第11話 月に暈
木曜の夜、光は風呂に来なかった。
九時を過ぎ、十時を過ぎても、毎晩必ず顔を出すはずの光は現れない。連絡もなかった。居間にいるみんなの意識が数分おきに玄関へ向くたび、「ひかるん遅いね。向こうでお風呂入ってるとか?」「別館、お風呂ないよ」「あ、そっか」というやり取りが繰り返される。ただ、誰も本気で心配している様子はなかった。心配しかけても、その困った顔すら可愛いと受け取ってしまうからだ。
「見てくるわ」
律が立ち上がっても、引き留める者はいなかった。背中にかけられた「いってらっしゃい」の声は、いつも通り明るいままだった。
夜の路地は静まり返っていた。別館へと続く四分ほどの道のりで、ふと律は足を止めた。
夜空を見上げると、月が出ている。
その月の周りに、白く大きな輪がかかっていた。
薄く、けれどはっきりと空に架かるそれは、好の講義で聞いた月暈そのものだった。綺麗な輪は天気が崩れる前触れだ。数秒ほど見上げた後、律は足早に歩き出した。
別館に着くと、玄関の鍵は開いていた。通り土間に常夜灯がひとつ灯っているだけで、竈は冷え切っている。茶の間の障子越しに見えたのは、火の入っていない囲炉裏と、その前にぽつんと座る背中だった。
「光」
呼びかけると、その背中がわずかに揺れた。
「……ん。ごめんね、お風呂。今日、なんだか行きそびれちゃって」
振り返った光は笑っていた。いつもの笑顔のつもりなのだろうけれど、その表情はどこか無理に作られているように見えた。
「ちょっと……話、しよか?」
「んー」
光は抱えた膝に力を込め、冷たい囲炉裏を見つめた。長い沈黙が流れる。それから、他愛のない世間話でもするような軽さで切り出した。
「かわいい、って言われたらさ。……なんて返すんだっけ。僕、わかんなくなっちゃった」




