第5話 後光の輪
講義は、日曜の昼に開かれた。
言い出したのは結だった。ひかるん歓迎企画その二、と銘打って、内容の指定は「好さんの心理学のやつ」。この家では時々、居間が教室になる。出席は自由なのに、なぜか毎回全員が集まる。
「じゃあ今日は、第一印象の話をしましょうか」
好はノートを膝に置き、そう切り出した。九人が座布団の円を作り、真ん中に麦茶のポットが置いてある。光は結と現に挟まれて、教室の特等席にいた。
「百年くらい前にね、ソーンダイクという心理学者が、軍隊で調べ物をしたの。上官が部下を評価する採点表を集めて眺めたら、おかしなことに気づいたのよ。体格のいい兵士は、射撃の成績も、規律も、頭の良さまで高く採点されてたの。実際の成績とは関係なくね」
「え、ずるくない?」と結。
「そうね、でもこれは人間の思考の癖なの。一つ目立った長所があると、それが後光みたいにその人の全体を照らしてしまう。照らされた部分は、実際より良く見えるのよ。——だからハロー効果。ハローは挨拶じゃなくて、後光とか光輪のほうのハロー。教科書だと光背効果とか、後光効果とも書いてあるわね」
「後光って、仏像の後ろのやつ?」と現。
「そう。ああいう、ありがたい光の輪」
「はろー」隣で千が小さく言った。挨拶のほうの発音だった。ボケなのか確認なのか、誰にも分からない。
「怖いのはね」好は麦茶を一口飲んだ。「照らしてる本人に、照らしてる自覚がないこと。上官たちは真面目に採点してたの。ずるをしたつもりは一度もないのに、頭の中で光が回ってることに、誰も気づかない」
「へえ。面白いね」
光が言った。膝を抱えて、純粋に感心している。完全に他人事の様子だった。誰だって、教科書の話は自分と切り離して聞く。
「面白いでしょう。そしてこれ、特別な話じゃないのよ。第一印象で人となりを推定する。見た目で中身を見積もる。——全員が、もともと持ってるの」
全員が持っている。この家の講義は、いつも最後にそこへ着地する。円の中に小さな苦笑が広がり、みんなが自分の胸の内を振り返る。探らなかったのは律だけだった。律が探していたのは、目の前の光景の説明だ。
少し前から見えていた。
視線が光に集まるたび、光の輪郭から波がほどける。波自体は見慣れたものだ。おかしいのはその先で、ほどけた波は本人の周りに広がらず、すうっと泳いで、見ている側の顔の前で止まるのだった。止まって、薄い輪になる。結の顔の前に一つ。現の顔の前に一つ。ななせの、一の、千の顔の前に。まるで八つの小さな月暈が、居間のあちこちに浮かんでいるみたいだった。
「(……逆やな)」
結の波は、本人から外へ広がる同心円だった。舞台の光を客席へ配る形だ。光の波は配達先が違う。波は光から出るのに、輪が立つのは見る側の目の前——照らしてる本人に自覚がなく、照らされてる側にも自覚がない。さっきの講義が、そのまま視界で繰り広げられていた。
「あとね、ハローは天気の用語でもあるの」
好の声で、律は我に返った。話は雑談の時間に入っていた。
「太陽や月の周りに、白い光の輪が見えることがあるでしょう。あれも気象用語でハロー。月に出るのが月暈。——ね、名字が現象の名前って、素敵よね」
視線がまた光に集まり、輪が再び八つ浮かんだ。光は「知ってるよ」と笑い、円が笑った。
「月に暈がかかると、翌日は雨。昔からそう言うの。綺麗な輪は、天気が崩れる前触れなのよ」
「えー、綺麗なのに」と現が不満そうな声を上げた。
「そうね、綺麗なのにね。光が輪に見えるのは、上空に薄い雲が来てるから。雲が来るほど雨は近いということね。……そうそう、雨といえば」
好は思い出したように言った。
「降り出す前に、土の香りがすることがあるでしょう。乾いた地面が湿気を吸うときの。あれ、ちゃんと名前があってね。ペトリコール、っていうのよ」
律は、麦茶を持つ手を止めた。
名前があった。
この一、二週間、律の鼻の奥にだけ届いていた私的な信号に、世界のほうが先に名前をつけていた。ペトリコール。降り出す前の、土の香り。律は口の中でその音を転がして、誰にも聞こえないように飲み込んだ。
「好さん、なんでも知ってるねえ」と一が感心し、「趣味の範囲よ」と好が笑って、講義はお開きになった。座布団が片付けられ、麦茶が注ぎ足され、居間はいつもの空気に戻っていく。
浮かんでいた八つの輪も、すっと消えた。
見えなくなっても、消えたわけではない。律はそのことをもう知っている。
---
かわいい同盟が結成されたのは、その週の囲炉裏の日だった。
その晩の別館は、いつもより火の前が一人分混んでいた。一である。竈の脇で光の手元をじっと見つめている。
「火加減はね、薪より灰で覚えるといいよ。灰が白くなったら——」
「白くなったら」
「弱火の合図。ここからが煮物の時間」
「白くなったら、弱火」
一は復唱し、エプロンのポケットから小さなノートを出して鉛筆を走らせた。セオリア荘の台所を守ってきた人が、新しいやり方を素直に教わっている。教わる側の一も、教えるときと同じくらい楽しそうだった。
「決めました!」
炭火の前で、結が高らかに宣言した。「あたしとひかるんで、かわいい同盟を結成します!」
「なにそれ」と望。
「かわいい者同士、助け合っていくの。写真撮るときの角度とか、前髪の湿気対策とか、共有すべき技術がいっぱいあるんだよ」
「僕、前髪そのままだけど」
「そのままでそのかわいいなの!?」
結が悲鳴を上げ、囲炉裏端が沸いた。同盟の活動内容はよく分からないまま、加盟だけが既成事実になった。光は苦笑しつつも、まんざらでもなさそうに結と拳を突き合わせている。かわいい担当の二人が手を組んだ夜だった。
その帰り際のことだ。
縁側で靴を履く律の背中に、結の声が飛んできた。
「ところでさあ、りっくん」
「ん」
「りっくんって、ひかるんに塩だよね」
「塩て」
「うちの同盟員に、みんなめろめろじゃん。なのに律だけ普通じゃん。あたしが来た時はさ、りっくんももうちょっとこう、どぎまぎしてたじゃん。——ねえ、あたしの時と反応、違くない?」
律は靴べらを持ったまま、二秒固まった。
違うに決まっている。結のかわいさは生身で、波でも輪でもないから律に直撃する。光のかわいさは波や輪のせいで、律には当たらず素通りする。理屈は通っているが、一言も口に出せない。
「……気のせいやって」
「ふーん」
結は疑わしそうに目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。それでも律は、靴を履きながらうっすらと汗をかいていた。
「(観察してるつもりが、観察されとった)」
九人の中で、律の反応の違いに気づけるのは結だけだった。自分のかわいさを武器にして、それがどう見られているかを客観的に見てきたプロだ。輪の外に立つ人間を、輪の内側から見つけられるとしたら、この人しかいない。




