第6話 三つ目の名前
洗濯物の事件は、土曜の午前に起きた。
春のよく晴れた日で、本館の物干しは満艦飾だった。九人分の服とシーツが風をはらんで膨らみ、庭を狭くしている。縁側では千が猫の皿を洗っていて、三毛猫はとっくに塀の向こうへ姿を消していた。土曜の午前は、この家がいちばん賑やかになる時間だ。光の洗濯物もそこに混ざっている。別館には洗濯機がなく、光の洗濯物は週に何度か、袋ごと本館の洗濯機置き場を通る。風呂と同じで、生活はこうやって混ざり合っていく。
取り込みは当番制で、畳むのは有志制だ。今日は結と光が縁側で畳み係を受け持ち、律は物干しから縁側へ運ぶ係だった。
「ひかるんのって、どれ?」
仕分けの手を動かしながら、結が聞いた。
「その辺、ぜんぶ僕の」
「その辺——」
結の手がぴたりと止まった。
指さされた場所には、飾り気のない下着が無造作に積まれていた。実用一点張りの、どう見ても男物の下着だ。そしてその山には、女の子が多いこの家の物干しなら毎日必ず並んでいるはずのものが、ひとつも見当たらない。
二拍の間。
律は運びかけのシーツを抱えたまま固まった。物証だ。言葉よりも雄弁な証拠が、今まさに結の手の中にある。
「〜〜〜っ、ボーイッシュなの穿くんだ! かわいい〜〜!」
結は山を抱きしめる勢いで身悶えした。
「動きやすいのが好きなんだ」と光。
「わかる〜、その割り切りがかわいい! 同盟員の鑑!」
嘘はひとつもない。光は事実を言い、結は見えたままを言った。動かぬ物証はそのまま受理され、「かわいい」の枠組みへ綺麗に組み込まれてしまう。異議を申し立てる窓口なんて、最初からどこにもなかった。
律はシーツを抱え直した。腕の中にある太陽の香りが、なぜか遠く感じられる。
「(言うてもあかん。見せてもあかん。ほんなら——)」
ほんなら、どうすればいいのか。続きを考えかけて、やめた。どれだけ考えても出口がない。
気配を感じて、縁側の奥に目をやった。
好がいた。
麦茶のグラスを載せたお盆を持ったまま、畳み係の二人を見つめている。それから盆を置き、スマホを取り出して手早く何かを打ち込み、ポケットへしまった。十秒にも満たない仕草だった。
顔を上げた好と、律の視線がぶつかる。
好は何も口にしなかった。いつもの穏やかな表情で麦茶を配り始める。配りながら一度だけ、光の横顔に視線を走らせた。答えを持っている者の目ではない。何か一つ、引っかかる問いを見つけた研究者の目だった。
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その夜遅く、律は台所にいた。
広げた参考書と単語帳。受験生の夜は、居間が寝静まってからが本番だ。この家に来て一年、深夜の台所は律の自習室になり、時々、二人きりの相談室にもなる。
「あら、まだやってたの」
好がマグカップを手に現れた。コーヒーの香りが夜の台所に広がる。研究者の夜も、これからが本番らしい。
しばらくの間、お互いに紙をめくる音だけが響いていた。単語帳が一区切りついたところで、律は顔を上げた。昼間からずっと気になっていた質問を口にする。
「なあ、好さん。ちょっと聞いてええかな」
「なあに」
「別館の門にある……プラクシスって、あれ、何語なん」
「ギリシャ語よ」
迷いのない即答だった。コーヒーを一口飲んでから、好が続ける。
「実践、って意味。アリストテレスがね、人間の知的な営みを三つに分けたの。一つ目がテオリア——観ること、考えること。二つ目がプラクシス——行うこと。理論と実践、って今でも言うでしょう。あの言葉の大元ね」
「……三つ目は」
「ポイエーシス」
好はマグカップを置いた。
「作ること。詩とか、ものづくりとかね。——理論、実践、制作。それで三つ」
律は、単語帳の同じページを見つめたまま動けなかった。
観る。行う。作る。
二つ目の家が建っていた。誰も読めない名前のプレートを掲げ、路地の奥に、ごく当たり前に。二つ目があるなら、三つ目もあるはずだ。番号とはそういうものではないのか。
「それにしても、変わった名前をつけるわよね、あの管理会社」好は気軽なトーンで続けた。「テオリアなんて、英語のセオリーの語源よ。文字を並べ替えるとセオリー。——あら」
好が小さく笑った。
「セオリー。うちの荘の名前みたいね」
「……せやな」
みたい、どころの話ではない。喉まで出かかった言葉を、律はコーヒーの香りと一緒に飲み下した。好は偶然の一致を面白がり、ふふっと笑ってノートに視線を戻す。冗談はその場に置かれ、台所は静かな夜へと戻った。
日付が変わる前に、好が先に席を立った。
「根を詰めすぎないでね、受験生さん」
「おやすみ」
足音が廊下の奥へ消え、台所には律と、冷蔵庫の低い唸り声だけが残る。
律はシャーペンを置き、天井を見上げた。
観る家の次に、行う家が建った。
「(ほんなら、作る家はいつ建つんや)」
答える者は誰もいない。ただ冷蔵庫だけが、低く唸り続けていた。




