第2話 別館の灯り
歓迎の夕食は、その晩のうちに開かれた。
「まだ荷解きも終わってないのに、いいの?」と遠慮する光を、一が「お鍋は人数が多いほど美味しいんですよ」とお決まりの台詞で席へと促す。今夜の献立は豚バラと白菜のミルフィーユ鍋だった。八人用の食卓に九人目の椅子が無理やり差し込まれ、ぎゅうぎゅう詰めになる。
狭い食卓は、情報交換の場でもあった。光はこの一度の食事で、この家の基本的なルールを一通り把握することになった。家賃が二万二千円であること。大家の姿は誰も見たことがないこと。それでも困った事態は一度も起きていないこと。そして、風呂に入る順番が厳格に決まっていること。
「そういえば、ひかるんちって本当にお風呂ないの?」と結が尋ねた。
「ないみたい。内見のときに見当たらなかったし」
「「「ないの!?」」」
三人分の驚く声が重なった。風呂はないけれど代わりにトイレがすごかった、と光は続ける。どうすごいのかと聞かれ、少し考えたあとに「未来的かな」と答えた。
「風呂なしで、トイレが未来的」望が眉をひそめる。「配分どうなってんの、その家」
「お風呂は、うちに入りに来ればいいよ!」
ななせの提案に食卓が沸き、すかさず「順番はどうするのか」という問題が浮上した。「それは後日、正式な会議で決めましょう」と好が議長としてまとめる。この家は、風呂の順番に関してはどこまでも真剣だった。
「あ、そうだ」光が箸を止め、ふと思い出したように言った。「あの家、変わった名前だね。ぷらくしす荘、って」
「ぷら……」現がすかさず反応する。「ぷらすちく……」
「惜しいというか、もう定着しそうやからやめとき」
「じゃあ——」現はあっさり引き下がった。「べっかん! ひかるんの家、別館!」
別館。本館があってこその呼び名だ。誰も本館と定めたわけではないのに、セオリア荘は自然と本館へ格上げされた。呼び名というのは案外こういう適当な勢いで決まるものなのだと、律は感心した。プラクシス荘という正式名称は、馴染みのない言葉のまま、定着することなく立ち消えていった。
鍋が煮え、それぞれが豚バラと白菜を頬張り、明るい声が飛び交う。
「ひかるん、ほんっとかわいいね〜」
結が箸を止め、心の底からしみじみと言った。
光は、立ち上る湯気の向こうで事もなげに応じた。
「知ってるよ」
即答だった。淀みも照れもなく、まるで明日の天気の話でもするように。
一拍おいて、食卓が笑いに包まれた。「自分で言った!」「即答したよ!」「かわいい上に強い」——爆笑の真ん中で、光はにこやかに鍋を見つめている。褒められ慣れている者の、堂々とした態度だった。
「(知ってる、か)」
律は白菜を口に運びながら、その様子を見守っていた。
嫌味にも自慢にも聞こえない。あれは単なる事実の確認だ。空が青く、鍋が熱く、自分がかわいいのと同じ次元の話。その澄んだ即答のどこに引っかかりを覚えたのか、律にはまだ分からなかった。
鼻の奥では、昼間に感じた雨の香りがまだ淡く漂っていた。
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夜、律は自室の窓を開けた。
路地の向こう、連なる屋根の先に、今夜から新しい灯りがひとつ増えているはずだった。平屋の、低い位置にある明かり。その下で、九人目が荷解きをしている。
「(別館、なあ)」
悪くない響きだ。家族が増え、食卓がまた狭くなる。狭くなるのは、この家ではいつだって歓迎すべきことだった。
窓を閉めようとした、そのとき。
視界の端を、何かがすっと横切った。
波ではない。人の輪郭からほどける、あのゆらゆらとした色合いとは違う。もっと硬質で、巨大なもの——定規で引いたような細い光の縞が、等間隔に並んで夜の街をひと撫でし、消え去った。屋根も、電線も、並木の梢も、一瞬だけその縞模様の下に沈んだ。
駅の方角から、扇を広げるようにして。
律は窓枠に手を置いたまま、動けずにいた。目をこすり、もう一度夜の景色を見つめ直す。だがそこには何もなく、いつもの灯りと屋根、そして四月の静かな夜が広がっているだけだった。
声は聞こえなかった。
あの日の事務的な声は届かなかったが——観測は、まだ続いているらしかった。




