。それから小さく咳払いをし、笑って「ただいま」と言い直した。
「おかえり〜」と結が笑う。何も疑っていない。
上がり框の陰で、律だけが、途中で途切れた言葉の引っかかりを見逃さなかった。
---
金曜の囲炉裏の日は、過去最高に盛り上がった。
律の体感では、過去最悪の夜だった。
光が箸を取り落とし、ごめん、と拾い上げた。たったそれだけの出来事に、囲炉裏端がざわめく。今のかわいくなかった? かわいかった。謝り方が優しい。拾う仕草が丁寧。かわいい。熱気は結の明るさを巻き込んで勢いを増し、二周目にはさらに大きな歓声となって返ってくる。話は何度も中断し、鍋の具を足すのも忘れられ、笑い声が途切れる隙すらなかった。
誰も酒に酔ってなどいない。全員が普段通りで、普段の倍、優しさに満ちていた。
律の視界には、居間の全景が映っていた。光からほどけた波が八つの輪になる。そこまではこれまでと同じだ。だが今は、輪そのものが厚い。分厚くなった輪の縁に結の同心円が重なり、光の明滅が部屋の隅々まで広がっている。八つの輪と一つの同心円が、まるで一枚の巨大な膜を作り出そうとしていた。
鍋の向こうで光が笑っている。だがその笑みとは裏腹に、目元にはじわじわと疲労が滲んでいた。
律は立ち上がった。空いた湯呑みを片付けるふりをして輪の外側を回り、光の背後を通り抜けざま、ぽんと肩に手を置いた。
冷めない。
指先の下で、熱気はびくともしなかった。ざわめきは収まらず、笑い声は続き、波の明滅も消えない。律はもう一度、今度は手のひらをしっかりと押し当てた。掌のぬくもりが服の布地に吸い込まれるだけで、何の変化も起きない。触れるだけで鎮める——律が持っていた一番確実な手が、厚みを増した輪の前で完全に空振りした。
「りっくん、どしたの? 座りなよ」
「……ん。茶、淹れてくるわ」
板の間の電気ケトルの前に立ち、律は自分の右手を見つめた。
先月までは、確かに効いていたのだ。あのくしゃみによる過熱を、この手は一度で静めた。あの夜、棚のよく見える場所にしまっておいた成功体験が、最悪の形で裏返って突きつけられる。効いていたはずの手が通じない。それは過熱の性質がまるで別物に変わってしまった証拠であり、変えてしまった原因は——これまでの流れを振り返れば、嫌でも察しがついた。
「美味しい」と口にしたときの二秒。呼び捨てにしたこと。あの告白の夜。
どれも良いことばかりだった。前向きな出来事が重なるたびに、輪は一段ずつ厚みを増していった。防波堤に罅が入るほど、法則は本人を守ろうと意固地に硬くなっていく。
「(……俺らが、厚くしてもうたんか)」
湯が沸き上がるまで、律は動かない右手を見つめ続けていた。




