第8話 言わなくてもいいこと
変化は、静かに始まっていた。
最初に気づいたのは律ではなく、口にした本人だった。一である。
日曜の昼、本館の食卓で光の差し入れの柏餅を食べた一が、しみじみと口にした。
「……かわいい味ですねえ」
言った直後、一は不思議そうに自分の口元に手を当てた。
「あら。今、何か変なことを」
「かわいい味って言った」と望。
「言いましたねえ、私。……甘い、と言いたかったんですけど」
食卓に笑いが起き、「かわいい味」は柏餅の新しい呼び名として定着した。その日はまだ、他愛のない笑い話で済んでいた。
同じ週に、千も口にした。
夕方の縁側で宿題を広げる千の隣に、麦茶を持った光が腰を下ろしたときのことだ。千はしばらく光の横顔を見つめ、いつも通りの平坦な調子で言った。
「うちに来る三毛猫と同じくらい、かわいい」
「……それ、褒めてる?」
「最上級」
「そっか」光は笑い、それから尋ねた。「あの猫、名前は?」
「……猫は、猫」
名前はないらしい。光は「猫かあ」と頷き、それ以上は踏み込まなかった。縁側のやりとりとしては綺麗に収まっている。収まってはいたが、台所から聞いていた律は、麦茶のポットを持ったまま考え込んでいた。千の感覚で猫は満点だ。満点なのはいい。引っかかるのはそこではなく——千までもが、光に向けた最初の一言が「かわいい」になっている、その事実だった。
言葉が、痩せ始めている。
光に向けられる言葉だけが、ゆっくりと、一色に塗りつぶされていく。口にしている側は正しく喋っているつもりなのに、選んだ覚えのない言葉が飛び出す。
そして、熱の回り方も変わりつつあった。
誰かが「かわいい」と口にし、別の誰かが重ねる。そこまでは以前と同じだ。最近はその上に、結の明るさが上乗せされる。その瞬間、笑いが家全体を巻き込んで大きくうねる。律の目には見えていた。光からほどけた波が八つの輪になり、その輪の縁に結の同心円が触れる。触れた境目が、ちか、ちかと細かく明滅する。二つの法則が、互いの正体を知らないまま手を結びかけていた。
鼻の奥では、雨の香りがすでにはっきり感じ取れる。
窓の外には、抜けるような五月晴れが広がっていた。
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「ひかるんちの親って、どんな人?」
聞いたのは結で、場所は囲炉裏端だった。他意など一欠片もない。実家から届いた柏餅が美味しかったという、ありふれた雑談の流れだった。
「んー。普通だよ。普通に、優しい」
光は椀を置き、少し間を置いてから笑った。
「うちの親、僕のこと『自慢の娘』って言うんだ」
「わかる〜、自慢だよねえ」
「だねえ」
会話は何の引っかかりもなく、次の話題へと移っていく。誰の箸も止まらない。止まったのは、囲炉裏の火の向こうにいる律の箸だけだった。
娘、と光は言った。訂正を求める声音ではなかった。とっくの昔に諦め果てた響きでもない。もっと平坦な——最初から「訂正する」という選択肢が存在しない環境で育った者の、ただの報告だった。
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その夜、律が深夜の台所で単語帳を開いていると、好が入ってきた。
コーヒーは淹れず、マグカップも持っていない。ただ律の向かいの席に腰を下ろし、少しの沈黙のあと、口を開いた。
「ひとつだけ、教えてほしいの」
「……なんでしょう」
「あなたには、あの子がどう見えてる?」
単語帳を閉じるパタンという音が、夜の台所にやけに大きく響いた。
この一ヶ月、誰にも通じなかった問いかけを、初めて誰かがまっすぐにぶつけてきた。律は好の目を見つめる。思い込みで決めつける目ではない。客観的なデータを求める、研究者の目だった。
「……最初から、男に見えてます。ずっと」
「そう」
好は頷いた。驚いた風でもない。それから、テーブルの上で両手の指を組んだ。
「私にはね、女の子に見えるの。今も。書類を何度確かめても、目の前の視覚が上書きされない。こんな経験、初めてよ。自分の専門の内側に、自分自身が閉じ込められている」
「————」
「だからあなたの目を借りたかった。ありがとう。それでね、律くん。ひとつ相談があるの」
好の相談は手短だった。聞き終えて、律は一度だけ頷いた。それ以外に返せる言葉がなかった。
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次の囲炉裏の日、鍋が空になった頃合いを見計らって、好が居住まいを正した。
「ね、この前の講義の続き、少しだけしていい?」
教室はどこにでも開ける。囲炉裏端を囲んでいた八人が、自然と好のほうへ視線を向けた。光は火の正面で、静かに膝を抱えている。
「前に、第一印象の話をしたでしょう。一つの目立つ長所が後光になって、全体を照らしてしまうって。——今日はその続き。一度出来上がった印象は、どうなると思う?」
「消える?」と現。
「そうね、消えることもある。でも、強烈な印象はね、反対の証拠を突きつけられても消えないの。それどころか、証拠のほうを取り込んで、さらに強くなることがある。眼鏡をかけた人は頭が良さそう、と思い込んでいる人が、その人の失敗を見たら——あの人ですら失敗するほど難しい仕事なんだ、って受け止める。印象の側は無傷のままね」
「最強じゃん」と望。
「最強なのよ。だから、訂正が効かなくなる。本人がどれだけ事実を口にしても、周りの印象の中で別の意味へと変換されてしまう。……怖い話でしょう。でもこれも特別な現象じゃないの。誰もが最初から持っている性質なのよ」
いつもの着地だった。囲炉裏を囲む輪の中に苦笑が広がり、やがて引いて、炭が小さく爆ぜる。
好はそこで、少しだけ声音を和らげた。
「だからね、最後にひとつだけ。講義の続きとして、私からみんなにお願い。——この家では、言わなくてもいいことは言わなくていいのよ。誰かが何かを言わずにいることを、責めない家でいましょう。それから」
一拍の間。
「誰かが何かを言おうと決めたときは。ちゃんと耳を傾ける家でいましょう」
炭火が、ひとつ爆ぜた。
誰も口を挟まなかった。言葉はなくとも、空気が何かを受け止める態勢へと静かに整っていくのが伝わってくる。この九人の家族は、こういう沈黙の重みを十分に心得ていた。
光が顔を上げた。
膝を抱えたまま囲炉裏の火を見つめ、それから、火の向こう側に座る律へ視線を向けた。ほんの一瞬だけ。
律は、ただ小さく頷いた。
光が深く息を吸い込む。
「あのさ。……僕、ほんとは男なんだ」
炭が爆ぜる乾いた音が、二度続いた。
真っ先に動いたのはななせだった。背筋をすっと伸ばし、光をまっすぐに見据えて言った。
「うん。言ってくれてありがと。ぜんぶ、ちゃんと聞いたよ」
「あらまあ」と一が両手を胸の前で合わせた。「道理でお料理の骨格がしっかりして……いえ、これは関係ありませんね。あらまあ、あらまあ」
「ふうん」望は湯呑みを傾けた。「ボクは驚かない主義。……まあ、少しは驚いたけど。で、明日の模試には関係ないよね」
「ない」と光が吹き出す。
「……おかわり」
千が差し出した椀を、光が「はいよ」と受け取る。しゃもじが動き、白い湯気が立ち上った。それを合図に、張り詰めていた空気が一気に解けた。結が「えっ、待って、頭の整理が追いつかない!」と頭を抱え、現が「ひかるにぃ? それともひかるちゃん?」と首を傾げ、好が「呼び方は本人の希望に任せましょ」とまとめ、光が「どっちでもいいよ」と笑う。囲炉裏端はいつもの賑やかさを取り戻していった。
疑う者も、取り乱す者も一人もいない。十七年分の重みを持つ告白は、この家の夜の湯気の中へと穏やかに溶け込んでいった。
その宴の熱が一段落しかけた頃合いで。
律は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「……いや、俺、最初から男やって言うてたやん」
二拍の静寂のあと、囲炉裏端がドッと沸いた。
「言ってた!」「言ってたわ!」「あれ本気だったの!?」「りっくんごめん、変な冗談かとばかり」「謝れみんな、律にぃに謝れ〜」
一ヶ月遅れの名誉挽回だった。律が「べつにええけどな」と渋い顔で茶を啜ると、その表情がまた笑いを誘い、夜は最後まで明るいまま更けていった。光は火のそばで、大笑いする家族の姿を静かに眺めている。生まれて初めて真実を口にできた夜を、生まれて初めてそのまま受け止められた夜を、どこか噛みしめるように見つめていた。
文句のつけようがない、温かい夜だった。
だからこそ律は、自分の鼻腔だけが捉えている気配を、誰にも明かさなかった。
雨の香りが、さらに一段、濃度を増していた。
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翌朝は澄み渡るような快晴だった。
光は九時前、洗濯物の袋を提げて本館にやってきた。土曜の物干しはいつも通りの満艦飾で、結とななせと現が大きなシーツを広げて干している。
「おはよ」
「あ、ひかるん、おはよー!」
結が物干し竿の向こうから身を乗り出した。朝日がシーツを透かして、庭一面が白く輝いている。結はいつもの無邪気さで、心からそう口にした。
「ひかるん、今日もかわいい〜」
「かわいい」と現が続き、ななせもにこにこと頷く。
悪意などどこにもない。昨夜の告白を疑った者も、忘れた者もいなかった。全員が事実として正しく認識した上で、ただ目に見えたままを口にしただけだった。
二秒の空白。
「……知ってる」
かすれた呟きは、シーツを揺らす初夏の風にかき消された。




