第3話 囲炉裏の日
三毛猫が姿を見せたのは、光が引っ越してきてから三日目の朝だった。
縁側の端に小さな皿が置かれ、その前に三毛猫が座っていた。白と黒と茶の柄がくっきりと分かれていて、堂々とした佇まいをしている。皿の後ろでは千が膝を抱え、静かに見つめていた。
律は一瞬、身構えた。
この家では、猫がただの猫ではない時期があった。同じ猫が二度通り過ぎれば、それは世界の変調を知らせる前触れだった。だから律は反射的に猫の動きを追ったが、三毛猫は皿の餌を平らげ、前脚を舐めると、そのまま塀を跳び越えて路地の向こうへ消えていった。
通り抜けたのは一度きりで、二度目はなかった。
「(……ただの常連か)」
息を吐いた律に、千が背を向けたまま呟いた。
「三日連続」
「餌付けしてるん?」
「……通い」
飼っているとは言わないのが千らしかった。皿を片付ける手つきは手慣れたものだ。三日で日課を作る猫も、それをごく自然に受け入れる千も、大したものだと律は思った。
別館での暮らしは、その週のうちに落ち着いた。
朝は駅へ向かい、夕方は路地の奥へと戻る。光の持ち物は少なかったが、調理道具だけは最初から揃っていて、通り土間に鍋や笊が並ぶにつれて、新生活の気配が満ちていった。
もらい湯も引っ越しの翌晩から始まっていた。入浴順はひとまず暫定ということで、光は自ら最後尾を希望した。全員が入り終えた後、つまり律のさらに後ろだ。
「なんで最後なん。もっと早い時間、空いてるで」
「んー。なんとなく」
なんとなく、という返事の裏を、律だけは察していた。男は最後に入るのが筋——たぶん光も、そう考えている側なのだ。誰にも伝わらない理屈を、一人だけで律儀に守っている。指摘はしなかった。どうせ言ったところで、律の変な冗談がまた一つ増えるだけに終わる。こうして深夜の脱衣所には誰も気づかない順番待ちが生まれ、律は生まれて初めて、自分の後ろに風呂を待つ家族がいる状況を味わっていた。
そして週末、竈の火入れが行われた。
「試運転するから、よかったらみんなで」という光の誘いに、この家が乗らないはずもない。土曜の夕方、九人が別館の通り土間に集まった。
竈の前に立つ光の手際は鮮やかだった。新聞紙と細い薪で火種を作り、羽釜を据えて火吹き竹をひと吹きする。それだけで、火は素直に燃え上がった。
「あっさり火ぃつくんやな」
「ん。この竈、引きがいいんだよね」
光は気負う様子もなく言った。囲炉裏も同じだった。炭を組んで火種を移すと、見る間に中心が赤く熾きていく。煙は自在鉤を伝ってまっすぐ上へ昇り、天井の煙抜きに吸い込まれ、土間には香ばしい匂いだけが漂った。昔の家はよく出来ていると一が感心し、先人の知恵ってすごいと結が頷く。
「(よく出来てる、だけで片付くんかな、これ)」
律は竈の火を眺めながら、内心で引っかかりを覚えていた。素直に熾きる炭、綺麗に抜ける煙、妙に細かい減額理由の家賃。並べるべき引き出しはすでに決まっている。セオリア荘の二万二千円と同じ枠だ。
その日の夕飯は、羽釜で炊いた白米と、囲炉裏の味噌汁、炭火で焼いた鮭の切り身という簡素な献立になった。米はふっくらと艶があり、麩とわかめだけの味噌汁も専門店の味に負けていなかった。
「ひかるん、これ毎週やろう!」
結が声を弾ませ、食卓全員がそれに賛同した。「では週に一度、曜日は追って決めましょう」と好がまとめ、現が「いろりのひ!」と無邪気に叫んだ。囲炉裏の日。この家のカレンダーに、新しい予定が加わった瞬間だった。
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明けて月曜の朝、律は玄関先で光と鉢合わせた。
同じ高校三年生で同じ駅を使うのだから、通学時間が重なるのは自然なことだった。別館から本館の前を通るルートが駅への近道で、光は毎朝ここを歩く。
「おはよ、律」
「おう」
並んで歩き出すと、光はすぐにスマートフォンを取り出し、器用に指を動かし始めた。朝の光を弾く画面が視界に入り、律はなんとなく目を落とした。
定期券の更新画面だった。
氏名、生年月日、そしてその下に並ぶ性別の入力欄。
選ばれているほうの印を、律は目に入れた。確認してすぐ、前を向く。
「(——ほら。やっぱりや)」
やっぱり、の後に続く感情を深く掘り下げることはしなかった。ただ、いま目にした事実を、胸の内にそっと留めた。
この一週間、家の中で「男」と口にしたのは律一人だけだった。誰にも相手にされず、真面目な意見としてすら扱われなかった。そういう状況が続けば、誰だって自分の認識を疑い始める。目の前にあるものが正しいという確信を、律はずっと自分ひとりの感覚だけで支えてきたのだ。
それが今、確かな証拠を得た。スマートフォンの画面一枚きりとはいえ、公的な手続きの記録だけは、自分と同じ現実を捉えていた。
「ん? どうかした?」
「いや」律は前を見据えたまま答えた。「……ま、ええけど」
「変なの」
光は小さく笑って、スマートフォンをポケットに収めた。並木の若葉が、柔らかな朝の光に揺れていた。




