第13話 それよりさ、美味しい?
翌日、家の空気はほんの少し変わっていた。
朝の物干しで、結はいつものように「ひかるん、かわいい〜」と声を弾ませた。けれどそのあと、自分の口元に手を当てて小さく間を置くと、こう続けた。
「……あとさ、昨日の唐揚げ、すっごく美味しかった。あれ、二度揚げでしょ」
「知ってる。揚げ方まで当てられたのは、初めてかも」
「あたし、ご飯には本気だからね」
「かわいい」は消えなかった。けれど、その後ろに別の言葉が自然と並び始めている。唐揚げの揚げ方、数学の解き方の癖、夕方の打ち水の正確さ。輪の内側から見える光の姿は女の子のままだ。それでもみんな、その向こうへ真っ直ぐ言葉を届ける練習を、思い思いに始めていた。
望の台詞がいちばん率直だった。
「頭では男、目には女の子。ボクらの目が当てにならないってだけ。ま、目が仕事するのは模試のときだけで十分だしね」
「当てにならない目で悪かったわね」と好が苦笑し、「うつつのお目々もだよぉ」とのんびり現が続く。深刻になりかけた空気も、この家特有の軽やかさでさらりと流されていく。誰も無理に構えてはいなかった。見えているものと知っていること、その両方を抱えたまま、九人はいつも通り食卓を囲んだ。
縁側の定位置で麦茶を手にしながら、ななせが庭を見つめてぽつりと言った。
「みんなの笑い声、元に戻ってきたね。ちゃんと、ひとりずつの声で聞こえる」
「……そっか」
「うん。いい耳でしょ」
誇らしげな横顔に、律は手元の麦茶を軽く掲げて応えた。誰よりも確かな耳が、家の平穏を取り戻した合図を出してくれていた。
台所では、一だけが人知れず涙を拭っていた。
「悲しいわけじゃないんです。……あの子、ずっと一人で打ち明けるのを諦めていたんだと思ったら、胸がいっぱいになってしまって」
エプロンの端で目元を押さえる一に、律は麦茶を注いであげた。注ぎながら、あの夜の冷え切った囲炉裏と白い灰を思い出す。あの場に立ち会ったのは、自分一人だけで十分だった。
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入浴順審議会の第二回は、金曜の夜に開かれた。
「新事実が提出されたので、再審します」
議長席の好はルーズリーフを広げ、至極真面目な顔を崩さない。車座になった全員も神妙な表情だった。第一回とまったく同じ並びで、同じ議題が、今度はまるで違う意味を持って持ち上がっている。
「議題、光さんの入浴順について。本人から希望はあるかしら」
「僕、最後でいいよ」
光はあっけらかんと答えた。
「男は最後が順当だと思うし」
一瞬の静寂のあと、望が耐えきれずに吹き出した。
「それ、最初からずっと思ってたやつじゃん」
「思ってた」
「あの暫定ルールって、そういう意味だったの!?」と結が身を乗り出し、「夜中にひとりで律にぃの後ろに並んでたなんて、健気すぎる〜」と現が身悶えして、審議会はたちまち笑いに包まれた。誰にも届かなかった光のこだわりが、ようやく家族に正しく受け止められた瞬間だった。
採決はあっという間に終わった。男子枠の新設。女子全員が入ったあと、光、そして最後が律。異議の有無を問われても、手はひとつも挙がらない。納得の理由だけが、前回の会議から様変わりしていた。
新しい順番になった最初の夜、律が脱衣所の前に立つと、奥から湯の跳ねる音が聞こえた。
自分の前に風呂へ入っている男がいる。
この家に暮らして初めての感覚だった。十分ほどして、湯気とともにさっぱりした顔で出てきた光とすれ違い、律は湯船へ向かう。時刻は四月と比べて、きっかり十分だけ遅い。あの最初の会議でずれた十分は、順番を組み直しても戻らなかった。新しく増えた家族の分の時間。その戻らないわずかなズレを噛み締めながら、律は湯の中に肩まで沈んだ。
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その週末、街は梅雨入りを迎えた。
囲炉裏の日の献立は、光いわく「雨の前に食べたいもの」として、新生姜の炊き込みご飯に鰺の南蛮漬け。自在鉤には豚汁の鍋が掛かり、白い湯気を立てている。肌寒い梅雨の宵に、炭火と温かい汁物は格別の組み合わせだった。
囲炉裏を囲む九人の夕飯は今日も賑やかで、椀が空くたび鍋から汁がよそわれた。配る係はいつの間にか一になり、火の加減と味の調整は、やはり光が担っている。竈の火を教え合った二人の、自然な連係だった。
「ひかるん、今日もかわいいねえ」
結が心の底からそう口にした。百年探しても悪意など見当たらない、純粋な褒め言葉だ。
光はふと箸を止めた。
ためらいのない、ほんの一拍の間。それから光は囲炉裏越しにみんなを見回し、やわらかく微笑んだ。
「——それよりさ、美味しい?」
その場の動きが一瞬止まった。
「……美味しい!」
真っ先に声を上げたのは千だった。迷いのない即答に続いて、囲炉裏の周りから次々と「美味しい」の声が上がる。野菜の切り方や生姜の効き具合など、具体的な感想がいくつも返ってきた。光は一つひとつ嬉しそうに頷きながら受け止めていく。ただの「かわいい」ではない、確かな言葉の数々を。
律は南蛮漬けを口に運びながら、その様子を静かに眺めていた。
薄い輪は消えていない。今夜もみんなの目の前に浮かび上がっていて、きっとこれからも残り続けるのだろう。けれど、消えない理と届く言葉が、同じ場所でちゃんと肩を並べていた。それでいい。この家が見つける答えは、いつだってそういうものだった。
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夜半を過ぎると、雨が降り始めた。
予報通りの、穏やかな雨だった。風呂を終えた光を、律は傘を差して別館まで見送った。広縁のガラス戸を少し開けると、光は庭に目を落とした。もう打ち水をする必要のない地面に、しとしとと雨音が染み込んでいく。
「降ったね」
「降ったなあ」
「梅雨だね」
「梅雨やなあ」
それ以上、言葉は交わさなかった。縁側に腰を下ろした光は、心地よさそうに雨音に耳を澄ませている。かわいい輪の似合う横顔は、まぎれもなく十七歳の少年のものだった。
律の鼻の奥にあった雨の香りは、いつの間にかすっかり消え去っていた。
本物の雨が降る夜に、予感の出る幕はもうない。




