第10話 善意の家
それからの一週間で、家は少しずつ優しい方へ傾いていった。
一が味見をして「かわいい味」と言い、もう首をかしげなくなった。現は光が欠伸をしただけでパチパチと拍手した。千は光を見るたび、猫と比べる作業を淡々と続けている。誰かが光の名を呼ぶだけで部屋の空気がふっと温まる。九人もいる家の中で、光に向けられる言葉だけが同じ色に染まっていた。
水曜の夜、事件と呼ぶには静かすぎる出来事が起きた。
もらい湯から上がった光が、居間の隅で望に数学を教わっていた。受験生同士の、ありふれた勉強風景だった。だが途中で光の手が止まり、しばらく黙り込んだあと、小さな声で言った。
「……ね、望。ちょっとだけ、助けてほしいんだけど」
「ん、どこ? この式?」
「そうじゃなくて——」
光は言いかけて口を閉じた。その様子を居間の反対側から見つけた現が無邪気に声をあげる。
「ひかるちゃん、困ってる〜。守ってあげたくなっちゃうねぇ」
「わかる」と結が頷いた。心の底からの、善意に満ちた同意だった。
光の「助けて」という声は、届く前に消えてしまった。その消え方を律は視ていた。光の口から出た小さな波が、望の目の前にある輪に触れた瞬間、その色に呑まれて掻き消えていく。助けを求めた声に、周囲からはただ温かい拍手が返る。誰もが本気で光を大切に思っている。
「(——助けて、まで塗りつぶすんか)」
膝の上で、律はぎゅっと拳を握りしめた。
立ち上がれなかった。立ったところで何を言える。やめろ、とでも言うのか。誰に対して、何を。この居間に責められる人間なんて一人もいない。悪意なんて欠片もないまま、光だけが静かに追い詰められていく。全員の善意で作られた、暖かくて明るい地獄だった。
その晩、光は「今日も楽しかった」と笑って帰っていった。
路地の角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
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違和感を覚える者は増えていた。
最初はななせだった。日曜の縁側、麦茶を挟んだいつもの場所で、ななせはグラスについた水滴を指でなぞりながらぽつりと言った。
「ね、律。最近さ、みんなの笑い方、ちょっとだけ同じに聞こえない?」
「……同じ、て?」
「タイミングとか、声の高さとか。ひかるちゃんのことで笑うときだけ、みんなの声がぴったり揃うの。前はもっとバラバラだった気がするんだけどな」
四十三年もの間、人々の言葉の繰り返しを聞いてきた耳だった。波も輪も見えなくても、音だけで異常に触れていた。律は麦茶を口に含み、慎重に言葉を選ぼうとしたが、その前にななせが言葉を継いだ。
「気のせいならいいんだけど。……気のせいじゃないなら、律はもう気づいてるよね」
「————」
「うん。それが分かったなら、いいの」
ななせはそれ以上詮索しなかった。深く踏み込まない優しさを持った横顔で、庭の物干し竿を眺めていた。
次は好だった。深夜の台所で、律の前にあのノートを静かに差し出した。几帳面な筆跡で日付と記録が並んでいる。最初は三日おきだった行が、真ん中あたりでは毎日に、最後のページでは一日に三行も書き込まれていた。
「データは揃ったわ。……揃いすぎているのが怖いくらいにね」
好はノートを閉じた。
「加速してるのよ。それも、何かいいことが起きるたびに。あの子が自分の気持ちを話せたあの夜から、一気に傾きが変わってる。——律くん、私たちの仮説が正しいとすれば」
「……はい」
「それでも今の私には、あの子がただの女の子に見えてる。ノートの記録と自分の目が、毎晩激しく矛盾を起こしているのよ。……こんな研究者、信じられないでしょう?」
「信じてますよ」
「……ふふ。ありがとう」
好は小さく微笑み、すぐに真顔に戻った。
「あの夜のきっかけを作ったのは、私たちよ」
好の声は淡々としていたが、その奥に重い感情を押し込めているのが分かった。律は頷くことも否定することもできず、ノートの表紙を見つめるしかなかった。本音を打ち明けられる場所を作ったことは、決して間違いではなかったはずだ。それなのに結果が伴わない。正しさと現実のズレの前に、二人の沈黙が落ちた。
最後は結だった。
水曜、風呂上がりの廊下で、帰っていく光の背中を見送りながら結が隣の律に呟いた。
「ひかるんてさ、最近——」
その先を律は息を呑んで待った。誰よりも他人の気持ちを受け取るのが得意な結だ。結が言葉にできれば、この状況を内側から崩すきっかけになるかもしれない。
「——ん。やっぱ、かわいいよね」
結は自分の口から出た台詞に、ふと戸惑ったような表情を浮かべた。手元の濡れタオルを見つめ、それから律を見て、どこかぎこちなく笑った。
「……あたし、いま別のこと言おうとしてなかった?」
「言おうとしとったよ」
「だよね。……なんだったんだろ」
結は首を傾げながらタオルを干しに向かった。その首の傾げ方だけが、無意識のささやかな抵抗に見えた。
その夜、律は部屋の窓を開けた。鼻の奥をくすぐる雨の気配は、はっきりと湿度を帯びて肌に重くまとわりついてくる。いまにも降り出しそうな空気なのに、空にはまだ星が広がっていた。それがひどく嘘っぽく感じられた。




