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第4話 風呂順会議

 最初の「囲炉裏の日」は、金曜に決まった。


 その第一回の夕方、ご飯が炊けるまでの隙間時間にあれが始まった。のちに「別館トイレ見学ツアー」と呼ばれることになる一幕だ。


 言い出しっぺは結だった。未来的という言葉がよほど気になっていたらしい。「ね、例のトイレ見せてよ」「いいよ」の二言であっさり決まり、九人はぞろぞろと北側の廊下へ移動した。


 別館の北廊下は、板張りの長い一本道だった。西の端で回り縁と繋がり、東の突き当たりに件のトイレがある。夕暮れどきで薄暗く、九人分の足音がやけに響いた。


 その途中に、あの戸がある。


 北列の東端、廊下に面した一枚の引き戸。他の戸と同じ造りだが、引手に手をかけた結が首をかしげた。


 「開かない」


 「ん。そこ、開かないんだって」光が前を向いたまま答えた。「不動産屋さんが言ってた。物置か何かで、開けられませんって」


 「開かずの間だ」と現が声を上げる。


 「あの開かずの間が引っ越してきたの?」と結が笑い、「先輩として言っておくけど」と望が腕を組んだ。「こういうのは無理に開けないほうがいい。開くときは勝手に開くから」


 開かずの間の先輩は、この家では望一人だけだ。からかい混じりの実感のこもった言葉に、笑いが起きた。そのまま一行は戸の前を通り過ぎたが、律はその引手が綺麗なことに目を留めた。埃をかぶった物置の戸なら、引手だけ拭かれているはずがない。


 突き当たりに着き、光が戸を開けた。人の気配を察して、中の照明が自動で灯る。


 九人が一斉に言葉を失った。


 白く、広く、暖かかった。壁の一面はやわらかな木目調で、便器は見たこともない流線型を描き、蓋が音もなく自動で開く。四月の夕方だというのに床までほんのり暖かい。どこかで空調の静かな駆動音がしていた。古民家の廊下の突き当たりだけ、完全に別世界だった。


 沈黙を破ったのは千だった。


 「……未来だ」


 「未来ですねえ」と一がしみじみと頷き、それを合図に歓声が沸き上がった。すごい、座りたい、床があったかい、なにこれ、いいなあ。順番に便座へ座ってみる者まで現れて、トイレの前に行列ができる。トイレ前の待機列として、おそらく史上もっとも平和な光景だった。


 「なあ」律は光に耳打ちした。「風呂なしで千円引きのくせに、これの追加料金はないんか」


 「ないみたい。加算なしで一万九千五百円」


 「……絶対計算合わんやろ」


 「いい家だよね」


 光はにこにこしていた。不自然な出来事の棚に、もう一つ。律の頭の中の引き出しは、この一週間でずいぶん賑やかになっていた。


---


 その夜、本館の居間で風呂順会議が開かれた。


 別館で囲炉裏の夕食を終えた九人は、揃って夜道を歩いて本館へ戻ってきた。もらい湯と、この会議のためだ。居間に座布団を円形に並べ、上座に議長がつく。議長はもちろん好だ。膝にはルーズリーフ。この家は、風呂の順番に関してはどこまでも本気だった。


 「では、入浴順審議会を始めます。議題、光さんの入浴順の正式決定について」


 「はーい!」結が元気に挙手した。「まず現状の確認をお願いしまーす」


 現状のルールはこうだった。夕食の片付けが終わると、まず子供チームが入る。千、現の順で、二人とも手早く済ませる。次が望。その次が結で、きっちり一時間かかる。入浴四十五分、ドライヤー十五分、さらに脱衣所で歌う。次がななせ。次が好で、研究で夜が遅いからと本人は主張するものの、単に長風呂の自覚がないだけだという説が根強い。片付けをすべて終えた一が入り、最後が律。唯一の男子だから最後、というのが暗黙の了解で、律自身も妥当だと思っている。ただし、律が湯船に浸かる頃には大抵日付が変わっていた。そしてこの一週間、光は暫定として律のさらに後ろに入っていた。


 「という暫定運用を、今夜正式ルールに変更します」好がルーズリーフにペンを走らせた。「改めて、希望はある?」


 「僕、どこでもいいよ。早いから。十分くらい」


 「「「十分!?」」」


 三人分の声が綺麗に重なった。かわいいのにカラスの行水、という意外性に場がひとしきり盛り上がり、本格的な位置決めが始まった。


 「子供チームの前は? 早いんだし」


 「あ、それならさぁ」


 現が勢いよく手を挙げた。


 「ひかるちゃん、うつつたちと一緒に入ろぉ。広いよ、うちのお風呂」


 千が無言で頷き、そのまま腰を浮かせかけた。今すぐ一緒に入る気満々だ。


 「おいおい待て待て待て」


 律は反射的に制止していた。思ったより大きな声が出て、円座の全員がこちらを見る。


 「なんでりっくんが止めるの?」と結。


 「なんでって。……あかんやろ、それは」


 「なにが?」


 「なにがって。……なあ?」


 同意を求めて見回したものの、頷く者は一人もいなかった。返ってきたのは純粋な疑問の視線だけだ。ななせまでもが小首を傾げている。効率的だと思うけどと望が言い、水道代も浮きますしねえと一が頷き、正論ばかりが積み上がっていく。その前提が根本から狂っていることを知っているのは、この居間で律一人だけだった。


 「(言えるか。言えるわけないやろ。言うても通じへんのやから)」


 先週の失敗で学習していた。この話題で口を開くたび、家の中での律の立場が怪しくなる。「男やんな」の一言は律の悪ふざけとして片付けられており、二度目を口にすれば悪ふざけのしつこさを疑われるだけだ。


 「えー、りっくん心が狭い」


 「狭ないわ。……狭くは、ないやろ」


 「今のは狭かったよ」と望。


 「狭い」と千。


 あっさり判決が下った。律の異議は却下され、あわや子供チーム三人同時の入浴が決定しかけた——そのとき、光本人が手を挙げた。


 「あ、僕、一人で入る派なんだ。ゆっくりしたくて」


 「十分で?」と結。


 「十分をゆっくり使うんだよ」


 腑に落ちるような落ちないような理屈だが、本人の希望なら仕方がない。子供チーム案は引っ込められ、律は胸をなでおろした。光がちらりとこちらを見たように思えたが、気のせいかもしれなかった。


 審議はさらに続いた。結の前か後か。歌の練習と重なると脱衣所が混むという運用の問題が指摘され、ドライヤーの同時使用によるブレーカーの危険性が挙がり、最終的に好が裁定を下した。


 「では、現ちゃんの後、望ちゃんの前。子供チーム枠の三番目に編入します。異議は」


 「なし!」「なーし」「ん」「はぁい」


 満場一致で可決された。律はもう手を挙げなかった。根拠を求められても、出せる証拠が一つもない。こうして光は子供チーム枠に収まった。かわいくて早いから、という記録に残らない理由で誰も疑問を抱かなかった。律の後ろに一週間だけ並んでいた新人は律の前へ移り、律の入浴時刻は十分だけ後ろにずれた。何十分単位で削られてきたこの家の生活からすれば、誤差のような十分だった。


 「なお」好がルーズリーフを閉じながら付け加えた。「本審議会の決定は、新事実が出た場合には再審します。以上」


 新事実。律は畳に視線を落とした。それならある。あるのだが、それが正式な議題になる日が来るのかどうかは誰にも分からなかった。


 「よかったね、ひかるん! これで深夜組卒業じゃん」


 「ん。お世話になります」


 光がぺこりと頭を下げ、拍手が起こり、会議はお開きになりかけた。


 その瞬間、光が小さなくしゃみをした。


 「くしゅっ」


 子猫のような、かすかなくしゃみだった。


 居間の動きがぴたりと止まった。


 「……今の」結が声を震わせた。「今の、かわいくなかった?」


 「かわいかった」「かわいかったねえ」「録音したかった」「もう一回」


 「しないよ!?」


 抗議する光の頬がふくらみ、その様子に「それもかわいい」と四方から声が飛び、むくれるほど場の熱気が上がっていく。散会しかけた円陣が完全に持ち直し、議題はいつの間にか「今のくしゃみについて」へとすり替わっていた。議長であるはずの好までもが「風邪かしら、大丈夫?」と身を乗り出している。


 「(……なんや、この盛り上がり)」


 律は輪の外からそれを見つめながら、鼻の奥にあの匂いを感じ取った。


 ごく薄い、雨の香り。窓の外には星が出ている。


 律は立ち上がり、湯呑みを片付けるついでを装って輪に近づくと、通りすがりに光の肩へぽんと手を置いた。


 「ほら、風呂冷めるで。子供チーム、先に行き」


 触れた瞬間、場の熱気がすっと引いた。


 吹きこぼれそうだった鍋の火を止めたように、全員が「あ、順番だった」と我に返り、千が立ち、現が続き、円陣は今度こそ解散した。誰一人として、いまの急激な変化に気づいていない。


 「(……ほんまに効くんやな)」


 ただ触れるだけ。昔から持っている手札が、この異常な過熱を冷ますのにも役立った。その事実を、律は頭の片隅にしっかりと留めた。理由は判然としないが、覚えておくべきだという直感があった。


---


 入浴順正式ルール初日の夜は、何事もなく更けていった。


 子供チーム三番目の運用は最初から順調で、光は予告通りきっかり十分で上がってきた。濡れた髪のまま居間でお茶を飲み、望と模試の愚痴を少し交わしてから、九時過ぎに「じゃ、帰るね」と立ち上がった。


 歩いて四分の距離とはいえ夜道には違いないので、玄関先まで数人で見送ることになった。


 「光」


 律は下駄箱の上の袋を手に取って渡した。「一さんから。煮物を多めに作ったから朝の分やって」


 「ありがと。……重っ。何人分?」


 「一さんの『少し』やからな。慣れるしかないで」


 光が笑って袋を持ち直した、その隣で。


 ななせが、じっと律を見つめていた。


 「……なに」


 「早くない?」


 「なにが」


 「呼び捨て。私のときはもっと時間かかった気がするんだけど」


 言われて、律は自分の言葉にハッとした。光。確かに呼び捨てにしていた。いつからそう呼んでいたのか思い出せない。頭で考えるより先に口が動いていた。


 「い、いや、それは、男同士やから……」


 言いかけて、すぐに飲み込んだ。この理由はこの家では通用しない。案の定ななせは頬をふくらませ、結が「おっ、修羅場?」と面白がって身を乗り出し、玄関先が小さく沸いた。


 その賑やかな輪の中で。


 光だけが、一拍、立ち尽くしていた。


 袋を抱えたまま、まばたきを二つ。何か言いかけ、それを飲み込んで、いつもの笑みを浮かべた。


 「じゃあね。おやすみ」


 「おう。気ぃつけてな」


 光は夜の路地へと歩き出した。角を曲がる手前で一度だけ立ち止まり、小さく手を振った。手を振り返した律の鼻の奥には、雨の香りがまだかすかに残っていた。


 見上げる空は今夜も晴れている。


 「(……降るんやろか、そのうち)」


 小さく呟いて、律は玄関の戸を閉めた。


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