第12話 聞こえてるから
冷えた囲炉裏の灰は、白かった。
光は膝を抱えたまま、その灰を見つめていた。「わかんなくなっちゃった」の続きを、律は待たなかった。障子を後ろ手に閉めると、囲炉裏を挟んだ向かい側に腰を下ろす。
「なあ、光」
「ん」
「五月の頭の囲炉裏の日。煮付け失敗したて言うたな。しょっぱい、て」
光が顔を上げた。
「あれ、ほんまにしょっぱかったで。俺も一口で分かった。塩と醤油、両方入れてもうたやろ」
「……なんで」
「その前の週。ちゃん付けやめてほしい、て言うたときもそうや。照れてるんとちゃう、ほんまに嫌なんやなと思って聞いとった。だから俺は、最初から付けてへん」
光の強張っていた肩が、少しだけ緩んだ。
「先週の水曜。望に数学教わっとった夜、助けてほしい、て言うたな」
今度は返事がなかった。白い灰の上で、光の視線がかすかに揺れる。
「式の話やないことくらい、俺には分かっとったよ。そやのに、あの場じゃ何もできへんかった。それは謝る。けどな、光。届いてへんかったんは、あの部屋の中だけや」
律は囲炉裏の縁をとんと指で叩いた。乾いた音が静かに響く。
「俺には全部そのまま聞こえてる。しょっぱいも、やめてほしいも、助けてもや。四月の玄関先で聞いた『僕』から、ずっと。一個もかわいいに化けてへん」
「————」
「あと、俺が美味しいって言うた夜。光、二秒くらい止まったやろ。あれもちゃんと見とったで。嬉しかったんやろ、あれ」
光が見開いた目には、言葉にしなかった本音まで拾われていたことへの驚きが滲んでいた。
「————」
「だから、返し方なんか忘れてもええ。知ってる、が言われへんくなってもええんや。光が何も言われへんくなっても——」
一拍置いて、律は言った。
「聞こえてるから。俺には」
囲炉裏の灰が、音もなくかすかに崩れた。
光はしばらく動かなかった。瞳を潤ませながら、やがて抱え込んだ膝に顔を埋め、くぐもった声を絞り出した。
「……泣いたら、かわいいって言われるんだ。ずっと。泣いてるのに」
「言わへん」
「知ってる」
即答だった。二秒の迷いもなく、四月と同じ速さで返ってきた。けれど、その意味はまるで違っていた。誰からも見てもらえなかった言葉が、初めて防波堤の外へと届いたのだ。言い終えるのとほぼ同時に、光の目から大粒の涙が零れ落ちた。
律は余計な言葉をかけなかった。かわいいとも、泣くなとも、大丈夫とも言わない。ただ冷たい囲炉裏の向かいに座り、届くはずのなかった一ヶ月半分の思いが途切れ途切れにこぼれ落ちていくのを、静かに最後まで聞き届けた。
律の目には、その光景が見えていた。
光の輪郭からほどけ出た波は、まだ揺らめいている。けれど、この部屋には受信者がいない。律の目の前に輪が結ばれることもない。行き場をなくした波は畳の上をすうっと滑り、次第に薄れ、引き潮のように消えていった。
防波堤の代わりは、もう必要なかった。輪の外側に立ち、ありのままを受け止める相手が、最初から隣にいたのだから。
帰り際、玄関の三和土で光が口を開いた。
「……また、わかんなくなったらさ」
「言うわ。聞こえてるって。何回でもな」
「ん」
光は鼻をすすり、ふっと笑った。ようやくいつもの調子を取り戻した笑顔だった。
「明日、お風呂行くね」
「おう。十分やろ。待ってるわ」
夜道を見上げると、月にかかる暈は少しだけ薄らいでいた。気のせいかもしれないと思いつつ、律は確かめることもせず、夜の道を歩いて帰った。




