第1話 かわいいからここに来たんだよ
四月の国立は、すっかり景色を変えていた。
三月の終わりに薄紅色だった大学通りの桜並木は、ひと月もしないうちにみずみずしい若緑に覆われていた。花の頃は写真を撮る人で歩道がごった返すが、新緑の季節となると人通りも落ち着く。だから四月下旬の並木道は、見事な青葉のわりに静かだった。
その穏やかな並木道を、風間律は歩いていた。隣には七瀬ななせがいる。日曜の午前。買い出しという名目で出かけたものの、それがただの口実に終わることは二人とも最初から承知していた。エコバッグは、さっきからななせの手提げの中で綺麗に畳まれたままだ。
「葉っぱの緑も、綺麗だよねえ」
ななせが見上げながら言った。アホ毛が一本、木漏れ日の中で揺れている。
「そやな。前見て歩きや。人にぶつかるで」
「だいじょうぶ。律が見ててくれるから」
さらりと言われるので、こちらも軽く受け流すしかない。こういう台詞のストックが彼女にどれくらいあるのか、律はいまだに掴めていなかった。四十三回目の春を、まったく新しい気持ちで歩く女の子。いつの間にか繋いでいた手は、最近の日課になりつつある。指摘すると負けのような気がして、お互いあえて触れずにいた。
大学通りを南へ下り、途中から東へと折れる。このあたりまで来ると道幅は狭まり、生垣と板塀が続く閑静な住宅街になる。旭通りのほうへ抜ける路地だった。知らない道に入るのが散歩の醍醐味だと主張したななせに、律も付き合っている。知らない道を歩くのは嫌いではない。どこかの庭の白木蓮が塀から身を乗り出していたり、野良猫が塀の上で丸くなっていたりする。ただ、今日の路地にはそのどちらも見当たらなかった。
代わりに、突き当たりに大きな平屋があった。
黒ずんだ杉板の塀。その向こうに見える瓦屋根は低く、横に長い。塀の隙間から覗く庭木の奥には、井戸の手押しポンプらしき影がちらりと見えた。
「わ。おっきい平屋」
ななせが塀に沿って歩き出し、律もそれに続く。門は路地の突き当たりにあった。年季の入った二本の木門柱。片方には、雨風に晒された立て看板が針金で括りつけられている。
『入居者募集』
手書きではなく、事務的な明朝体で管理会社の名前と電話番号が印刷されていた。
そして、もう片方の門柱には——金属のプレートが打ちつけられていた。
鼻の奥で、ふっと焦げた香りが立った。
醤油と砂糖が鍋底で焦げついたときのような、香ばしく、どこにも火の気のない香り。台所の焦げではない。律の鼻の奥にだけ届く合図。未知の何かが近づいてくるときにだけ香る前触れ。この街に来てから、それが香る理由は決まっていた。新しい住人の予兆だ。
「(はいはい。もう分かった、分かったから)」
律は内心で観念しながらプレートに顔を寄せ、刻まれた文字を読んだ。
『プラクシス荘』
「ぷらくしす、そう」
声に出してみる。読めはしたが、意味の見当がつかない。
「ぷらくしす」ななせも覗き込んで首をかしげた。「なにそれ。呪文?」
「知らん。……けど」
この字体には見覚えがあった。
太すぎず細すぎず、几帳面に彫られた文字。セオリア荘の門柱で毎日目にしているものと同じだ。プレートの古び方まで揃っている。同じ職人が、同じ時期に、同じように彫ったものに見えた。
律とななせは顔を見合わせた。
「律んちの親戚の家だ」
「うちのやないけどな」
言いながら、律は塀の内側へ視線を向けた。雨戸の閉まった平屋。広い庭と井戸。人の気配はないものの、庭木の手入れは隅々まで行き届いている。放置された空き家ではなく、きちんと管理されている物件だった。
立て看板の電話番号を、律はスマホで写真に収めた。
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その晩の食卓で、写真はさっそく話題になった。
「はい注目ー! これ、大事件でーす!」
声を張り上げたのは律ではなく、スマホを掲げた糸吉結だった。夕食前に律が見せた途端、結に回収されて全員への報告に回されたのだ。セオリア荘の食卓は八人で満席で、何気ない出来事もすぐに全員の耳に入る。
「同じ字だ」と、写真を覗き込んだ望が言った。「うちの門のやつと。ボク、毎日見てるからすぐ分かる」
「同じ」千も画面を二秒ほど見つめて頷いた。この家で一番口数の少ない住人が口にする「同じ」は、確かな証拠としての重みがあった。
「ぷらくしすそう」現が、一字ずつたどたどしく読んだ。「ぷらくしす……ぷら……ぷらすちく荘?」
「惜しい。というか遠なったな」
「ぷらすちくじゃないの?」
「ちゃうと思うで」
律が言い切れたのはそこまでだった。違うとは思うが、では正解が何なのかまでは分からない。食卓の視線が、自然と好へ集まった。この家で疑問の答えを求める先は、大体決まっている。
好は味噌汁を一口味わってから、お椀を置いた。
「電話してみましょうか。管理会社、うちと同じみたいだし。——ね、気になるでしょう、みんな」
一同が一斉に頷いた。
電話は食後すぐにかけられた。スピーカーにはしていなかったが、好の相槌から話の内容はおおむね食卓に伝わってきた。はい。ええ。あら、そうなんですね。まあ。——通話は五分もかからずに終わった。通話を終えた好は、不思議そうに眉を寄せて報告した。
「弊社管理物件です、って。そこまでは普通だったんだけど」
「なんだけど?」
「家賃も向こうから教えてくれたの。一万九千五百円」
食卓から、低めのどよめきが漏れた。間違いなく格安だが、この家の住人にそれを大騒ぎする資格はあまりない。だからどよめきも中途半端なものになった。
「しかもね、内訳まで教えてくれたのよ。こちらから聞いてないのに。セオリア荘の二万二千円から、お風呂がない分で千円引き、台所が土間なので五百円引き、それから」好は電話口の担当者の言葉を思い出すように、軽く首をかしげた。「『プライバシー面のご事情で千円お引きしています』ですって」
「プライバシー面のご事情」
「聞き返したら、『間取りをご覧いただければ』って。それ以上は、拍子抜けするくらい普通の対応だったわ。感じのいい、事務員さんの声でね」
普通。それこそが一番引っかかるのだと、この食卓の全員がすでに学習していた。二万二千円という破格の家賃に慣れきった面々でも、その金額から妙に正確な計算で差し引かれていく理由には、どうしても首を傾げざるを得なかった。
「……で」結が、全員の疑問を代弁するように言った。「誰が住むの、そこに」
誰も答えられなかった。律の鼻の奥には、昼間に感じた焦げの残り香が、まだかすかに漂っていた。
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答えは、次の週末にあっさりやってきた。
昼前、玄関の引き戸が控えめに開いた。
がらがら、という音は小さく、普段の半分くらいの遠慮がちな響きだった。
「こんにちは。あの、プラクシス荘に越してきた者です。ご挨拶に伺いました」
真っ先に玄関へ飛び出したのは結で、次が現、その後ろに全員がぞろぞろと集まった。律は一番後ろから、玄関先に立つ人物を見つめた。
小柄というほどでも、華奢というほどでもない。癖のない黒髪が耳の下あたりで切り揃えられていて、白いシャツにワークパンツという、作業の途中そのままの身なりをしている。年は律たちと同じくらいに見えた。手にした菓子折りの包みが上品だ。
男の子だった。
どう見ても男の子だった。声は少し高めだが男の子のトーンで、シャツの下の肩のラインもまっすぐで、指の長い手も紛れもなく男の子のものだった。
「——かっ」
結の口から漏れた声が、途中で途切れた。
「かわいい〜〜〜っ!!」
「かわいい!」と現が声を上げ、「あらあら、まあまあ」と一が両手を合わせ、「へえ。かわいいじゃん」と望が腕を組んで頷き、千が無言で半歩前に出た。千が自分から人に近づく姿など、律はめったに見たことがない。
「(ん?)」
律は人だかりの後ろで首を捻った。
かわいい。確かに整った顔立ちはしている。だが、飛び交っている「かわいい」の熱量がどう考えてもおかしい。可愛い子犬や小物に向けるそれではなく、明らかに可愛い女の子を前にしたときのテンションだった。
そして、ななせが声を漏らした。
頬に片手を添え、目を丸くして、息を呑むように。
「——おっふ」
「(おっふて)」
律は思わず横のななせを二度見した。なんだその声は。どこかで聞いたような反応に記憶を探りかけたが、玄関先の声に遮られた。
「月暈光です。よろしくお願いします」
「つきがさ……」好が熨斗に書かれた名前を覗き込み、顎に指を当てた。「ふふ。いい名字ね。気象用語にもあるのよ」
「この名前を読める人に会ったのは、初めてかも」
光はそう言って、ふわりと笑った。目尻が下がると、玄関に集まった面々から感嘆の声が漏れた。
「ひかるちゃん、おいくつ?」と一が尋ねる。
「十七です。高三で」
「え、りっくんと同学年!?」と結が振り返り、「若く見える〜」と現が驚き、「ボクとも同学年か」と望が呟いた。玄関先で立ち話をする範囲をとっくに超えている。招き入れられるのは必然で、三十秒後には光は居間の座布団に腰を下ろしていた。
座布団の上で、さっそく質問攻めが始まった。この家の通過儀礼だ。出身地、荷物の量、好きな食べ物。光の受け答えは柔らかく、淀みがない。場慣れしているな、と律は観察していた。
そして結が、決まり文句を口にした。
「はい、じゃあ聞きます! ひかるちゃんは、なんであの家に住むことにしたの?」
建前を聞く時間だ。この家の住人は誰しも、雑な理由を一つずつ抱えている。通学に便利そうだったから、家賃が安かったから、やめておけと忠告されたから——新入りの建前を尋ねるのは、満室になって以来のイベントだった。
光は少し考える素振りを見せてから、にこりと微笑んだ。
「かわいいから、ここに来たんだよ」
二秒の静寂のあと、居間がどっと沸いた。
「自分で言った!」「言い切ったよこの子」「かわいいは正義だもんねえ」「……堂々」
笑いが広がる中で、光自身も一緒になって笑っている。冗談として口にし、冗談として受け止められ、その場は丸く収まった。だが、その輪の外側で、律だけは笑えずにいた。
「(いや、今の、なんやろな)」
冗談に聞こえなかったわけではない。だが、あの言い方は——嘘をついているようには思えなかった。
考え込む律の鼻先を、ふと香りがかすめた。
焦げではない。
雨が降り出す前の香りだった。乾いた地面が、湿り気を吸い込んだような匂い。夕立が来る五分前の、あの気配だ。律は思わず窓の外を見たが、四月の空はどこまでも晴れ渡っていた。
「(焦げとは、違う)」
焦げは未知の訪れで、こっちは——何の前触れだ。
「ね、ひかるちゃん、あだ名決めていい?」結が身を乗り出した。「ひかるん! ひかるんでいこう!」
「ひかるん」光は呟いて頷いた。「いいよ。あ、でも」
「僕、呼び捨てでも大丈夫だから」
僕。
律の耳は、その一人称をはっきりと捉えた。周りを見回したが、誰も引っかかっていない。むしろ結が「ボクっ娘だ〜〜!」と悶え、現が「ぼくっこ!」と復唱し、居間の盛り上がりはさらに加速した。
「(いや、せやから)」
律は口を開くことにした。言わなければ収まりがつかなかった。
「……なあ。光て、男やんな?」
全員の視線が一斉に律へ向いた。
光以外の顔にあったのは、驚きでも困惑でもなかった。「何を言い出したんだろう」という、純粋な不思議さだけだった。
「律、なんの話?」とななせが小首を傾げる。
「え、りっくん急にどうしたの」と結。
「律にぃ、だいじょうぶ?」と現。
「男装かわいい、みたいな話?」と望。
「ちゃうねん。そういう話やなくて」
弁明しようとしたものの、律は適切な言葉が見つからなかった。見たまんまやろ、以外に何と言えばいいのか。その「見たまんま」が、どうやらこの場では自分にしか見えていないらしかった。
気まずい沈黙の数秒間、光は——律を、じっと見つめていた。
笑顔のままだったが、目元だけがほんの一瞬、笑っていなかった。驚きというよりは、もっと静かで深い感情に見えた。
「ふふ。おもしろい人だね、律って」
光がくすりと笑い、居間の空気はたちまち戻って、話題は引っ越し蕎麦のことへと流れていった。律の疑問は、誰にも拾われないまま消えていく。
居間の誰も拾おうとせず、律自身も拾いきれなかった。自分が今、光から自然に呼び捨てにされていたことに律が気づいたのは、ずっと後のことだった。




