第7話 美味しい
五月の囲炉裏の日は、筍から始まった。
光が市場でいい筍を見つけたらしく、なら炊き込みご飯にしようと満場一致で決まった。夕方の別館には、米と出汁のいい香りが立ち込めている。竈の前には光と、ノートを構えた一。囲炉裏には自在鉤に吊るされた鍋。手伝いという名目の見物人が、通り土間に並んでいた。
律は庭で、水汲みを手伝わされていた。
「最初にコップ一杯だけ、上から入れるんだ」
光は井戸の手押しポンプの上部に水を注ぎ、柄を上下させた。何度か空振りしたあと、ぐっと手応えが重くなり、吐水口から勢いよく水が噴き出す。夕方の庭に、心地よい水音が響いた。
「なんで先に入れるん」
「呼び水。少しの水で、深いところの水を連れてくるんだって」
「呼び水、て言うんや」
「ん。便利だよね、昔の道具」
汲んだ水は桶に溜めて、打ち水に使う。検査していないから飲まないで、と初日に好から釘を刺されていたので、この井戸水の役割は庭の土を湿らせることだけだ。乾いた土が水を吸い込み、ふわりと土の香りが立ち上る。雨の香りに似た、夕暮れの匂いだった。
夕食は、大好評だった。
筍の炊き込みご飯に、鰆の幽庵焼き、若竹汁。囲炉裏端に九人が輪になり、椀や皿が忙しく行き交う。配るタイミングもすっかり馴染んで、千の椀に筍の穂先が収まり、現の皿からは苦手な木の芽がそっと消える。
律は炊き込みご飯を口に運び、三口目で箸を止めた。
「……これ、めっちゃ美味しいな」
特別な意図はなかった。ただ素直にそう思ったから口に出た、それだけだった。
だから、返事が二秒遅れたことにも、律はすぐには気づかなかった。
「————」
光が、律を見ていた。
箸を持ったまま、一度だけまばたきをする。小さく開いた口がいつもの「知ってる」の形になりかけて、途中で止まる。二秒。妙に長い二秒だった。それから光は、ふっと息を抜くように笑った。
「……おかわり、あるよ」
「ありがとう。もらうわ」
交わした言葉はそれだけで、囲炉裏端の誰も気にとめなかった。木の芽のおかわりが回され、望が汁の実を取り合い、いつも通りの賑やかな夜が流れていく。
ただ、律の記憶には残った。かわいい、という言葉には即座に返していた唇が、美味しい、の前で二秒間止まったこと。「知ってる」が出てこなかったこと。あの二秒の間に浮かんだ、驚きと、どこか初めて見るような表情。
---
お泊まり会は、次の囲炉裏の日に決まった。
きっかけは望の「泊まってみたくない?」の一言で、あとは一気に話が進んだ。空き部屋は二つあるし、布団は本館から運べばいい。翌日は土曜日だ。反対する理由もなく、子供チームと結の三人が別館へ泊まることになり、律とななせは布団の運搬役として夜まで残った。
「律たちも泊まればいいじゃん」
「受験生やからな。参考書、本館に置いたままやし」
「まじめ〜」
九時過ぎに本館組は引き上げ、律は日付が変わる前に自室で参考書を閉じた。風呂に入り、部屋の明かりを消して、眠りに落ちかけた頃——枕元のスマホが震えた。
結からだった。
『たすけて』
勢いよく跳ね起きた。メッセージが立て続けに届く。
『うつつがトイレ行けない』『せんちゃん巻き込まれた』『あたしは布団から出たくない』『りっくん来て』
「(……何をやっとるんや、あいつらは)」
パーカーを引っ掛けて、夜の路地を四分ほど歩いた。別館の玄関は鍵が開いていて、通り土間の常夜灯だけがぼんやり灯っている。上がり框を跨ぐと、すぐに事情が呑み込めた。
北廊下の入口で、現と千が立ち尽くしている。
現は千のパジャマの袖をぎゅっと握りしめ、千はその背中に半分隠れたまま、二人揃って廊下の奥を見つめて動かない。廊下は薄暗く、突き当たりの最新式トイレがやけに遠く見えた。そしてその途中には、あの引き戸がある。
「律にぃ……」現が振り返り、半泣きで訴えてきた。「トイレ、行きたいのに、行けないよぉ」
「電気点けたらええやん」
「点けたら、開かずの間が見えちゃうもん」
「点けんかったら、それはそれで真っ暗やろ」
「どっちもこわい!」
理屈としては完全に詰んでいた。千は無言だったが、袖を掴まれたままじっとしているあたり、同じ意見らしい。
そのとき、背後——西の回り縁のほうから、すっと衣擦れの音がした。
現が「ひっ」と跳び、千が現の後ろに完全に隠れ、律も思わず身構える。開かずの間から何者かが出てきたわけではなかった。南側の広縁から回り縁を伝って、ひょっこり顔を出したのは光だった。
「……こんな時間に、どうしたの?」
寝間着姿の光が、眠そうに目をこすりながら顔を出した。事情はすぐに伝わった。現が「いっしょに来てぇ」とすがりつき、光も「いいよ」と引き受けた——ものの、そこから一歩も進まない。
廊下の入口で、光の足も止まっていた。
「……光?」
「ん。行くよ。行くけどさ」
光は廊下の奥を見つめたまま、声をひそめた。
「……夜のここの廊下、僕もちょっと苦手なんだよね」
子供チームが、目を丸くして光を見上げる。かわいい上に料理もできて、何でも器用にこなすはずの同盟員が見せた、初めての弱音だった。律も光を見た。光はその視線に気づいて、照れくさそうに笑う。いつもの完璧な振る舞いとは違う、年相応の素直な一面だった。
結局、四人揃って向かうことになった。
律が先頭に立って明かりを点け、現と千が真ん中に挟まれ、光が最後尾を守る。開かずの間の前を通り過ぎるとき、全員の足早さが自然と揃い、通過した瞬間にふっと緩んだ。突き当たりの扉を開けると、明るい照明と暖かい床が迎えてくれる。最新式の設備が、深夜にはことさらありがたかった。
帰り道は、行きの半分ほどの時間ですんなり戻れた。
「へーきになったかも」と現が言い、「……慣れた」と千が続ける。慣れるのが早すぎると律が苦笑し、暗い廊下に小さな笑い声が落ちた。最後尾を歩く光もその笑い声を聞きながら、薄暗い廊下の空気にすっかり馴染んでいるようだった。




